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物性物理学研究室に、白い角を持っていった




10月6日(火)、13時。


100均のタッパーに、角を1本入れてきた。


ひよりは学校だ。LINEには『結果LINEして』のスタンプだけが来ていた。


東央大学の理工学部3号館の4階で、俺は物性物理学研究室のドアをノックした。


ドアが開いた。


開けたのは稲葉先生だった。


黒髪をクリップで雑にまとめている。片側だけ留め具が外れている。白衣の下にバンドT。色褪せたロゴが胸にある。


黒縁眼鏡の奥で、目の下にうっすらと隈があった。


「志摩さん?」


「はい。志摩です」


俺は頭を下げた。角度は受付で警備員に下げたのと同じにした。


部屋の中には机が3列あった。そのうちの1列に、院生が2人座っていた。


1人はノートPCを閉じ、もう1人はペンを持ったまま顔を上げた。


「どうぞ」


稲葉先生が椅子を引いた。


俺は座らなかった。ポケットから手帳を出した。


「名刺を持っていないので」


手帳を開いて、1ページ目に書く。


志摩恒一 携帯の番号 元 品質管理


定規で引いたような直線だ。ページの端で切り取って、稲葉先生に渡した。


稲葉先生は紙を受け取って、目を2回動かした。


「元、品質管理」


「9月30日に退職しました」


「……手品師ではないんですね」


「違います」


院生の1人が立ち上がった。丸い眼鏡の男だ。


院生は俺を見て、それから俺の手の中のタッパーを見た。


「手品の角ですよね」


軽い声だった。


「動画で見ました。タネが全部説明されてるやつ」


「配信は手品です」


「角も?」


「角は拾ったものです」


「手品の小道具を測っても、論文にはなりませんよ」


院生は笑った。稲葉先生は笑わなかった。


俺はタッパーを机の上に置いて、蓋を半分だけ持ち上げた。


中身は緩衝材に埋めてある。プチプチの粒が角の形に沿って凹んでいた。


角は白い。ねじれている。根元の断面は空気に触れているが、変色していない。


10月1日の朝は、台所のテーブルの上にあったものだ。ひよりが触り、母が触り、父が触った。素手で。


稲葉先生はタッパーの中を見た。


「緩衝材」


「100均です」


「……丁寧ですね」


「角は1本しかないので」


稲葉先生はタッパーの蓋に目を止めた。


マスキングテープが貼ってある。


俺が書いた。


採取日 9/30 採取場所  取扱者 志摩


稲葉先生はテープを読んだ。


「ラベル、付いてるんですね……」


「試料なので」


「試料」


稲葉先生は眼鏡の奥で目を細めた。


「採取場所は空欄なんですね」


「書けません」


稲葉先生はそれ以上聞かなかった。指先でテープの端を軽く押さえた。


俺はポケットから手帳を出して、切り取った紙をもう1枚机の上に置いた。


『試料提供の覚書』


・提供者の氏名は記載しない ・試料は測定後、返却する ・測定結果は提供者に共有する ・試料の写真・データの外部公開は、提供者の同意を得るものとする


稲葉先生は紙を読んだ。


稲葉先生は笑った。声を出して笑った。隈の下の目が少しだけ細くなった。


「志摩さん、うちの研究室でそういうの初めてです」


「署名をお願いします」


稲葉先生は白衣のポケットからペンケースを出した。ボールペンの先を出して、紙の下の余白に署名した。


稲葉千景


院生が横で首をかしげた。


「先生、それ署名しちゃうんですか」


「いいの」


稲葉先生はペンを置いて、俺の方を見た。


「じゃあ、10分で終わらせますね」


眼鏡のブリッジを指で押し上げた。


「どうせ樹脂か骨なので」


◇


測定室は廊下の突き当たりにあった。院生もついてきた。


「先にひとつ、聞いてもいいですか」


俺はタッパーの蓋を閉じて、稲葉先生の顔を見た。


「放射線は出ていますか」


稲葉先生は一瞬だけ目を丸くした。


「……放射線?」


稲葉先生は壁際の棚から黒いハンドヘルド型のサーベイメータを取り出した。スイッチを入れる。


画面が青白く光り、数字が落ち着くのを待ってから、俺の持つタッパーに近づけた。


「自然放射線と同じです。0.1マイクロシーベルト前後。この部屋の床と変わりません」


「承知しました」


俺は手帳を開いて、1行書いた。


「放射線 問題なし(家族が素手で触った)」


それ以上は聞かなかった。稲葉先生が測定器を棚に戻すのを待って、タッパーの蓋を開けた。


稲葉先生は机の上の、細い金属の針が付いた装置を引き寄せた。先端は針のように鋭い。


「微小硬度計です。先端を当てるだけで、傷は髪の毛より細いです。測定後に光学顕微鏡で見ないと分からないレベルですから、その点は先に断っておきます」


「髪の毛より細い、承知しました」


稲葉先生は角の側面の平らな部分に、装置の先端をそっと押し当てた。数秒して数字を読み取る。


「……え」


稲葉先生の指が止まった。


「もう一度、別の点で測ります」


今度は根元に近い側面に当てる。画面を覗き込む。唇が半開きになった。


「おかしいですね。硬い。石英より硬いです。なのに、手に持った感じが妙に軽い。骨より軽いですよ、これ」


