第9話 白銀のツンドラと無限軌道
窓の外は、白かった。
空も、海も、雪原も、その境界さえ失っている。
旧ソ連製エクラノプランの分厚い船体が、轟音を響かせながらオホーツク海の上を滑っていた。
機体の下、わずか数メートルのところを、灰色の海面が流れていく。
波ではない。
海面を覆う薄い流氷だった。
巨大な翼が生み出す地面効果によって、機体は海面すれすれを滑空している。エンジンの爆音が船体を震わせるたび、前方の流氷が次々と砕け、白い破片が左右へ弾け飛んでいった。
ゴゴゴゴゴゴ――。
金属の腹が氷を擦る。
そのたびに、機体全体が不気味に軋んだ。
「うおおおおっ! まだいけるッスよ!」
操縦席でレオが叫んだ。
「この程度の流氷でビビってたら、旧ソ連の漢にはなれないッス!」
「誰が漢になれと言った!」
後部から白石博士の怒鳴り声が飛んできた。
「機体が壊れたら、わしら全員、海の上で凍死だぞ!」
「大丈夫ッス! 壊れるときは着陸してからッス!」
「それを世間では壊れると言うんだ!」
いつもの二人のやり取り。
だが、創には笑う余裕がなかった。
簡易ベッドに横たわったまま、右腕を見つめる。
そこだけが、異常だった。
防寒着の袖の下。
右腕の皮膚は、うっすらと赤黒く染まっていた。
血管が浮き上がり、その奥を何かが脈打っている。
ドクン。
ドクン。
心臓とは別のリズムだった。
熱い。
身体の中心から、右腕だけに火が流れ込んでいるようだった。
「……まだ、熱いのか?」
白石が尋ねた。
「うん」
創は短く答えた。
「外は、あんなに寒いのにな」
窓の向こうを見た。
温度表示は――。
外気温、マイナス五十度。
数字を見ただけで、身体が震える。
窓の隙間から入り込むわずかな冷気ですら、皮膚を針で刺されているように痛かった。
試しに創は、口元のマスクを少しだけずらした。
「……っ」
息を吸った瞬間、鼻の奥が痛んだ。
冷たい。
冷たいというより、空気そのものが刃物だった。
肺へ入ってくるだけで、気管支の内側が凍りつくような錯覚がある。
吐いた息は白い霧になる。
そして、その霧の一部が瞬く間に細かな結晶へ変わり、マスクの縁に張りついた。
「……これ、人間が住める温度じゃないだろ」
「だからシベリアなんだよ」
白石は眼鏡を押し上げた。
「この環境じゃ、露出した皮膚は短時間で凍傷になる。呼吸するだけでも気道から熱を奪われる。普通なら長時間ここにいること自体が危険だ」
白石の視線が、創の右腕へ移る。
「それなのに、お前の身体は逆だ」
「……」
「外気がマイナス五十度なのに、右腕だけは内部から熱を発生させている」
白石が小さく息を吐いた。
「まるで、身体の中に小型の炉があるみたいだ」
創は右手を握った。
指先に力を込める。
その瞬間。
ドクン――。
熱が強くなった。
「……っ!」
創は反射的に手を離した。
「痛いか?」
「痛いっていうか……熱い。でも、それだけじゃない」
「何だ?」
「力を使ったとき、身体の奥から何かを持っていかれる感じがする」
白石の表情が変わった。
「そうだろうな」
博士はベッド脇の医療端末を確認した。
「前回の測定値を見る限り、お前の身体は能力を使った直後、異常な代謝状態に入っている」
「代謝?」
「ATPだ」
白石は創の顔を見た。
「細胞が動くための、いわばエネルギー通貨だ。筋肉を動かすのも、神経を働かせるのも、細胞膜を維持するのもATPが必要になる。お前も医学を志すものならそれぐらいは知っていよう。」
「それが……なくなる?」
「正確には、一時的に需要が供給を大幅に上回る」
白石は医療端末を操作しながら続けた。
「お前の右腕で起きている熱産生は、普通の筋肉運動や発熱とは桁が違う。ミトコンドリアを異常な速度で働かせている可能性が高い。その結果、ATPを猛烈な勢いで消費する」
「じゃあ……」
「ガソリンを食いながら走る車に例えるなら、普通のエンジンじゃない」
白石はため息をついた。
「三輪車にロケットエンジンを積んだようなものだ」
「……三輪車?」
創が眉をひそめた。
「車体は三輪車のままなのに、エンジンだけがロケットだ。そりゃ、前に進むことはできる。だが、車体が耐えられん」
白石は創の右腕を見た。
「筋繊維には微細な損傷が起きる。水分も失う。電解質も乱れる。場合によっては細胞そのものが熱障害を起こす」
「つまり……」
「強い力を使えば使うほど、お前自身の肉体が壊れる」
その言葉が、重く胸に落ちた。
創は黙った。
窓の外では、雪が横殴りに流れている。
あれほどの寒さなのに、自分の右腕だけが熱を抱えている。
まるで身体そのものが、周囲の世界を拒絶しているようだった。
「……俺は、本当に人間なのかな」
ぽつりと呟いた。
白石はすぐには答えなかった。
その沈黙が、かえって怖かった。
やがて博士は、低い声で言った。
「少なくとも、今のところはな」
「……今のところ?」
「それ以上は、わしにも分からん」
そのときだった。
操縦席から、レオの声が響いた。
「オーライ! そろそろ降りるッスよ!」
機体が大きく傾いた。
「うわっ!」
創はベッドの手すりを掴んだ。
エクラノプランの船体が、ゆっくりと高度を下げていく。
雲の切れ間から、地表が見えた。
海岸線。
白い雪原。
そして、その向こうに延々と続く、凍りついた大地。
まるで世界そのものが死んでしまったかのようだった。
「オホーツク海沿岸、視認!」
レオが叫ぶ。
「着陸するッス!」
機体が海面へ近づく。
数十メートル。
十メートル。
五メートル。
そして――。
ズザザザザザッ!!
