第二章 第27話「王獅子」
ありえないと理性は断じるが、本能は警鐘を鳴らし続けている。
相対するだけで圧倒される存在感。
空気は急激に冷やされ、呼吸は体内の熱を奪う自傷行為へと変じた。
「おお、竜が出たのは初めてですよ。貴方たち、実は結構強いのですか?」
煽りなのか、それとも真面目に感心しているのか。
いずれにせよカイラスたちに反応を返す余裕など無かった。
「全員逃げ――」
迅速な判断、正しい決断。
どれだけ理想的だろうと、全てが無に帰す理不尽な状況が存在した。
霧の竜が自身の真下に向けて息を吐く――竜の吐息とはこの世に存在する恐るべき攻撃の一つであり、今、極寒の冷気となってあらゆるモノを凍らせた。
放射状の暴風となって吹き荒れたマイナスの熱量により、あらゆる草木は凍結し、地表は白く息絶え、極小の氷河期が生命を襲ったのだ。
唯一まともに対抗手段を講じられたのはミィスフェルナのみであった。痛む体に鞭を打ちながら冷気を遮断する魔法障壁を展開。防御が間に合ったのは自身と、比較的近くにいたミニーニャしかいなかった。しかし障壁を展開してなお貫通してくるこの冷気を思うと、仲間たちは……。
最悪の想像を振り払い、凍える風が晴れゆく周囲に目を凝らす。
カイラスは力なく横たわり、その全身を余すことなく霜が覆い尽くしている。
アインは片膝を着き、頭は垂れて荒い息。意識はあるものの、体には霜が貼り付き、戦闘を続けられるとは到底思えない。
バックロゴンは鉱窟人の頑健な種族特性ゆえ、意識はハッキリとあるが体の大部分が氷に覆われ身動きができない状態。
そして直撃を免れたミニーニャは、しかし朦朧と地に臥せっている。元より寒さに弱い猫獣人。ミィスフェルナの魔法障壁をもってしても防ぎきれなかった冷気は、彼女の体力を奪うに充分過ぎた。
「み、んな……」
まともに戦えるのが自分一人。
対する敵は三人とも万全の状態、それもまだ本気すら見せていない。
絶望的とはまさにこの事であろう。
「さあて、私たちは誰とお話をしましょうかねえ……」
ニタニタと、ローブに覆われて見えないはずなのに、間違いなく愉悦に表情を歪めているであろう敵の声音に、ミィスフェルナはビクリと背筋を震わせた。連中の言うお話がまともな手段ではないことぐらい容易に想像がつく。
「……レベト平野だ……ッ!」
「アイン……」
おぞましい凶行が行われる前に飛び込んできたのはアインの叫び。
生命維持に関わるほど冷却された体をおして、彼は敵が欲する情報を渡す決断をした。
無論、仲間を守るために。
「今朝、美剣士ビカムは王獅子を倒すために、レベト平野へ出発した。今頃はもう到着しているはずだ。……ミィス、すまない」
「いや、私こそ……辛い役目を、押し付けてしまった……」
ミィスフェルナは仕方なしと頭を振った。自分が敬愛する相手の情報を渡したことに、アインが責任を感じないよう祈りながら。
「いやいや、何を終わったような空気を出しているので! ククク、さあお楽しみはこれからで――」
なんと悪辣!
〝鬼術師〟の体毛に覆われた指が嗜虐的に蠢いた。情報を吐けば命まではとらないと宣いながら、最初からいたぶる魂胆だったのだ!
しかし、彼の視界に入り込んできたのは、〝鬼怒女〟と〝黒鬼士〟があっさりと得物を納める光景であった。
「……おや? 〝鬼怒女〟殿、腰巻はよろしいので?」
悪逆なる術師は名残惜しそうにミニーニャを指差す。
「フン、冗談に決まっているだろう。会話の機微も分からんのか貴様は」
「……貴方に言われると向かっ腹も一入ですねえ。〝黒鬼士〟殿も……はあ、やれやれ」
とことん趣味の合致しない同僚を説得することを彼は諦めた。
そうして〝四鬼天〟は霧の竜の幻影へと騎乗する。
「貴方がたはまったく良いものを恐怖してくれました。これなら目的地まで長くはかからないでしょう。まあそれに免じて見逃してあげますよ。では、さようなら」
巨大な翼の羽ばたきが巻き起こす旋風に顔を覆う。
風が止んだ頃には、竜の姿は蒼穹に小さく消えゆこうとしていた。
ミィスフェルナは膝から力が抜け、無様にへたり込む。
今日はたまたま機嫌が良いから殺さないでおく――そんな軽々しいふざけた理由で、しかし命を拾うことになった。
一等級冒険者が相手に痛痒すら与えることができず、お慕いする偉大な方を売り渡す極限の罪を犯した。後悔と慙愧が両の瞳から涙をあふれさせる。
だが、彼女にむざむざと時間を無駄にする権利は残されていない。まずは傷ついた仲間に回復魔法で応急処置を施し、王都に取って返す。
そして美剣士ビカムを狙う危険人物の存在をいち早く知らせねばならない。
「……ビカム様、どうか……」
エルフ族の生きる伝説である剣士が敗れるとは寸毫たりとも疑っていないが、それでも一抹の不安を感じざるをえない。
視線は自ずと遥か地平の彼方を追っていた。
レベト平野……物語の鍵を握る登場人物たちがいよいよ雌雄を決しようとしていた。
***
王獅子。魔獣の中でも特に脅威となる一体。
