謁見の間で、勤務時間を聞いた
ルーメン城の謁見の間の控え室は、椅子が硬い。
背もたれが真っすぐで、座面に布が1枚も張っていない。待たせる相手に楽をさせない作りだ。
向かいではセレスティアさんが立ったまま、紺のローブの袖口を何度も指でつまんでいた。
「聞きなさい」
セレスティアさんは歩き出した。控え室の幅は5歩分しかない。3歩で壁に当たる。それでも歩く。
「これから陛下に会います。謁見の作法を先に覚えなさい。いいですか、あなたは宮廷の人間ではないので、今日は客の扱いです」
俺はポケットから手帳を出して、鉛筆を抜いた。
「はい」
「紋章の前で片膝をつきなさい。右膝です。左膝を先につくのは騎士の作法です。あなたは騎士ではないので右です」
「承知しました」
「目は上げない。陛下が声をかけるまで、床を見ていなさい。床の石の目地を数えていればいいです」
「それから、昨日の王宮の会議の話をします」
「はい」
「陛下はあなたを客員宮廷魔導師にしたいと仰いました」
鉛筆が止まった。それからまた動かす。
「客員宮廷魔導師」
「はい。常勤ではありません。非常勤の、客員です。あなたはあちら側に帰る身ですから」
「反対した者がいます」
「古参の方ですか」
「そうです」
「その方はこう言いました。『素人が城の魔法に口を出すなどありえん』と」
「……あなた、腹が立たないんですか」
「工程会議でもよくあるので」
「工程」
「はい。新しいやり方を入れると、古いやり方を守ってきた人が反対します。手順書を変えるときは、いつもそうです」
「反対した人は、最後どうなるんですか」
「だいたい、3か月で慣れます」
セレスティアさんは目を丸くした。それからふっと笑った。笑い声ではなかった。息だけの笑みだ。
「3か月」
「はい。新しい手順書で、3か月回すともう古い手順書は開かなくなります。実測なので」
「実測」
「はい。感覚です」
セレスティアさんの笑みが止まった。目が少し細くなった。
「……あなた、わたくしの口癖を取らないでください」
「失礼しました」
「質問は3つです。勤務時間、業務の範囲、報酬」
セレスティアさんの足が止まった。折り返した姿勢のままこちらを向く。三つ編みの先が肩で跳ねた。
「陛下に、質問をする者はいません」
声は静かだった。
「では、確認です」
セレスティアさんは右手を持ち上げた。指先を額に当ててそのまま押さえた。目の下の隈の上で眉の間が少し寄る。
「あなたは今から、王の前で、勤務時間を確認するんですか」
「確認しないと、受けられません」
「受けられない」
「はい。定時が分からない業務は受けられません」
そのとき扉の外で足音がした。
扉が開いた。
侍従が立っていた。黒い上着。背筋が真っすぐで、扉を開けた手の位置が定規で測ったように揃っている。控え室の中を1度だけ見て、俺のところで目を止めた。
「シマ・コウイチ殿」
謁見の間は思ったより天井が低かった。
奥の一段高いところに質素な椅子が1脚。白い髭を胸まで伸ばした老人が、外套を膝にかけて座っている。王冠はない。飾りもない。なのにその周囲の空気だけが薄い。
左右には紺と黒のローブが並んでいた。宮廷魔導師たちだ。全員が直立し手を前に組んでいる。一番手前に立つ痩せた長身の男だけ、わずかに顎を上げていた。鷲鼻の影が頬に落ちている。灰色のあご髭、指には魔石の指輪が7つ。あの古参だ。
俺は床の紋章の手前で止まった。セレスティアさんの教えどおり、右膝を床につける。頭の角度は名刺交換のときよりもう少し深くする。最終面接よりは浅く。
「志摩恒一と申します。このたびはお招きいただき、ありがとうございます」
国王の声が静かに落ちてきた。
「先夜の段取り、見事であった。客員として宮廷に席を与えたい」
低い声だった。会議の開始の挨拶のような、無駄のない声だ。王というより創業者に近い。
俺は顔を上げずに答えた。
「ありがとうございます。いくつか確認させてください」
隣でセレスティアさんの指が、袖口をきつく握る気配がした。目には見えない。空気で分かる。
左右のローブが、ざわりと揺れた。
「陛下の前で、確認、だと……?」
