内閣府の人と、議事録を2通作った
「内閣府の真壁と申します。突然の訪問、失礼いたします」
男は頭を上げてから、そう言った。
俺は真壁を客間に通した。
真壁は座卓の手前で一度立ち止まり、畳の縁をまたいでから座った。背筋が伸びている。スーツの肩に埃ひとつない。だが、短髪の後ろで寝癖がひとつだけ跳ねている。目の下の隈は青黒い。吊るしのグレーのスーツは袖口がわずかに擦り切れていて、ネクタイピンが曲がったまま留めてある。
革鞄を座卓の横に置く。付箋が何色もはみ出していて、鞄の口が閉じきっていない。
真壁は名刺入れを出して、1枚を座卓の上に置いた。
「内閣府 大臣官房 調査室 室長補佐、真壁と申します」
俺は名刺を両手で取り、裏を確認してから座卓の隅に置いた。それからポケットから手帳を出して、1ページを切り取る。ボールペンで名前と携帯の番号を書く。それから「元 品質管理」とだけ添えた。
紙を真壁の方へ差し出す。
真壁は紙を両手で受け取ってしばらく見ていた。指が紙の端を押さえる。折り目をつけないように、丁寧に。
「……前職は、クロダ精機さんでしたね」
俺は「はい」とだけ答えた。
真壁は紙を座卓の上に置いた。名刺の横に、まっすぐ揃える。
母が座卓の横に来て、お茶を2つ置いた。湯飲みの底が座卓に当たって、かすかに鳴る。母は何も言わずに襖を閉めて出ていった。足音が廊下を離れていく。
真壁は湯飲みを手に取らなかった。膝の上で両手を組んだまま、俺の手帳の切れ端をもう一度見ている。
真壁は膝の上で組んだ指をほどき、背筋を伸ばした。
「本日は、いくつか確認させていただきたいことがありまして」
「議事録を取ってもよろしいですか」
俺が先に言うと、真壁は小さくうなずいた。
「ええ。どうぞ。こちらも取ります」
真壁は革鞄の口を開けて、中から黒いノートを1冊出した。ノートを座卓に置き、胸ポケットからボールペンを抜く。ペン先を押す音が1回、静かに鳴った。
俺は手帳を開いて、新しいページの右上に日付を書く。
『10/17(土)9:04 開始 内閣府 真壁氏』
真壁がノートの1行目に何かを書く。ペンが紙を走る音が、座卓を挟んで2つ並んだ。
「では、3点ほど確認させてください」
真壁は顔を上げた。表情はない。
「1点目。先日、東央大学の稲葉准教授が論文を公開されました。あの白い角を、志摩さんはどこで入手されたのですか」
「出所は言えません」
俺は即答した。間を置かない。真壁のペンが止まる。目だけがこちらを見た。
「2点目。動画配信で使われていた、いわゆる魔石についてです。あれは何ですか」
「お答えできません。手品の道具です」
「3点目。それらの物品について、人体や周囲への危険はないのですか」
「私が使う限り、これまで事故はありません。ただし」
俺はそこで一度言葉を切った。
「危険性の評価なら、協力します」
真壁はペンを置いた。音を立てない置き方だった。
「志摩さん。危険性が分からない物を、民間人が自宅に保管している状態は、国としては看過できません」
声は変わらない。だが、その一文だけがやけにゆっくりだった。寝癖がひとつ、真壁が言葉を切るたびに揺れる。
「ごもっともです」
俺は答えた。
手帳の後ろに挟んでいた紙を抜く。二つ折りにしたA4のコピー用紙だ。広げて、座卓の上で表を上にして置く。それから指で紙の向きを整えて、真壁の方へ向けた。
紙の一番上に、ボールペンでこう書いてある。
『魔石取扱い手順書 第1版』
その下に、箇条書きが4つ。行間は広めに取ってある。俺が普段、工程を書くときと同じ体裁だ。
1 保管は湿気を避け、乾いた缶に入れる。 2 子どもの手の届かない所に置く。 3 落下試験:高さ1mから10回落として、割れ0、変化なし。 4 握ったときの注意:素手で長く握らない。握った後は手を洗う。