「硬いのに軽いって、普通は相反するんです。金属でもセラミックでも、硬さと密度はだいたい比例する」


俺は手帳に書いた。


「……志摩さん、何でそんなに落ち着いてるんですか」


「想定の範囲内なので」


「まあ、密度の低い鉱物もありますから」


自分に言い聞かせる声だった。


「元素分析、EDXで回します。試料室開けて」


丸眼鏡の院生が立ち上がった。机の横の装置に向かう。金属の箱で、横に小さな画面が付いている。


真空ポンプの音が低く唸った。


「志摩さん、これは壊しません。真空に入れて、電子線を当てて出てくる特性X線を読むだけです。角はそのまま返せます」


真空が上がる。数分待つ。画面にスペクトルが出た。


横軸がエネルギーで縦軸が強度。低いところから順に、いくつかピークが立っている。


院生が画面を指でなぞった。


「カルシウム、リン、あと酸素。微量のマグネシウムとナトリウム」


稲葉先生が画面に近づく。眼鏡の位置を直した。


「カルシウムとリン」


「はい」


「カルシウムとリン」


もう一度繰り返した。稲葉先生の肩から、力が抜けた。


「ほら、やっぱり骨です」


声が明るい。隈の下の目が緩んだ。


「骨の主成分はハイドロキシアパタイトです。カルシウムとリン。出るはずの元素が、出るはずの比率で出てます。ねじれてるのは、まあ、病気か奇形か。珍しいですけど、骨です」


俺は手帳を開いた。


「EDX Ca・P・O 骨に近い」


1行書いた。稲葉先生は俺の手帳を覗き込んだ。


「骨に近い、じゃなくて、骨ですよ」


「はい。骨に近いです」


「志摩さん、それ」


「元素が合っていても、物まで合っているとは限りません。今は、骨に近いです」


稲葉先生は口を開けて、閉じた。


「……まあいいです。念のため、X線回折だけ回しておきます」


稲葉先生は白衣のポケットから小さなホルダーを取り出した。角を挟むためのものだ。


試料室の横の、もうひとつの装置に向かう。


「これで結晶構造を見ます。ハイドロキシアパタイトなら、それらしいピークが出ます。30分くらいで結果が出ますけど」


「待ちます」


スイッチを入れた。装置の中の試料台が、ゆっくりと動き始めた。


俺は手帳に時刻を書いた。


「13時41分 XRD開始」


X線回折は14時10分に結果が出た。


装置の横の画面に、横軸が角度で縦軸が強度のグラフが出る。低い角度から順に、なだらかな丘が並んでいる。


稲葉先生は画面の前に立って、右手で眼鏡のブリッジを押し上げた。


照合の検索が走る。数秒。画面に帯が出て、それから文字が並んだ。


【一致なし】


稲葉先生の指が止まった。


「……え」


画面を見たまま動かない。眼鏡の奥で、目が2回左右に動いた。


「骨のハイドロキシアパタイトなら、ここに山が出るんです。31度のところ。出てない」


指が画面の一点を指した。そこには何もない。平らな線が続いているだけだ。


「代わりに、見たことのない山が」


指が別の場所に動く。18度のあたり。そこには細くて高いピークが立っていた。


「この角度にハイドロキシアパタイトは出ない。出ないし、そもそもこの形見たことがない」


院生が立ち上がった。丸眼鏡の奥で、まばたきが2回止まった。


「先生、それ、データベースの更新日が古いんじゃ」


「更新は昨日した」


「もう1回、回します」


「14時15分 XRD再測定1回目」


俺は手帳に書いた。


30分。待つ。稲葉先生は椅子に座らなかった。装置の前に立ったまま、腕を組んで、画面を見ていた。


院生は壁際の丸椅子に座って、膝の上でノートPCを開いたがキーは打たなかった。


14時45分。画面に結果が出た。


【一致なし】


稲葉先生の腕組みが一度だけ、ほどけた。


「角度範囲を広げます」


キーボードを叩く。10度から80度までだったのを、5度から120度に変える。


「2回目」


「14時47分 XRD再測定2回目」


15時17分。結果。


【一致なし】


稲葉先生の指がキーボードの上で止まった。


「……待ってください」


声が小さくなった。早口の敬語が少し崩れた。


「待ってください、これは」


画面を指でなぞる。18度のピーク。23度のピーク。31度には、やはり何もない。


「結晶構造が、ハイドロキシアパタイトじゃない。カルシウムとリンが出てるのに、骨の構造をしていない」


「3回目。今度は、検出器の距離を変えます」


装置の横のレバーを回す。試料台と検出器の距離が変わる。画面の設定を変える。スイッチを入れる。


「15時21分 XRD再測定3回目」


俺は手帳に書いた。稲葉先生は俺の手帳を見た。それから、画面を見た。


15時51分。結果。


【一致なし】


画面の文字は、3回とも同じだった。稲葉先生は椅子を引き寄せて、座った。座って画面を見た。


眼鏡を外して、白衣の裾で拭いた。かけ直した。


「ありえない」


声は静かだった。


「ありえないんですよ。カルシウムとリンと酸素が出てる。元素は骨と同じ。なのに、結晶構造が骨じゃない。硬さは石英より上。密度は骨より下。放射線は出てない。ねじれてる。これが全部、同時に成立する物質を私は知らない」