「勤務時間は」
国王はすぐには答えなかった。
「……先夜も聞いた。定時、とは何だ」
「決まった時刻に仕事を終えることです」
国王は黙った。長い沈黙だった。壁際の燭台の火がひとつだけ音を立てて傾ぐ。誰の息も聞こえない。
「王には、それがない」
俺は何も言わなかった。言うべき言葉は手帳の中にあるが、開く場面ではない。ここで開いたら、たぶんセレスティアさんが倒れる。
国王は指先で肘掛けの木目を一度だけなぞった。低い声が広間の空気をゆっくりと押し下げた。
「申してみよ」
「3つ、確認をお願いします」
「1つ目。勤務時間は、こちらに私がいる間だけとさせてください。終業の時刻が来たら帰ります」
国王の白い眉がほんの少しだけ動いた。
「帰る、とは」
「元の世界に戻る、という意味です」
「2つ目。手順書は、宮廷で独占しないでいただきたい。王立魔導学院の見習いにも、城壁の守備兵にも、必要なら写しを渡します。工程は共有して回すものです」
古参の指が組んだ腕の上でぴくりと動いた。指輪が7つ燭台の火を受けて順に光った。
「3つ目」
「報酬は、魔石でお願いします」
「ませき」
「はい。電池なので」
「でんち」
隣のセレスティアさんの喉が、小さく鳴った。
「お前は、王の前で、定時と電池の話をしているのか」
声は低い。だがどこか、面白がっている気配が混じっていた。
俺は答えなかった。答える必要がない質問は確認しない。品質管理の基本である。
国王は右手を膝の上に置いた。指の関節が白い。
「よろしい」
短い言葉だった。それから肘掛けの木目をもう一度なぞる。
「勤務時間は、お前がこちらにいる間だけとする。終業の刻限が来たら帰ってよい。手順書は学院と守備兵に写しを渡せ。報酬は魔石で支払う」
左右のローブが揺れた。ざわり、ではない。息を呑む音が数拍分ずれて重なった。
セレスティアさんが目を閉じた。
古参の宮廷魔導師が一歩前に出た。
「陛下」
「客員とはいえ、素人を宮廷の列に並べますれば、宮廷魔導師の格が落ちます」
国王は肘掛けに指を置いたまま、古参の顔を見た。低い声で短く返す。
「続けよ」
「格の話は、外聞にすぎません。ですが危険の話となれば、別です」
「大結界の陣は、宮廷級の陣です。あれに素人が手を触れれば、どうなるか」
古参は俺を見た。初めて正面から見た。灰色のあご髭の下で、口元がほとんど動かない。
「魔素に焼かれます」
広間の空気が一拍止まった。
国王は長いこと黙った。肘掛けの木目を、指先で2度、3度となぞる。白い髭の奥で唇が一度だけ動いた。声にはならなかった。
「では試せ。明日、大結界の陣で」
古参は頭を下げた。深くはない。宮廷魔導師の礼の角度だ。それから半歩下がって元の位置に戻る。
「承知しました」
俺は右膝をついたまま答えた。声は自分の耳で聞いても平熱だった。
「もう1つあります」
国王の白い眉が少しだけ上がった。
「申せ」
「ルカさんの籍のことです」
「王立魔導学院の見習いです。3か月目の4日の夜、東の城壁で《着火》を使いました」
「教会が除籍を求めていると聞きました。審問局の求めで、陛下の裁可待ちのまま保留だと」
国王の指が止まった。低い声が静かに落ちる。
「知っておる」
「王都の東壁を守った見習いを、学院から出す理由はない」
「ルカの籍は学院に戻す。審問局にはこちらから通達する」
古参の指輪が組んだ手の中で一度だけ光った。誰も何も言わなかった。言えない空気だった。
「ただし」
「教会が没収した手順書の控えは、そのままとする。教義にはわしは踏み込まぬ」
俺は頭を下げた。さっきの角度より5度深くする。床の目地が視界の端で少しだけ歪んだ。
「承知しました。ありがとうございます」
俺は右膝を床から上げた。立ち上がるとき膝の裏が少し痛んだ。作法の通り、後ろ向きに3歩下がってから扉に向き直る。
俺は敷居をまたいだ。廊下に出る。石の床が謁見の間より少しだけ明るい。窓の外は昼だ。白い光が廊下の奥まで届いている。
そのとき右側から気配がした。
古参だった。
俺は歩調を変えなかった。古参の横を通り過ぎる。すれ違いざま、低い声が、耳のすぐ横に落ちた。
