止まっていた大結界の陣に、7人目として立った
向こうの3か月目の7日、朝。ルーメン城の地下は、石の匂いがした。
螺旋の階段を下りきると、天井の低い丸い部屋に出た。床一面に紋様が彫ってある。
「素人が」
ヴァルターが陣の向こうから俺を見下ろした。痩せた長身が、冷たい石の床の上で棒のように立っている。鷲鼻の影が頬に落ち、灰色のあご髭が顎の先でとがっていた。10本の指のうち7本に嵌まった魔石の指輪が、壁の灯りを受けて順番に光った。指の節には彫刻刀のタコが盛り上がっている。
セレスティアさんが一歩前に出た。紺のローブの裾が床の紋様の縁をかすめる。銀髪の三つ編みが背中でひとつに流れ、紫の瞳が陣の中央をまっすぐに見ている。
「これが大結界の陣です」
「床一面の紋様の溝に、7つの立ち位置があります。7人の宮廷魔導師が同時に、宮廷級の詠唱を流し込む。それだけです」
「起動すれば、城壁1,200mを覆います。一晩、誰ひとり城壁に立たずに」
俺は床を見た。
紋様は円形で、中心から外へ向かって細い溝が何重にも彫ってある。幾何学というより配線図に近い。
「1人でも遅れれば、魔素が溝に溜まり赤く光って熱を持ち、割れます」
「わたくしは1番に入ります。あなたは7つ目の立ち位置です」
宮廷魔導師たちの空気が変わった。何人かの視線がヴァルターへ集まった。視線を受けてもヴァルターは動かなかった。腕を組んだまま、指輪を親指でひとつゆっくり回している。
「1回目は、見学させてください。記録を取ります」
俺は手帳を開いた。ヴァルターの眉が片方だけ上がった。
「好きにしろ。どうせ立つのは次だ」
俺は陣の外側を歩いた。手帳を開いたまま、紋様の溝を目で追う。
溝は浅い。深さは指の腹で触って確かめる。中心から外へ向かって7本の幹があり、幹から枝が分かれ枝の先が7つの立ち位置に届いている。
3つ目。指の腹にわずかな引っかかりが返ってきた。溝の底が波打っている。彫った面が削れて、底が痩せている。
俺は手帳に書いた。
「3番 溝底 波状摩耗」
6つ目。指の腹が同じ引っかかりを拾った。3番と同じ波だ。
7つ目。ここも同じ。
「6番 7番 3番と同じ摩耗」
摩耗の出方が、ギルド前の広場で止めた魔導ポンプの紋様の溝とそっくりだった。
「同じ不良だ」
俺は声に出して言った。誰も聞いていなかった。
セレスティアさんはヴァルターの方を一度だけ見た。それから俺の方を向いて、声を低くした。
「この陣の溝は、30年、ヴァルターが彫り直してきました」
「30年」
「ええ。溝が浅くなれば彫り直し、欠ければ埋める。年に何度もです」
俺はヴァルターの手を見た。親指の腹から人差し指の第二関節にかけて、硬いタコが積み重なっていた。彫刻刀を握って押し込むときにできる形だ。旋盤工の親指と同じ形だ。
陣の向こうから、ヴァルターの声が飛んできた。
「いつまで床を舐めている」
「陣は7人で立つものだ。素人は外で見ていろ」
俺は手帳を閉じた。
「はい」
7人の立ち位置のうち7番目に立つのは若い宮廷魔導師だった。俺より10歳は下だろう。足の位置を何度も直している。
セレスティアさんが1番の立ち位置に着いた。
「配置に着きなさい」
残りの宮廷魔導師たちが散った。2番、3番、4番、5番。
ヴァルターは6番の立ち位置に立った。
合図はなかった。セレスティアさんが息を吸うのを見て、7人がそれぞれ息を吸った。吸う音が、7つばらばらに聞こえた。
宮廷級の詠唱が、石の部屋の空気を押し始める。
俺は陣の外から、それぞれの「止める」の長さを指を折って数える。
1番、2番、4番、5番は4拍保つ。3番と6番は2拍短い。7番の詠唱は1拍半、遅れていた。
俺は手帳を開いた。
「3番 保持2拍 6番 保持2拍 7番 開始遅れ」
書いているそばから、床が変わった。
