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2回目の配信は《浄化》で、姪が手順書を読み上げた




『【2回目】おじさんの手品 浄化編』


【配信を開始しました】


同時視聴者、1,200人。


手品の回は2回目だ。1回目は最大で41人。昨日の庭の配信で1,100人まで行った。台所のテーブルには、前と同じようにひよりのスマホが三脚に横向きに立ててある。映っているのは俺の手と、ガラスのコップと、小指の先ほどの魔石が2個だけだ。


蛍光灯の下でコップの水面が揺れている。中身は泥水だ。庭の雨水バケツから汲んできた。茶色く濁って、底が見えない。


「今日はおじさんの手品でーす。2回目。浄化編です」


ひよりの声がスマホの横から入る。前回より少しだけ落ち着いている。プロデューサーを名乗り始めた声だ。


「昨日のバーベキューの切り抜きが回ってるらしくて、同時視聴者が1,200人います。おじさん、プレッシャー感じてますか」


「感じていません」


「即答じゃん」


《定時退社おじさんだ》 《待ってた》 《今日は何を浄化するの》 《泥水じゃん》 《昨日の肉なに》


「肉の話は今日はなし。浄化回だから」


ひよりが先に言った。


「では始めます」


俺はガラスのコップをテーブルの中央に置き直した。底を両手で軽く押さえて、まっすぐにする。


「今日は《浄化》です。これまでの《着火》と《明かり》より工程が長くなります。手順書は第1版。読み上げます」


「工程1、姿勢。椅子に座って足の裏を床につけます。背もたれに寄りかかりません」


ひよりがスマホの後ろで小さく笑う音がした。


《研修始まった》 《背もたれに寄りかからないの細かい》


「工程2、吸気。4拍で取ります。1、2、3、4。胸が膨らむまで吸って、止めます。詠唱中は息を吐きません」


「前と同じじゃん」


「同じです。魔法の種類が変わっても、土台の工程は変わりません。変えると不良が出ます」


《不良》 《前回も言ってた》


「工程3、詠唱。《浄化》の詠唱は8節あります。《明かり》の6節より長い。一息で言い切ります。途中で息継ぎをしません」


テーブルの魔石を1個、左の手のひらに挟む。そのまま右手と左手をコップの両側に回した。指先をコップの側面に当てて、両手で器を挟む形にする。親指は手前、残りの指は向こう側だ。


「工程4、両手で器を挟みます。指の腹を側面に密着させます。隙間があると魔素が漏れます」


「では実演します。吸気を4拍で取ります。1、2、3、4」


息を吸う。胸が膨らむ。止める。肺の中の空気が指先まで満ちていくのが分かる。詠唱を一息で通す。


《浄化》。


声には出さない。喉の奥で8節を転がして、両手のひらからコップの中へ流し込む。


コップの水面が一度だけぴくりと震えた。


最初に動いたのは底だった。


濁りの粒が、ゆっくりと下へ落ちていく。水の中に細かい砂が沈むときのような動きだ。茶色だった水の上の方から、色が薄れていく。底に泥が集まり、上へ向かって透明が伸びていく。


