お姫様の父親の気付き
自宅の扉を開けると、音に気付いたのかジェフがこけつまろびつ走ってきた。どうやら風呂に入っていたらしく、タオルを腰に巻いただけの姿だ。
「リンダ!?」
「私よ、お父さん。」
「あ、レベッカ……。」
エリオットの旅立ちから数日後。たまたまジョンの家族が訪ねてくる機会があり、挨拶がてら、これまで世話になったお礼として約束していたアクセサリーの希望を聞くのにそのままアパートメントに滞在していた。
ようやく自宅へ帰る目処がついたというよりは、自宅でないと出来ない作業があるので戻ってきたようなものだった。
ジェフの様子はロジャーが日参して見に来てくれていた。直近の大仕事がグッドマン商会の依頼だったというのもある。飲まず食わず風呂にも入らず着替えもせずで、さすがのロジャーも説得ではなく説教をしたとぼやいていた、という話をテレサ経由で聞いた。
ロジャーは荒れていく家を見かねて、掃除をした。ロジャー本人ではなく、人を連れてきた。彼らはグッドマンの若手社員だったのだが、ジェフの家の掃除など職務外のことである。時間外手当として、その費用はジェフへの報酬から天引きすると宣言した。出来ないことは外注すればいいと居丈高に言ったそうだ。
他人を家に、特に仕事場に入れることに抵抗感のあるジェフだったが、有無を言わさぬロジャーの圧に負けたのだ。聖域を荒らされるのは職人として認められないことだったが、リンダだけは別だった。リンダにしか任せられないと思っていた。
物の置き場を尋ねられて、どこかその辺、とか、同じものがあるところに、とか、大まかな返答をしていると、ロジャーがすかさず叱る。結局、素材や工具ひとつひとつの名称を書いたタグを棚につけることになった。これは今後、この作業場に家人以外の人間が入ることを想定した上でのことだが、ジェフには伝えられていない。
そんな曖昧な指示では人は動かないし動けない。よほど相手の意を汲める人材でないと出来ない。そもそも貴方はやってくれたウチの人間に対して今礼を伝えましたか?ありがとう。その一言だけで報われる。そんなこともあるんですよ?才能以外は人がいいだけの男と言われてますが、礼の一言も言えない人間がいい人だって?全くそんなことないですね。
ロジャーの言葉は辛辣だった。そこから、支店の元同僚たちに出来なかった分の自分の妻の素晴らしさ語りと、自分がどれだけ日頃妻に対して心を砕いて接しているかを滔々と語った。
本店の従業員は耳にタコが出来るほど聞いた話なのでうんざり顔で、あるいは無心で、ロジャーの惚気をBGMに作業を行っていたが、ジェフの方も赤ん坊の頃から知るテレサの話なので、微妙な顔をするしかなかった。
その顔を、話を聞いていないと断じて、更に良き夫たる教訓を説くロジャー。逃がさないぞという脅しを含んだ笑みは、地獄の使者のようだったと目撃者は語る。テレサが聞いたら烈火の如く怒り、ロジャーは家から締め出しをくらいかねないと、ジェフの家での出来事に関しては皆口をつぐんだ。
テレサとは、エリオットの出立後にグッドマン商会本店で顔を合わせた。きちんと話す時間がなかったけれど、最後には「幸せにね!」と笑顔で肩を叩かれた。エリオットが何かやらかしたらすぐに報告するようにとも言われた。友人なのに、頼られないことが寂しかったと、今更ながらテレサの気持ちを知って反省したところだ。
「リンダは……どうしてる?」
「ジョンさんのアパートメントで暮らしてるわ。聞いてるんでしょう?」
「ま、まあ、それはロジャーくんに聞いたけど……」
歯切れが悪いのは致し方ない。もしかしたら、レベッカの父は現状を未だに呑みこめていないのかもしれない。
今、彼の心の中にあるのは、焦りと恐怖と孤独だ。ひとりよがりと言われても否定出来ないことだ。
