土曜の庭で、大きめの猪を焼いた
「ブロック、何段積む?」
健司が庭の真ん中で、灰色のブロックを両腕に抱えていた。土曜の11時、空は抜けるように晴れている。
俺は縁側に腰を下ろしたまま答える。
「3段。火床の高さを膝くらいにしろ」
「3段な。おう」
健司はブロックを2段ずつ抱えて運び、庭の踏み固めた土の上に並べていく。手際がいい。もともと現場の人間だ。
「上がる上がる」
ブロックを持ち上げるたびに健司が言う。火曜まで90度で止まっていた腕が、重いブロックを抱えたまま風車みたいに回る。
「調子に乗るなよ。肩は治ったばかりだ」
「治したの兄貴だろ。信用してんだよ」
「信用と過信は別だ」
物置の方で蝶番の音がした。
父が七輪を両手で抱えて出てくる。七輪は古い。側面の釉薬がところどころ剥げていて、脚の1本がわずかに曲がっている。それでも洗ってあって、火床には灰が残っていない。
父は七輪を、健司の積んだブロックの上に据えた。次に出てきたのは網だ。丸めて新聞紙に包んであったのを、健司に渡す。
「洗ったのか」
「おう。錆は落とした」
父はそれだけ言うと、七輪の前にしゃがみ込んで炭を並べ始めた。手つきに迷いがない。
俺は縁側から動かない。この家の男は、火の準備に口を出されるのを嫌う。昔からそうだ。
台所の窓が開いて、母の声が飛んでくる。
「恒ちゃん、肉はまだ? 野菜切っちゃうよ」
「まだ出さない。野菜を先に切っておいてくれ」
「へえ、手品師のくせに料理の段取りは語るんだね」
ひよりが窓から顔を出す。
「手品師ではない。段取りは仕事だ」
「仕事してないじゃん」
「元、だからな」
ひよりは「はいはい」と言って窓を閉めた。台所からまな板の音が聞こえ始める。ピーマンの種を取る係はひよりらしい。嫌がる声がした。
健司がブロックを積み終わった。
「どうよ、水平出てる?」
「出てる。一番上の高さのばらつきが3ミリ以内だ」
「そこまで見る?」
「品質管理は、そういう仕事だ」
俺は縁側で手帳を開いた。一昨日の夜の森下さんの電話の中身を、1行だけ書く。
『是正報告 骨子 相談 → 定時後に対応』
電話の詳しい中身は書かない。書くべきことは手順と結果だけだ。
それから台所へ回って、冷蔵庫の最下段から布包みを取り出した。ずしりと重い。腕に乗せると、冷気が布の上からでも伝わってくる。
庭の台に置くと、台がわずかに鳴った。
母が窓から身を乗り出して、布包みを覗き込んだ。
「立派な猪ねえ。どこの?」
俺は布の結び目をほどきながら答える。
「仕入れ先が、遠い」
「遠いってどこよ」
「遠い」
美咲さんが布包みの中身を横から覗き込んだ。看護師の目が、肉の色と厚みを順に確かめていく。
「お義兄さん、ジビエは中までしっかり焼いてくださいね。猪は特に」
「中心温度75度で1分以上。手順どおりにやる」
俺は台所へ戻った。引き出しの2段目から料理用の温度計を出す。100均で買ったやつだ。スイッチを入れると、数字がふらついてすぐに室温で止まった。正常だ。
ひよりが庭に降りてきた。手に三脚を抱えている。物置の前の平らなところに脚を3本とも開いて、水平を確かめてからスマホを挟む。
「おじさん」
「なんだ」
「これ、配信していい? 手だけ。肉だけ」
俺は温度計を持つ手を止めた。
「顔は出すな」
「出さないってば。手元と、肉と、網の上だけ」
「手順を説明するのは構わない。ただし、温度計の数字は映すな」
「なんで」
「数字だけ見て真似するやつが出る。肉の厚さが違えば、同じ数字でも中は違う」
ひよりは三脚の上でスマホの角度を直しながら、少し口を尖らせた。
「わかった。数字は映さない。手と、肉と、音だけ」
「それでいい」
ひよりが三脚の後ろでスマホを操作した。
「タイトルは『【雑談】庭でバーベキュー(おじさんの手もいる)』。これでいい?」
「手が主役なのか」
「おじさんの手、前回けっこうウケたから」
