第二章 第13話「伝説の帰還」
最初は開け放たれた広間の玄関扉から。
次いで広間の中心へ。
最後は奥の受付まで。
急激に呆けた隣人に違和感を覚え、その視線を辿り、沈黙をもたらした原因を瞳に映し――自らも同じく口を開いたまま言葉を失う。
そんな沈黙の連鎖が壁際まで到達した時、冒険者ギルドは喧騒を失った。まだ天高い日中に、ありえない事が起きてしまった。
ギシ……、と床板を重々しく踏み締める音が鳴る。
流麗な足の運びに連動して、床の木材は歓喜の軋みを上げ、足裏の接吻を名残惜しく見送るかのように残響の音色は切ない。
むくつけき偉丈夫も、彼らに引けを取らない女傑たちも、催眠にかかったかのごとく微動だにできなかった。肉体は手足に命令を伝える仕事を放棄し、目から送られてくる情景を脳に刻み込むことに全神経を集中している……そんな比喩すら冗談にならないほどに。
その美は鍔広の帽子を被っていた。精緻な紋様の刻まれたプレートアーマーのうえに上等なロングコートを纏っていた。緩やかなウェーブを描く豊かな金髪を流しながら、ギルドの広間、その真ん中を堂々と凱旋した。
――誰あろう、美剣士ビカムが王都冒険者ギルドに帰還したのだ!
……なお、その後ろをついて歩く、外套を纏った少女のことは、悲しいかな、誰も注目しなかった。
「――――」
受付嬢レイチェルは今、頭頂から足先まで雷に打たれたような衝撃を受けていた。
(――この人だ)
カイラスを前にしてさえ感じていた迷いなど、瞬時に吹き飛んでいた。
運命、本能、天運……この出会いと感情を表現する言葉など何でもいい。
自分が全身全霊を懸けるに値する相手が現れた。重要なのはそこだけだ。
……しかし、あまりの衝撃ゆえに、レイチェルは受付応対という己が職務を意識から亡失し、彫像のように硬直していた。無理もない、ビカムと初めて面する女性にはままあることだ。
「……(あの……受付けをしてほしいのだけれど……ちょ、ちょっと……)」
その様子に動揺することなく佇む美剣士。
ここでようやくレイチェルは夢の彼方から現実に戻り、この美しいエルフを短くない時間無為に過ごさせたことを心中で大いに恥じ入りつつ、体に染みついた言葉を紡いだのだった。
「よ――ようこそいらっしゃいませ、お客様。本日のご用向きはいかがされましたでしょうか?」
「……ギルド長に面会したい」
「お、恐れながら、面会のお約束などはありますでしょうか……?」
「(当然そんな約束は無い)……ギルド長は不在か?(建物に居るなら、仕事の隙間時間でなんとか会えないかな……?)」
ビカムは面会予約の有無など答えない。
ただ己がギルドを訪ねた時、その長が居るべき場所に居ないという不手際を言外に糾弾する。
傲慢ともいえる要求が、この男に関しては至極当然だと思わざるをえない。彼が求め欲した時に応えられない者こそが責めを負うべきなのだ! レイチェルは魂から頷いた。
……とはいえ、彼女はギルド職員である。ギリギリの理性が、安全上の観点からこの美貌の持ち主の素性を確かめねばならないと、瀬戸際で息を吹き返したのだった。
「まことに――まことに恐縮ですが、貴方様のご身分を証明できるものを何かお持ちではないでしょうか? 差し支えなければ、私めにご提示いただけないでしょうか?」
これが、時に冒険者を諫め戒めるギルド職員の態度なのか。
恭しく、畏まりながら希う様は、まるで王侯貴族に仕える臣下そのものであろう。
「……(身分証……身分証……アレでいいかな?)」
ビカムが魔法の収納袋から取り出したるは、鈍い光沢を帯びた緋色の金属で作られた板であった。掌程度の、紐を通して首から提げるにちょうどいいサイズ感だ。
レイチェルは謎の金属板を押し頂き、さっと目を走らせる。打刻されてある文字は確かにエスタード王国の公用言語の一つであるが、現代と比較して文体はかなり古めかしく、なんとも読みづらい。
『上記の者、ヒヒイロカネ級冒険者であることを証する』――金属板はまさに証明書のようで、要約するとそう記されている。
(ヒヒイロカネ級? そんな名前の等級はないはず……)
冒険者の等級は一から十の数字を冠している。固有名詞の名称では呼ばれていない。
なお、ヒヒイロカネとは超一級の武具に使用される超稀少魔法金属で、インゴット一個で王都に土地庭付きの豪邸が購入できる高価なものだ。
そう、ちょうどこの金属板のように緋色をしていて――
