父と弟に、物置の戸を開けて見せた
10月6日(火)、18時半。
「待って、1万いった」
ひよりが座卓の向こうで、スマホを両手で持ち上げた。俺は稲葉先生の測定結果を、手帳に清書しているところだった。
居間の座卓を囲んで、全員がひよりのスマホを覗き込んでいた。
「10,024」
ひよりが数字を読み上げる。声が裏返っている。
「10,031」
母が湯呑を置いた。健司が正座のまま膝でにじり寄る。美咲さんは煎餅をかじる手を止めて、画面を斜めから見ている。
「コラボ依頼、30件越えてる。大手の切り抜き師から、手品系YouTuberから、謎の通販会社から」
「謎の通販会社は断れ」
俺は手帳から顔を上げずに言った。
「おじさん、なんでそこだけ即答なの」
「品質管理は、謎の通販会社とは取引しない」
「職業観が古い」
「元、だからな」
母がひよりのスマホを後ろから覗き込んだ。
「すごいじゃない」
「1万って何人だ」
健司が言った。
美咲さんが煎餅をかじりながら答える。
「学年全員より多いね」
俺は手帳の端に今日の日付と「XRD 3回 一致なし」と書き足してから、顔を上げずに言った。
「そうか」
「おじさん、それだけ?」
ひよりがスマホを置いて、身を乗り出した。
「コラボは全部断る。おじさんは出さない」
ひよりが両手を座卓について宣言した。声はプロデューサーのそれになっている。
「うちのチャンネルのコンセプトは『手元と声だけ』だから。顔出しはなし。コラボもなし。私がプロデュースする」
「プロデューサーが高校生で大丈夫なのか」
「おじさんが一番心配してないくせに」
美咲さんが煎餅を置いた。
「お義兄さん、今日は大学に行ったんですよね」
俺は手帳を閉じた。
「ああ」
ひよりが小声で聞いた。
「おじさん、どうだったの骨?」
全員の視線が俺に集まった。母は湯呑を口に運びかけたまま止まっている。健司はリモコンを握ったまま振り返っている。
俺はひよりにだけ向かって、声を低くした。
「骨じゃなかった」
ひよりの目が一瞬大きくなって、それから口を引き結んだ。
「……やっぱり」
「まだ途中だ」
俺はそれだけ言った。地球の生き物じゃない、とはまだ言わない。ひよりはそれ以上聞かなかった。こういうときの空気は読む。
健司が座卓に手をついて立ち上がり、右肩を回そうとして顔をしかめた。
「兄貴、そろそろ入荷した?」
◇
夕飯の後、健司は座布団の上であぐらをかいて、右の肩を俺の方へ向けた。
俺はポケットから布の袋を出した。中から小指の先ほどの石を1つ取る。居間の灯りに透かすと、中で薄く青が流れている。
俺はそれを左の手のひらに包む。ひんやりした重さが指の付け根に乗る。
「今から肩に当てる。動くなよ」
「おう」
俺は右手を健司の右肩に置いた。肩の一番高いところ、鎖骨の外側と肩甲骨の間のくぼみだ。健司の肩は、見た目よりずっと硬い。工務店で材木を担ぎ、壁を叩き、天井を貼ってきた肩だ。
「姿勢を正して、吸気を4拍、止めて詠唱を一息で通して、出す」
声に出しながら、息を吸う。4拍。止める。肺の中の空気が膨らんだまま、指先まで満ちる。詠唱を一息で通す。
《治癒》
手のひらの下に薄い緑がかった光がにじんだ。健司の肩の輪郭がぼんやりと浮かぶ。光は筋の一本一本をなぞるように広がって、深いところへ沈んでいく。
美咲さんが座卓の向こうから身を乗り出している。看護師の目だ。俺の手元ではなく、健司の首から背中にかけての筋肉の動きを見ている。
光が消える。
俺は手を離した。左の手のひらを開くと、石は透き通った青が抜けて灰色になっていた。
「もう1回いけるか」
健司が肩を回そうとして、途中で止めた。
「……なんか、中で温かいのがまだ残ってる」
「初級は1回で3割くらいだ。古い傷は重ねるしかない」