エクラノプランの船底が流氷を蹴散らした。
白い氷片が両側へ猛烈な勢いで飛び散る。
船体が大きく揺れ、エンジンの轟音が一段と高くなった。
「うおおおおおおおおっ!」
レオが笑っている。
「着地じゃない! これはもう着水だろ!」
白石が怒鳴る。
「細かいことは気にしないッス!」
「細かくない!」
数秒後。
機体が雪原へ乗り上げ、長い滑走の末、ようやく停止した。
エンジンが切れる。
――静かになった。
いや。
完全な静寂ではない。
船体を叩く風の音がある。
ゴォォォォォ……。
金属を撫でるような低い風鳴り。
その音だけが、巨大な機体の内部へ響いていた。
レオが操縦席から立ち上がった。
「はい。極北到着ッス」
「……本当に来たんだな」
創は呟いた。
「来ちゃったッスね」
レオは笑った。
「でも、ここからが本番ッスよ」
ハッチを開けた。
瞬間。
ゴォッ!
凍った風が機内へ雪崩れ込んできた。
「さ、寒っ……!」
創は思わず顔を覆った。
頬が一瞬で痛くなる。
露出した皮膚を、無数の氷の粒が叩いていく。
「全員、装備を確認!」
白石が叫んだ。
「日本から来た格好のまま外へ出たら、数分で後悔するぞ!」
「問題ないッス!」
レオが機内後方の壁を叩いた。
「旧ソ連様の遺産があるッスから!」
「……遺産?」
レオが、古びた金属製ロッカーを開けた。
ギィィ……。
中から、何着もの分厚い防寒服が現れた。
灰色。
濃緑色。
茶色。
どれも現代のスマートウェアとは程遠い。
異常なほど分厚く、重そうだった。
ところどころに古い補修跡があり、布地からは微かなカビと油の匂いがする。
「旧ソ連軍の極地サバイバルギア!」
レオが誇らしげに宣言した。
「このエクラノプランに積まれてた非常用装備ッス。何十年ものでも、寒さを防ぐだけなら現役ッスよ!」
創は一着を持ち上げた。
「……重っ」
「そりゃそうッス」
「これを着て動くのか?」
「動くッス」
「戦えるのか?」
「そこは気合いッス」
「科学的じゃないな」
エマが笑った。
「でも、今は気合いも必要かもしれないわね」
結局、全員が古い防寒具へ着替えることになった。
創は分厚いインナーの上から防寒服を重ね、さらに毛皮付きのフードを被った。
手袋を二重にする。
ブーツを履く。
最後に顔の大部分を覆う防寒マスクを装着した。
鏡代わりの金属板に映った自分の姿を見て、創は苦笑した。
「……なんだこれ」
「似合ってるッスよ」
レオが肩を叩いた。
「完全にシベリア帰りの人ッス」
「まだ来たばかりだろ」
「気持ちはもうベテランッス」
だが、その直後。
創は右腕を見た。
分厚い防寒服の袖越しでも分かる。
そこだけが、熱い。
外気マイナス五十度。
自分の身体は、その真逆にある。
エマが創を見つめた。
「……創」
「大丈夫」
「本当に?」
「うん」
そう答えたものの、自信はなかった。
エマは何も言わず、小さな保温ボトルを差し出した。
「これ、飲んで」
「何?」
「ハーブティー。ジンジャーとカモミール」
創はボトルを受け取った。
蓋を開ける。
湯気が立ち上った。
その香りだけで、胸の奥が少し緩む。
一口飲む。
温かかった。
喉から胸へ、ゆっくりと熱が落ちていく。
「……うまい」
「よかった」
エマが微笑む。
「あなたの右腕は、確かに普通じゃない。でも――」
彼女は創の目をまっすぐ見た。
「あなた自身まで、化け物になったわけじゃないわ」
「……」
「怖くなったら、ちゃんと言って」
エマの声は、吹雪の音の中でも不思議なほど穏やかだった。
「あなたは人間のままだよ」
創は答えなかった。
ただ、もう一度ハーブティーを飲んだ。
その温かさだけが、今の自分を現実につなぎ止めているような気がした。
*
エクラノプランの後部ハッチが閉じられる。
代わりに、雪上車へ換装されたアルゴー号が姿を現した。
通常のタイヤは外されている。
その代わりに装着されているのは、幅広のゴム製クローラー。
雪面を掴むための特殊なスノーエクスプレス仕様だった。
「どうッス?」
レオが胸を張る。
「タイヤじゃないッス。これは極地を走るための脚ッスよ」
エンジンが始動する。
