大聖堂の公開審問で、「授からなかった」神官見習いが手を挙げた
聖光教会 ルーメン大聖堂。
正午の鐘が、12回鳴った。
大聖堂の中は、入りきれない人で埋まっていた。
身廊の石畳の上に立つ者、柱の陰に肩を寄せる者、入り口の階段にまで人が溢れている。天井の高い空間にざわめきが溜まり、それが鐘の余韻に押されてすっと静まった。
祭壇の前の床に、ルカが立たされていた。
縄が手首を後ろで縛っている。白い祭壇布の前で、学院の制服のままで背筋だけは伸ばしていた。
その細い背中を、俺は身廊の真ん中から見ていた。
群衆は身廊の左右に分かれて壁際まで詰めていた。見習いたちは祭壇の左手に固まっている。俺は群衆の中に顔を見つけた。
右側の柱のそば、手ぬぐいを首に巻いた男。市場の荷運びの男だ。講習の7日目に来た。その3列ほど後ろ、鉄鍋亭の冒険者。講習の11日目に列の最後尾に並んでいた。腕を組んで、天井の梁を見ている。
奥、祭壇の右手に椅子が一脚置かれていた。肘掛けに手を置いて座っているのは大司教代理だった。つるりとした丸顔の老人で、白い髭はない。
柱の陰、身廊の左手の一番奥。ヴァルターがいた。あの号令の紙は、今日は持っていない。
グレゴールが祭壇の前へ進み出た。
彼は祭壇に背を向けて、身廊の方を向いた。手に羊皮紙を持っている。
「聖光教会 審問局の審問を開く」
声は大きくない。読み上げる声だ。怒鳴らないのに、身廊の端まで届く。
「本件は王都ルーメン、王立魔導学院の見習いルカに関するものである。当該の見習いが流布した文書がなくとも神より才を授かっていたか、この場で神の前に示す。授かっていたならば、文書は無用である。授かっていなかったならば、文書は無効である」
どちらでも教会の勝ちだ。
「審問の作法を告げる。まず、当該の見習いに授かりの儀を行わせる。次に、証人を問う。最後に裁定を下す。裁定は大司教代理が下す。異議は認めぬ」
俺は鞄の紐を握った。
異議は認めない、とグレゴールは言った。なら異議ではない形にする。
俺は一歩前に出た。石畳に靴の裏が当たる音が、身廊にひとつだけ落ちる。
「異議ではありません。記録の提出です」
「汝は客員である。証人ではない」
「証人ではありません。記録の提出者です。審問の作法に、証人を問う、とありました。その前に数字を出させてください」
グレゴールは羊皮紙を胸の前に持ったまま、俺を見ていた。
「聞こう。読み上げよ」
俺は鞄から手帳を出した。指を置いて、上から読む。
「3か月目の5日、王都防衛。見習い20人による分業結界。事故0件」
「3か月目の9日から20日までの12日間、『《着火》作業手順書 第3版』の講習。受講者は約300人。事故は2件。どちらも軽い火傷です。ヒヤリハットが11件。全部、時刻と工程番号と原因と対策まで記録してあります」
「教官の報告書にありました。『才なき者に火を持たせれば事故が増える』。記録では、増えていません。300人で2件です」
「数は神の領分にあらず」
声の調子は変わらない。読み上げる声のまま、彼は言った。
「汝の数字は、汝の手順が人を動かしたことを示す。それだけである。ルカは隠れた才を授かっていたに過ぎぬ。300人も同じである。才のない者に火が点いたのではない。才のある者が、手順を知らなかっただけである」
身廊がしんと静まり返った。
理屈としては、閉じている。
「では、教会が『才がない』と判定した方で、確かめさせてください」
「神官に、才なき者はおらぬ」
グレゴールは羊皮紙を袖に収めた。
「授かりの儀は神の前で行われた。儀を通った者は神官である。神官は才を授かっている。才なき神官はおらぬ」
記録がない、とは言わない。記録そのものを存在しないことにしている。
身廊が静かになった。蝋燭の芯がはぜる音が、柱の間を抜けていく。
身廊の後ろのほうで人がひとり分、動いた。
神官たちの列だ。その端で、列から一歩、外へ出る者がいた。
俺の目に入った順に、栗色の髪をひとつに結んだ頭があった。灰色の瞳があった。白い見習いの法衣があった。胸元で揺れる鈍い錫の聖印があった。
ほかの神官の聖印は銀だ。彼女の聖印だけが、光を返さない。
広場で、焼けた写しを拾った神官だった。
彼女は一歩、また一歩と身廊を進んだ。
彼女は祭壇の手前、ルカの斜め後ろで止まった。両手を法衣の前に揃えて、まっすぐにグレゴールを見た。
「見習い神官ミラと申します」
声は高くなかった。けれど大聖堂の石壁に吸われずに、身廊の真ん中まで届いた。
「12の歳の授かりの儀で、聖光を授からなかった者です」
