【第2部】 プロローグ 地獄の門
シベリア極北、サハ共和国。
北緯六十七度、東経百三十四度。
人間が生きることを、地球そのものが拒絶しているような場所だった。
外気温――零下五十度。
風が吹けば、体感温度はさらに下がる。
吐き出した息は、白い霧になる暇さえない。
口元から漏れた水分が瞬く間に凍りつき、睫毛に付着した氷の粒が視界を白く曇らせる。
防寒服の隙間から入り込んだ冷気は、皮膚を刺すというより、肉そのものを直接削っていくようだった。
吸い込んだ空気が冷たすぎて、肺の奥が痛む。
深く息を吸えば、喉から胸の奥までが凍りついていくような錯覚に襲われる。
ここでは、呼吸するという当たり前の行為でさえ、命を削る。
ゴオオオオオオオオオ――――ッ!!
大地を這うような地吹雪が吹き荒れていた。
雪は上から降ってくるだけではない。
地面に積もった雪そのものが風に巻き上げられ、横殴りの砂嵐のように視界を切り裂いていく。
数十メートル先はおろか、数メートル先に何があるのかさえ分からない。
音さえも、吹雪に食われる。
いや。
食われるどころか、何倍にも増幅される。
ゴォォォォ……という低い唸り。
ギィィィ……という金属の軋み。
遠くで何か巨大なものが動くたび、大地そのものが低く震えているような重低音が響いてくる。
そんな死の世界の中央に――
「それ」は、巨大な口を開けていた。
バタガイカ・クレーター。
地元の先住民族が、畏怖を込めてこう呼ぶ場所。
――「地獄の門」。
白銀のツンドラを無残に引き裂く、巨大な大地の裂け目だった。
二〇五〇年。
数十年にわたる異常気象によって永久凍土が融解し、地表が内側から崩れ落ちた。
地中深く、高圧下で封じ込められていた古代のメタンガスが噴出し、凍りついた大地を押し広げるようにして、巨大な陥没地形を形成したのだ。
その傷口は、もはや自然の地形と呼ぶには生々しすぎた。
長さ一キロメートル。
深さ数百メートル。
地球の表皮を、巨大な爪で引き裂いたかのような断崖が、果てしなく続いている。
剥き出しになった地層は、幾重もの年代を積み重ねた地球の断面図だった。
黒い泥。
青白い氷。
凍りついた古代の土壌。
そして、その中から突き出している巨大な骨。
マンモスの牙。
巨大な肋骨。
名も知らぬ絶滅古生物の骨格。
何万年もの時間を氷の中に閉じ込められていたそれらは、断崖の側面に突き刺さり、無数の墓標のように並んでいた。
風が吹くたび、骨の隙間を抜けた冷気が、ヒュウウウ……と不気味な音を立てる。
まるで、地底から死者たちが呻いているようだった。
雪に覆われているはずなのに、そこには妙な匂いがあった。
湿った土の匂い。
腐植した古代生物の残骸が放つ、かすかな獣臭。
そして、地底から漏れ出してくるメタンと硫黄に似た、鼻の奥を刺激する異様な臭気。
何万年ものあいだ閉ざされていた地球の内側が、初めて外気にさらされている。
そんな感覚を覚えさせる場所だった。
だが――
この巨大な陥没孔そのものですら。
この地の本当の異常に比べれば、まだ序章に過ぎなかった。
クレーターの最深部。
崩落した岩盤のさらに下。
地底千数百メートル。
太陽の光など、とうの昔に届かなくなった暗黒の底に、それは眠っていた。
人類の文明史より遥か以前。
いや――
人類という生物が、この地球上に存在するよりも前に造られたとしか思えないもの。
巨大な黒い石柱。
幾何学的に切り出された回廊。
そして、地球上のどの文明にも属さない構造物。
――超古代の巨石神殿。
それは、まるで化石のように永久凍土の底へ埋め込まれていた。
そして現在。
その神殿を発掘するため、地獄の底に一つの施設が築かれていた。
ゴオオオオオオオオ――――ッ!!
