第二章 第24話「兵たちの跡」
「――我々はここまでです。これ以上近づけば、貴方の足手纏いになってしまう」
レベト平野に突入し、チキュウ時間換算で二時間が経過した頃だろうか。
ビカムたちは立ち込める濃い霧の前にいた。
天候は晴天にもかかわらず一向に晴れる様子のない濃霧は、自然に由来する現象ではないと示している。
「いかなる方法か、王獅子が発生させているものです。大きさはおよそレベト平野の中心部を覆い尽くすほど。王獅子の移動に併せてこの霧も動きます。魔力を含んでいるため探知魔法が攪乱され、魔法で吹き飛ばそうとしても量が膨大なせいで並の魔法使いでは歯が立ちません。せっかくの集団の利も、この霧の中では連携が活かせず脆い部分から喰い破られてしまう……嫌になるほど狡猾な相手です」
ギリ……、と歯を食いしばり悔しそうに表情を歪める第一軍の将軍。添え木を当て吊り上げられた右腕が痛々しい。この霧の中に果敢に突入し、撤退せざるをえなかった敗北の証である。
「……案内かたじけない(ありがとね)」
「ははっ! ではこれにて。ご武運を!」
王都へ引き返す行軍を見送った後。
リンは神妙な雰囲気を醸し出すビカムの眼前に立っていた。
「……リン殿」
「うん」
「……これから君に、ありったけの魔法をかける。……それでも危ないと思ったら、私を置いて離脱してほしい」
「……それほどの相手ってことね。分かった、約束は守る。貴方もよ、ビカム。自分の身は自分で守るから、私のことは気にせずに存分に戦って」
コクリと頷き、ビカムの唇は朗々と魔法の詠唱を奏で始めた。
「……【生きとし生ける被造の殻よ】【生きとし生ける被造の殻よ】【生きとし生ける被造の殻よ】【主の光輝、ただ唯一の温かき灯明】【固き誓いが、固き心を練り上げる】【原初の鳥よ、原初の魚よ、何もない空白を渡れ】【神にも誇れる抜け目なさ】【有り難き試練は生の長さを倍する】……」
「ちょ、ちょっと……そんなに魔法かけるの……?」
リンの慌てふためきように構わず淡々と魔法をかけ続ける。
一定時間、傷を回復し続ける魔法。
精神攻撃に強固な耐性を得る魔法。
体力を継続回復させ、持久力を上げる魔法。
動体視力を大きく向上させる魔法。
思考を高速化させ、体感時間を遅くする魔法。
魔法の知識が無いリンは当然与り知らぬ事実だが、これらの支援系魔法は高等魔法に位置付けられ、習得が非常に難しい。しかもこれだけ多岐に渡るバフが行使可能な魔法使いがいったいどれだけいることか。
付け加えるなら、最初に使用した、致命的ダメージを一度だけ回避する魔法は三重に重ねがけする念の入れ様。
同じ魔法を、効果が切れないうちに重ねがけするには最初より多量の魔力が必要となり、重ねるほど必要魔力は指数関数的に跳ね上がる。元よりこの魔法自体が莫大な魔力を食うというのに……。
「(本来なら防具や魔道具で補う予定だったが……店によって準備を整える作戦が全部パアになったゆえ、魔法で代替するほかない)……【真実は瞳を偽らず】」
最後に鑑定魔法でリンが帯びる魔法効果に異常や抜けがないことを確認してビカムは頷いた。
リンとしては必要な事なのだと理解しつつ、ちょっと過保護すぎじゃないかな、と複雑な面持ちだ。
さて、目下の障害は、王獅子により発生したという視界を覆う濃霧である。
しかしそれも、美剣士の足を止めるには至らなかった。
「……【道に果て無し、空に蓋無し、追いすがる風は無窮のごとし】」
ビカムの唇から紡がれた大魔法が、尋常ならざる暴威の追い風を呼び起こす。
量が膨大で並みの魔法使いでは歯が立たない……そう将軍は口惜しがったが、ここにいるを誰と心得る? 並みの魔法使いが役立たないなら、並外れた魔法使いを立てればよいのだ。
爽快なほどの勢いで千切れ飛んでいく濃霧。その晴れるに合わせ、声もなくビカムは前進した。
