客員の講習は1日3回、1回20人
10月13日(火)13時。物置の戸を開けた。
月曜の炎上は、今朝、学校に行く前のひよりから聞いた。俺は「そうか」とだけ返した。ひよりは今日は学校で、登録者の数字だけがLINEで来ている。12万。
戸の向こうは、いつもの東の森の倒木の前だった。向こうの、3か月目の9日。朝。
塔の客員の部屋の扉に、紙を1枚貼った。
『勤務 朝の鐘から夕の鐘まで』
貼り終えた紙を指で軽く押さえ、浮きがないことを確認する。セレスティアさんが隣で首を傾げた。
「それは何です」
「就業規則です」
「……就業規則」
「はい。夕の鐘のあとは仕事をしません」
セレスティアさんは紙をじっと見た。三つ編みの先を指に巻きつけ、ほどき、また巻く。紫の瞳が文字の上を2往復したあと、小さくため息をついた。
「よろしい。王の条件に沿います」
寝る場所はこの部屋、食事は学院の食堂。俺は机に手帳を開き、新しい見開きに清書した。『《着火》作業手順書 第3版』。工程は5つ。それぞれに絵を添え、数字を振る。
「ルカさんに、これを写してもらいます。絵と数字の版を」
扉の脇に立っていたルカが、背筋を伸ばした。
「また絵と数字っすね。前は20部でした」
「今度は、もっと要ります。数字と絵が合っていればいい」
ルカは俺の顔と紙を交互に見た。それから、唇を横に引き結んで一度だけうなずいた。
「やるっす」
講習は1日3回、1回20人。不良は毎回A・B・Cで記録する。
1日目。実習室の石壁はひんやりとして、20人が立っても声が吸われるように静かだった。
「工程4。詠唱を一息で。声に出します。《着火》」
実習室に、20人分の《着火》が重なった。ばらばらだった。声が裏返る者、息が続かず語尾が消える者、怒鳴って自分の声に驚く者。
石壁のあちこちで小さな火が灯った。
「点いた……点いた!」
前の列の小柄な見習いだった。人差し指の先に、ろうそくほどの火がゆらゆらと揺れている。自分の指先が燃えているのに、顔は笑っていた。
「語尾が消えた方、不良Cです。息継ぎをしています」
「不良って……おれ、不良なんですか」
一番端の見習いが、消え入りそうな声で言った。
「今は工程が合っていないだけです。次で合わせます。人に不良がいるわけではありません」
3巡目で、20人全員の指先に火が点いた。誰かが小さく拍手をした。
「先生は、すごいっす」
「手順がすごいんです。私は何もしていません」
2日目から、講習の席は学院の外にも開いた。
4日目。初等科の子どもが3人来た。一番小さい子は俺の腰の高さくらいしかない。指先に火が灯った瞬間、その子は振り返って、廊下で待っている母親らしい人に「見た! 今、光った!」と叫んだ。
6日目。累計で140人。
7日目。市場の荷運びの男が来た。首に手ぬぐいを巻いている。
「俺は、才がないって言われてずっと」
「才の話はしません。工程の話をしています」
男は口を開けて、それから手ぬぐいで顔を拭いた。目の周りが赤いのは、汗のせいだということにした。
8日目。講習の途中で、扉の脇に影が差した。
ヴァルターだった。手にはあの号令の紙を持っている。俺が書いて渡した『大結界の陣 号令手順 第1版』だ。
俺は講習を止めなかった。ヴァルターは入り口の脇に立ったまま、紙と見習いたちを交互に見ていた。20人が指先に火を灯すところまで、ずっと見ていた。最後の1人が火を消すと、紙を折って懐にしまい、何も言わずに廊下へ出ていった。
9日目。ヒヤリハットが3件。詠唱の途中で咳をして、火が天井に向かった。10日目。軽い火傷が1件。俺はすべて手帳に書いた。時刻、工程番号、状況、原因、対策。
11日目。ギルドの冒険者も並び、講習の列が学院の門の外まで伸びた。
12日目。累計で約300人。
夕の鐘が鳴る前に、セレスティアさんが実習室に来た。俺の机の上の記録の束を1枚ずつめくる。
「6日目で140人。12日目で300人」
「はい。ヒヤリハットが11件、軽い火傷が2件。すべて記録済みです」
セレスティアさんは束を机に戻した。紫の瞳が、壁に貼った人数の紙に向く。
「王都の魔導師の数より、多くなりました」
窓の外で、夕の鐘の最後の音が消えていく。
「明日も、同じ時刻に」
俺は手帳を閉じた。
「明日は、休みにしましょう」
◇
3か月目の21日の朝、学院の広場の真ん中に、薪が積まれていた。
井桁に組んだ丸太の間に枯れ枝を詰めてある。その上に、紙の束が載っている。手順書の写しだ。絵と数字の版。300枚近い。
燃やすにしても、数えてから燃やせばいいのに。
そんなことを考えている自分に気づいて、俺は眼鏡の縁を指で押した。
学院の見習いたちが塔の入口に固まっている。ルカはその先頭に立っていた。唇を引き結んで、両手を腹の前で握っている。群衆は広場の外側をぐるりと囲んでいた。市場の荷運びの男の顔もある。
薪の前にグレゴールが立っていた。白い法衣の襟をきっちり合わせ、灰色の髪は1本も乱れていない。
「聖光教会 審問局の告示である」
広場が静かになった。
「王都ルーメンにおいて流布されたる『《着火》作業手順書』と題する文書は、神より授かりし魔法の才を才なき者に配るものなり。これは教義に反する。よって、王都にある当該文書の写しをすべてここに集め、焼く」