眼鏡のつるを持つ指が止まった。


「既知のどの結晶とも違います」


院生は黙っていた。ノートPCの画面を閉じた。閉じた音が、部屋の中では大きかった。


俺は手帳を開いた。3行の時刻と、3つの【一致なし】を指でなぞった。


「3回とも同じなら、再現性はありますね」


稲葉先生が椅子ごと振り向いた。車輪が床で軋んだ。眼鏡の奥の目が、俺の手帳と、俺の顔を交互に見た。


「志摩さん」


「はい」


「これ、どこで拾ったんですか」


俺は手帳を閉じた。閉じてから、稲葉先生の顔を見た。


「ホームセンターの裏で拾ったことになっています」


稲葉先生の眼鏡が、鼻の上で一度だけずれた。


「なっています?」


「出所は言えません。言えないことは、言えないと書いてください」


「……書けません、じゃなくて、言えませんですか」


「はい」


「まあ、いいです。試料の出所はこの測定には関係ない。私は結果だけを報告します」


◇


研究室に戻ると、窓の外は夕方になっていた。


西日が机の列を斜めに横切って、床に長い影を作っている。稲葉先生は自分の机の椅子に座って、腕を組んだ。


白衣の袖が机の上の書類に触れて、端が少しめくれた。


「志摩さん、今日の結果はまとめてメールで送ります。外部には出しません。院生にも口止めしておきます」


「はい。最後にいくつか確認させてください」


「保管の注意を教えてください。湿気と直射日光は避けたほうがいいですか」


稲葉先生が、腕組みのまま首をかしげた。


「……は?あ、いや、そうですね。湿気はあまり良くないと思います。直射日光も、変色の可能性があるので避けたほうが無難です」


「承知しました」


俺は手帳に書いた。


「あと、これ、子どもが触っても大丈夫ですか」


稲葉先生の腕組みがほどけた。


「子ども?」


「姪が触りたがるので。素手で触って問題があるかどうか」


「ああ……放射線は出てないので、触る分には問題ないと思います。口に入れなければ」


「承知しました。口に入れないように言います」


俺は手帳に書いた。


「接触 問題なし 誤飲注意」


稲葉先生は俺の手帳を覗き込んだ。それから、ふっと息を漏らした。笑い声だった。小さくて、短い。


眼鏡の奥の目が夕日に照らされて細くなる。


「志摩さん、私が聞かれる側なんですね」


「はい。試料の取り扱いについては、測定した側に聞くのが確実なので」


稲葉先生は声を出して笑った。今度はさっきより少し長い。院生が横で、ノートPCを開いたまま笑いをこらえている。


「志摩さん、本当に品質管理なんですね」


「元、です」


「元、でしたね」


稲葉先生は笑いを収めた。眼鏡のブリッジを指で押し上げて、机の上のタッパーに目を戻した。


「志摩さん。これ、少し預からせてもらえませんか」


「返却はいつですか」


「10月末まで。それまでに、もう何本か測り方を変えてみたいんです。回折の条件を細かく振って、それからうちにある装置で見られるところは全部見ます。他学科に頼むかもしれません」


「返却予定日を書いてください」


「予定日」


「はい。期日のない預かりは、預かりになりませんので」


稲葉先生は俺のペンを受け取った。覚書の下端、署名の下に書き足す。


返却予定 10月末


俺は椅子を引いて、立った。手帳を閉じてポケットにしまう。カバンのファスナーを締める。


「志摩さん」


稲葉先生が自分の机のモニターを指した。画面には、さっきのXRDのグラフが残っている。3回目だ。


18度の細いピークが、まだそこに立っている。


「これ」


稲葉先生の指が、そのピークの上で止まった。


「志摩さん。これ、地球の生き物の角じゃないですよ」


院生がキーボードの上で手を止めた。西日が机の端で切れて、床の影が少し伸びた。


俺はカバンを肩にかけた。


「仕入れ先は、遠いです」


稲葉先生の眼鏡の奥で、目が一度だけ大きく開いた。


「遠いって、どのくらい」


俺は内心で数えた。向こうの1日が地球の16分だ。城壁の上の夜が明けて、こっちの午後が少し進む。


距離に直す方法は知らない。知らないことは言わない。


「定時までには帰れる距離です」


「それ、答えになってます?」


「なっています」


稲葉先生はモニターの前で、まだ指をピークの上に置いたままだった。

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