3番の溝が赤く光った。底から熱が立ちのぼる。続いて6番。7番。光は水が流れるように溝を伝い、中心の節で一度脈打つ。
ヴァルターが動いた。6番の立ち位置のまま、組んでいた両腕を開き右手を下へ向ける。
「押さえるぞ、耐えろ!」
ヴァルターの魔力が上から落ちた。魔石の指輪が順に輝き、彼の周囲の空気が押しつぶされるように沈む。
だが、赤は消えない。むしろ濃くなる。ヴァルターが押し込めば押し込むほど、溝は膨らむように光を増した。3番の溝から白い蒸気が上がる。石が熱を帯びている。
宮廷魔導師たちの顔色が変わった。2番の男が半歩後ろへ下がった。5番の女が詠唱を止めかけて唇を噛む。
セレスティアさんが1番で叫んだ。
「全員、出力を落としなさい! 押すな!」
声が上ずっていた。紫の瞳が大きく開いている。それでも詠唱は保っている。崩れずに保っているのは彼女だけだった。
「割れれば、この部屋ごとです」
俺は手帳を閉じてポケットに入れた。
「一度、止めて点検しましょう」
「止めれば、陣が割れる!」
ヴァルターが怒鳴った。
「止めた瞬間に溜まった魔素が逆流する。この部屋が吹き飛ぶわ!」
そのとき、7番の若い魔導師が声を上げた。
「も、もう無理です」
黒いローブの裾から煙が出ている。足元の溝が白熱している。若い魔導師は右足を上げた。立ち位置から外す。半歩後ずさる。
彼が抜けたことで7番の溝の光が一度、深く沈んだ。それからゆっくりと呼吸するように明滅を始める。
俺は陣の縁をまたいで、空いた7番の立ち位置に立った。
7番の立ち位置に足を置いた瞬間、靴の裏から熱が上がってきた。
俺は詠唱を足さなかった。手順書の最初の工程は姿勢だ。号令をかける。
「全員、私の数えで吸ってください」
「1、2、3、4。止めて。1、2、3、4」
誰も従わなかった。2番の男が俺を見て、それからヴァルターを見た。5番の女は唇を噛んだまま詠唱を続けている。7番を抜けた若い魔導師は壁際で座り込んで、自分の靴の裏を見ている。
ヴァルターが6番から俺を睨んだ。
「素人が、号令だと」
「はい。吸気の保持がばらついています。3番と6番が2拍、他が4拍。7番は開始が1拍半遅れています。ばらつきを揃えるだけで止まります」
「黙れ!」
赤は濃くなるばかりだ。3番の溝から白い蒸気が噴き出した。石の割れる音が、足の下でした。
そのとき、セレスティアさんが1番で息を吸い直した。
俺の数を、口の中で追っている。唇が動いている。1、2、3、4。止めて。1、2、3、4。
セレスティアさんの「止める」が4拍に伸びた。彼女の周りの空気が、ふっと静かになる。
4番の若い宮廷魔導師が続いた。吸って、止めて詠唱。
5番の若い女も続いた。それでも数を追った。
2番の男が半歩戻った。4番の若いのが、その背中を押した。
「先輩、数を」
2番の男が息を吸い直した。遅れて止めて、詠唱を合わせる。
4拍の保持が戻ると、溝の光は中心へ流れて薄れていく。詠唱の息が揃うと、赤は音もなく引いていく。
1番、4番、5番、2番。順に赤が消えた。
3番の男が遅れて数を追った。吸気4拍。止める。詠唱を一息で。彼の足元の赤も、一拍遅れて引いた。
残るは6番だけだ。
ヴァルターの立ち位置の溝がまだ赤い。他の6本が静まった分、その赤は部屋の中でやけに目立つ。
俺は7番の立ち位置から動かなかった。詠唱は足していない。足す必要がない。7番の溝はもう明滅を止めて、床の紋様の一部に戻っている。
ヴァルターは右手を下に向けたまま、動かなかった。指輪の7つが赤い光を反射している。魔力を押し込むのをやめればいい。それだけだ。だが、やめていない。
俺は声をかけた。
「ヴァルターさん」
返事はなかった。肩がわずかに上下している。呼吸が浅い。
「彫り直してきた溝は、3番と6番と7番ですね」