衛士たちが、学院の塔から、市場の露店から集めた写しを次々と薪の上に投げ載せる。1枚が俺の足元に落ちた。工程3の「止める」の絵だ。指を4本折った手の絵に、誰かが鉛筆でなぞった跡がある。
俺は前に出た。
「客員宮廷魔導師、志摩恒一です。陛下は、この焼却に裁可を出していません」
胸元から客員の印を取り出す。グレゴールは印を見た。それから俺の顔を見た。声の調子を変えない。
「客員とは王の臣である。教義は王の外にある」
「……」
「汝の印は、王の庭の内で効力を持つ。ここは神の庭である」
俺は印を握ったまま次の言葉を探した。品質管理の言葉が浮かばない。この相手には、記録も対策も届かない。
袖が引かれた。
セレスティアさんだった。俺の袖をつかんだまま、声を低くする。
「今は、下がりなさい」
衛士の1人が火打ち石を取り出した。石を打つ。火花が散る。2回。3回。
見習いたちが動かない。
20人近くいる。全員が《着火》を使える。この薪に火を点けるより、ずっと難しいことを彼らはもうできる。
誰も、指を上げない。
使うな。
声には出さない。声に出せば、号令になる。号令をかければ彼らは従う。それが怖かった。
枯れ草から細い火が立った。丸太の表皮を伝って、紙の端に移る。
紙が燃えた。
「異端だ!」
前の列の男が叫んだ。手に聖印を握っている。別の声がかぶさった。荷運びの男だった。手ぬぐいを握りしめて、前へ出る。
「俺の指に火が点いたんだぞ! 生まれて初めてだ!」
「才なき者が魔法を使うなど、神への冒涜だ!」
「冒涜で子どもが笑うか! お前、あの子の顔を見たのか!」
声が割れた。衛士の1人が槍を横にして、群衆の列を押し戻した。
工程1の「壁に背をつけて立つ」の絵が、火に舐められて消えた。
衛士が1人、薪の前から離れてルカの前で止まる。
「写しの元、見習いルカ。審問局へ」
衛士の手が、ルカの腕をつかんだ。
ルカの体がびくりと跳ねた。それでも逃げなかった。振りほどかなかった。首だけを、見習いたちの方へ向けた。
「紙は焼けても、工程は覚えてるっす」
声は震えていなかった。広場のざわめきの下に、はっきりと落ちた。
一番前の小柄な見習いが口を開いた。
「1、壁に背をつけて立つ」
声は小さかった。けれど、その隣の見習いが続いた。
「2、指を4本折るまで吸う」
「3、止める」
「4、詠唱を一息で」
「5、指先から出す」
声が1人ずつ重なっていく。最初は隣の声に遅れ、次の声に追い越されていた。けれど2巡目で、すっと揃った。
「1、壁に背をつけて立つ。2、指を4本折るまで吸う。3、止める。4、詠唱を一息で。5、指先から出す」
大結界の陣の号令と同じだった。数えれば、揃う。揃えば残る。
俺は声を出さなかった。鞄から手帳を出して、開いたページに書く。
『写し 約300部 焼失。工程 口頭で保持』
グレゴールは薪の前で両手を組んだまま、見習いたちの声を聞いている。
「声は焼けぬ。だが、声は書ではない。連れて行け」
衛士がルカの腕を引いた。ルカはもう振り返らなかった。
群衆の端で、人がしゃがんだ。
栗色の髪をひとつに結んだ、若い神官だった。鈍い錫の聖印が、胸の前で揺れた。彼女は火の縁から飛んだ焦げた写しを拾った。指先で埃を払って、袖の中に入れた。
誰も見ていない。衛士も、グレゴールも、群衆も、見習いたちも。俺だけが見ていた。
灰色の瞳が、一瞬だけ俺の上で止まった。それからすっと逸らされた。
広場の柱のそばで、審問局の書記が羊皮紙を柱に押し当てた。釘を打つ短い音が3回。告示が張られた。
見習いたちの声は、まだ続いていた。
◇
その夜、塔の客員の部屋の机に、セレスティアさんが告示の写しを置いた。
『明日の正午、大聖堂で公開審問を行う。見習いルカが手順書なしに才を授かっていたか、神の前で示す』
2度読んだ。3度目は読まなかった。
ルカが、あの場で、また火を点ければ「才があった」ということになる。手順書などなくても、もともと神から才を授かっていたのだと。
点かなければ「手順書は役に立たない」ということになる。
どちらでも、負ける試験だ。
「試験の設計に、不備がありますね」
窓の外で、夜の鐘が遠くに聞こえた。
セレスティアさんは机の前に立ったままだった。
「ええ。どちらに転んでも、教会の勝ちです。審問は教義の場です。客員の印も、あそこではただの銀の板です」
セレスティアさんが袖口のインクの染みを見た。白い指先で、その染みをそっとなぞる。口が一度開いて、閉じた。
俺は手帳を開いた。朝の広場で書いた文字の下に、書き足す。
『ルカ 明日 公開審問』
字は震えていない。手のひらも汗をかいていない。いつもどおりに、記録を取る。
「教会が自分で『才がない』と判定した人は、いますか」
彼女の指が止まった。
「才があるかどうかは、教会が判定する。それなら、教会が『才がない』と判定した人も、記録として残っているはずです」
セレスティアさんがゆっくりと顔を上げた。紫の瞳が、俺の手帳を捉える。それから俺の顔を見た。
明日の正午まで、向こうであと半日。
地球の定時までは、あと40分。