吹雪の音を切り裂く、重金属の軋み。
続いて、大型エンジンの轟音。
巨大な照明が一斉に点灯し、青白い岩壁を昼間のように照らし出す。
クレーターの底に極秘裏に設営されたのは、無数の黒と白のプレハブモジュールを連結して作られた巨大施設だった。
アダム・ジェノミクス社。
極北第一採掘プラント。
その規模は、もはや採掘施設という言葉では表現できない。
巨大な発電設備。
掘削機械。
物資輸送用の無人ドローン。
武装警備車両。
そして、数十名の技術員と武装兵士。
すべてが、この地底に眠る「何か」のためだけに存在していた。
施設の中央。
無数の投光器に照らされていたのは――
高さ二十メートルを超える、半透明の壁だった。
永久氷壁。
しかし、それを単純に「氷」と呼ぶことには、どこか違和感があった。
青白く、黒く、そして時折、内部に赤とも紫ともつかない微かな光が走る。
何万年という時間の中で、何層もの鉱物粒子が積み重なり、圧縮され、氷そのものに取り込まれている。
表面には傷一つない。
通常の氷ならば、どれほど硬く凍結していても、圧力を加えれば亀裂が生じる。
だが――
この壁には、それがない。
まるで「傷つく」という概念そのものを拒絶しているようだった。
その向こう。
漆黒の壁面が、投光器の光を吸い込んでいる。
巨石神殿。
アダム・ジェノミクス社が、この地獄の底までやってきた理由だった。
「……三十二番、出力を上げろ!」
「了解!」
「冷却系統は?」
「正常!」
「なら、もう一度だ!」
ゴォォォォォン!!
巨大な掘削機が唸りを上げた。
重機のアームがゆっくりと動き、その先端に装着された工業用ダイヤモンド・ロータリーカッターが、永久氷壁へと押しつけられる。
ギャガガガガガガガッ!!
耳をつんざく摩擦音。
ダイヤモンド刃が高速回転し、氷壁との接触面から無数の火花が飛び散った。
「いける……!」
技術員が息を呑む。
だが――
次の瞬間。
バキィィィィン!!
甲高い破砕音が響いた。
カッターの刃が、根元から砕け散った。
「……え?」
飛び散ったタングステン合金の破片が、弾丸のような速度で周囲へ跳ね返る。
ガンッ!
ガンッ!
凍土へ突き刺さる。
一人の技術員が、とっさに顔を腕で庇った。
「また破損……!?」
「刃先の温度、どうなってる!?」
「異常ありません!」
「じゃあ、なぜ切れない!?」
「分かりません!」
技術員の声が裏返った。
「切れていないんじゃない!」
別の技術員が、震える指でモニターを指した。
「……接触した瞬間に、熱が消えています!」
「何だと?」
「レーザーでも同じです! 熱を与えているのに、氷壁側の温度が上がらない!」
「そんな馬鹿な……」
彼らは二〇五〇年の技術者だった。
通常の掘削装置では突破できないことなど、最初から分かっている。
だからこそ、工業用ダイヤモンド。
超高圧掘削。
熱融解レーザー。
高周波振動カッター。
この時代に存在する、ありとあらゆる掘削技術を投入していた。
だが――
何をしても。
この壁は傷一つつかなかった。
「熱融解レーザー、出力最大!」
「了解!」
ズガァァァァァン!!