俺は2個目の石を出した。同じ手順で、同じ場所に当てる。姿勢、吸気4拍、止める、詠唱、出す。
2回目の光は1回目より少しだけ長く続いた。健司は目を閉じている。眉の間のしわが、少しずつ薄くなっていく。
光が消えた。
「はい、終わり」
健司が目を開けた。それから、恐る恐る右腕を持ち上げた。
「おお」
肩の高さまで上がる。昨日まで90度で止まっていた腕が、そのまま耳の横まで伸びていく。
「上がる上がる上がる!」
健司は立ち上がって、右腕を風車のように回し始めた。ぐるぐる回る。回しながら居間の中を歩き回る。
「ちょっとパパ、テーブルに当たる」
美咲さんが湯呑を避難させた。
「見て見て、これ、後ろに回せるし!これ、もう3年できなかったやつだ!」
母が台所から顔を出した。
「あら、上がるようになったの」
母は手を拭きながら居間に入ってきて、俺の隣に座った。
「恒ちゃん、マッサージ屋さんやれば」
「資格がありません」
母は納得したようなしていないような顔で、健司の腕を見上げた。健司はまだぐるぐる回っている。
美咲さんが俺の横に正座して、健司の腕を指さした。
「90度」
健司が腕を横に上げる。肩の高さで止まった。
「120度」
斜め上まで上がる。美咲さんの声が検診の声になる。
「150度。はい、ゆっくり下ろして」
健司が言われた通りに動かす。美咲さんは健司の肩甲骨の動きを目で追ってから、俺の方を向いた。
「お義兄さん、これ記録取っていいですか」
「どうぞ。俺も取ってる」
俺は手帳を開いて、今日の日付の下に書いた。
「10/6 20時15分 健司右肩 《治癒》2回 可動域90→150度 石2個消費 残28個」
ひよりが隣の部屋から顔を出した。
「おじさん、今の肩のやつ撮っちゃダメだった?」
「医療行為っぽいのは配信だとアウトだと言ったのはお前の母さんだ」
「ですよねー。私、宿題。明日小テスト」
ひよりは階段を上がっていった。足音が2階で止まり、戸が閉まる。
俺は座卓の上で手帳を閉じた。
「親父、健司。物置に来てくれ」
父が新聞を畳んだ。
「おう」
健司が正座のまま顔を上げた。
「物置? 今から?」
「今からだ」
「寒くねえ?」
「10月だ」
「だよな」
健司は膝を伸ばして立ち上がった。右腕をまだ回している。
母が台所の方を振り返った。
「どこ行くの」
「在庫の確認」
「在庫って何の」
「石」
「石」
母は湯呑を持ったまま、俺の顔と、俺のポケットと、それから庭の方を順に見た。
縁側に出ると、庭の空気は昼より乾いていた。虫の声が減っている。10月の庭だ。
20時半。物置の前で、俺は上着のポケットから真鍮の鍵を出して、2人に見せた。
庭の外灯が1つ、物置の屋根の下で虫を寄せている。鍵は手のひらの中で外灯の色を返した。錆びていない。古いのに、錆びていない。
「親父、健司。これから話すことを先に全部言う」
俺は手帳を開いた。ページをめくる音が、夜の庭では少し大きい。虫の声がやんだ。
「報告の形で話す。質問は最後にまとめてくれ」
「1、この鍵について。真鍮の鍵だ。閉じた戸に当てて回すと、戸の向こうが別の場所につながる」
健司が口を開きかけた。俺は手帳から顔を上げずに続けた。
「2、つながる先。ここから入ると向こうの東の森の、倒木のそばに出る。街がある。人がいる。言葉は通じる」
「3、時間の割合。向こうの1日がこちらの16分だ」
健司の足が砂利を踏んだ。音が1つ鳴って、止まった。
「は?」
「そんなの、おかしいだろ」
「おかしい。だが実測だ」
俺は手帳のページを1枚めくった。
「4、持ち込める物。手に持っている物だけが通る。服は通る。ポケットの中は通る。鞄は通る。地面に置いた物は通らない。置いてから入ると、こっちに残る」
「5、魔石。向こうの魔物から取れる石だ。これが魔法の燃料になる」
