第二章 第32話「鬼の申し子」
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幻霧山には鬼が住む。
麓近くの住人は決して山に入らない……今のように街道が整備され交通の便が良くなるよりも昔、食料の入手を他領や他国からの輸入に頼りづらい時代、地元の自然の恵みは貴重な食料の供給源だった。近隣に海がない分、山の幸は一層の生命線と言えた。
だが、それでも村や町の住人は絶対にその山に立ち入ることをしなかった。
たとえ未曽有の飢饉が襲おうとも、その掟を固く守り続けた。
なぜならば、そう……幻霧山には鬼が住むからだ。
有角巨躯の鬼族。一度迷えば二度と出られぬと言われるほど霧深い幻霧山を縄張りとする、交戦的で獰猛な種族。
不用心に山に入った者が出てこないのは、霧に惑わされ遭難するからではない――あの鬼族に見つかり、逃げることのできない戦いを挑まれ殺されるからだと、まことしやかに噂された。
それを裏付けるように、こんな話がある。
極稀に、鬼族が麓まで降りてくることがあった。幻霧山の幸を売り、麓の民の加工品を購入するためにだ。
おどろおどろしい噂に反して、彼らの態度はとても普通であった。貨幣を必要としない暮らしをしながら、算術を理解して物を売り買いする姿は理知的ですらあった。
取引の回数は何事もなく増えていく。
人々は胸を撫でおろし、噂は誇張であったと安堵する。
――ある日、山の幸を売った金で商品を買おうとしていた鬼族が、店主の顔を殴りつけた。
野蛮な鬼族は計算などできないだろうと、店主が釣銭を誤魔化して渡したのだ。
鬼族はそれを咎めて手を出した結果、熟れた果物のように店主の頭部は弾け、惨状が広がった。
騒ぎを聞いて駆け付けた村の衛士が鬼族を捕えようとして死んだ。事情を知らない衛士は鬼族が原因だと決めつけ槍を突きつけた瞬間、首を折られた。
遠くからその様子を目撃した村人が、たまたま宿に滞在していた流れの冒険者に鬼族を倒すよう依頼し、請け負った冒険者は剣を向けるも、軽々と殺された……。
そんな死の連鎖が続き、ようやく事態が収まった――立ち向かおうとする者を殺し尽くした――ところで、その鬼族は怒りでも悲しみでもなく理解を示していたという。
〝――あの店主は私の釣銭を誤魔化した。万死に値するゆえ、命を頂いた。村の衛士は私に武器を突きつけ、闘争を挑んだ。ゆえに尋常に戦い、勝利の証として命を頂いた。以後の冒険者も、その他の人間も、私に勝負を挑んできた。私はそれに勝利し、命を頂いた。ただそれだけだ〟
事ここに至り、村人たちは圧倒的な齟齬が鬼族との間に横たわっていることを自覚した。
その鬼族は店主を殺したことも衛士たちを殺したことも、まるで罪になど感じていなかった。
無礼を咎めて命を頂くことも、己に敗北した相手の命を頂くことも、敗者は命を含めた全てを勝者に差し出すことも……鬼族にとってはただの自然の営みに過ぎなかった。
どれだけの流血がなされようと、それが彼らの倫理の範疇に納まるものならば全て善し。
鬼族にとって、闘争とは信仰である。
偉大なる祖霊に捧げる供物であり、自らの存在を証明する手段であり、己を昇華させる唯一の道――そう信じて疑わない。
ゆえに発端が何であろうと――相手に非があろうと、勿論自分の非だろうと――それが闘争を導くならば否やはない。理由は何であれ、武器の切っ先を向けた衛士や冒険者は正々堂々勝負を挑んできた戦士として遇する。
尋常に勝負を行い、命を頂き、勝利を積み重ねる。その先にのみ神へと至る階がある……。
そんな一族にラクシュナは生を受けた。
生まれた時、繋がったままのへその緒を自ら引き千切った様は、彼女の鬼としての素養を感じさせる光景であった。
鬼族の里において成長したラクシュナは、同世代どころか大人たちまで含めて並び立つ者のいない鬼子となった。力を振るえば怪力無双。何より鬼族最大の種族的特徴である再生能力は破格の一言。
それすなわち――神へと至る準備ができたことを意味する。
鬼族がひたすらに闘争を求めるのも、その果てに力と再生能力を授かるのも、全ては自己を昇華させるための手段に過ぎない。
長老衆から認められた鬼は、儀式にて身を清めた後……自らの両腕を、指先から肩の付け根にかけて縦に引き裂く。
肩で繋がったままの半分の腕が出来上がるわけだが、驚異的に高まった鬼族の力が、失われた腕の部分を再生復元してしまう。その結果、腕は倍の四本に増えることになる。
極めつけは、自分の頭でもそれを行う。
頭頂から喉の下まで、刃を入れて――頭を割るのだ。
想像を絶する苦痛の以前に、脳を半分に切られる損傷により絶命は免れない。
そのはずなのに……選ばれし鬼族は死をも凌駕し、肉体は再生を始める。