赤白い光線が、永久氷壁の中央へと叩き込まれる。
周囲の空気が一瞬で歪み、雪が蒸発する。
普通の氷なら、瞬時に巨大な穴が開くほどの熱量。
だが。
レーザーが消えたあと。
そこには――
何もなかった。
傷一つ。
亀裂一つ。
水滴すら残っていない。
技術員たちの間に、重苦しい沈黙が広がった。
「……熱を、吸収した?」
誰かが呟いた。
「いや……違う」
別の男が首を振る。
「吸収したんじゃない。まるで……最初から存在しなかったことにされたみたいだ」
その時。
ギィ……。
ギィィィ……。
硬質な金属音が響いた。
作業員たちが、一斉に振り返る。
白濁した蒸気の向こうから、一人の男が歩いてくる。
ゆっくりと。
しかし、一歩一歩が異様に重い。
ズン。
ズン。
ズン。
雪面が、その重量に合わせて沈み込んでいく。
アダム・ジェノミクス社。
極地特殊執行部隊隊長――
イワン・ボロディン。
その姿を見た技術員の一人が、無意識に息を呑んだ。
人間。
そう呼ぶには、あまりにも異質だった。
男の右半頭部から顎にかけては、無骨なチタン合金の装甲で覆われている。
皮膚の代わりに露出した金属の継ぎ目。
耳の位置には、小型の放熱孔。
首の内部には人工気管。
そして右目には――
紅い光学義眼。
ジリ……。
ジリジリ……。
機械音とともにレンズが動き、永久氷壁の表面を走査していく。
焦点が合うたびに、赤い光が微かに明滅した。
「……」
ボロディンは無言で氷壁を見上げた。
その口元が動く。
だが、そこから聞こえたのは、人間の声とは少し違っていた。
『……突破できんのか』
低く、乾いた人工声帯の音。
呼気とともに、首元から白い蒸気と、微量のオイルミストが吐き出される。
シュー……。
その音を聞いた若い技術員が、無意識に一歩後ずさった。
ボロディンが首を動かす。
ギギッ。
金属の関節が軋む。
紅い義眼が、その技術員を捉えた。
「ひっ……」
「恐れるな」
人工声帯が低く唸る。
「私は、お前を殺すつもりはない」
その言葉とは裏腹に。
男の右手が、ギギギ……と音を立てた。
五本の指。
そのすべてが鋼鉄だった。
指先がゆっくりと曲がる。
まるで重機の油圧アームのように。
「ただし――」
ボロディンが永久氷壁へ視線を戻した。
「この壁を壊せないことの方が、私には腹立たしい」
鋼鉄の指が、強く握り込まれた。
ギギギギギギッ――。
その音に、周囲の技術員たちは誰も口を開かなかった。
「熱融解レーザーの出力は最大です!」
技術員が震える声で報告する。
「しかし、熱を吸収したそばから、打ち消されています!」
ボロディンの紅い義眼が、ゆっくりと細められた。
「現代の熱工学が通用せんということか」
短い沈黙。
「……こざかしい」
その直後だった。
ピピッ。
ボロディンの側頭部に埋め込まれた通信器が、小さな電子音を発した。
『――進捗はどうだ、ボロディン』
その声だけが。
この地獄のような場所には、あまりにも不釣り合いだった。
穏やか。
静か。
そして、冷たい。
ジュネーブから九千キロメートル。
氷雨の降るスイスから届いた、アダム・ジェノミクスCEO――ジュリアン・ヴァンスの声だった。
ボロディンは背筋を伸ばした。
「……申し上げます。神殿の隔壁を覆う永久氷層は、従来の掘削装置およびサーマルカッターを完全に無効化しています」
『そうか』
「突破には、核弾頭クラスの純粋な熱源が必要になる可能性があります」
一瞬の沈黙。
『核など使えば、肝心の石板が粉砕される』
ジュリアンの声には、苛立ちがなかった。
驚きも。
焦りも。
ただ、冷静な確信だけがあった。
まるで――
この結果を、最初から知っていたかのように。
『だから、別の方法を使う』
「別の方法……?」
『ああ』
通信の向こうで、カップを置く小さな音がした。
カチリ。