「お母さん、今、仕事の依頼で忙しいから。当分、帰って来られないんじゃないかしら。」
「そんなに……?」
「人から必要とされるって、うれしいことだもの。七番街の奥様方にすごく頼られて、仕事も楽しそうにやってるわ。さすがに疲れるとは言ってるけど。」
「俺だって……必要としてたし、頼ってた。」
「楽しそうではなかったわ。大変そうだった。グッドマンと専売を解消してからは、特に。」
それはレベッカのことに端を発するもの。あのことが間違った判断だとは思わないが、そもそもジェフの仕事の仕方が工房としての従来の形式とは違うのだ。あれやこれやと弟子が師匠の世話を焼き、技を盗む。そういう教育法で、労働力を確保するのが職人だった。
それを全て、リンダが負っていた。見返りもなく、家のこともあるのに、レベッカはもう成人して独り立ちしているのと同じなのだからと、自分一人でやると決めたのは確かにリンダ自身であった。
それが裏目に出て、あの日、コップの際まで溜まった水が溢れてしまった。責任感の強いリンダだからこそ、そして善性で出来ているジェフが夫だからこそ、言えずに溜まった不満だったのだ。
「お父さんは、弟子を取る気はないの?」
ジェフが弟子を取るのに乗り気でなかったのは、自身が師匠に向いていないという理由もあるが、自宅兼工房に若い男の出入りを避けたいという思惑があった。それは娘のためでもあった。
ジェフはふと思う。人見知りのきらいがあるのは、レベッカだけでなくジェフも同じだ。けれど、リリの息子フィリップがこの工房の跡を継ぎたいと言っている。まだ小さいあの子が弟子入り出来るまで元気でいられるかは分からないが、もし自分が工具を握れぬほど衰えてしまったら、あの子のために残してあげられる工房がなくなってしまう。
レベッカも、しばらくすれば嫁に行くのだろう。ロジャーが言うには、以前のエリオットと違い、レベッカのことを大層大事に想っているという。遅くきた初恋だとも言っていた。そういうのはやっかいなのだとロジャーは笑っていたが、きっと一生、嫌というほど愛されるに決まっていると確信した様子だった。
ならば、そろそろ弟子を取ってもいいのではないか。
せめてリンダの負担を減らしてやりたい。仕事だって続けてくれてかまわない。リンダがリンダらしくいられることが彼女にとっての幸福なら、今度は自分がリンダを励まし、支える番なのではないか。
不安なのは、どれだけ言葉を尽くしても、リンダに拒絶されることだ。世話になった工房の親方と同僚から嫌がらせを受けても、面と向かって否定され、拒絶を受けた経験はなかった。
ジェフもまた、臆病な生き物なのだ。娘はどう見ても父親似だった。
「リンダに、話があるから会いたいと、伝えてもらえないか?いつでもいい。リンダの都合がいいときで。」
それでも踏み出さなければならない一歩がある。
「聞きにいくのは明後日になるけど、いい?」
「いいよ。エリオットくんが戻ってくるまでに、決着をつけないとね。」
口に出して初めて実感がわいた。娘は嫁に行き、この家から出て行くのだ。親子三人で暮らせるのはあとわずか。
レベッカも同じことに気付いたようで、わずかに伏せた目には寂しさが宿っていた。
「結婚指輪、俺が作ろうか。」
「いいの?」
「ああ。エリオットくんが帰って来たら、話し合おう。何よりも優先して、取り掛かるよ。娘のためだもんな。」
前を向いて生きていきたいとレベッカはいつも思っていた。俯くばかりの人生だったから。
父は、いつも前を向いていると思っていた。光の指す方へ、迷いなく進む人だったから。
見せかけの優しさが崩れて、ようやく父という人の本質を見た。
それでもやっぱり、彼の芯の部分は善なる人なのだと、改めてレベッカは思うのだった。




