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顧客監査の日、品質管理課の共有フォルダは静かだった




10月8日の木曜日、三条重工の監査員は、朝9時ちょうどにクロダ精機の第2会議室へ入ってきた。


細い眼鏡をかけた女性で、名刺を出すとすぐにノートを開いた。


森下悠真は長机の端の席で、朝から何度も押さえている寝癖に、もう一度手をやった。


体に合わない大きな作業着の袖が、肘のところで余っている。胸ポケットにはボールペンが3本、同じ向きで差さっている。ゆいが「パパ、ペンさん3本も持ってるの」と聞いたので「3本ないと不安なの」と答えた。5歳に説明する言葉としては、たぶん間違っていない。


今朝、席に着くなり権藤課長が来た。


「森下。ゆいちゃん、熱下がったか」


数字の話の前にその言葉だった。森下は「はい、おかげさまで」と言いかけて、課長がもう書類を見ていたので、語尾を飲み込んだ。課長は部下の家族の名前を覚えている。


「本日はよろしくお願いいたします。まず、工程FMEAの運用について確認させてください」


「はい。よろしくお願いします」


森下の声が少し上ずった。


工場長が長机の中央で静かに頷いた。権藤課長は森下の隣で腕時計の留め金を指で回している。ジェルで固めた七三は、今朝も崩れていない。


「先月、段取り替え直後の不良がありましたね」


「はい。9月の第2週に、2件です」


「そのあと、工程FMEAは見直しましたか」


森下は背筋を伸ばした。伸ばしすぎて、作業着の肩の縫い目が引っ張られた。


「はい。共有フォルダの最新版を開きます」


森下はノートPCのトラックパッドに指を置いた。共有フォルダの階層をたどる。品管、03、改訂履歴。


【品管の03/工程FMEA.xlsx】


【改訂履歴:最新 9月5日】


「こちらが共有にある最新版です」


監査員は画面を覗き込んだ。眼鏡のレンズに、表の罫線が映った。


監査員の指が画面の段取り替えの行に置かれた。細い指先が、点数をなぞるように止まる。


「不良が出た工程の点数が、出る前と同じなのはなぜですか」


監査員の声は淡々としていた。驚かせるための質問ではなく、記録のための質問だ。だからこそ、森下の喉が一瞬で乾いた。


「え、と、それは、その」


9月5日版のままであることは分かっている。分かっているが、その理由を言える材料が今この場に、ない。


「すみません、確認します」


森下はノートPCの画面をスクロールした。同じ表が何度も上下するだけで、点数が変わった形跡は出てこない。


権藤課長が、隣で腕時計の留め金を指で回すのをやめた。課長は前を向いたまま、口を開いた。


「見直しは完了しています」


森下の指が止まった。


「引き継ぎ書に記載があるはずです」


監査員は、驚かなかった。細い眼鏡の奥で、まぶたが一度だけゆっくり瞬く。それからペン先をノートの端に走らせた。


「承知しました。では、引き継ぎ書の該当箇所を確認させてください」


志摩さんから電話で聞いたのは、共有フォルダの階層と改訂履歴の一番下。それだけだった。引き継ぎ書の中身を自分はまだ最後まで読んでいない。


森下は机の上のファイルから、志摩さんの引き継ぎ書を開いた。


手順書23冊の索引と、改訂の手順がまとまった綴りだ。表紙の作成者欄には、修正テープの白い跡の上から黒のボールペンで「権藤」と手書きしてあった。字は右上がりで、修正テープの縁からわずかにはみ出している。


森下はページをめくった。引き継ぎ書の2枚目、段取り替えの判定基準の欄だ。


「こちらが段取り替えの判定基準です」


権藤が紙を見ながら読み上げた。


「段取り替え後の初品は、寸法検査を3点実施し全点が公差内であること。外観検査は、傷、打痕、汚れの3項目を作業者と検査員の2名で確認すること。異常があれば、即、ラインを止めて品質管理課に連絡すること」


