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論文の謝辞と、テレビ局のメールと、鍵の小さな文字




「謝辞の『匿名の方』の『方』は、要りません」


『……え、そこですか』


10月14日(水)、14時。自分の部屋の机で、俺はスマホを耳に当てていた。昨日の夕方に折り返した電話の続きで、稲葉先生は論文の下書きを頭から読み上げている。


紙をめくる音がした。早い。めくり方が荒い。


「『匿名の方』ですと、人から受け取った印象になります。『匿名』で止めてください。提供者は個人ではなく、出所不明の試料です。論文の中で人物に寄せると、あとで説明が増えます」


『……志摩さん。今、私は題から謝辞まで通して読み上げました。新規結晶相の同定、格子定数の算出、石英との硬度比較、全部飛ばして「方」ですか』


「飛ばしていません。聞いていました」


『聞いてました?』


「聞いていました。理解はしていません。理解していないものに口を出すと、ろくなことになりません」


電話の向こうで息を吐く音がした。長い。


俺は手帳を開いた。10月6日の頁に、渡した覚書の控えを書き写してある。4行だ。


「確認します。覚書の内容です。1つ、提供者の氏名は記載しない。2つ、試料は測定後返却する。3つ、測定結果は提供者に共有する。4つ、試料の写真・データの外部公開は、提供者の同意を得るものとする」


『ええ。全部そのとおりです。守っています』


「1は、いま読み上げた謝辞で満たされています。2は、返却予定日が10月末のままです。3は、先週の測定結果を共有してもらっています。4は、いまこの電話で同意します」


俺は手帳の余白に書いた。


『10/14 14:05 稲葉先生へ外部公開の同意。論文に限る』


『志摩さん、いま何か書きませんでした?』


「書きました。記録です」


『……ですよね』


稲葉先生の声が少し落ち着いた。


『テレビ局の件ですけど、あれはお断りしました。情報番組のスタッフからで、角を見せてほしいと。研究室としてはコメントしない、と返しました』


「それでいいです」


『それと、ですね』


一拍、間が空いた。


『論文、出しました。プレプリントのサーバーに。査読前です。題は『未同定の生体鉱物における新規結晶相』。謝辞は「匿名」です』


「そうですか」


『志摩さん。これ、たぶん騒ぎになります。テレビ局が嗅ぎつけてる段階で、もう静かには済まない。私も教授に止められてるんです。でも出しました』


「定時内でお願いします」


『……はい?』


「騒ぎになるなら、連絡は定時内でお願いします。17時までです。それを過ぎたら、翌営業日で対応します」


電話の向こうで、息を吐く音がした。長い。今度は笑いに近い。


『志摩さん。あなたは本当に、最後までそうなんですね』


「品質管理は、そういう仕事です」


『品質管理は、炎上も定時内に収めるんですか』


「収めません。燃えているものは消せません。記録して報告するだけです」


『……分かりました。では、何かあれば明日の9時以降に連絡します』


「お願いします。では」


『はい。失礼します』


通話が切れた。俺はスマホを机に置いて、手帳を開いたままもう1行だけ書いた。


『10/14 14:22 論文提出済み。問い合わせは定時内で対応』


時計を見た。14時22分。定時まで、まだ2時間38分ある。


◇


10月15日(木)、朝8時。稲葉千景は研究室の鍵を開けて、ノートPCの蓋を開けた。


プレプリントの閲覧数が、一晩で4万を超えていた。稲葉は画面を一度閉じて、もう一度開いた。数字は変わらない。むしろ、見ている間にもじわじわと増えている。


「……あの」


稲葉は白衣の袖をまくったまま、画面に表示されたダウンロード数の横にある小さなグラフを指でなぞった。


「先生、どうしたんですか。顔が止まってますよ」


机の向かいから丸眼鏡の院生が声をかけてきた。椅子の背に顎を乗せたまま、スマホを両手で持ち上げている。


「いや、閲覧数が」


「見ました。朝イチで。あれ、おかしいですよね。たぶん昨夜のうちに海外の掲示板に貼られました。英語のメールも30通くらい来てません?」


「来てる。まだ全部は開いていない」


稲葉はメーラーの未読一覧を開いた。英語の件名がずらりと並んでいる。差出人は大学のドメインが多い。問い合わせ、測定条件の確認、共同研究の打診。稲葉はスクロールを止めず、一番下まで流した。


「30通、本当に来てる」


「でしょ。あれ、たぶん結晶学の専門家のポストが起点ですよ」


院生がスマホの画面を稲葉の方へ向けた。SNSの投稿が表示されている。アイコンの隣に、稲葉も学会で見たことのある名前があった。


『この回折パターンが本物なら、教科書に新しい章が要る。正直、今は半信半疑だが査読前の段階でこのデータを出した勇気は評価したい』


稲葉は画面をじっと見た。それから、院生のスマホを指で軽く押し戻した。


「この人、私の発表のときいつも寝てる人だ」


「そうなんですか。でも褒めてますよ。半信半疑って言ってるけど」


「測定屋は、賞賛より再現性を信じるの」


稲葉は立ち上がって棚から分厚い結晶学のデータベースを引き出した。開いたページの上に、先週プリントアウトしたX線回折のチャートを並べる。ピークの位置を指で追いながら、既知のどのパターンとも一致しないことを、もう一度だけ確かめた。