隣の神官が手に持っていた聖典を胸に引き寄せた。
「だから、聖印は錫です」
身廊がざわめいた。
ミラは、法衣の袖に手を入れた。細い指先が、折り重ねた紙を3枚取り出す。
1枚目。角が少し折れて、「工程3 止める」の絵がかすかに見える。審問局の床に落ちていた、手順書の写しだった。
2枚目。縁が黒く焦げて、紙の真ん中だけが白く残っている。昨日の広場で焼け残った写しだった。
3枚目。焦げていない。几帳面に4つ折りにされた紙を、彼女はゆっくりと開いた。
『聖光 作業手順書』
字は小さく、何度も書き直した跡があった。工程の数字が振ってある。条件の欄がある。不良の欄がある。
俺は、その様式を知っていた。
俺の手帳の書き方だ。
俺は何も言わなかった。
ミラは3枚の紙を祭壇の前の石畳に、1枚ずつ並べた。それから立ち上がり、グレゴールに向き直った。
「審問官様。この場で確かめます」
「何をする気か」
「授からなかった者です。でも、手順を守れば聖光が灯るのかどうか。神の前で示します」
彼女は右手のひらをゆっくりと上に向けた。
大聖堂の中が、また静かになった。
ミラは手のひらを上に向けたまま、唇をわずかに開いた。
詠唱は聞こえない。白い法衣の袖が、呼吸に合わせてふわりと揺れる。背筋をまっすぐにして、踵を床につけたまま彼女は息を止めた。
何も起きない。
身廊のどこかで小さな失笑が漏れた。右側の柱の陰だ。若い男が口元をゆるめて、隣の連れに何か囁く。
ミラは動じなかった。手を下ろす。
「……不良Aです。光が出ませんでした」
彼女は膝をつくと、自分の手順書を取り上げた。細い炭の棒で、紙の端に「A」と書き込む。線がぶれていない。それから立ち上がり、また手のひらを上に向けた。
今度は、かすかに白いものが灯った。
人差し指の先に、淡い光が生まれた。ろうそくの火よりずっと弱く、輪郭がぼやけている。
光は、ふるふると揺れて、次の瞬間はらりと散った。
「……不良Bです。形が散りました」
ミラはまた膝をついた。手順書の端に、今度はBの字を書き足す。それから紙を置いて、立ち上がる。
身廊の失笑は消えていた。
俺は口を出さない。
手帳を閉じたまま、両手で背表紙を握っていた。汗はかいていない。
「……もう一度です」
ミラの声が、静かに落ちた。
3回目だった。
ミラの指先に灯った光は、散らなかった。
薄明かりだった。けれど消えない。彼女の手のひらの上で、小さな玉になってゆっくりと膨らんだ。光の玉が、大聖堂の柱を下から照らした。
「……あ」
さっき失笑した若い男だ。口が半開きになって、隣の連れの袖を握っている。
ルカが、俯いていた顔を上げた。
「……点いてるっす、先生」
前を向いたまま、隣に立つミラの手のひらを見ている。
「聖光は、授かりの儀を通った神官にしか灯らぬはずだ」
神官の列の誰かが言った。白い法衣の男が、胸元の銀の聖印を握りしめている。
大司教代理が椅子から身を乗り出した。
ヴァルターが柱の陰で一歩、前へ出た。
グレゴールは何も言わなかった。薄い唇が、一度だけ開いて閉じた。
俺は手帳を開いた。
『3回目 成功 光玉 持続』
それから、声に出した。周りのざわめきに埋もれない程度の、けれどミラに届く程度の声で。
「歩留まり、3分の1。初回としては十分です」
ミラは振り返らなかった。手のひらの光は、まだ消えていない。
「私たちも、授かり物だと言って、手順を隠していました」
「大聖堂の書庫に、歴代の神官様が書き継いだ聖光の手引きがあります。授かりの儀を通った者だけが読むことを許される手引きです。光の集め方、保ち方、散らし方。全部、書いてあります」
「私は書庫の掃除を仰せつかっておりました。そこで、読んでしまいました。授かっていないのに」
「授かった者だけが読めるのではありません。読めた者が授かったことにされるのです」
神官たちの列が、静まり返った。
1人の神官が、目を伏せた。また別の神官が聖典を抱え直して、顔ごと柱の方へ向ける。
誰も「違う」と言わない。誰も「黙れ」と言わない。目の前で、錫の聖印の見習いが聖光を灯している。
ミラは、ようやく光を消した。
「私たちは、手順を知っている者だけが聖光を使えるようにしていました。それを、神様のせいにしていました」
セレスティアさんが俺の半歩後ろから前に出た。
身廊のざわめきが、その一歩でまた止まった。
「宮廷魔導師長、セレスティア・ヴァン・ルーメンです。証人ではありません。けれど、ひとつだけ。わたくしの記録を出させてください」
グレゴールが彼女を見た。