真壁は紙を受け取らなかった。座卓の上に置かれたまま、上から読む。目が1行ずつゆっくりと下りていく。読み方が丁寧だ。飛ばさない。読み終えて、もう一度一番上に戻った。2回読んだらしい。
真壁は革鞄の口に手を入れた。付箋の束が出てくる。赤、黄、青。1枚ずつ間をあけて紙の横のノートに貼った。1枚目は「保管」の行の横。2枚目は「落下試験」の横。3枚目は「握ったときの注意」の横。貼る位置が、行の頭にきっちり揃っている。
俺は黙ってそれを見ていた。
国の調査室も、付箋の使い方は品質管理と同じだ。
貼り終えて、真壁はペンを持ち直した。ノートの余白に何か書く。ペン先が紙を走る音が、さっきより少しだけ長い。
書き終えて、顔を上げた。
「確認させてください」
「はい」
「出所を伺わずに、安全性だけ伺う、という理解でよろしいですか」
俺は真壁の目を見た。目はやはり平坦で、何も読み取れない。付箋の3枚が、紙の横で同じ高さに揃っている。
「はい。今のところは」
真壁は小さくうなずいた。ペンをノートの上に置いて、両手を膝に戻す。
「今のところ、の先は」
「今のところ、です」
俺は言った。約束の範囲を広げない。安全の話はしても、出所の話には触れない。触れれば、それはもう取り引きの材料になる。
「ここからは、私個人の立場で1つだけ」
真壁は声を少しだけ低くした。座卓の上の湯飲みが、湯気を細く上げている。
「海外の企業が、もう動いています。プレプリントの翌日に、角の提供者を探す依頼が調査会社に出ました」
社名は言わなかった。俺も聞かなかった。
「そうですか」
真壁は黒いノートを座卓の中央へ押し出した。俺は手帳を開いたまま、真壁のノートの隣に置いた。2人で議事録を突き合わせる。
真壁のノートの1行目には、開始時刻が「9:00」と書いてあった。
俺の手帳には「9:04」と書いてある。
「開始時刻が4分ずれています」
俺が言うと、真壁はノートを覗き込んだ。自分の字を指でなぞって、それから俺の手帳の数字を見た。
「志摩さんは9時4分と」
「玄関で4分、靴を脱いでいました」
真壁の指が止まった。
「……靴を」
「はい。泥を落として、揃えて、上がるまでに4分かかりました」
真壁はしばらく動かなかった。それから、口元がわずかに緩んだ。笑ったのだと分かるまでに少し間があった。営業の笑みでも官僚の笑みでもない、ただの緩みだ。
真壁は自分のノートの「9:00」を、ボールペンで横に線を引いて消した。線はまっすぐで、数字の上に1本だけ。その下に「9:04」と書く。書き直した数字のほうが、ほんの少しだけ丁寧だった。
「訂正しました」
真壁はノートを閉じかけて、手を止めた。それから顔を上げる。
「定期的に面談をお願いできますか」
「定時内でしたら」
俺は即答した。真壁は小さくうなずいて、ノートを閉じた。付箋が3枚、閉じた表紙の上でわずかに浮いている。
◇
10時ちょうどに、真壁は立ち上がった。
真壁は玄関で靴を履いた。かかとに指を入れて、紐を結ばずにそのまま履く。スーツの裾がふくらはぎに当たって、少しだけ持ち上がった。
「お気をつけて」
「ありがとうございます」
真壁はもう一度頭を下げた。角度は玄関で会ったときと同じ30度で、首だけが曲がらない。
俺は先に立って門まで出る。庭を横切る短い道だ。
真壁の歩みが一度だけ遅くなった。
目が物置に向いている。一瞬だ。0.5秒か、そのくらい。すぐに前へ戻った。俺は何も言わない。真壁も何も言わない。
「立派な物置ですね」
それから真壁は言った。声は平坦なままだ。褒めているのか、確かめているのかどちらにも聞こえる。
縁側に座っていた父が顔を上げた。湯飲みを持ったまま、真壁を見る。目を細めるでもなく、まっすぐ見る。