チキュウ人向けに説明するならば、頭部に切れ込みを入れられたプラナリアが、その分だけ頭部を持つプラナリアに再生するアーカイブ映像を見るとイメージしやすいだろう(余談だが、水質変化に著しい影響を受けるプラナリアはチキュウにおいて既に絶滅している)。
そうして二面四臂となった鬼は〝亜鬼神〟と呼ばれ、幻霧山の頂上手前まで昇り、さらに肉体をいじめぬくような過酷極まりない苦行に臨む。肉刑同然の修行は筆舌に尽くしがたく、業苦と再生の無限循環にリタイアする〝亜鬼神〟もいた。
その修行を潜り抜け、肉体がさらなる再生能力を得ると、最後にもう一度、己の肉体を引き裂く。左右二本ずつある腕の、もう一本ずつ。そして二つある頭の、どちらか一つを。
修行を完遂し、ついに三面六臂となった鬼は〝鬼神〟の位階に至る。
普通の生物なら即死する傷をも瞬く間に再生する力は、鬼族にとってまごうことなき神であり、この位階に到達できる鬼は二、三百年に一人いるかどうかというところだ。
〝鬼神〟は、鬼族である時の闘争心が昇華され悟りを得たとされる。
幻霧山の頂上に登り、世俗との関わりを断ち、世界が終わるまで坐臥しつつ、下界を見渡しながら真理についての探求を楽しむのである。
鬼子たるラクシュナは〝鬼神〟へ至ること間違いなしと、昇華の期待を一身に背負っていた。
「――どうでもいい」
だがしかし、神への階を目前にした鬼は、その一段目に足をかけることすらせず、関心の失せた目で言い捨てたのであった。
「我にとって、闘争こそが全て。終わりなき闘争こそ至高。山の上で死ぬまで胡坐をかくなど願い下げよ」
父、母、親類、友、族長……。
彼らにラクシュナの考えを改めさせることはできなかった。
なぜなら、ラクシュナこそ鬼族で最も強い鬼。
強さを至上とする種族であるがゆえ、耳を貸さないならもはや肉体言語による物理的説得しか術はなく、そしてラクシュナが最強である以上それは不可能であった。
「「「――鬼の申し子よ」」」
まさに里を出奔せんとするラクシュナに声が掛けられた。
振り返った先には、両脇に〝亜鬼神〟を従えた――三面六臂の昇華された肉体を持つ鬼が立っていた。
ラクシュナを取り巻いていた鬼族は全てひれ伏した。偉大なる〝鬼神〟を前にして、なお屹立を続けたのはラクシュナのみであった。
「貴様らは山頂で瞑想しているのではなかったか?」
気負うことなく訊ねたラクシュナに、三つ重なった声が応える。
「「「――我は彷徨える汝の欲望に導かれ、今、俗世へと還り立ちました。この者たちは我の介添えとして修業を一時離れ、共に汝の欲望の行く末を見定めんと欲するまで」」」
「何をごちゃごちゃと……」
「「「――闘争を欲する鬼よ。終わりなき闘争を選ばんとする子よ。その道の険しさを理解しているか?」」」
――ラクシュナは〝鬼神〟に襲いかかった。
行く手を塞がんと二柱の〝亜鬼神〟が立ちはだかるが、次の瞬間には棍棒で上半身を薙ぎ払われていた。
「「「――その孤独の旅路を行く勇気はあるか?」」」
「うるさいんだよッ‼」
頭上から振り下ろされる一撃を、〝鬼神〟は避ける素振りすら見せなかった。
しかし棍棒は避けられたわけではなく、尊い肉体を正しく粉砕した。
ひれ伏したまま動かない鬼族の群衆の中で、〝鬼神〟は時計を巻き戻すように再生する。その顔には現れた時と同じ微笑が貼り付いたままだった。
「「「――哀れなりし子。しかして、羨ましき子よ」」」
遅れて〝亜鬼神〟もよろよろと立ち上がる。
「「「――汝に苦行は必要ない。その欲望の赴くままに進むがよい」」」
「ふん、なんだ今さら。彼我の力の差に怖気づい、」
「「「――汝にはまさしく闘争こそが昇華の道。我らも及ばぬ、恐るべき真の鬼子よ」」」
――自身の背後に立っていた〝鬼神〟にラクシュナはまったく反応できなかった。
振り向きざまの棍棒の一撃に、そっと手が添えられる。
質量と運動のエネルギーは訳も分からぬまま消失していた。
いや、分かる。たゆまぬ鍛錬を続けていれば自分もいつか同じ技を身に着ける。何十年先か、何百年先か。――それまでに目の前の相手が自分を殺さない保証があればだが。
来るはずの反撃は、だが永遠に来ることはなかった。
介添えの〝亜鬼神〟を引き連れて、三面六臂の鬼はゆるりと山頂への道に体を翻した。
理解不能と立ち尽くすラクシュナに、
「「「――汝の行く末に慈悲を示そう。願わくば、恐怖を乗り越え、見事なる昇華に至らんことを」」」
〝鬼神〟はそう言い残し、霧の彼方へと姿を消した。
「……知った風な口を」
残された忌み鬼子は小さな呟きを漏らした。
これよりリンダリアルを恐怖で震撼させる大悪鬼ラクシュナの、旅立ちの日の出来事であった。