そこまで思考が及びかけた時、
「――確認は不要だ!」
芯の通った声が頭上からレイチェルを貫いた。
ギルドの大広間は吹き抜けになっており、二階通路の欄干に、髪に白いものが混じった壮年の男性がもたれかかっていた。左目に眼帯を付け、その下には真一文字に傷痕が走り抜けている。
一見へらへらと軽い雰囲気を醸し出しているが、彼を侮る者は知識の浅い新人冒険者ぐらいのものだ。彼が現役時代に打ち立てた偉業を誰もが知っている。
「懐かしい魔力を感じたと来てみれば、やっぱりアンタか。無沙汰も度が過ぎれば、怒りよりも会えた嬉しさが勝るもんだ。……歓迎するぜ、ビカム」
――ギルド長、ガイゼン・ユーゲルヴォーグ。
王都冒険者ギルド、そして国内全てのギルド支部を束ねる男が姿を現した。
「俺の部屋で話そう。部屋の場所は……さすがにそこまで忘れちゃいないよな? ハハハハ!」
茶目っ気を帯びた笑い声を残しながらガイゼンは欄干から身を翻し、ビカムたちの視界から消えた。
「……(忘れた)」
『……ギルド長執務室は、三階奥の突き当りの部屋よ。はあ、ビカムがいちいちそんな些末な事を記憶するわけないじゃない。ねえ?』
周囲に聞こえないようビカムにのみ指向性音波で目的地を知らせるアイ。
「……フッ(危なかった! ありがとうアイ!)」
言うに及ばず。
微笑を漏らしたビカムは颯爽と階段を目指す――気づいているだろうか、先の微笑みに何人の女冒険者が腰を砕かれ、へたり込んだのを。
「お――お待ちをっ!」
歩き去ろうとする美剣士を呼び止めたのは、誰あろうミィスフェルナその人である。
だが、様子がおかしい……その頬は紅潮し、上気した額にはじんわりと汗が滲んでいる。求愛のリビドーを無慈悲な裁判官のごとく淡々と却下してきた女英雄と同人物にはとても見えない。
「あ、アナタ……貴方様は、もしや――!」
ミィスフェルナは大きく息を吸い込み、
「――わずか齢百歳にしてエルフの森を飛び出し、諸国を漫遊しながら数々の世直しを行い――魔王大戦時にはエルフ十氏族の族長たちを説得してエルフ連合国結成の立役者となり、かつ初代〝大樹〟に就任して魔王討伐に大きく貢献――さらには邪教団の企みにより受肉した神話級悪魔を単身討ち取り、唯一の〝聖教団が認める、教団に属しない悪魔祓い〟として尊崇を集め――加えて、魔女たちと魔女狩りの確執と争いを解消し〝千年の夜〟を終わらせた――我らエルフの至宝にして偉大なる輝き、美剣士ビカム様その人では――⁉」
驚異的に長い台詞を、朗々と、淀みなく、言いきってのけた。
ざわめきが一瞬にして伝播する。ある者は瞠目して大いに慄き、ある者は静かに礼を捧げている。首を傾げているのは新人冒険者か。
「……(誰なんだ、そんな二次創作物語の主人公みたいな奴は……)」
ビカムは何も答えない。
さらに無言のまま階段を昇る様子から、彼が一切の答えを我々に与えるつもりが無いことを察し、観衆から悲鳴のような声が上がった。
「ビ、ビカム様! どうか、どうか……!」
追いすがるミィスフェルナの呼び声。
これから死に別れる恋人に対してすら出るかどうかの、切ない響き。
「……人違いだ(違うんだ。本当にたいした人物じゃないんだ、私は)」
ビカムの言葉は、そこで終わらない。
「――私は、ただのビカムだ(私は本当に、普通のエルフだよ)」
一つにして絶対の答えを投げかけ、ついに階上に姿を消してしまった。
「あ、ああ……」
ミィスフェルナは衝撃に全身を……いや、魂を貫かれていた。
この若き女エルフこそは、故事に倣い故郷の森を飛び出した。今時の若いエルフは皆そうだ……たったの百歳で旅に出て、己を鍛え見聞を広めようとするのは偉大な英雄の背中に憧れたからだ。
氏族の違いゆえ直接目の当たりにしたことはないが、ミィスフェルナが生まれた頃から既に、エルフという種族単位で彼は英雄だった。
両親からの寝物語、時折里を訪れる商人から仕入れる噂話、訪れる街の角で吟遊詩人が謳い上げる叙事詩……全てが彼の偉業を褒め称えていた。
ミィスフェルナはその全ての物語に夢中になった。彼にまつわる本は値段を問わず買い漁った。彼を讃えた記念碑や、由縁のある地は可能な限り訪れた。
どれだけ知識を蓄えたかが、彼女ができる精一杯の愛情表現――愛情という自覚はなかったが――であった。
だが、どうだろう。
彼女の長口上を全て聞いたうえで、伝説の美剣士は何と言った?