その音が、地獄の門とはあまりにも対照的だった。
こちらでは吹雪が荒れ狂い、重機が軋み、鋼鉄の刃が砕けている。
それなのに。
ジュネーブの向こう側では、静かな部屋で男がコーヒーを飲んでいる。
世界で最も安全な場所から。
世界で最も危険な場所を、数字だけで見ている。
『安心しろ。氷を融かすための“鍵”は、すでにそちらへ向かっている』
「鍵……ですと?」
『日本海を這う鉄の翼――旧式のエクラノプランだ』
ボロディンの紅い義眼が、僅かに明滅した。
『防空レーダーの死角を突いたつもりだろう。だが、衛星のサーマルセンサーまでは欺けない』
「……誰が乗っている?」
ジュリアンは、ほんの少しだけ笑った。
『神代宗助の息子だ』
ボロディンの機械化された顔面が、僅かに動く。
『“オリジナル”――神代創』
その名前を聞いた瞬間。
永久氷壁の向こう。
漆黒の神殿の奥から――
ドクン。
何かが脈打った。
ボロディンの義眼が、瞬時にそちらを向く。
「……今のは?」
『どうした?』
「いえ……」
再び。
ドクン。
今度は、はっきり聞こえた。
音ではない。
振動だった。
氷壁そのものが、微かに震えている。
「神殿が……反応しています」
ジュリアンは沈黙した。
そして。
『第一の石板が、あの少年を目覚めさせた』
淡々とした声だった。
『あの熱だけが、神殿への扉を開くことができる』
ボロディンが永久氷壁を見つめる。
「……つまり、あの少年を利用して壁を融かすと?」
『その通りだ』
一拍。
そして、ジュリアンは続けた。
『ボロディン。プラントの全戦力を展開しろ』
「了解」
『クレーターの底で迎え撃て』
「生け捕りにしますか?」
『必要はない』
その声に、温度が消えた。
『ただし――』
ジュリアンの声が、さらに低くなる。
『手足をもぎ取るのは、その熱で神殿の氷壁を融かさせた後だ』
通信の向こうで、微かな水音がした。
ポタ……。
ポタ……。
まるで、氷が溶けているような音。
だが。
その音が何を意味するのか。
ボロディンには分からなかった。
「……了解いたしました」
通信が、プツリと切れた。
再び。
地獄の門に吹雪の音が戻ってきた。
ゴオオオオオオオオ――――ッ!!
ボロディンは、ゆっくりと振り返った。
背後には、極地仕様の強化サイボーグ兵たちが整列している。
白銀の装甲。
油圧式の脚部。
機関砲へ変形する腕。
胸部装甲には、アダム・ジェノミクス社の二重螺旋の紋章。
彼らは兵士ではない。
人間の姿をした兵器だった。
ボロディンが一歩前へ出る。
ズン。
「聞いた通りだ」
サイボーグたちが、一斉に顔を上げた。
「獲物が、自らこの地獄の底へ飛び込んでくる」
ボロディンのチタン製の唇が、ゆっくりと歪んだ。
笑った。
人間ならば、笑みと呼べる表情だった。
だが。
そこに、人間らしい感情はなかった。
「神話の鍵を――生かして迎え入れろ」
紅い義眼が、暗闇の向こうを見つめる。
「役目を終えた瞬間に、処分する」
ゴオオオオオオオオオ――――ッ!!
頭上を覆う鉛色の雲が、さらに低く垂れ込める。
吹雪が激しさを増した。
地獄の門。
巨大なクレーターが、黒々とした口を開けている。
その底で。
何万年もの眠りについていた古代の神殿が、静かに目を覚まし始めていた。
そして遠く――
白銀の世界の彼方から。
一機の旧式エクラノプランが、低空で飛んでくる。
その機体の内部。
十九歳の青年――神代創は、まだ知らない。
この先に待っているのが、単なる「第二の石板」ではないことを。
そして。
かつて父が自分の身体に埋め込んだ「熱」が――
この地獄の門を開くために、最初から用意されていた可能性を。
零下五十度の世界を。
鉄の翼が切り裂いていく。
地獄の門が、静かにその口を開いた。
――神代創を、迎え入れるために。