「血管は映すな」
「それは無理。手なんだから」
12時ちょうど、配信が始まった。
画面の隅の同時視聴者は80人だ。最初の台所の配信が3人で始まったことを思えば、ずいぶん人がいる。
《手品のおじさんだ》 《今日は何を焼くの》
「今日は火を点けます。炭です」
俺は左手に小さい魔石を1個握った。指先ほどの石で、1回分しかない。
「工程はいつもと同じです。姿勢、吸気4拍、止める、詠唱、出す」
《研修始まった》
俺は右手を炭の上にかざした。七輪の火床に、父が備長炭を井桁に組んである。
「吸気を4拍で取ります。1、2、3、4」
《着火》。
ボッ。
右手の指先から火が落ちて、炭の隙間に入った。
一瞬、何も起きない。
次の瞬間、火床の底から赤が這い上がってくる。炭の角が橙色に光り、赤が井桁を伝ってあっという間に全体へ広がった。
《火が速い》 《3秒で炭に火が回るの見たことない》 《魔法か?》 《魔法って言ったら怒られるぞ》
「手品です。乾燥が足りないと、同じ手順でも点き方がばらつきます。ばらつきは不良の元です」
《バーベキューで不良って言う人初めて見た》
ひよりが三脚の後ろで笑っている。
美咲さんが俺の横に来て、肉の皿を台に下ろした。塩を当てた肩肉が、同じ厚さで揃って並んでいる。
健司がブロックの陰から覗いた。
「兄貴、炭の色で焼き加減見てんの」
「見てる。炎が出てるうちに置くと、表面だけ焦げて中が生になる」
「プロかよ」
「元、品質管理だ」
「もういいよそのオチ」
肉を1枚、網の端に置く。じゅうと音が立った。
「置きました。この音が大事です。この音が弱いときは、網がまだ冷たい」
2枚目、3枚目と、間を空けて並べていく。
《音だけで腹減る》 《ていねいすぎる肉の置き方》
「同時視聴者、210人。おじさんまた増えてる」
「そうか」
俺は菜箸で肉の端をつまみ、ひっくり返した。
じゅう、と音が一段上がる。返した面は薄いきつね色で、縁だけが濃く焼けている。焼ける脂が網の隙間から炭の上へ落ちて、白い煙になって立ち上った。
その脂の色が、豚のそれとは違った。白く透き通っている。水あめを薄く伸ばしたような色だ。
「待って、脂すごい光ってる」
《何の肉》 《脂が光ってる》 《猪?》 《でかい》
ひよりがスマホの画面を覗き込んで、それから俺の方を向いた。
「おじさん、『何の肉』って聞かれてる。なんだと思う? あたしも知らない」
「猪です。大きめの。詳細は仕入れ先の都合で言えません」
《仕入れ先の都合》 《その言い方やめて》
俺は肉の一番厚いところに温度計の針を刺した。表示が規定を越えてから、60数えて針を抜く。数字は画面に向けないよう、体の向きを変えて確認した。
「規定に達しました。焼き上がりです」
《今の絶対数字隠した》 《品質管理の本気》
俺は焼けた肉を皿に移した。
父が七輪の前から立って、皿の一切れを指でつまんだ。
「親父、熱いぞ」
父は何も言わずに口へ入れた。よく噛んで、飲み込んで、それから台の上の生の肉を1枚つまんで、黙って網の上に置いた。
健司が皿を覗き込んで、一切れつまんで口に入れる。噛んだ瞬間に目を丸くした。
「……うまっ」
「なんだその間」
「いや、なんか、噛んだら中から汁が……え、これ猪?」
「猪だ」
母が皿の前にしゃがみこんで一切れを口に運んだ。目を閉じて噛んで、それからゆっくり開いた。
「これ、お店で出せるわよ」
「店はやらない」
「もったいない」
美咲さんが一切れを小さくちぎって口に入れた。噛みながら俺の手元を見ている。
「お義兄さん、中までちゃんと火が通ってます」
「温度で見た」
美咲さんは小さくうなずいて、二切れ目を口に入れた。今度は目を細めて噛んでいる。仕事の目ではなく、ただ食べている目だ。
ひよりが三脚の後ろで声を上げた。
「同時視聴者、1,100人」
「そうか」
《1,100!?》 《バーベキューで1,100人》 《手だけなのに》 《無言で2枚目焼くの渋い》 《あれ絶対おいしかったやつ》