ヴァルターの指が、一度だけ動いた。
「保持が短い位置と同じです」
6番の立ち位置で、ヴァルターは赤い光を全身に浴びて、指輪を嵌めた手を震わせている。30年この溝を彫り続けた手だ。
セレスティアさんが6番を見た。何も言わなかった。紫の瞳が、ただ待っていた。
ヴァルターの口が動いた。歯を食いしばる音が、俺のところまで届いた。
「……1、2、3、4」
声は低くて、震えていた。
「止めて。1、2、3、4」
6人の「止める」と、俺の数がそろった。
瞬間、床の色が変わった。赤が白に。
3番の溝の白熱がすっと引き、白い光が紋様の幹を伝って中心へ流れ込む。6番も7番も同じだ。中心の節が一度だけ脈打って、そこから7本の幹へ光が分かれていく。光は溝を1周した。
天井の石の継ぎ目から光が抜けていった。細い線になって、上へ、上へと昇っていく。地下の丸い部屋が、昼のように明るくなった。
俺は汗をかいていない。手のひらを開くと、石は握っていない。詠唱もしていない。魔力は並のままだ。
ただ、号令をかけただけだ。
セレスティアさんは白い紋様を見たまま動かなかった。三つ編みの先が肩で止まり、紫の瞳が溝を伝う光を追っている。袖口のインク染みを押さえていた指が、ゆっくりとほどけた。
「……感覚では、なかったのですね」
俺は7番の立ち位置から足を抜いた。靴の裏はもう熱くない。
「数えれば、揃います」
セレスティアさんはこちらを向いた。口が一度開いて、閉じた。何か言いかけてやめた顔だ。
4番の若い宮廷魔導師が立ち位置のまま両手を見下ろした。指を開いたり閉じたりしている。自分の手が信じられないという動きだ。
「先輩、俺ら、今、揃えましたよね」
声が上ずっている。壁際に座り込んだ7番の若手は、口を開けたまま紋様を見ていた。黒いローブの裾の煙はもう上がっていない。両膝を抱えた格好のまま、白い光の線が天井へ抜けていくのを目で追っている。
ヴァルターが6番の立ち位置で、ゆっくりと膝をついた。
「……なぜ」
声は、俺に向いていた。顔は上げていない。鷲鼻の先から、汗が一滴石の床に落ちた。
「工程能力の問題です。ばらつきを減らしただけです」
ヴァルターは顔を上げなかった。
そのとき、天井の石を通して、遠い声が落ちてきた。地上の兵士だ。
「結界だ! 大結界が上がった!」
◇
ヴァルターは白く光る陣の上で、ゆっくりと自分の手を持ち上げた。30年、この溝を彫り直してきた。浅くなれば彫り直し、欠ければ埋めた。夜の間に明かりの下で、1人で。足りないのは溝だと思っていた。溝の深さだと思っていた。違った。息だった。7人の呼吸を揃える、ただの号令だった。それを誰も数えなかった。自分も数えなかった。
ヴァルターは立ち上がった。彼は何も言わなかった。セレスティアの顔も、若い魔導師たちの顔も見なかった。ただ、陣の間を抜けて地下の丸い部屋を出ていった。足音が螺旋の階段に消えるまで、誰も声をかけられなかった。
◇
夕方、俺はルーメン城の中庭に呼ばれた。
俺は中庭の噴水の縁に立って待った。
国王は外套を着たまま来た。
騎士を2人連れている。半歩後ろにセレスティアさんがついていた。
「待たせた」
低い声だった。俺は頭を下げた。角度は謁見の間と同じにする。ここは中庭なので、もう少し浅くてもいいかもしれない。判断がつかないので同じにした。
「大結界は上がった。30年ぶりだ」
「お前を客員宮廷魔導師に任じる」
「条件は昨日の通りだ。勤務時間はこちらにいる間だけ。終業の刻限が来たら帰ってよい。手順書は学院と守備兵に写しを渡せ。俸給は魔石で支払う」
「承知しました」
セレスティアさんが一歩前に出た。
「陛下。わたくしの弟子です。定時があります」
「知っておる」
国王は騎士の1人を顎で呼んだ。
騎士が前に出て、革の袋を両手で差し出した。
