なぜを5回聞いたら、3回目に課長の名前が出た
10月20日(火)18時01分。森下さんから電話が来た。
俺は自分の部屋の机で、手帳の9月14日のページを開いていた。スマホが机の上で震えて、画面に名前が出た。
電話の向こうで森下さんが息を吸う音がした。そこから早口だった。
「すみません、定時後に。今大丈夫でしょうか」
「今定時後なので大丈夫です」
手帳は開いたまま机の上にある。9月14日のページだ。
「あの、ニュース、見ましたか」
「見ました」
「うちです。油圧部品。自主回収になりました」
森下さんは一息で続けた。
「段取り替えの直後の3ロット、1,800個です。内径の寸法不良が流出していて。三条重工さんの建機で油漏れが2件。監査の是正報告に、回収の分も入れることになって。期限が22日で。課長にも急かされてて、なぜなぜ分析のやり方が分からなくて。すみません、志摩さんに聞くしかないと思って」
「分かりました」
俺はペンを取った。手帳の9月14日の下に今日の日付を書く。ボールペンの芯が少しだけ紙に食い込んだ。
「では1つずつ聞きます。答えだけで大丈夫です」
「はい」
「なぜ1。なぜ寸法不良が出たんですか」
森下さんは間を置かなかった。
「段取り替えのあとの刃物の芯ずれです。刃物を付けたときに芯がずれてました」
俺は手帳に「芯ずれ」と書いた。なぜなぜの1回目は現象で、2回目は検出だ。ここまでは森下さんも自分で辿れている。
「なぜ2。なぜ流出したんですか」
「段取り替え直後の初品検査が、その工程では省略されていて」
「なぜ3。なぜ省略されていたんですか」
俺は手帳の「芯ずれ」の下に線を1本引いた。ペンの先は止めない。
電話の向こうで森下さんが息を吸った。それから少しだけ早口になった。
「工程FMEAで、段取り替えの点数が低くて検査の頻度が『低』のままだったからです。改訂のときに、そこを直す予定で」
「はい」
「でも、その、改訂版が」
森下さんの声が止まった。電話の向こうで、何かを押さえる音がした。
「……改訂版では、高に上がってるのに。課長の承認待ちで止まってたから」
声が小さくなった。自分で言って、自分で驚いた声だった。
「監査の日に見つけたんです。10月8日に」
俺は手帳に「頻度 低→高」と書いた。それから日付の欄を見る。9月14日。提出日だ。森下さんが見つけたのが10月8日。指で数える。24日。
「なぜ4。なぜ承認が止まったんですか」
森下さんは答えなかった。3秒、5秒。電話の向こうで換気扇のような低い音がしている。事務所の空調だ。まだ残っている。
「……承認の期限が、決まってないからです」
「はい」
「いつまでに承認するか、決まってないので。止まってても、誰も気づかない仕組みで」
俺は「期限なし」と書いた。紙の上でボールペンの芯が一度だけ詰まった。少し強く書いたせいだ。
「なぜ5」
今度は間がなかった。
「承認者が、1人しかいないからです」
書いた。「承認者 1名」。
それから森下さんが少し遅れて言った。
「これ、課長のこと書くことになりますよね」
声は早口じゃなかった。ゆっくり聞いていた。
俺はペンを置いた。机の上で、カチ、と軽い音がした。
「誰の名前も書かなくていいです」
手帳のページを指で押さえる。
「事実だけ書いてください。『承認が24日間止まっていた』。それで、仕組みの不良になります」
電話の向こうで、森下さんが短く息を吐いた。それきり、黙った。
黙ったまま、何かを言おうとしている気配があった。息を吸って、止めてまた吸う。換気扇の音だけが続いている。
「志摩さん」
声が少しだけ変わった。喉の奥で詰まらせたような、泣く手前の声だった。
「なんで、辞めたんですか」
俺は手帳を見ていた。9月14日のページの、「承認者 1名」の文字を見ていた。
答えない。
答えられないではない。答えない、だ。この質問には答えないと9月の時点で決めていた。
「森下さん」
俺はペンを手に取った。持つだけだった。書くことはもうない。
「是正報告の期限は木曜です」
電話の向こうで鼻をすする音がした。小さい音だった。押さえようとして、押さえきれなかった音だ。
「明日の朝、もう一度読み直してから出してください。今夜書いたものでなく、明日の目で読んだものを」
「……はい」
「なぜなぜは5回で終わらなくてもいいです。6回目があるなら書いてください。大事なのは、最後に仕組みが1つ変わることです」
「……はい」
「すみません。ありがとうございます」
「お疲れさまでした」
電話が切れた。画面が通話の表示から時計に戻る。18時22分。
俺はスマホを机の上に置いた。それから手帳の9月14日のページを、指で押さえた。紙の端が少しだけ反っている。
戸の外で床がきしむ音がした。
この家の廊下は古い。誰がどこに立っているか、だいたい分かる。今の音は俺の部屋の戸の真ん前だった。
「おじさん」
ひよりの声だった。戸をノックする音はしなかった。開けもしない。戸の向こうで立ったまま、聞いていた。
「今、電話」
「森下さんだ。後任の人」
「後任って。おじさんの、前の会社の」
「そうだ」
戸の向こうでひよりが少し黙った。爪か何かを戸の木に当てている音がした。こつ、こつ、と短く。