〝――人違いだ〟
〝――私は、ただのビカムだ〟
彼が伝えたかったのは、ミィスフェルナが追っているのは他人のフィルターを通して見た残影に過ぎないということ。
美剣士ビカムは、あくまでも一人のエルフとして等身大を生きている。
息をするそばで人々を救い、息を吐くついでに巨悪を討つ。
その一つ一つが英雄的偉業であるだけに過ぎない。それを目の当たりにして燥ぐのは世間の勝手、己の感知するところではない。
己は言わば、憧れの風景……の絵画を見て満足していた道化だ。
本物の風景を見たこともない分際で、実物はこうに違いないと講釈を垂れていたのだ。恥ずかしさで全身から火が出る。
伝説の、噂話の、伝承の、ビカム――それは、本当のビカムではない。
本物を見ずして何を知ったのか、何を語れるのか――人違いとは、つまりそう言う意味。
ただのビカムとは、そういう意味だったのだ。
「全てを、理解しました……ビカム様。〝真実の私を知りたければ、追いかけてこい〟――貴方様はそう仰りたいのですね……」
蒙を啓かれたミィスフェルナの横で、もう一人、同じく決意を固めた女がいる。
「決めた。私、あの人を追いかける」
受付嬢レイチェル――狩るべき獲物と出会った狩人が目覚めた。
その覚醒を静かに祝福しつつ、目端に光るものを溜めて、そっとこの場を離れる男たちの姿があった。陰ながらレイチェルに心惹かれていた彼らは恋敵の登場に憤慨するのではなく、アンタほどの人物なら仕方ないと、清々しく涙を飲んだのだった。その潔さも、彼らが一流の冒険者である証なのかもしれない。
「ビカム様、ビカム様……。そうと決まれば、うかうかしていられない。まずギルドに記録してあるあの方の全情報に目を通して――」
しかし、決意に燃える肩を後ろから掴む手があった。
「そう……貴方もこっち側に来てしまったのね、レイチェル」
「リーナ先輩? アレッカ先輩にキリエ先輩も」
振り返れば、今名を上げた職員以外にも先輩たちが勢ぞろいしている。
共通するのは、皆女性ばかりということ。
「歓迎するわ――そして――お互いに正々堂々闘いましょう。『ビカム様をお慕いする会』への入会を認めるわ」
レイチェルの瞳には、誰も彼も微笑みながら目の奥にギラギラと炎が燃えている先輩たちの姿が映っていた。
普段の格好よく、優しく、尊敬できる先輩ではなく、一人の女として好敵手に牙を剥き出しにした狩人の姿が。
(――あれ、私、もしかしてとんでもない戦場に足を踏み入れちゃった……?)
今さらになって冷や汗を浮かべ始めたレイチェルの横で、
「そ、その素晴らしい会には、どうやったら入れるんだっ⁉」
美剣士に脳を焼かれたもう一人、ミィスフェルナが食いつくようにリーナへ問いかけていたのだった。