父は2枚目の肉を焼きながら、じっと網を見ている。俺が触ると怒るが、自分の肉は自分で焼く。
ひよりが急に声のトーンを変えた。
「おじさん」
「なんだ」
「ちょっとこれ」
ひよりはスマホを俺の方に向けた。画面の下の方、コメント欄の一番新しい行だ。
《ジビエ料理人です。その脂の色、日本の猪じゃないと思います》
俺は肉を返す手を止めた。
その上を、他のコメントがどんどん流れていく。だが、その1行だけが少し長く画面に残っている気がした。
◇
夕方、配信が切れると、庭の音が戻ってきた。遠くの車の音、近所の犬の声、それから七輪の中で炭が崩れる小さな音。画面の中にいた1,100人が、一瞬で消えた。
ひよりは三脚の脚を1本ずつ畳んでいく。留め金がぱちん、ぱちんと鳴る。それから三脚を抱えたまま、俺の横に来た。
「おじさん」
声が低い。配信のときの声ではない。
「なんだ」
「あれ、何の肉」
「大きめの猪」
「大きめって、どのくらい」
俺は網を外してブロックの端に立てかけた。網の目に脂が固まり始めている。
「城壁に体当たりするくらい」
ひよりは三脚を抱えたまま、止まった。
「は?」
それから口が、笑う形になった。冗談だと思っている顔だ。
「なにそれ。猪が城壁って。どこの国よ」
「遠い国だ」
「もう。おじさん冗談下手すぎ」
ひよりは笑いながら、三脚を抱えて台所へ入っていった。
父が七輪の前にしゃがんで、灰を片付けている。新聞紙を広げて、火箸で灰をすくっている。
父は灰を新聞紙の真ん中に集めて、四つ角を折りたたんだ。それから、俺の方を見ないまま低い声で言った。
「向こうのか」
「はい」
「おう」
父は新聞紙の包みを両手で持って、立ち上がった。膝に手を当てない。腰が治ってから、その仕草が消えた。
父はそのまま家の方へ歩いていった。縁側の敷居をまたぐとき、少しだけ背中が丸くなった。
ひよりが縁側からスマホを持って戻ってきた。
「おじさん、登録者」
「いくつだ」
「1万6千。あと、掲示板にスレ立ってる」
ひよりが指で画面をスクロールした。黒い背景に白い文字が並んでいる。
『【何の肉】おじさんの手が焼いてた肉スレ【猪?】』
「猪で合ってる」
「合ってないでしょ。みんな『あの脂の色は猪じゃない』って言ってる」
指で拡大すると、書き込みが並んでいた。
12:名無しさん あの透明な脂は絶対猪じゃない
15:名無しさん 品質管理の人が嘘つくとは思えない
16:名無しさん でも猪であの脂はない
21:名無しさん 魔物とか?
23:名無しさん 怒られても言うけど魔物だろ
「魔物って書いてある」
ひよりが言った。声が少し笑っている。
「猪だ」
「だから猪って言っても、みんな信じてないって」
「事実だ」
「事実でも信じないのがネットなの」
ひよりのスマホが、手の中で短く震えた。
画面の上に通知が1つ落ちてくる。配信アプリのDMだ。
「おじさん」
「なんだ」
「稲葉先生から」
ひよりは画面を俺の方に少しだけ傾けた。
『その肉、少しいただけませんか。分析用に』
「どうする?」
俺は台の上の皿を見た。
肉はもうなかった。最後の一切れは父が焼いて、父が食べた。皿には塩の跡と脂の薄い膜だけが残っている。脂は冷えて、白く濁っている。
「食べ終わりました」
「そういうことじゃなくない?」
「事実だ」
ひよりは画面を自分の方に戻して、少しのあいだじっと見ていた。それから親指で画面の端を叩いた。
「じゃあそう返しとく」
ひよりはスマホをパーカーのポケットにしまった。
庭の外灯が1つ、さっきから点いている。物置の屋根の下で虫が寄ってきている。七輪の灰はもう片付いていて、ブロックだけが庭の真ん中に残っている。
「おじさん」
「なんだ」
「明日の21時、浄化やるんでしょ」
ひよりはスマホの角を指で弾いていた。
「30分で終わらせます」




