お姫様と王子様のしばしのお別れ
エリオット滞在十四日目。
朝八時に出立するという彼は、忙しいはずなのにジョンのアパートメントに泊まった。レベッカと同じベッドに入り、朝を迎えた。
いつものように早く起きてきたリンダは面食らったが、寄り添って眠る二人の様子はまるで幼子の頃のようだったので、そのまま朝食の支度にとりかかった。
「ん……あ、朝か。」
「おはようございます、坊ちゃん。朝食、召し上がってかれますか?」
「リンダさん。おはようございます。」
多少気まずさはあるものの、後ろめたいことはしていない。レベッカを抱くのは結婚してからとエリオットは決めている。早く自分のものにしたい気持ちもあった。初めはただ、レベッカの胸に余計な荷を背負わせたくなかったから。出来れば綺麗なレベッカは、綺麗なまま、他の男と幸せになって欲しかった。自分はレベッカを忘れられそうにない。だからといって、己の心と欲を満たすだけの行為はしたくなかった。
今は、きちんと皆に祝福してもらいたいから。散々女でいい思いをしていた十一年前のエリオットでは想像もしない古い考えだけれど、二人の関係はそれが正解なのだと信じている。
ベッドから抜け出すとき、こっそりと愛する人のこめかみにキスをした。身じろぐ彼女もまどろみながら覚醒したらしい。
「おはよ、レベッカ。」
「おはよ……エリオット。」
「ホラ、二人とも早くご飯食べて。坊ちゃん、すぐ出なくちゃならないんでしょう?」
狭い単身者用のキッチンで忙しなく動く母に声をかけられて、レベッカの心臓は音を立てて鳴った。顔を真っ赤にして飛び起きた娘に思わず笑ってしまったリンダだった。
支度を終え、グッドマン商会の荷馬車置き場まで二人で歩く。朝の清廉な空気の中、七番街から五番街を目指した。
「やっ、ご両人。」
「ロジャーさん、見送りに来てくれたんですか?トミーまで!」
すでに荷の積み込みは前日の間に終わらせていたらしい。荷馬車には支店から来た者たちの私物と、ついでとばかりに本店から支店へと持っていくものが詰め込まれていた。
息子を腕に抱いたロジャーは二人の方にやってくる。トマスは何故か首を傾げて、父親に尋ねている。
「レベッカとエリオット、なかよし?」
「仲良しだよ。夫婦になるんだ。」
「ふーふ?結婚するの?」
「そうだよ。ん?どうした?」
「フィルが泣いちゃうなぁ……。」
トマスの親友であるリリの息子フィリップの心配をしているらしい。フィリップはレベッカに懐いて、結婚したいと言っているのはロジャーも知っていた。失恋したのが我が子でなくて良かったと笑った。
「おっ、その子がお前の忘れられない女!?」
「ちょ、マイケルさん!」
「初めまして、お嬢さん。二人の仲がどうやら上手くいったようで良かった。」
「サムさんてば!やめてくださいよ!」
軽い自己紹介のあと、出立までのわずかな時間で、エリオットの恋わずらいの話を支店の同僚たちに聞かされたレベッカは顔を真っ赤にして俯いた。
「まあ、昔は知らんが、いい男だよ、コイツは。」
娘は失恋決定だな!と嬉しそうに笑うサムに、ますますいたたまれなくなった。
「彼女はこういうの苦手なんだから揶揄うのはやめてやれ。」
「おっと、ロジャー。よく知ってる子なのか?」
「ウチの奥さんの幼馴染で親友だよ。」
「はぁ〜、じゃあ、エリオットとも幼馴染か?ある話だよなぁ、久しぶりに会った幼馴染がキレイになっちゃって恋に落ちるとか。」
「おい、待て。お前のヨメの親友って……マジか。」
サムはどうやら気付いたらしい。そもそも本店に古くからいる者にとって三人が幼馴染であることは周知の事実であるし、支店の者ですら本店のお坊ちゃんが幼馴染と婚約破棄したことは知っている。
きっとロジャーの妻であるテレサとも二人は顔を合わせたのだろう。サムはすぐに推測した。
「マジか……。」
「そんな二回言わなくても……。」
サムの視線を受け、レベッカは苦笑した。わざわざ言葉にするのは憚られた。マイケルがどういうことだと騒いでいるが、御者席に押し込まれてしまった。
人目を憚らず腕を広げるエリオットの胸に、レベッカは意を決して飛び込んだ。ひゅうと口笛を鳴らすマイケルの頭をサムが叩いた。
「じゃあ、行ってくる。元気で。」
「いってらっしゃい。気をつけてね。無事に……帰って来て。」