「20年前。わたくしも、学院の見習いでした。わたくしは《着火》の手順書を書きました」
「できない者がどこでつまずくのか、わたくし自身が知っていましたから」
セレスティアさんは袖口を持ち上げた。あのインクの染みが、蝋燭の光の下で黒く浮かんでいる。
「20年前、その手順書は審問局に焼かれました。才なき者に魔法を配る文書だと。王都の広場で、昨日と同じように」
グレゴールの白い法衣が、わずかに動いた。
「……書き直す癖だけが、残りました」
俺は初めて知った。あの染みの理由を。
声には出さない。
グレゴールが口を開いた。
「宮廷魔導師長。汝の証言は審問の作法にない」
声の調子は変わらない。けれど、いつもより少しだけ速かった。
「審問局の判断は教義に基づく。それを今、この場で――」
そこで、言葉が止まった。
その先に、大司教代理の手があった。
肘掛けから離れた片手がまっすぐに上がっている。つるりとした丸顔の老人は椅子から腰を浮かせもせず、手のひらだけをグレゴールのほうへ向けていた。振り払うのでも、指し示すのでもない。ただ止める形だった。
大司教代理は手を下ろした。声は小さかった。けれど身廊の隅まで、石の壁に吸われずに届く。
「審問は不成立とする」
「グレゴール。汝は審問の任を解く」
グレゴールは頭を下げた。銀の聖印がぶらりと垂れた。
「手続きに従う」
それだけ言って彼は身廊の脇へ退いた。壁際まで下がり、柱の陰に立つ。ただ立っていた。表情は、見えなかった。
衛士の1人がルカの後ろに回った。縄に刃を当てて、一息で断ち切る。
縄が床に落ちた。ルカは自分の手首を目の前に持ってきて、赤くなった跡をしばらく見ていた。
その瞬間、大聖堂の空気が変わった。
最初に声を上げたのは、右側の柱の陰だった。手ぬぐいを首に巻いた男だ。
「不成立だ! 不成立!」
「あの子の指に火が点いたんだ! 俺の指にも点いたんだ!」
声が波になった。鉄鍋亭の冒険者が、天井の梁に向かって口笛を吹いた。見習いたちの列が、崩れた。白い法衣の神官たちは、誰も止めなかった。
彼は身を翻して、柱の陰に消えた。
セレスティアさんが、俺の隣に戻ってきた。
「……終わりました」
彼女はそれ以上何も言わなかった。
ルカが、こっちへ来た。
縛られていた手首を、無意識に反対の手でさすっている。
俺の前で、ルカは止まった。目が少しだけ潤んでいた。けれど、声は震えていなかった。
「先生。おれ、工程1回も忘れてないっす」
俺は手帳を開いた。新しい行に鉛筆の先を置く。
「確認しました。工程1から5まで、口頭で保持。欠落なし」
書き終えて、手帳を閉じた。
「記録しました」
ルカの口元が、ゆるんだ。14歳の顔になった。
「先生、それだけっすか」
「それだけです。ほかに書くことがありません」
「おれ、めっちゃ怖かったんすけど」
「そうですか。記録には残りません」
ルカが、声を出して笑った。周りの見習いたちが振り返って、つられて笑い出した。
ルカはまだ笑っていた。目に溜まっていたものが、笑いながら頬を伝っていた。
◇
夕方、塔の客員の部屋に戻ると、セレスティアさんが机の前で待っていた。
セレスティアさんが、袖から紙の束を出した。
古い紙だった。端が黄ばんで、ところどころ角が欠けている。
「20年前に書いたものです。審問局に焼かれる前に、写しを1部だけ隠しました。書き直して、書き直して、これが最後の版です」
彼女は束を俺の前に差し出した。
「あなたの書き方のほうがずっと読みやすい。それは認めます。だからこれは、あなたに預けます」
俺は束を両手で受け取った。
「第0版として保管させてください。改訂履歴の一番上に置きます」
セレスティアさんはしばらく俺の顔を見ていた。それから、口の端がほんの少しだけ動いた。笑ったのだと気づくまでに2秒かかった。
「第0版。いいでしょう。そう呼びなさい」
夕の鐘が鳴った。
「定時なので、失礼します」
セレスティアさんは空いた手を袖口に添えて、小さくうなずいた。
塔の客員の部屋の戸に、鍵を当てて回した。
実家の物置だった。
古い本棚と、段ボールと、埃の匂い。腕時計を見た。
10月13日(火)16時36分。
定時まで24分。
スマホの画面を確認した。稲葉先生からの着信が12件。メッセージが2件。
『志摩さん、角の論文、出させてください』
『それと、テレビ局から研究室に「手品師の角」の問い合わせが来ました』
俺はスマホをポケットに戻した。
「……定時後に、折り返します」
物置の蛍光灯が、ちかちかと一度瞬いた。