3秒。5秒。8秒。


コップの上の3分の1が透き通った。


「待って、上から透明になってく」


ひよりの声が近い。スマホのレンズがコップに寄っている。


《え》 《透明》 《ろ過してない》 《CGだろ》 《カットなしだぞ今の》 《コップすり替えた?》 《手元ずっと映ってた》


コメントが一斉に流れる。ろ過はしていない。


「同時視聴者、2,600人。待って、まだ増えてる」


透明は上から下へ広がり続ける。泥の層が底に積もって、その上に澄んだ水が残っていく。


最後に、底の泥の層だけが残った。コップの下1センチほどが茶色で、その上は全部透き通っている。向こう側のテーブルの木目が、水を通して見えた。


俺はコップから手を離した。コップの側面に水滴が浮いている。手のひらの熱で温まった空気が冷えただけだ。それ以上は何も言わない。


《飲めるの?》


そのコメントに、画面の外から声が飛んできた。台所の入り口に立った美咲さんの声だ。


「飲むのは配信だとアウトです」


「次に進みます。2回目の実演です。今度は泥水ではありません。衣類の汚れを落とします」


俺は椅子を引いて立ち上がった。カメラの画角から一度手が消える。ひよりが慌てて三脚の向きを直した。


台所の隅の洗濯かごから父の作業着の上着を1枚出した。紺色の厚手の生地で、右の袖口から肘にかけて油染みが黒く入り込んでいる。旋盤の油だ。洗っても落ちないやつだ。


「ちょっとおじさん、それじいちゃんの作業着? すごい油の匂いするんだけど」


《油染みキター》 《洗剤の案件か?》 《洗濯配信になった》


俺はテーブルに作業着の右袖を広げた。染みの一番濃い部分が、蛍光灯の下で鈍く光っている。


「工程は《浄化》と同じです。対象が器から布に変わります。挟む形は変わりません」


俺は魔石を左手に握り直した。先ほどの1個目は、もう色が抜けている。テーブルに残った2個目を取って、手のひらに包む。


息を吸う。止める。作業着の袖を両手で挟む。染みの上に両手のひらを当てて、指を袖の内側に回す。布の目が硬い。油が繊維の1本1本に入り込んで固まっているのが分かる。


《浄化》。


両手のひらから布へ、魔素が流れ込んでいく。染みの中心がじわりと温かい。


5秒。


黒く固まっていた染みの縁が、薄くなっていく。紺色が戻ってくる。油の層が剥がれるように、布の表面から浮き上がって消えていく。


俺は手を離した。


作業着の袖は元の紺色に戻っていた。染みがあった場所を指で押しても、油の固さはない。繊維がさらさらとしている。


「落ちました。油染みは、この工程で除去できます」


縁側の方から父の声だけが入った。


「おう」


《え》 《嘘だろ》 《洗剤なしで?》 《さっきまで真っ黒だったのに》 《魔法かよ》


左手を開いた。2個目の魔石は色が抜けて灰色の石になっている。指先で弾くと、軽い音がした。空だ。


「2個使いました。これで本日の実演は終了です」


ひよりがスマホの画面を覗き込む。指で下にスクロールして、また上に戻す。


「コメント、めっちゃ流れてる。待って拾うから」


「拾わなくていいです。全部は追えません」


《才能ある人の自慢でしょ》 《結局センスでしょ》 《凡人には無理》


ひよりが画面の端を親指で押さえた。コメントの横に、小さなゴミ箱の印が出ている。


ひよりの親指がゴミ箱の印に触れる直前で、俺は口を開いた。


「消さなくていいです。不良報告なので」


ひよりの指が止まる。スマホの画面越しに、そのコメントがゆっくり上へ流れていく。


「不良報告?」


「はい。才能とかセンスとか、そういう話ではありません。点かないなら、手順か条件のどちらかが違う。それを確かめるのが不良報告です」


《不良報告だって》 《手品師が不良報告》 《品質管理の人が本気出してきた》


俺はテーブルの端に置いた手帳を引き寄せた。ページをめくって、ひよりの方へ向ける。『《着火》作業手順書』と書かれたページだ。指先で一行ずつなぞる。


「ひよりさん。読み上げをお願いします」


「え、あたし?」


「はい。手順書の読み上げは、立ち会いの基本です。2人で確認します」


ひよりが三脚の後ろで一瞬止まる。それから手を伸ばして、手帳の端をつまんだ。


「えーっと、『工程1、姿勢。椅子に座って足の裏を床につける。背もたれに寄りかからない』」


「その通りです。では、実際にやってみてください。魔石を1個渡します」


俺はポケットから指先ほどの小さい石を出した。まだ色が抜けていない。使えるものだ。


ひよりが受け取る。手のひらに乗せて、まじまじと見ている。


「これ、握るだけでいいの?」


「握って、手順どおりに工程を進めてください。詠唱は3節です。《着火》」


「《着火》ね。……なんか緊張する」