その生態について、リンは事前にビカムからレクチャーを受けていた。
異名の〝鎧纏いし鬣〟が指し示すとおり、ただでさえ強靭な毛皮をさらに鎧うのである――息絶えた獲物が最期まで身に纏っていたものを。
世界がまだ原始の時代の頃は爪牙や裘を、人類が火と文明を手に入れてからは武器と防具を。
単純に防御力を上昇させるためか、はたまた雌個体へのアピールのためか……真相の追究は魔獣研究者に任せるとしても、戦う側からすれば厄介極まりない性質と言える。
しかし、ただそれだけであれば似たような習性を持つ生物は他にもいる。環境物を利用して自身の生存を有利にしようとする例は枚挙に暇がない。広義的には拾った道具を使う知性を持つ獣も当てはまると言える。
ならば、王獅子がそれらとは隔絶して脅威と見なされる所以は――
背中から剣山のごとく屹立した幾多の槍が放たれる。
それは放物線の軌道を描いた後、情け容赦なくリンへと襲いかかった。
身を投げ出すように回避、そのまま勢いを利用して連続ローリング――瞬きほどの間の後、飛来する槍が大地に突き刺さっていく。その威力が人体に致命的であることは抉り抜かれた地面の惨状を見れば明らかだろう。
標的を外した槍の群は王獅子の咆哮を合図に、独りでに引き抜かれ、王獅子の背中へ戻っていく。
その隙を、背後の死角を突くべくビカムの影が疾駆する。
だが狙いを嘲笑うように、王獅子の肩からスパイクのように突き出た四本の魔法杖が自動的に迎撃の光弾を機関銃のごとく連射する。美剣士は深追いせず華麗なステップで攻撃圏内から抜け出た。
分かるだろうか? この魔獣との異常なる戦闘、その驚異が。
(――この獣、武器を使いこなしてる……!)
想像以上の強敵にリンは歯噛みせざるをえない。
巨体を裏切らない膂力、見劣りしない速さ、それはまだいい。それだけの獣であるならば、時間はかかろうともこの二人ならば必ず仕留めていたはずだ。
そうならない理由は、先の光景が全てである。
この恐るべき魔獣は略奪した武具をあろうことか人のように使用するのだ。
武術の冴えなど見るべくもないが、ただ振るい、突き、薙ぐ程度の動作なら武器を操り、遠隔操作も交えて繰り出してくる。
魔法杖に至っては、刻まれた魔法文字を自身の魔力で励起して発動させるほど。ただの獣と侮れない知能の高さ。
「シッ――!」
尻尾の先端に取り付いた鎌の一撃をブレードで弾き飛ばす。続く前脚の振り下ろしをギリギリで躱し、纏わりついた防具へ斬撃を撃ち込む。リンの攻撃の度に鎧が、武器が、王獅子の支配から解放され、重力を思い出したように地に転がった。
美剣士も負けじと霊剣フェーレを二閃三閃。煌めき走る刃はその度に武装を剥がしていった。
しかし……
――グオォオオオオオ‼
王獅子が一吼えするや、剥いだはずの武具は再び彼奴の体に纏わりつき、元の木阿弥と化すのである。
終わりのない攻防に、リンは突破の糸口はないかと王獅子の全身をつぶさに観察する。
だが非常なる現実がリンの網膜に映し出したのは、隙間なく鎧われた王獅子の全身であった。
この手の敵に対する常套の攻撃箇所である両目は盾でしっかりとガードされ、狙う気配を見せるだけで敏感に反応する。口内に至っては咆哮の時以外固く閉じられている始末。噛みつき攻撃は期待するだけ徒労に終わるだろう。
王獅子も自らの弱点を完全に理解して手を打ち、隙を見せないよう用心している。
とはいえ……リンはまだ絶望に落ちてなどいない。
彼女の心を支えていたのは〝予想よりも戦えている〟という実感であった。
開戦直後は圧倒的重量差に捻り潰される自分の姿を幻視したものだが、今に至るまで攻撃をくらうことなく戦い続けられている。
それは勿論、ビカムがかけてくれた魔法と、彼との共闘の賜物であると認識しているが、それなりに戦えるという自信がリンに勇気を与えてくれた。
埒の明かなさは獣にとってもそうだったのか、王獅子は大胆にも距離を取り、ゆっくりとした足並みで円を描くように歩く。こちらにとっても一息入れるまたとない機会。
「ビカム、どう?」
美しきエルフの下に合流したサムライガールは非常に抽象的な問いを投げ掛けた。
「……然程、手強くはない(これぐらいなら時間はかかっても勝てそうかな……?)」
ポツリと漏れるように呟いたビカムの言葉に、リンは無意識に喜色を浮かべてしまった――それこそが慢心だというのに。
彼が敵に強いだの弱いだの寸評を贈ろうが、それが人間にとってどれだけ当てにならないものか……。
答え合わせをするように、王獅子の全身から突き出た魔法杖が励起し、刻まれた魔法を発動する。
リンが魔力を知覚できたならば、王獅子の肉体が、鎧ではなく複数の力場を纏う光景を目にすることができただろう。まるでベールを被るがごとく。
極めつけは背筋に沿うように背負った巨大な剣――おそらく巨人族の戦士から強奪したのだろう――が浮遊し、王獅子の顎が柄を咥える。
邂逅した瞬間から意識していた最大の得物がついに抜き放たれてしまった。