「握って魔法を使うと、色が抜ける。灰色になったら終わりだ。今、残りは28個」
「6、手順書。魔法は手順で動く。姿勢、吸気4拍、止める、詠唱を一息で通す、出す。親父の腰と健司の肩に使ったのがこれだ」
俺は手帳を閉じた。
「以上だ。質問をどうぞ」
庭は静かだった。外灯の周りで虫が1匹、また鳴き始めた。
健司が最初に口を開いた。砂利を踏んで半歩前に出る。
「兄貴」
「なんだ」
「その戸」
健司は物置の戸を指さした。木の戸だ。取っ手は真鍮で、俺の手の中の鍵と同じ色をしている。
「その戸、俺が建て付け直したの覚えてるか」
「覚えてる」
「先週、蝶番を替えた。半日かかった。俺がやった」
「ああ」
「なんでそこで、別の世界に行けるんだよ」
健司の声が少し高くなった。怒っているのではない。工務店の人間が、自分の仕事の話をしている声だ。
「お前が直したからじゃない。戸の向こうについては、俺にも分からない」
「分からないって、兄貴が使ってるんだろ」
「使っている。仕組みは分からない。分かっていることだけを、今話した」
健司は口を閉じた。それから、物置の戸のところまで歩いて、蝶番のところを指で触った。触って、手を引っ込めた。鍵はまだ俺の手の中だ。戸は閉じたままだ。
健司はサンダルの爪先を物置の戸に向けた。それから俺の顔を見て、それから父の顔を見た。
「親父、どうする」
父はサンダルのまま物置の戸の前に立った。
「開けろ」
「親父」
「開けろ」
俺は右手の鍵を、物置の戸の取っ手の横に当てた。
鍵を回す。真鍮の感触が指に残る。戸を引くと、蝶番が小さく鳴いた。
戸の向こうは物置の中ではなかった。朝の森が広がっている。倒木が1本、光の筋の中に横たわっていた。冷たい空気が流れ込み、鳥の声がする。こちらの夜と向こうの朝が、敷居のところでぴったり分かれていた。
健司が半歩、後ろに下がった。
「待って兄貴、これ物置だよな」
靴の先が敷居の手前で止まっている。声は低い。笑っていない。
「物置だ」
俺は戸を片手で押さえたまま答えた。
「入らないでくれ。安全確認がまだだ」
「安全確認」
父は動かなかった。物置の戸の前で、向こうの森をじっと見ている。外灯の光が、父の背中をこちら側に残している。
長いあいだ、黙っていた。鳥の声だけが向こうから流れてくる。
「向こうに、旋盤はあるか」
父の声は低くて、夜の空気にまっすぐ落ちた。
「ありません。ろくろくらいです」
「そうか」
父はそれだけ言った。ただ、向こうの森を見ている。
健司が俺の袖を引いた。
「兄貴、それ、朝なんだな」
「朝だ。向こうは今、朝だ」
「行くのか」
「行ってくる。1時間くらいで戻る」
父がようやく俺の方を向いた。目が合う。父の目は、昔、旋盤の刃先を見るときの目をしていた。
「おう。定時までに帰れよ」
俺は鍵をポケットにしまい、戸をくぐった。後ろで戸が閉まる音がした。
◇
3か月目の6日の朝。森の倒木から王都の門までは、歩いて1時間かかる。
王都ルーメンの東門はまだ人の流れが少ない。荷馬車が1台、門の前で順番を待っている。幌の上に朝露が乗っていて、陽に当たって白く光っていた。
俺は列の横を抜けて、門番の立つ石畳の前で止まる。
冒険者ギルドの銅札を出す。革の紐を通して首から提げている。札の表面を門番の前に向けた。
若い門番が、札を見て、俺の顔を見て、もう一度札を見た。それから、槍を持つ手に力を入れて、かかとを鳴らした。
「シマ・コウイチ殿ですね」
声が上擦っている。朝の空気に、その音だけがやけに高く響いた。
俺は銅札をしまう。
「はい」
「どうぞお通りください。……いえ、その前に」
門番は言いかけて、口を一度閉じた。隣に立つ年かさの門番が、こちらを見て小さくうなずいた。若い方の喉が、ごくりと動く。
「陛下が、お待ちです」
向こうでも、名前で呼ばれるのは珍しい。




