断章 あるいは微睡みからの目覚め
まだ日も昇らぬ、眠りの不十分な頃合いに目覚めたときに感じる、あの泥のような体の不確かさと、靄がかかってはっきりしない頭を抱えて、なんとなく、あぁ自分は目覚めかけているのだと思った、と、思った。
意識の表層で何やらとりとめもなく思考しながらそれは一向に形にはならず、そもそも頭の奥はいまだ活動を始めていない、あの曖昧模糊とした感覚を覚えながら、ただぼんやりと何をするでもなく、まるで湖の波に緩やかに揺らされて揺蕩うように、無為に時間を過ごしていた。
それはどれほどの時間だったか、判然としない。
しかし、徐々に、本当にゆっくりとした変化ではあったが、ゆるやかに意識が、感覚が、思考が動き始める。
そうして、しかし、自分がどういう状態なのかはいまだ判然としなかった。
つい今しがたまで眠っていた。
そう感じた。今まで眠っていて、そしてその眠りから今自分が目覚めかけているのだと、はっきりと分かっている。
では、その眠りとはどれほどのものだったか。
一瞬だったようにも、長く長い、百年の眠りだと言ってもよいような長さにも感じられた。
寝台の上で寝返りを打つように、体を動かそうとふと思って、しかし自分に四肢があるのかすらはっきりとはしないことに気付いた。胴体とそれを貫く背骨の感覚も無かった。けれど不快感はない。ただ単に、自分の体がどうなっているのか、わからないだけだった。
そしていつしか、目も見えないことに気付く。目がどこにあるのかもわからない。
それにもかかわらず、冷たく暗いという、本来であれば目や肌から感じられるはずの情報が、なぜか頭の中にはっきりと形作られていた。
そして、それがさも自明であるかのように感じられる。いや、感じられるという曖昧なものではなかった。その感覚こそが正しいのだと、なぜか知っていた。
その冷たさは氷のそれのようだった。それでも、体が凍えることはなかった。
ただ、そこに冷たさがあるだけだった。凍り付いた夜の中に自分がいるのだ。
無明の暗闇と凍てつく寒さとの中で、ただじっとしている自分。
不思議とそれだけで十分だった。そうしているだけで、不安や恐れなどというものは何もなかった。その代わりに、幸福もなかった。喜びも温もりも、何も。
そのことが変だとは思わなかった。そういうものだと知っていた。それが、自分にかけられた慈悲なのだということも理解していた。
そうしていると、不意に、知覚されない自分の肉体に変化が起きた。
他に感じられるものなどなかったが故に、その変化ははっきりと感じることができた。そんな唐突な変化に気付いてなお、恐れも不安もなかった。
ぼんやりとそれを他人事の様に眺めている自分がいた。
それは、その変化とは、体から何かが抜けていくような感覚に似ていた。自分の中から、大事なものが失われていくという、その喪失感。
体から抜け出していくこれは何なのだろうと思って、じっと自らの内側と思えるところを観察していた。
すると、何やら自身の体がどこか彼方へ、ゆっくりと引っ張られているのだということに思い至った。目も見えず触れる感覚すらないというのに、そうだということだけははっきりと分かった。
すると、自分を取り巻く全くの暗闇の中に、一つの星が瞬くのを感じた。頭上に輝く星を幻視した。
それは目に見えたわけではなかった。そもそも目を開いているのか閉じているのかすら分かっていない。それでも、かそけき光が遠くに灯ったのを確かに感じることが出来た。
何故だろうかと思った。
そしてその間も、自分の体はゆったりと引き寄せられていく。
寄る辺なき自分を呼ぶ者がいる?
そう思った。
しかしなぜ?
わからない。
自分はすでに終わった身だ。その残滓。そういう認識がある。ただ、このまま本当の終わりを待つだけの存在。
なのに。
もしかしたら、これはただの偶然なのかもしれないという考えが脳内に閃いた。自分とは全くかかわりのないところで何かが起きて、それに巻き込まれた可能性がある。
その方が、あり得ることだと思われた。それならば、仕方ない。成り行きに任せる外どうしようもない。
そんな風なことを考えていると、自分のなかに、突如としてちっぽけな光があることに気付いた。
そんなものが自分の内側にあるということをその時初めて知るに至った。
それはしかし、自分のものではないと瞬時に理解する。誰かから借り受けたものだった。
その小さな輝きは、頭上のそれと呼応するように瞬いている。揺らいでいる。
そんな光の温かさを、ただぼんやりと眺めていると、しばらくして今まで感じていたものよりも、ずっと大きな力が自分の周囲に渦巻いていることに遅ればせながら気づいた。
やはり、呼ばれたわけではないのだと納得する。
それもそうだ。自分に、そんな理由があろうはずもないから。
だからただじっとしたまま、体が光の方へ流されていく、その流れに身を任せた。
そうしていると、日差しのような心地よさを感じられるようになった。ここには本来あるはずのない暖かさがそこにあった。
あぁ……。
不意に涙が零れる。
求めたものが、いつ、だれが、どうしてそれを欲したのかすら分からないのに、求めていたものがそこにあるのだと、自分がそれに近づいているのだと分かった。
涙は止めどなく流れる。
春の日を受けて、氷や雪が解けて雫となって零れ落ちるように。
すると、声がした。
あまりにも小さい声だったけれど、確かに聞こえたと思った。
自然耳を澄ます。誰の気配もない世界に耳をじっと澄ます。やはり聞こえる。遠くから。彼方から。
誰かが自分に囁いている。
その声は判然としない。しかし優しい声だった。それと同時に、悲しみがあった。深く深い悲しみと後悔とに彩られた声だった。
「気にしなくていいんです」
知らずそう言っていた。何を言われているのかわからなかったが、なぜかその言葉が口をついて出た。
その声はなおも言い募る。自分に語り掛けてくる。
苦渋に満ちた声の残響が頭の中にこだまする。しかし、やはり何を言っているのかはわからなかった。分からなかったけれど、心の奥ではわかっている自分がいた。
自分が何をわかっているのかもわからないのに、確信だけがあった。
そうして、意識が、体が徐々に浮上していく。明るい方へ明るい方へと。
そうして、その呼び声が一度途切れると、そこに別の声が重なって響いてきた。
知っていると思った。その声の持ち主を知っていると思った。
あぁ……。
喉が震える。思わず声が零れる。
手を伸ばす。その声のする方へ。
そして、意識が覚醒する。頭の奥で眠っていた自分が目を覚ます。
目を見開くと、やはり一つの星が暗闇に浮かんでいた。その光が小さく震えるように輝いている。そのまぶしさ。
伸ばした手はその光には届かない。
徐々に意識が薄れていき、唐突に体がどこかに放り出された。体の重みが帰ってくる。四肢ははっきりとそこにあって、空気の流れを風として感じる。強張った体に血液が巡る。ゆっくりと鼓動を始める心臓と、吸い込む空気が肺を満たす感覚。そんな当たり前のことに何故だか懐かしさを覚える。
そうして。
そうして、意識が覚醒する直前に、誰かが囁いた。
――可哀そうな子……