「俺が建てた」
それだけ言って、父はまた湯飲みに口をつけた。
真壁は足を止めた。父を見て、物置を見て、それから「……そうですか」と言った。声の大きさは、さっきと同じだ。それ以上は何も聞かなかった。屋根の話も、柱の話も基礎の話も。聞かないまま、また歩き出した。
俺は表情を変えなかった。
ズボンのポケットの上から、指の腹で布の盛り上がりを押さえる。鍵の形が指に当たる。真鍮の冷たさが、布越しに少しだけ伝わってくる。ある。それだけ確かめて、指を離した。
門の前で真壁が立ち止まった。
振り返って、もう一度お辞儀をした。30度。腰から曲げて、首が曲がらない。今度は少しだけ長く止まっていた。3秒か、4秒か。
「本日はありがとうございました」
「はい。お気をつけて」
真壁は門を出た。路肩に白い車が止まっている。セダンだ。真壁は運転席のドアを開けて、鞄を助手席に置いてから乗り込んだ。ドアが閉まる音が、庭まで届いた。小さくて短い音だ。
俺は門のところに立ったまま車の後ろ姿を見ていた。車が角を曲がる。
◇
昼は、居間で素麺だった。
座卓の真ん中に母が茹でた素麺がざるごと置いてある。氷が2つ、麺の上に乗っていて溶けた水滴がざるの縁を伝って座卓の上に小さな輪を作っていた。
母は自分の席に座る前にテレビのリモコンを取った。電源を入れると、昼のニュースが流れ始める。画面の右上に時刻が出ている。12時8分。
「恒ちゃん、つゆはそこにあるからね」
「ああ」
父はもう食べ始めている。
健司が素麺を3束まとめて箸でつかんだ。
「兄貴、朝のあれ、何だったの」
「何がだ」
「内閣府の人。白い車で来てたじゃん。あれ」
「そうだよ。内閣府って何しに来たの。あたし寝てたから見てないし」
「打ち合わせだ。議事録を2通作った」
俺は麺を1束だけ箸で取った。つゆに浸す前に、一度ざるの上で水を切る。
ひよりの箸が止まった。
「議事録って。内閣府と?おじさんが?」
「俺が1通、先方が1通だ。開始時刻が4分ずれていたから、両方で突き合わせた」
「訂正しないと記録が残らない。記録が残らないと後で困る。国も同じだ」
健司が笑いをこらえるように肩を揺らした。
「兄貴、相手が誰でも同じこと言うな」
「相手が誰でも同じことをする。それが品質管理だ」
「もういいよそのオチ」
そのとき、テレビの画面が切り替わった。
ニュースの女性アナウンサーが原稿を読んでいた。画面の下に白い帯が滑り込んでくる。赤い文字だ。
【クロダ精機 油圧部品を自主回収 建機メーカーで油漏れ2件】
アナウンサーの声が少しだけ早くなった。
俺の箸が止まった。
正確には、箸でつかんだ麺がつゆに浸かる直前で止まった。麺の先から水滴が1つ落ちて、つゆの表面に輪を作る。輪が広がって、消えた。
父の箸も止まっていた。父はテレビを見ている。まっすぐ見ている。口は動いていない。
ひよりがテレビと俺の顔を交互に見た。
「クロダ精機って」
母が箸を置いた。茶碗の縁に当たって、こつ、と鳴る。
「恒ちゃんの会社じゃない」
「元の、です」
俺は箸を置いた。麺はつゆに入れないまま、ざるの上に戻す。水滴がまた1つ落ちた。
母はテレビを見たまま、少しだけ口を開けている。何か言いかけて、言わない。それが母にしては珍しかった。
ひよりが何か言いかけて、やめた。箸を座卓の上に置いた。音を立てない置き方だった。誰かの真似だろう。
俺はポケットから手帳を出した。座卓の端に置いて、表紙を開く。ページをめくる。指を止めずに、日付の欄を目で追う。
10月17日。10月16日。10月15日。
9月のページに入る。9月30日、9月25日、9月20日、9月18日。
9月14日。
そのページで、指が止まった。




