王子様の葛藤
ジョンはカップを置いた。中の紅茶に波紋が広がる。
「だからね、昨日、君らが揉めているところを見てしまって、心配していたんだ。避けられない別れというのがあるのだから、お互いに生きているのなら、悪いことをしたら謝罪を、何かしてもらったのなら感謝を、その都度、気持ちを言葉にしてきちんと伝え合った方がいい。明日から二度と会えなくなっても、後悔が少なくて済むように。」
避けられない別れはもうすぐやってくる。二人はお互いを見ることが出来なかった。
「そういえば、もしかしてお兄さんはグッドマンのお坊ちゃんかい?」
気付かれた。緊張が走る。エリオットはレベッカを見る。不安気な視線を送るレベッカに微笑んで、膝の上で握りしめた手に自分の左手を重ねた。
「はい。その節はご迷惑をおかけして、大変申し訳ありません。謝罪にも伺わず、大変失礼をいたしました。無礼者の私にこうして親切にしてくださり感謝します。」
エリオットは頭を深々と下げた。
「いや、広場では気付かなかったんだけどね。見覚えがあるような気がして。そうか。あの時は気を揉んだが、まあ、無事で良かった。遠くの支店に行ったと聞いていたが、戻ってきたのかい?」
「いえ、支店にいます。今回はこちらで取り引きがありまして、一時的に。一昨日から二週間こちらに滞在の予定です。」
「そうかぁ。あの後、会頭さんと番頭さんが謝罪に来られてね。簡単な事情を聞いたんだ。あの頃とすっかり様子が違うものだから、すぐには分からなかったよ。お嬢さんはもしかして……?」
エリオットがレベッカの手を握る手に力を込めた。温もりから、優しさと勇気が伝わってくるような気がした。
「はい、あの時、最初にこちらに伺った者です。」
「君らは元婚約者同士ということか。いやはや。てっきり恋人同士だと思っていたよ。婚約は解消して縁を切ったと聞いたけれど、違ったのかい?ああ、聞いたらまずかったかな。年を取ると遠慮がなくなっていかんな。」
「こちらに戻った初日に偶然再会したんです。本当は、彼女とこうして会うのも、話をするのも契約違反なのですが、私が…‥離れ難く。」
違う。最初に引き止めたのは私だ。レベッカは俯いてきつく目を閉じた。
「人の縁とは奇妙なものだね。今の君はお嬢さんのことをとても大事にしているように見える。うちに出入りしていた頃は、いけすかない若者だと思っていたが。すまない、わたしにも娘がいるものでね。つい、男親の気持ちになってしまう。妻には良い夫でもなかったというのに、勝手なもんだ。彼女も、彼女の両親にとっては大切な娘だったはずなのに。」
エリオットは身につまされる思いだった。思わず強く力を込めて握った手の上に、レベッカが掌を重ねた。エリオットはその手を見つめながら話し出した。
「以前の私は愚かでした。楽な方へ流されるままに生きて、彼女を傷付けました。正直、薬から目覚めてすぐは、婚約破棄についても、深く考えてはいなかったんです。店も、跡取りも、彼女のことも、強い思い入れがあったわけではありません。それから、色んなことがあって……ようやく、自分の過ちに気付けました。ここ数年、闇の中で出口を求めて彷徨い歩いている気持ちでした。過ちを自覚してからは、出口を探すことすら、罪深いことだと思ってきました。それなのに、レベッカは……私は彼女に決して赦されたわけではありませんが、私を、親のいいなりに生きてきた、飾り立てられただけの人形のような私を、ひとりの人間として認めてくれました。辛いと思うことも、悲しいと感じることも、人なら当たり前のことだと教えてくれました。…‥初めて、彼女を愛おしいと思いました。彼女といると、暗闇に光が見えるんです。ようやく出口を見つけられたんです。けれど、私はレベッカと共に生きることは出来ない。私は、レベッカに、今も癒えない傷を付けた張本人だから。俺のことを愛して欲しいなんて、都合のいいことは、言えない。でも、好きなんだ。たった数日過ごしただけで、俺はこんなにも、レベッカを愛してしまった。いけないことだと分かっているのに、我儘を言って、ここにいる間だけでも、普通の恋人ように過ごしたいだなんて。人目を避けてでしか、会えないような関係なのに。そばにいればいるほど、苦しめると分かっているのに、優しさにつけこんで……俺は、自分勝手で、最低な男だ……」
エリオットは話しているうちに気持ちを抑えきれずに、とうとう白状してしまった。レベッカを愛していると。他所行きの言葉遣いもどこかへ消えてしまった。
最初は、同情を買って、二人のことを他言しないように頼むつもりだった。話しているうちに、浮き足立っていた頭の中が整理されて、ただ、レベッカへの恋慕がくっきりと浮かび上がった。
ずるりと、レベッカの手からエリオットの左手が落ちる。滲む涙を掌で抑える。目を隠したまま、頭を抱え込んでしまった。
「エリオット……」
レベッカは困惑していた。エリオットの本心も、どこかで気付いていたのに蓋をして隠していた自分自身にも。
二人の時間を作ることにレベッカも同意していたようなものだ。二週間で終わることだからと見て見ぬふりをしただけだ。
エリオットの告白を聞いて、沸騰した鍋のように、心の蓋がカタカタと鳴る。レベッカの中で熱く煮えた思いが、溢れ返す寸前だった。
早くこの火を消さなければ。
エリオットの気持ちに応えて、家族や友人に失望されるのが怖かった。辛いときに寄り添ってくれた人たちに、嫌われるのが嫌だった。
多くの人に支えられてようやく得たレベッカの自由という権利は、すぐそこで咲いている薔薇のように、棘の蔦で雁字搦めになっている。
レベッカは、エリオットの顔も、ジョンの顔も、見ることが出来ないでいた。勇気は、エリオットの左手とともにこぼれ落ちてしまった。
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