「前払いだ」
「はい」
俺は袋を受け取った。中で石が擦れる音がした。
「数えてもよい」
「では」
俺は袋の紐をほどいた。中を手帳の上に開ける。小指の先ほどの石が、夕方の光を受けて薄く青く光った。
2個ずつ並べて指で押さえる。5列で10個。もう5列で20個。
「20個です」
国王はうなずいた。
俺はポケットの布の袋に20個を移した。袋の28個と合わせて、48個になる。手帳の余白に書く。
「魔石 48個(+20)」
国王は外套の前を押さえて騎士を連れて中庭を出ていった。
厨房の者が来たのは、そのすぐあとだった。
白い前掛けの女だ。両手に布の包みを抱えている。
「シマ様!」
声が大きい。俺は振り返った。
「はい」
「東壁の残党狩りで獲れた猪です。今朝、城壁の外で仕留めたやつで肩のところが一番いいんです。陛下のご指示で」
女は包みを俺の前に差し出した。
重さは3kgほどだ。腕にずしりと来る。
「受け取ります。ありがとうございます」
「とんでもない! この前の夜の城壁、うちの亭主が守備兵で立ってたんです。シマ様が結界を上げたって聞いて」
「これ、塩を当てておけば3日持ちます。焼くときは強火で、表面だけ先に焼いてから弱くするといいです」
「承知しました」
俺は手帳を開いた。女は手帳を覗き込んだ。それから笑った。
「シマ様、ほんとに変わった人だねえ」
「よく言われます」
女は前掛けを翻して厨房の方へ戻っていった。俺は包みを噴水の縁に置いた。
ヴァルターが来たのは、日が噴水の向こうに半分沈んだころだった。
ヴァルターは俺の前に立った。
俺は何も言わなかった。言う必要がない。ヴァルターが何か言うために来たのであれば、待つのは工程のうちだ。
ヴァルターの口元が一度動いた。閉じた。また動いた。声にならなかった。
夕日が噴水の縁を半分だけ残して沈んだ。
ヴァルターの指が、体の横で1本だけ動いた。
「……号令の数え方を」
「紙に書いてもらおう」
それから、ヴァルターは頭を下げた。宮廷魔導師の礼の角度より、少しだけ深かった。
「陣のためだ」
俺は手帳を開いた。鉛筆を抜く。
「承知しました」
「第1版です」
ヴァルターは何も言わなかった。俺の手帳を見ていた。
俺はページの頭に書く。
『大結界の陣 号令手順 第1版』
下に、姿勢、吸う、止める、詠唱を一息で出す。保持は4拍。開始は1拍前に予備吸気。7人同時。
書いてから、顔を上げた。
ヴァルターはまだ立っていた。
◇
翌日、3か月目の8日の夕方。終業の鐘が鳴ったので、塔の実習室の戸に鍵を当てた。
戸を開けると、物置の中だった。
俺は戸の敷居をまたいだ。後ろで戸が閉まる。蝶番が小さく鳴った。
手の中に布包みがある。厚い麻で4つ結びにした猪の肩肉だ。戸の外で足音がした。
「兄貴?」
健司の声だ。物置の戸のすぐ外にいる。
「ああ」
俺は片手で戸を押し開けた。
外灯の下に、父と健司が立っていた。健司はサンダルのまま半歩前に出ている。父は動かない。
「40分」
健司が言った。スマホを右手に持っている。画面の時計は21時20分だった。
「入ってから40分しか経ってねえ」
「ああ」
健司は俺の腕の中を見た。
「兄貴、それ何の肉」
「猪だ。大きめの」
「猪」
健司は口を開けて、閉じた。それから父の方を向いた。
父は動かなかった。外灯の下で、俺の腕の中の布包みを見ている。
「親父」
俺は言った。
「猪の肩だ。3kgほどある。塩を当てておけば3日持つ。焼くときは強火で表面だけ先に焼いてから弱くするといいと言われた」
父は黙っていた。
長い沈黙だった。外灯の周りで虫が1匹鳴いて、止まった。
父は右手を持ち上げた。布包みの結び目に触れて、布の厚みを指の腹で確かめる。それから手を引っ込めた。
「……土曜、焼くか」




