第二章 第17話「怒らせてはいけない相手」
荒廃した外界と隔絶されたシティの内部は、人間が暮らしやすいように極限まで環境が管理されている。それらは言うまでもなく数多のシステムに依存していた。
温度・空調管理、上下水道、エネルギーインフラ、ネットワーク通信網、商取引の決済、公共生活サービス料金の徴収、ネットバンキング、犯罪者データベース管理、防衛用自立兵器の火器管制、AI自身による三位一体裁判など――
それら膨大なシステムを統御するのが、シティ中央演算室に設置された量子コンピューター『エデン』である。
天文学的な量のタスクを処理する〝神の頭脳〟は、シティ維持のために一秒の休みもなくフル稼働しており、その膨大な演算リソースの数%を他のタスクに振り分けただけでも、シティに何らかの影響が生じると言われる。
それが娯楽動画プラットフォームならば再生遅延のクレームだけで済むだろうが、もし割りを食ったのが道路交通管制だったとしたら、あちこちで交通事故が起きるであろう。
『エデン』はこの超情報技術社会において神のごとき権能を持つが、それらはシティの維持運営にのみ揮われるのだ。
矮小な人間に神がかかずらうことなどないように、たかが一個生命に権能を執行することはない。
だがもしも、それを指図できる存在がいるならば――その者こそ、まさしく神。シティという世界における全能神と言えるだろう。
その神の名は――
『アキツ・シティ運営企業『バルキロア』最高経営責任者――マーカス・ハーディ』
おそらく彼が今回の黒幕よ……アイがそう告げ終わると、広い室内を静寂が満たした。
「……(ヤバい、絶対に敵に回してはいけない相手じゃないか……)」
『――ま、黒幕が分かったところで、なぜ貴方を襲ったのかまでは皆目見当がつかないわ。その占星術とやらでジャガンとマーカスが会話していた過去が視れたなら分かるんでしょうけど』
やはりというか、ビカムに動揺は見られない。
アイが見抜いた通り、彼が襲撃者の正体に気づいていたことは、この落ち着きようを見れば明らかだ。
「(そんな大物がなぜ私を狙う? そう言えば〝鬼蜘蛛〟のジャガンが何か言っていたな……〝例のモノ〟? だと言ったか)……分からんな(いったい何を指しているのやら)」
『どうしたの?』
「……(まったく私は)なぜ怒らせてはいけない相手を、怒らせてしまったのか」
『……‼ フフ、そうね。絶対に買ってはいけない相手の怒りを買ってしまったわ』
――ついにビカムは、AIであるアイの心胆すら寒からしめた!
ビカムは今、理解に苦しんでいる。
なぜマーカス・ハーディごときの男が……この美剣士の不興を買う真似をしたのかと。
何もせずにいれば大過なく安穏と生きられたはずなのに、自ら竜の尾を踏みに行く愚行はビカムの常識の埒外にあったからだ。
超越者の苦悩というものを、アイはタイムラグを挟んで思い至り、存在しないはずの肝が冷える感覚を無意識演算領域で味わった。真に驚異的な事である。第8世代AI誕生の産声であった!
人工知能の進化はチキュウではなく、剣と魔法の異世界において成就したのだ。
そしてビカムの、尽きせぬ泉のごとく湧き出る圧倒的な自信よ。
いかにシティを恣に差配する権力を有しようと、偉大なるエルフと霊剣フェーレの前では脅威足りえないのだ。
美剣士の冷徹な頭脳は既に、恐れ知らずにも刃を向けてきた憐れなマーカス・ハーディの葬送の手段を、幾つも弾き出していることだろう……。
と、そんな折、部屋の扉がノックされる。
音も立てずビカムはするりと寝台から起き上がる。美しい形の影が床の上に広がった。
「あの、ビカム、私よ。入っていいかしら?」
「……ああ(リン殿)」
遠慮がちに扉が開き、リンが足を踏み入れる。御髪は鴉の濡れ場のごとく、天井の魔石灯の光を受けて艶々と輝いていた。旅の垢を落としてきたのだろう。
どことなく、この娘にしてはよそよそしい態度である。やはり異性の部屋へ立ち入るのは乙女の緊張を否応なく掻き立てるのだろうか。
ビカムが別れた時と同じ格好であることを、少女は純粋に疑問に思い訊ねた。
「コートも脱がずに、休んでなかったの?」
「(そのまま寝てたなんて言えない)……リン殿はよく休めたか?」
「ええ、お風呂もいただいてスッキリ! ほら」リンはまだほんのりと湿る自身の黒髪を指差す。「貴方も入ったら? 生き返る心地よ」
「……そうか……(あまりにも横になりたくて、風呂のことは)眼中に無かったな(私も後で入ろう)」
耳朶から侵入した言葉が鼓膜を震わせ、複雑神秘のプロセスを経て電気信号に変換される……
脳の聴覚中枢にて信号が音に変化された時――リンは、出会ってから何度目になろうか、恥ずかしさが溢れ出るのを禁じえなかった。
ビカムは、束の間の休息などと、心身の緊張を緩めていなかったのだ!
そう遠くない未来の闘いの気配を鋭敏に感じ取っているからこそ、今ここで兜の緒を解くことは油断に繋がると考えていたのは明白である。
それは同時に、真に気の休まる時など無いことを意味した。
休息中も戦士であり続けんと、どれほどの者が同じように振る舞えるだろうか。
「……つらくないの? そんな在り方……」
「……(??? 寝転がっていただけだから、つらいとは)何の事だ?」
「そう……努力とも思わないほど……ううん、何でもない」
「……そうか(本当に何だったのだ……?)」
誤魔化すための笑顔が無理矢理作ったものであることを、ビカム以上にリンが自覚していた。
なぜか今になって、沸々と、気づかないようにしていた感情が姿をのぞかせる。
(――私は、この人のことが、妬ましいのかな……)
それは気高きサムライの美少女には似つかわしくない負の思い。
いや、気高いからこそ抱かずにはいられないのかもしれない。
彼の生き様はそれだけで自分の至らなさを突きつけてくる。
サムライの矜持や覚悟では比肩できないほどの高みから物事を見極め、立ちはだかる敵をものともしない圧倒的な強さ、未来を知るかのように正解を選び取る頭脳……。
自分が乗り越えるのにまごついている壁を、ビカムは翼を広げ天高く飛び越えていく。
その姿に憧れ、同時に、翼を持っているのが自分ではないことに苦しむ。
同じ高みに立ちたいと目指すことはおこがましいだろうか?
彼我の力量にどれほどの差があるか理解できないのに、憧れるのは分不相応だろうか?
戦士の理想形を目の当たりにして、リンの心は悔しさを選んだ。
それが修羅の道であろうとも、かの美剣士に並び立ちたいと思ってしまった。
「――ビカム、教えてほしい事があるの」
「……私に分かることであれば(王都の洒落た服屋とか、菓子の有名所とか?)」
「〝大衝突〟のこと、二つの世界に何があったのか」
リンはビカムの碧眼を真っ直ぐ見た。
「そして、貴方のことを。どうして異界を渡るのか」
「(めちゃくちゃ真面目な質問だった)……掛けてくれ」
ビカムは部屋に備え付けの椅子と机へ目線で促した。




