第二章 第36話「信念を曲げる」
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〝鬼術師〟……マズダーにとって、生物とは恐怖する生き物だ。
逆説的に言うならば、恐怖を感じないものは生物とは呼べないとさえ考えていた。
種族の違い、知能の高低は関係ない。野生の獣は天敵捕食者の存在に怯えるのだから。
弱肉強食の摂理から半ば解放された人類も、恐怖の要因をいくつも抱えていた。
戦士は強大な魔獣に竦み、商人は財産を失う可能性を忌諱し、平民は貴族の理不尽な収奪に怯え、王侯は平民の反乱を恐れる。
全生物に共通する弱点、それが恐怖。
だからこそマズダーはそれを武器にすることを選んだのだ。
何者も、恐怖を逃れることはできない。
何者も、恐怖を忘れることはできない。
何者も、恐怖を従えることはできない。
何者も――
……いや、
ありえてはならない。
ありえてはならないはずの例外と、マズダーは出会ってしまった。
前後左右から襲い来る様々な恐怖を象った煙を、目にも止まらぬ速さで切り捨てていく美しきビカム――。
この剣士だけは恐怖することなく、今もマズダーの眼前に立ち続ける。
たとえ今のまま、世界が滅びるまで攻め続けようとも、彼が敗北するイメージがまったくしない。
世界すら先に消え、黄金の剣舞だけが永久に残り続ける……そんな幻視すら抱いてしまう。
だが永遠など存在しないと告げるように、変化は訪れる。
「け、煙が……!」
魔法生物『怪物の煙』の肉体ともいえる紫煙が明らかに薄くなっている。こんな事は初めてだった。
(まさか、超短時間での象の連続生成に、器が焼き切れようとしているのか……?)
マズダーの推測を裏付けるがごとく、生み出される象に低解像が混ざり始めていた。
一方のビカムの剣閃はまるで衰えを見せない。どころか余所見をする余裕すらあった。
「……(リン殿は大丈夫だろうか……)」
ちらり……と、卒倒ものの美しい流し目でリンが戦っている方角を見やるも、この怪しい煙があるうちは、あちらの趨勢を確認することは難しい。
しかし……それも、直に問題ではなくなるだろう。
マズダーは手を振るわせて戦慄き――
「チィ、屈辱ですよ。この力は使いたくなかったのですがね……【虚ろなる鉄の針が】」
香炉を後方の煙の中へ放り投げ、代わりに魔力で形成した細剣をつかみ取る。
続けて、彼の口は朗々と詠みあげる。
【――空を知る。星を見る。世界を覗く。神を望む。
光の叡智、闇の先、我ら。稀なる導を得たり――】
「……!(長い詠唱……大魔法が来る!)」
ビカムの碧眼が細められる。
纏う雰囲気が変わり、霊剣は迫る恐怖の象を叩き落すものからマズダーへの進路を切り開くものへと色を変えた。――この戦いに幕を引くと決めたのだ。
魔法とは一般的に魔法文字により構成され、単純な意味を持つ文字を組み合わせることにより複雑な魔法となっていく。
つまり構成する魔法文字が多い――印ならばその数、詠唱ならばその長さ――とはすなわち、強力な効果を持った大魔法行使の前兆だ。
魔法一発が戦局を左右する時代、魔法使いを早々に仕留めんと前進するビカムは正しい。
その魔法が発動するよりも前に――彼の黄金の刃は届いた。
が、
「フフフ……そう来るのは分かっていました」
霊剣フェーレを握ったビカムの腕は、振り下ろされる手前で止まった。
軽く小突くような気やすさで突き出された細剣の切っ先が、彼の篭手、金属部品の継ぎ目に差し込まれていた。
すかさず腕を引き、斜め下からの斬り上げを選ぶ……が、それも動きを為す前に細剣が突き止める。
何度も、何度も。
ことごとく――斬撃が斬撃となる前に動きを制止させたのである。
高速化した戦闘の中で、果たして可能なのだろうか? まぐれならまだしも……細い針のような切っ先を、相手の装甲の継ぎ目にピンポイントで突き入れるなど。
――まるでそこに狙うべき点が来ると、未来を知っていない限り。
最悪の推理の真偽が、今明かされんとしていた。
「……なるほど、そういうことか(ああ見えて細剣の達人だったのか……)」
「ええ。でも私は未来視が嫌いですがね」
「……誇るといい(こんな神業、きっとものすごく練習したのだろう)」
「フフ……貴方ほどの人に褒められたならば、悲惨な運命を辿ってきた我が種族も、冥利に尽きるのでしょうかね――」
***
黒山羊族。
かつてそう呼称された種族にマズダーは生を受けた。