「……おじさん、優しいじゃん」
「仕事だから」
「仕事だから、優しいの」
「仕事だから、そういうふうに言うんだ」
ひよりは、ふうん、と言った。納得したのかしていないのか、分からない言い方だった。それから足音が離れていく。廊下を3歩か4歩。途中で止まって、また歩いて階段を下りていく音がした。
俺は戸のほうを見たまま少し待った。音が消えてから、手帳のページを開いた。
9月14日のページに、付箋を1枚貼る。黄色い細いやつだ。指で端を押さえて、まっすぐ貼る。貼った付箋の端が、少しだけ浮いた。押さえ直す。
付箋には何も書いていない。書くことはまだ決まっていない。
俺は手帳を閉じた。閉じる前に、9月14日のページが一瞬だけ見えた。付箋の黄色が蛍光灯の下で少しだけ明るかった。
◇
10月21日(水)の10時、クロダ精機の役員会議室で、権藤は長机の端に座っていた。
会議室の空調が低く唸っていた。
権藤は背もたれに背中を預けず、指を組んで机の上に置いている。上座には常務がいて、手元の回収の報告の綴りをゆっくりとめくっていた。
紙の擦れる音だけが、やけにはっきりと聞こえた。
常務は最後のページまでめくると、綴じ具を指で押さえたまま顔を上げた。
「原因は」
声は短かった。質問というより、確認に近い。
権藤は一度だけ息を吸ってから、手元の下書きに目を落とした。森下が昨夜のうちに作った骨子だ。A4で4枚。1枚目に工程の概要、2枚目からなぜなぜ分析が始まっている。
「段取り替え直後の3ロットで、内径寸法の不良が発生しました」
権藤の声は会議室の空気に吸われるようにして消えていった。常務は何も言わない。続けろという沈黙だった。
「初品検査が省略されていたため、流出に至っています」
指が下書きの2枚目の端をなぞる。紙の端がわずかに湿っている。権藤は気づかないまま、3枚目をめくった。
「検査頻度の設定が、旧来のまま据え置かれていました」
めくった3枚目の真ん中あたりで、手が止まった。
そこには森下の字でこう書かれていた。
【工程FMEA改訂版が9月14日付で提出されていたが、承認が24日間止まっていた】
権藤はその行を見たまま動かなかった。
空調の音が一段低くなった気がした。いや、気のせいだ。音は変わっていない。変わったのは自分の耳の奥だ。
指が紙の端を強くつまんでいた。
「……前任者の作成した手順書の改訂が、遅れていたことが原因です」
顔を上げた。常務を見た。視線は外さなかった。
常務は綴りを机の上に置いた。ことり、と小さな音がした。それから何かを考えるように窓の外へ目をやった。窓の外は曇っていた。工場の屋根が灰色に沈んでいる。
「そうか」
それだけ言って、常務は立ち上がった。
「顧客への説明はそれでまとめろ」
権藤は、はい、と答えた。声が少し掠れていた。自分でも分かった。
常務が会議室を出ていく。ドアが閉まる音が、妙にゆっくりと響いた。
権藤はしばらく、その場に座っていた。
手元の下書きの3枚目をもう一度めくる。さっき指が止まった行を今度は最後まで読んだ。
【工程FMEA改訂版が9月14日付で提出されていたが、承認が24日間止まっていた】
その下に、森下が青いボールペンで小さく囲みを作っている。「24日」のところだけが、四角で囲まれていた。
権藤は下書きを閉じた。表紙を上にして、机の端に置く。
腕時計の留め金を無意識に指で回していた。
窓の外では、工場の屋根を雨が叩き始めていた。
◇
昼前、権藤は品質管理課の自分の席に戻り、森下を呼んだ。
権藤は机の引き出しを開けた。奥からコンビニの白い袋を取り出し、机の上に置いた。袋の口が少しだけ開いていて、中に小さな箱が覗いている。箱の側面には「5」の数字の形をしたロウソクが描かれていた。
「ゆいちゃん、5歳だろ。持ってけ」
権藤は袋を森下のほうへ押しやった。その手つきは、書類を回すときと変わらない。手を戻すと、机の隅に置いてあった是正報告の下書きを取って、表紙を上にして森下の前に出した。
森下は一瞬、袋と下書きを交互に見た。右手が胸ポケットのボールペンを押さえかけて、やめた。何か言いかけた口が開いたまま止まる。
権藤は椅子の背にもたれず前かがみのままだった。両肘を机につき、組んだ指の上に顎を乗せるようにして、低い声で言った。
「顧客に『承認が止まっていた』と書けば、品質保証の仕組み全体が疑われる。三条重工はそういう読み方をする。うちだけの是正で済まなくなる」
指を解いて、下書きの3枚目を指先で軽く叩いた。
「会社が潰れたら、ゆいちゃんの保育園はどうなる」
森下の喉が、ごくりと動いた。声にはならなかった。
権藤は腕時計の留め金に指をかけた。回しはしない。親指で留め金の縁を一度、押すだけだった。
「なぜなぜの3段目、消しとけ」
そう言うと、権藤は背もたれにようやく背中を預けた。椅子が、きしむかきしまないかの音を立てる。
◇
森下はコンビニの袋と是正報告の下書きを両手に持ったまま、しばらく立っていた。袋の中のケーキの箱が、持ち手の中でわずかに傾ぐ。右手に持った下書きの3枚目には、昨夜電話で聞いた「事実だけ」が、青い四角で囲まれたまま残っている。
森下は消す前の版を自分のUSBに保存した。