戦争の気配はないし、むしろ戦地からは遠ざかる形になるが、道中なにがあるか分からないものだ。それでも彼の心変わりだけは少しもあるとは思わない自分に驚いていた。
エリオットの家族は、サマンサとテッド夫妻だけがギリギリで来た。どうやらマックスは今この街を不在にしているらしい。
サマンサに話があると言われて、承諾してついていく。ロジャーも一緒だ。トマスは使用人に預けて、サマンサたちの子どもと遊ばせておくらしい。
久しぶりにグッドマン商会の本店に足を踏み入れた。店舗の方は分からないが、事務所は十一年前と何も変わりない。そこにメリーの姿がないだけだ。
「ジェフさんのことなんだけど。」
口を開いたのはロジャーだった。
「お父さん、どうでしたか?」
「うん。今は一心不乱に仕事してる。他は全然。娘にも見捨てられたと思ってるよ。」
「見捨てられたって……。」
「あー、その辺は俺は分かってるから!大丈夫だから!ねっ、サマンサさん?」
「そうね。でも、このままだと倒れるのも時間の問題だわ。」
「その前に病気にでもなりそうだけどなぁ。」
テッドのぼやきは何を意味しているのか。飲まず食わずで仕事をしているのはレベッカにも想像出来た。
「リンダに戻ってもらうのが一番だけど……」
「それじゃ解決にはなりません。」
「うん、分かってる。ふふ、貴女も言うようになったわね?」
「変わらざるを得ませんでしたから。」
サマンサはふっと息を止めて、目を逸らした。
「ごめんなさい。わたしが言っていい言葉じゃなかったわね。」
サマンサには世話になった。メリーが放棄した教育を隙間の時間に教えてくれたのはサマンサだ。人使いが荒いのは母親似ではあるが、自身がレベッカと同じようにメリーに育てられたからか、母親を反面教師として下の面倒を見る人であった。
「サマンサお姉さんのことは、恨んでません。」
「それでも貴女を傷付けてきたグッドマンの一人だわ。改めて謝罪するわね。ごめんなさい。わたしたちが貴女の人生を狂わせた詫びは、いくらしても足りないわ。」
サマンサはどうしても赦しが欲しかった。それはこれからの彼女の家族に必要なことだと思ったから。はっきりと本人の口から聞きたかったのだ。
「もう、いいです、とは言えません。」
「そう……そうよね。」
サマンサは落胆した。テッドは妻に寄り添うが、レベッカを恨みがましく見たりはしない。テッドだって、ニールの孫だ。もうすぐ副会頭として妻を支える立場になるが、だからこそ、メリーのしたことをよく理解していた。
祖父のしたことも、あの時はそれが最善だったことは分かるけれども、こうして想う相手と同じ理想を見られることは万にひとつほどの偶然であることも知っている。
「グッドマン商会のお力にはなれません。仕事は今まだ通り、させてもらいます。私、お姉さんには感謝の気持ちもあるんです。お姉さんの指導があったから、一人でもちゃんと、資材やお金の管理も出来てるんだって思ってます。お父さんには、足りないところですけど。」
自分で口にして思わず苦笑した。グッドマン商会の専売契約を解消してから特に、仕入れに関するあれこれはジェフだとどんぶり勘定で、慣れない帳簿に四苦八苦するリンダを助けたのはレベッカだった。
「これからは家族として。でも、それだけです。生きていれば大切な人にだって、不満は積もります。それをどう解決していくかは、話し合いが必要なんだと思います。私もせめてあの時、もっと早く、誰かに自分の気持ちを伝えていられたら、違う未来があったのにって思うこと、何度もありました。今は結果論でしかないんだと思うんです。でも、私にとっては今が、今のエリオットと並んで歩ける今が、一番幸せなんです。」
「レベッカ……。」
「むしろ、あんな風にグッドマンに楯突いた私との結婚は、許されますか?」
不安げに榛色の瞳を揺らすレベッカにサマンサは息を呑んだ。すぐに我に返り、思ったよりも大きな、叫ぶような声で答えた。
「もちろんよ!二人には、幸せになって欲しいの!」
目の前の、もう人に怯えて吃る少女の面影のない、一人、己の足で立っている女は、安堵したように息を漏らし、眉尻を下げて笑った。
「良かった。もう、それだけで充分です。」
和解と言えるかは分からない。厳しく当たられるあの辛い日々は、なかったことにはならない。
けれど、これからは、それすらも肥やしにして、また一歩先へと進める気がした。