《姪っ子初めてか》 《おじさん厳しい先生みたいになってる》 《これは研修》


ひよりが三脚の角度を下げて、自分の手元が映るようにした。顔は入れない。


ひよりが椅子に座り直した。足の裏を床につける。背筋を伸ばす。手帳を片手で持ち直して、読み上げる。


「『工程2、吸気。4拍で取る。1、2、3、4』」


ひよりが息を吸う。肩が上がる。それから詠唱。


「《着火》」


指先を見る。何も起きない。


「……点かない」


「不良Aです。吸気の時に肩が上がっていました。胸が膨らむ前に肩が動くと、取り込む量が足りません。もう一度お願いします」


ひよりが「うわ」と小さく言って、座り直す。肩をわざと下げてもう一度吸気を取る。


「1、2、3、4」


その途中で、ひよりの口の端がふっと緩んだ。笑ったのだ。


「《着火》」


指先に何も点かない。


「不良Aです」


「またA?」


「笑うと吸気が切れます。詠唱の途中で笑うと息が漏れる。息が漏れると魔素の流れが途切れる。吸気が足りないのは、どちらも不良Aです」


《不良Aww》 《分類されてる》 《笑ったらダメなの?》


「ダメです。手順書に『詠唱中は笑わない』とは書いていませんが、書いておくべきでしたね」


《書いておくべきだった》 《おじさん今気づいた》 《手順書に笑うなって追加される》


ひよりが「もう」と言って、三度目の姿勢を取った。今度は笑わないように口を結んでいる。その真剣な顔が逆に笑いを誘うのか、口の端がぴくぴく動いている。


「1、2、3、4」


吸気。止める。詠唱。


「《着火》」


その途中で、ひよりの喉が動いた。息継ぎだ。詠唱の途中で空気を吸ってしまった。


指先に何も点かない。


「……あ」


ひよりが自分の口を手で押さえた。


「不良Aとは別です。詠唱の途中で息継ぎをしました。詠唱は一息で言い切る。息継ぎをすると魔素の流れが切れます。これは不良Cです」


《ほら》 《できないじゃん》 《姪かわいそう》 《先生厳しすぎ》


コメントが一気に流れた。ひよりは手帳を膝の上に置いて、うつむいている。


台所の蛍光灯がひよりの指先と、俺の手元だけを照らしていた。テーブルの上のコップの水が、さっきから動かない。泥の層は底に沈んだままだ。


ひよりが顔を上げないまま、小さい声で言った。


「……ごめん、おじさん」


マイクがそれを拾った。配信の画面に、ひよりの声がそのまま流れていく。


俺はひよりの「ごめん」に答えなかった。


俺はスマホの画面のほうへ、いつもの研修の声で言った。


「手順どおりにやれば、誰でもできますよ」


1拍おく。コップの水面はまだ動かない。


「誰でもできるようになるまで、手順書を直すのが、書いた人間の仕事です。今、できなかった人がいたら、それは手順書の不良です。次の版で直します」


コメントが少し止まった。


流れていた文字が上へ抜けていくだけで、新しい行が来ない。1秒。2秒。その空白のあいだに、ひよりが顔を上げた。目が少し赤い。手帳を膝に置いたまま、俺の手元を見ている。


《え》 《今の》 《手順書の不良って》 《書いた人間の仕事》 《かっこいい》


《おじさんそれ慰めてる?》 《慰めてないだろこれ》 《手順で慰めてる》


俺は手帳を引き寄せて、ボールペンの先を頁に置いた。


『ひより:不良A×2、C×1。地球の場合、工程2の吸気を4拍→6拍で試す』


文字を書く音だけが台所に残った。ボールペンの先が紙を引っかく音だ。書き終えて、ペンを頁の上に置く。


壁の時計を見た。長針が6の位置に来ている。21時30分ちょうどだ。


「時間なので失礼します」


俺は手帳を閉じて、ポケットにしまった。


ひよりは何も言わなかった。黙ってスマホに手を伸ばして、配信終了のボタンを押した。画面の右上で赤い点が消える。


最後の同時視聴者は、4,800人だった。


ひよりはスマホを持ったまま、しばらく動かなかった。


◇


日付が変わって0時を過ぎたころ、部屋の戸を叩く音がした。


俺は戸を開けた。廊下の明かりを背負ったひよりが立っていて、黙ってスマホの画面を俺に向ける。


「見て」


声が小さい。パーカー姿のままだ。俺は画面を覗き込んだ。


切り抜き動画が再生される。タイトルは『おじさん「手順どおりにやれば誰でもできますよ」→姪、できない』。


尺は15秒。俺の「手順どおりにやれば、誰でもできますよ」のあと、ひよりが《着火》に失敗する場面だけが繋がっている。3回点けられないところで切れていた。手順書の不良の話も、書いた人間の仕事の話も入っていない。


再生数は2時間で8万を超えている。ひよりの指が、画面の数字の上をなぞった。


「……これ、あたしのせいじゃん」

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