「このピークの位置と強度比が再現できたら、新しい相だと言っていい。でも、再現にはもう1本角が要る。それがない」


10月16日(金)の夕方、研究室のドアが2回、軽く鳴った。


ドアを開けると教授が立っていた。白髪まじりの髪が、廊下の蛍光灯の下でいつもより白く見えた。


手には紙の束があった。印刷されたプレプリントだ。端がクリップで留めてある。留め方が丁寧で、紙の角が揃っている。


教授は何も言わずに中へ入った。稲葉の机の前に来て、束を机の上に置いた。音を立てない置き方だった。


稲葉は立ち上がったまま束を見た。表紙には自分の名前がある。題名も謝辞も、水曜に自分が出したそのままだ。


教授は黙っていた。5秒。10秒。窓の外で、構内放送のチャイムが鳴り始めた。17時を知らせる音だ。


「……試料、もう少し、ないのか」


教授の声は低かった。咎める声ではなかった。ただ、聞いた。


「提供者の方が、返却予定日を決めています。10月末です」


稲葉は答えた。早口にならないよう、一語ずつ置くように言った。


「私が決めることではありません。覚書にそう書いてあります」


教授は稲葉を見た。眼鏡の奥の目が、少しだけ細くなった。


「そうか」


それだけ言って、教授は背を向けた。クリップの束は机の上に残っている。


ドアの方へ歩いていく。革靴の音が4回鳴った。ドアの前で一度止まって、何か言いかけたように肩が動いた。だが、開いて閉じた。廊下の足音が遠ざかっていく。


稲葉は机の上のプレプリントを見た。クリップの端が、蛍光灯の光を細く反射している。


「……残して、いったな」


稲葉は小さく言った。誰にともなく。


「先生」


院生の声が、さっきより少し真面目だった。


「なに」


「ひよりさんのチャンネルにも、この論文の話が流れてます」


◇


10月16日(金)、夜の8時。居間のテーブルで、ひよりがスマホを両手で持ったまま固まっていた。


ひよりが声に出して読んだ。


「『はじめまして。動画配信サイトで拝見しました。〈手品師のおじさん〉に、スタジオでの実演をお願いできませんか。顔はぼかします』」


母が茶碗を置く音がした。


「テレビだって」


健司が畳の上で正座のまま身を乗り出した。


「何チャンネル?」


美咲さんがひよりの肩越しに画面を覗き込む。


「ばあちゃん、これ見るよね。朝の情報番組だ」


ひよりが言った。


「ぼかすならいいじゃん」


俺は湯飲みをテーブルに置いた。


「顔は出さない約束だ。ぼかしても、手は映る」


居間が静かになった。


湯飲みの底で、茶柱が1本、ゆっくり倒れた。


ひよりはスマホを両手で持ったまま、しばらく黙っていた。親指が画面の上を迷って、メールの文面を何度か上下させている。それから顔を上げた。


「……あたしが返す。プロデューサーだから」


声は小さいが、言い切った。


「そうか」


俺は湯飲みを持ち上げた。茶柱はもう沈んでいる。


ひよりは正座のまま背筋を伸ばして、スマホを膝の上に置いた。親指が画面を叩く音だけが居間に続く。


「『ご依頼ありがとうございます。大変光栄ですが、演者はテレビには出ない方心です。今後も配信は自宅からお送りします。ご了承ください』」


そこまで読んで、ひよりが顔を上げた。


「おじさん、これでいい?」


俺は手を伸ばして画面を覗き込む。


「誤字が1つ」


「え、どこ」


「『方針』の『針』が『心』になっている」


ひよりは画面をぐっと顔に近づけた。


「うわ、ほんとだ」


「送る前に直せ」


「直すよ」


ひよりは親指で文字を消して打ち直した。


ひよりは親指で送信ボタンを押した。画面の下から小さく「送信しました」と出る。それを見届けてから、スマホを膝の上で裏返した。


母が茶碗を置いて言った。


「もったいないねえ。テレビ出れば有名なのに」


「有名にはもうなってるよ。違う方向で」


健司が笑いながら言った。


父が畳の上で軽くうなずいた。


「おう」


どちらの意味なのかは分からない。たぶん父にも分かっていない。それでいい。


ひよりがスマホを表に返して、画面を覗き込んだ。


「おじさん」


「なんだ」


「登録者、15万」


「そうか」


◇


みんなが寝たあと、俺は自分の部屋で鍵を磨いた。


部屋の戸を閉めて鍵を机の上に置いた。スタンドを点ける。机の上が丸く照らされる。魔石は使わない。《明かり》は点けない。節約だ。


父から借りた旋盤用のルーペを引き出しから出す。黒い枠で、レンズに小さい傷が1本ある。鍵を持ち上げてルーペを当てる。


真鍮の持ち手。刻み目は1本。指でなぞる。引っかかりは同じ深さ。摩耗はない。


刻み目の横に、何かある。ルーペを寄せる。文字だ。3つ。小さい。読めない。アルファベットでもカタカナでもない。線が2本と点が1つに見えるが、形にならない。


最初に鍵を手にした日は「メーカーの刻印か」で済ませた。それ以上は見なかった。


手帳を開く。ペンを取る。


『刻印:判読不能 3文字。用途不明』


書いて、ペンを置く。意味は推理しない。記録だけ残す。ルーペを引き出しに戻す。鍵を布に包む。手帳を閉じた。


◇


10月17日(土)、朝9時。玄関のチャイムが鳴った。


母が廊下をぱたぱたと歩いていき、玄関を開ける。10秒ほどして母の声が廊下を戻ってきた。


「恒ちゃん、内閣府の方ですって」


俺は立ち上がって、玄関へ向かった。


開いた扉の向こうに、グレーのスーツの男が1人立っていた。片手に提げた革鞄から、色の違う付箋が何枚もはみ出している。


男は、何も言わずに深く頭を下げた。


お辞儀の角度は30度。腰から曲げて、首が曲がっていない。営業ではない。

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