彼の淀みない足取りに、燎原を火が舐めるがごとく霧の領域は暴風に切り取られていく。
それでいて術者たるビカムと仲間のリンには微風すら感じることはなかった。
あれよあれよという間に霧は吹き散らされ――水蒸気の帳が覆い隠していたものが露わとなった。
「っ……」
それらの特徴は、直前まで戦闘に及んでいた形跡があること、衣服を無理矢理剥ぎ取られたような痕跡があること。
そして――体から既に熱は失われ、魂は死と運命の女神の御手に委ねられたことである。
齢十数年の少女の目に触れさせるには、あまりにも夥しい数の死体が骸をさらしていた。
「う……げぇええええッ……!」
堪えたかと思ったのも束の間、リンの胃は中の物を大地に吐瀉していた。
暴風すら貫いて鼻孔を侵食する腐臭と、真新しい饐えた臭いが混ざり合い、老兵であれば嗅ぎ慣れた戦場の空気を現出させる。
人の死を見るのは初めてではない。シティの外界で敵対した略奪者を斬ったこともある。
だが、目の前で積み重なった膨大な死は、それと同数の命が失われた事実を示しており、リンの心に大きな衝撃を与えた。
人間が無価値なゴミのように打ち捨てられ朽ち果てていく光景が、荒事に慣れていると自負していた少女の脆い部分を容赦なくえぐったのだ。
滲む視界の横から、スッと水袋が差しだされる。受け取り、冷えた水で口を濯ぐ。
「(ああ、新兵などはよく吐くんだよなぁ)……鎮静の魔法は必要か?(こういう時に覿面に効く魔法だよ)」
結果的に、この差し伸べられた手を断って正解であった。
もし頷いていたならば、リンは戦士の心構えが不適として、ビカムにより戦場から追い払われていただろう。
胃を引っ繰り返しているだけでも許しがたいのに、これ以上の無様は見せられない。
「……ありがとう。要らないわ、大丈夫。戦わなくちゃ。なんとしても、元凶を止めないと」
「……そうか(かけておいた方が良いと思うけど……)」
美剣士もそれ以上何を言うこともなく、二人はまた歩き出した。血肉によって赤く舗装された道を。
――大方の霧が晴れたと思しき頃、それは現れた。
堆く積み上げられた剣、弓、槍、槌、杖、盾、あらゆる防具……。
木製の、あるいは金属製のそれらが集まり一つの小高い丘を成しているのだ。
まるで武具の墓場。
それが、道中踏み越えてきた戦士たちの亡骸が生前身に纏っていたものだと瞬時に理解した。
武具の山からは棘のごとく魔法杖が何本も突き出しており、その内の幾本かが絶えず霧を生成し吐き出している。あれこそが軍を攪乱した濃霧の発生源に間違いない。
この武具の山が何を意味するのか。
疑問がリンの言葉となる前に、山は独りでに身動ぎした。
武具が蠢動に合わせて奏でる金属音。
山はダイナミックに形を変え――しかし武具の一つも重力に絡め取られ地に落下することはない。剣や鎧の一つ一つが細胞のごとく連結し有機的な構造を形成していると言わんばかりに。
奥深い洞穴から響いてきたかのような唸り声が空気を震わせる。
ソレは既に明確な形を成していた。
大地を踏み締める四肢。武具の間から生える禍々しい爪は大剣のごときサイズをほこる。
頭部から首を飾る鬣に王者の威厳は無く、度重なる闘争の汚れで染め抜かれていた。
ギギギ、と錆びた金具が立てるような音と共に巨大な顎が開く。途端、生々しい血臭が解放され、辺り一帯の不快さを上昇させた。
獅子――いかに異形であろうとも、そうとしか表現できない化生が顕現した。
黄色に怪しく光る双眸が眼下の人間を捉えた。
「これが……!」
リンの想像を優に超えていた。アーカイブで閲覧したことのあるライオンの知識などまるで役に立ちそうもなかった。
全高三メートル、推定体重十トン以上。
倒した獲物の皮を剥ぎ取り、人間からは武具を剥ぐ。
剥いだそれらを身に着け、鎧のごとき纏う恐ろしき魔獣。
――王獅子!
開戦を告げる咆哮がレベト平野に轟いた。