見た目は黒い体毛を持つ、二足歩行の巨大な山羊。
巻き角、蹄、横一文字の瞳孔、細長い手指。雌雄があり、草も肉も食べる雑食、長くもなく少なくもない寿命、社会性を持ち、人里離れた山岳地帯で種族が纏まって暮らす。
それだけの特徴であれば、リンダリアル世界においてさしたる珍しさはない。ほとほどの人口で、ほどほどに他種族と交流し、ほどほどに繫栄して、何も言うことは無かっただろう。
しかし真に彼らが特徴的だったのは、種族の見た目でも生態でもなかった。
彼らの種族は一様に、占星術に適性を持っていたことである。
リンダリアル世界において占星術は縁を辿るもの――例えば落とし物から持ち主の居場所を読み解くようなところから出発した。
そこから派生し、自身と運命の縁を辿ることで、未来や過去を知る魔法へと発展していった経緯があった。
だが、実際に星を見て吉凶の徴を視ているわけではない。魔法の詠唱に星や月などの天体を意味する魔法文字が多く含まれていたことから、いつしか夜空の星の運航をもとに未来を占っていると誤認されたのだ。
その誤った認識を承知のうえで時の権力者に取り入るため、あえて夜中に儀式として占星術を執り行うことにより、霊験のあらたかさを術師が演出してきた歴史もある。
そう、権力者。
たとえ断片的にでも未来を知れるということは破格の利益をもたらす。
そして占星術に高い適性を持つ種族がほとんどいない世界において、黒山羊族の価値が計り知れないことは容易に想像できよう。
かつては彼らも、己の真価を理解し、積極的に権力者に近寄った。
王を輔弼する助言者として、未曽有の災害や疫病を予言し、暗殺計画を暴露し、敵国の侵略を予知し、政敵の弱点を盗み見、反乱分子の蜂起を未然に潰し、政策のもたらす効果を占った。
結果、その国は大いなる繁栄を極めることになった――王を絶対の権力者とする独裁性も臨界に達した。
未来が見えるならば貴族による補佐も必要ない。
そもそも反乱を起こさせないなら苛政を布こうが関係ない。
政敵も暗殺者も、もはや無力だ。
ただ王と助言者のみが存在すればいい。王と助言者のみが人間である――
……だが、今やその国は地図上に存在していない。
いかに未来が見えようと、行き過ぎた末路は革命と処刑台を呼び寄せる。
そして同時に、黒山羊族も歴史の表舞台から姿を消した。
自分たちの所業の危険さと愚かさを思い知り、ひっそりと山の奥で暮らすことを選んだのだ。
しかし――未来を弄んだ代償はそんなものでは済まなかった。
歴史から忘れ去られるには、彼らの残した爪痕はあまりにも深く、怨嗟にまみれていたのだ。
――世界各国は、黒山羊族を皆殺しにした。
未来視で逃げられようがじわじわと追い詰め、赤子の一匹に至るまで探し尽くし、殺し尽くしたのだ。
もう誰にも関わらない……そんな命乞いの言葉を無視し、急き立てられるように命を奪った。
自分が本来辿るはずの未来を勝手な都合で改竄されるかもしれない、いや、もう改竄されているかもしれない――人類にとって、それはまごうことなき恐怖だった。
ゆえに人類は、国家は、あらゆる労を惜しまず手を尽くして黒山羊族を葬り去った。
マズダーにとっては真に不運と言えよう。黒山羊族が国家を誑かした事件はもう百年近く昔のこと。その頃に彼は生まれておらず、先祖のとばっちりを受けたとしか言いようがなかった。
幼い記憶……物陰に隠れた彼の眼に、同朋が一人また一人殺されていく光景が焼き付いている――殺戮者たる人間は愉悦の表情など浮かべていなかった。顔面に貼りついていたのは、未来を操る怪物に対し、心底から怯え切った恐怖の表情だった。
だからマズダーは己の武器に恐怖を選んだ。
繁栄と災厄をもたらし、結局は一族の命を救えなかった未来視ではなく、恐怖を武器にすることを選んだのだ。
ローブを被り、魔法を磨き、復讐として心の赴くままに悪行を為した。
〝悪夢の帳〟という異名で懸賞金がかけられ己への包囲網が迫っていることを察知すると、躊躇いなくチキュウ世界へと逃亡。魔法の使える凶手としてシティに与し、今度は〝鬼術師〟というコードネームと共に生き永らえてきた。
そんな波乱万丈な人生を送る中、占星術だけは使わないように決めていた。
その強力さを理解していながら、誰よりも無用だと忌み嫌ったがゆえに。
最後の奥の手として温存しながら、使わなければならない事態にならないよう恐怖魔法を研鑽し続けた。
――そして今。
信念を曲げざるをえない敵と邂逅した。