「明日、陣の上で泣くな」
俺は足を止めなかった。古参も止めなかった。
◇
城門の外に出たときには、空が夕方の色になっていた。
門を出たところでまず音がした。
「先生!」
「先生だ!」
「シマの先生だ!」
灰色のローブが10人ほど門の左右の壁際に散らばっていた。全員がこちらを向いて、それから一斉に駆け寄ってくる。
「結果は」
そばかすの見習いがそれだけ言って口を押さえた。
セレスティアさんは見習いたちを1人ずつ見た。数えるように見てから、ルカのところで目を止めた。
ルカは列の一番後ろに立っていた。灰色のローブが1サイズ大きくて、袖が指の半分を隠している。夕方の光の中で顔色が少し悪い。
「ルカ」
「陛下の裁可が出ました。あなたの籍は学院に戻ります」
ルカの口が動いた。
「え」
声が出なかった。喉が動いて唇だけが「え」の形になる。
「おれ、」
城壁の夜、東の壁の上でルカが「おれの火っす」と言ったときと同じ顔だった。口だけが動いて、声が遅れて追いかけてくる。
「おれの、籍」
「戻ります」
セレスティアさんは繰り返した。指で袖口のインク染みを押さえている。
「審問局には王宮から通達します。あなたは明日から、また学院に通いなさい。単位のことはわたくしが院長に話します」
ルカの目が一度だけ大きく開いた。それからゆっくりと細くなる。泣くのをこらえる顔だ。
「……っす」
ルカは頭を下げた。深く下げた。灰色のローブの背中が、丸く夕方の光を背負う。
見習いたちがその背中を見て、それから俺を見た。
「先生!」
そばかすの少年が前に出た。
「先生が通ってった、あの詰所の戸。おれたちも、一緒に通れるんすか」
俺はポケットに手を入れた。鍵の感触が指の腹に当たる。
「試したことがないので、分かりません」
見習いたちの顔が一瞬で曇った。
「えー」
「先生通ってるのに」
ルカが顔を上げた。まだ目が赤い。
「先生」
「はい」
「おれ、明日、学院に行くっす」
「はい」
「手順書、また書いていいっすか」
「どうぞ」
「やった」
ルカは笑った。笑ったが目はまだ赤い。夕方の光が灰色のローブの肩のところで切れていた。
その夜はいつもどおり塔の実習室で寝ることにした。
実習室の窓から夕方の名残が消えていく。ランプを1つ机の端に置いた。
黒パンをちぎって口に入れる。豆のスープはまだ温かい。城門から戻る途中、台所の裏口で鍋ごと押しつけられた。
「弟子。入りますよ」
セレスティアさんの声だ。いつもより低い。疲れているときの声だ。
扉が開いて、セレスティアさんが入ってきた。紺のローブの裾が石の床をわずかに擦る。手には巻物を1本抱えている。
「明日のことを話します」
「はい」
「大結界の陣は、王都の四方を覆う宮廷級の陣です」
「この陣が、去年から止まっています」
セレスティアさんの声が、少しだけ早くなった。
「正確には、30年前から起動に失敗することが多くなり、去年、完全に止まりました。王都の大結界が機能していないから、魔物が城壁まで近づく。だから先夜のようなことが起きたのです」
「あの夜、宮廷魔導師が1人ずつ城壁に張ったのは、大結界の代わりですか」
「そうです。1人で張れるのは50mが限度です。それも1時間で魔力が尽きます」
「なぜ失敗するんですか」
セレスティアさんはランプの火を一度見た。それから俺を見た。紫の瞳が灯りを受けてゆっくりと瞬く。
「感覚がそろわないからです」
「感覚ですか」
「感覚がそろわない、というのは、具体的には何が揃わないんですか」
セレスティアさんは袖口の染みに指を置いた。押さえて離す。また押さえる。口が開きかけて閉じた。
「……分かりません」
「わたくしは宮廷魔導師長です。大結界の陣を、7人の中心で詠唱してきました。でも、なぜ揃わないかは分からない。揃うときと、揃わないときがある。それだけです」
「あの陣は、7人の宮廷魔導師が一緒に詠唱します」
「息が合わなければ、陣が魔素を溜め込んで割れます」
それから古参の声を思い出していた。
『明日、陣の上で泣くな』
7人で一緒に、か。工程の話だ。
俺は手帳に書いた。
「7人 同期 号令なし?」