監査員はノートに何かを書きつけていた。それから顔を上げて、眼鏡の奥から権藤を見た。


「この基準で、なぜこの点数になるのですか」


ノートPCの画面には、段取り替えの工程の点数が表示されたままだった。影響度、発生度、検出度。9月5日版と、何も変わっていない数字だ。


「点数が、その、この点数になる理由は」


森下の声が上ずった。語尾が消えた。


権藤は腕を組み直した。ワイシャツの襟の黄ばみが、蛍光灯の下でうっすらと浮かび上がった。


「この判定基準を作った方は、いらっしゃいますか」


権藤は口を開いた。開くまでに、一拍あった。


「担当は退職しました。ですが、仕組みとして」


「仕組みとして、どなたが判断していますか」


監査員が、権藤の言葉の終わりを待たずに聞いた。細い眼鏡の奥の目が、権藤をまっすぐに見ていた。


権藤は答えなかった。


会議室が静かになった。


工場長が長机の中央で、何かを言いかけるように少しだけ前のめりになった。だが、声にはならなかった。


監査員のペンが、再び動き出す。


森下はノートPCの画面を見たまま、胸ポケットのボールペンを1本ずつ順番に押さえた。頭の中では、先週の土曜に電話の後ろで聞いた課長の声が回っていた。


会社は個人に依存しちゃいけないんだよ。


口には出さなかった。出せる場所ではないし、出すための言葉でもない。


監査員はノートを1ページめくった。それから顔を上げた。


「本日の結果をお伝えします」


「重大な指摘が1件です。工程FMEAの実効性に関する指摘ですね。是正報告書の提出期限は2週間以内、10月22日までとさせてください」


権藤課長は前を向いたまま黙っていた。ジェルで固めた七三が、蛍光灯の下で一度も揺れない。


監査員は名刺入れを手に取り、立ち上がり際にふと思い出したように言った。


「あと、出荷済みの前後3ロットの検査記録も、念のため確認してください」


「念のため、ですか」


「ええ。是正の範囲を確認するために必要です。記録が残っていれば問題ありません」


「はい。確認します」


扉が閉まる。足音が廊下を離れていく。会議室に残ったのは、空調の音と、腕時計の秒針の音だけになった。


権藤課長が動いた。椅子を引く音が、静かな部屋にやけに大きく響く。


「森下」


声は低かった。怒鳴ってはいない。怒鳴らない人だ。


「改訂版、どこかにあるんだろ。探せ」


◇


夕方、品質管理課の島には誰もいなかった。定時を過ぎた蛍光灯が、天井の1列だけ残っている。


森下は志摩さんの元の席の椅子を引いた。誰も座らないまま1週間が経った椅子だ。


PCの電源を入れた。起動音が、静かな島にやけに大きく響く。


デスクトップが表示される。


アイコンが3つだけ並んでいた。ごみ箱と、ショートカットともう1つ。


【工程FMEA_改訂_承認申請中】


更新日は9月14日だった。


ダブルクリック。表が開く。


段取り替えの行をスクロールした。数字が共有の9月5日版と違う。点数が付け直されている。判定基準の欄も書き換わっている。


森下は社内の承認申請の画面を開いた。検索の欄に「工程FMEA」と打った。


【申請者:志摩 承認者:権藤 状態:承認待ち(24日経過)】


森下は数字を数えた。9月14日から今日まで24日。


画面の前で息を止めていた。止めていることに気づいて、ゆっくり吐いた。


「すみません」


誰にともなく言った。声は誰にも届かない。


森下は印刷を押した。プリンタが動き出す音が、島の奥で唸った。


森下は印刷した3枚を胸の前に持って、課長席の方へ歩いた。島を横切る足音が、自分のものなのに遠く聞こえた。


権藤課長はまだ戻っていなかった。


森下はそれを机の中央に置いた。端を揃えて、まっすぐに置いた。置いてから、もう一度端を揃えた。


◇


18時を過ぎて、権藤課長が席に戻ってきた。


権藤は机の上の3枚を手に取った。1枚目をめくり、2枚目、3枚目。


作成者欄で手が止まる。


「……これ、いつ来てた」


「先月の14日です」


森下は胸ポケットのボールペンを押さえた。


「課長の承認待ちで」


権藤は紙を見たまま黙った。腕時計の留め金に指は行かなかった。紙の端を持つ指だけが、ゆっくりと白くなっていく。


「お先に失礼します」


森下が鞄に手をかけたときだった。


「待て」


声は低かった。今朝「ゆいちゃん、熱下がったか」と聞いたのと同じ声だった。


「是正報告、今日中に骨子出せ」


森下の指が鞄の持ち手から離れた。


「……はい」


島に、椅子を引く音がひとつした。


権藤は自分の引き出しを開けた。奥から修正テープを出す。銀色の小さな本体で、角が手の脂で黒ずんでいる。


印刷の1枚目を机に置き直す。作成者欄の「志摩」の上に、テープの先を当てる。


手が止まった。


テープの先は「志摩」の「志」の上で止まっている。権藤は動かなかった。肩が一度だけ、ゆっくり上下した。


それから親指を滑らせた。テープが白く引かれていく。


◇


その夜、俺は実家の台所で鍋を洗っていた。


鍋の内側をスポンジで2周洗った。流水で泡を流してから、流しの横に置いたスマホを見る。


画面に着信が1件残っていた。森下さんだ。時刻は19時を過ぎている。


「定時後ですね」


俺は蛇口を止めて布巾で手を拭いた。それからスマホを取って、折り返す。


呼び出し音が3回鳴った。4回目で止まって、息を吸う音がした。


「はい、志摩です」

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