低い振動が大地へ伝わった。
ゴゴゴゴゴ……。
「アルゴー号、モード極地仕様!」
レオが叫ぶ。
「行くッスよ!」
クローラーが雪を噛んだ。
アルゴー号は、白銀の世界へ飛び出した。
数分もしないうちに、エクラノプランの姿は吹雪の向こうへ消えていった。
周囲には何もない。
道路もない。
標識もない。
人の気配すらない。
ただ、白い大地が続いている。
車内は暖房が効いていた。
外の寒さとは別世界だった。
「……助かった」
創は座席に身体を沈めた。
手袋を外す。
指先がじんじんする。
レオが運転席から振り返った。
「極地ドライブの醍醐味ッスよ」
「醍醐味って……」
「外は死ぬほど寒い。でも車の中はポカポカ。最高じゃないッスか」
「その発想、どうなってるんだよ」
創は少し笑った。
ほんの一瞬。
旅の中で初めて、身体から力が抜けた。
だが――。
助手席の白石は笑っていなかった。
車載モニターを睨みつけている。
「……おかしい」
「何が?」
エマが尋ねた。
「レーダーが死んでいる」
画面には、ノイズが走っていた。
「アダム社のジャミング?」
「それだけじゃない」
白石は周波数を切り替えた。
だが、どの帯域にも奇妙な波形が現れる。
一定の周期。
しかし、自然界の電磁波とは明らかに違う。
「地下からだ」
白石が呟いた。
「この地域の地下深くから、強烈な電磁的ノイズが出ている」
エマが端末を取り出した。
「ちょっと待って」
波形を重ねる。
一つ。
二つ。
三つ。
そして――。
エマの目が見開かれた。
「……これ」
「どうした?」
「丹後で記録した石板の波形と似ている」
車内の空気が変わった。
エマは端末を操作し、保存されていたデータを呼び出した。
古代文字。
音波。
周波数。
丹後の地下で見つかった、あの石板。
「完全に同じではない。でも、構造が似ている」
エマは波形の周期を解析していく。
「これは文字じゃない。音律そのものなのよ」
「音律?」
「古代の言葉を、単なる文字列じゃなくて音のパターンとして記録している」
ホログラムに、奇妙な波形が浮かんだ。
「お父様のノートにあった文章を重ねると……」
エマがキーを叩く。
波形が一つに重なった。
やがて地球のホログラムが表示される。
青白い地球が回転する。
アジア。
ロシア。
シベリア。
そして――。
赤い点が一つ、北東部に浮かび上がった。
「ここ」
エマが指を示す。
「サハ共和国」
「サハ……」
創が呟く。
「お父様が残した言葉を、もう一度見て」
エマが父のノートを開く。
そこには、創の血で解錠されたページがあった。
宗助の筆跡。
『氷の閉ざす北の果て、巨獣の骨が眠る大地へ向かえ』
創はその文章を見つめた。
「巨獣の骨……」
「マンモスね」
エマが言った。
「シベリアでは、永久凍土の融解によって古代の動物の骨や遺骸が次々と姿を現している。そして――」
ホログラムがさらに拡大する。
地表に巨大な裂け目が現れた。
「ここにある」
エマの声が低くなる。
「バタガイカ・クレーター」
白石が画面を見つめた。
「……地元では『地獄の門』と呼ばれている場所だな」
「そう」
エマは頷いた。
「お父様の言葉と、石板の音律。それから地下から発生しているこの異常な波形。全部が、そこを指している」
創は黙ってホログラムを見た。
巨大な陥没地形。
底の見えない黒い裂け目。
まるで大地そのものが、口を開けているようだった。
右手が熱くなる。
ドクン。
創は反射的に手を握った。
「……俺を呼んでる」
誰も答えなかった。
ただ、エマだけが静かに創を見ていた。
「行くの?」
「うん」
創は窓の外を見た。
白い世界。
吹雪。
果てのない凍土。
その遥か彼方に、父が残した道標がある。
「親父が何を考えていたのか、確かめる」
レオがハンドルを握り直した。
「了解ッス」
アルゴー号のクローラーが、再び雪を噛み砕く。
ゴゴゴゴゴ……。
白銀の大地を、黒い車体が進んでいく。
その先に待っているのは――。
地獄の門。
バタガイカ・クレーター。
そして、創の身体に眠る第二の力。
極北の白い世界の中で。
創の右腕だけが、赤黒い脈動を繰り返していた。




