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第10話 裂け目の死線――極地サイボーグ急襲

バタガイカ・クレーター。

 その巨大な裂け目を、アルゴー号は見下ろしていた。

 地上から見れば、ただの巨大な陥没地形にしか見えない。だが、縁まで近づいて初めて分かる。これは穴ではなく、断崖だった。白銀の大地が、途中から何かに食いちぎられたように途切れ、その向こうには底の見えない暗闇が広がっている。

 吹き上げてくる風には、雪だけではなく、湿った土と古い氷の匂いが混じっていた。何万年ものあいだ太陽の光を浴びることのなかった地層。その底に眠っているものが、風に乗って地上まで這い上がってくるようだった。

「……ここを降りるのか?」

 創はフロントガラス越しに奈落を見下ろした。視線を落としても底は見えず、遠い闇の中で、時折雪煙だけが渦を巻いている。

「冗談じゃないッスよね、と言いたいところだけど」

 レオが運転席から立ち上がった。

「道はここしかないッス!」

 いつもの軽口だったが、その声にもわずかな緊張が混じっていた。レオは防寒手袋を締め直すと、運転席を降りる。

「ちょっと待ってろよ、アルゴー号」

「何をする?」

 白石が尋ねた。

「下りる準備ッス」

 レオは車体後部から、人間の腕ほどの太さがある鋼鉄製ワイヤーを引きずり出した。その先端には大型のアンカーガンが取り付けられている。

「これで凍土に固定する」

 クレーターの縁へ歩いていくレオを、吹雪が横から激しく叩いた。わずか数メートル先にいるだけなのに、その姿が雪煙の中へ消えたり現れたりする。

「アンカーの深度は?」

 白石が叫んだ。

「凍土の奥、マイナス五メートル!」

「浅い!」

「その下に基盤岩があるッス!」

「そこまで撃ち込め!」

「了解!」

 レオがアンカーガンを構え、巨大な銃口を凍土へ向けた。

「――いくッス!」

 バシュゥゥゥン!!

 轟音とともに鋼鉄のアンカーが飛び出し、凍った地面を突き破って地中へ消えた。数秒後、ワイヤーが張り、ギギギギ……と金属が悲鳴を上げる。

「固定!」

 レオが叫んだ。

「いけるッス!」

 アルゴー号がゆっくりと前進する。やがて車体前部がクレーターの縁を越え、前輪――クローラーの先端が空中へ突き出した。

「……っ」

 創の喉が鳴る。

 次の瞬間、車体が大きく傾いた。

「うわっ!」

 エマが座席の手すりを掴む。アルゴー号の前半分は完全に宙へ突き出し、その下には百メートルを超える断崖と、さらに深く続く暗闇が口を開けていた。

「レオ!」

「大丈夫ッス!」

 レオがウインチのレバーを倒す。

 ギギギギギギ……!

 ワイヤーが少しずつ巻き出され、アルゴー号はゆっくりと奈落へ沈み始めた。クローラーが空中で回転し、雪を掴もうとするように何もない空間を虚しく削っている。

 その瞬間、ゴウンッ! と車体が大きく揺れた。

「きゃっ!」

 エマが声を上げ、創も反射的に手すりを掴む。車体の金属がギシィ……と嫌な音を立てた。

 下を見ると、断崖の壁が信じられない速度で上へ流れていく。

 いや、違う。

 アルゴー号が下へ降りているのだ。

 何万年もの時間を閉じ込めてきた地層が、目の前を逆流するように通り過ぎていった。黒い土、灰色の泥、その間に挟まった古い植物の層。さらに下るにつれて地層の色は茶色から黒、そして赤褐色へと変化していく。

 まるで、地球の歴史そのものを縦に切り開いて覗き込んでいるようだった。

「……すごい」

 創が呟いた。

 だが、エマは答えない。両手で手すりを握りしめた指先が真っ白になっている。

「エマ?」

「……平気」

「顔、真っ青だぞ」

「平気よ」

 声が少し震えていた。

 その直後だった。

 ゴンッ!

 車体の側面に何かがぶつかり、アルゴー号が大きく振られた。

「きゃあっ!」

 ワイヤーが悲鳴を上げ、車体が断崖から数メートル離れて、巨大な振り子のように揺れる。

「うわああああっ! 揺れる! 揺れるッス!」

「分かっている!」

 白石も座席へしがみついている。

 外では猛烈な突風が吹き荒れ、アルゴー号の巨体を木の葉のように揺さぶっていた。サスペンションが限界まで沈み込み、ギギギギ……と不吉な音を立てる。

「ワイヤー、大丈夫か!?」

「たぶん!」

「たぶんじゃない!」

「じゃあ大丈夫ッス!」

「意味が同じだ!」


 創は笑う余裕もなかった。

 再び下へ目を向ける。

 暗い。ただひたすら暗い。

 そして、その暗闇の中から何かが突き出していた。

「……あれは?」

 創が指を向ける。

 断崖の壁面から、白く巨大なものが伸びていた。

 骨だった。

 何メートルもある巨大な肋骨が、凍った土の中から半ば露出している。さらに奥には、空洞になった眼窩のような穴まで見えた。

「マンモス……?」

 エマが呟く。

「いや」

 白石が目を細めた。

「もっと古い可能性がある」

 アルゴー号がさらに降下すると、今度は巨大な骨が次々と姿を現した。断崖の中に眠る太古の死骸。何万年もの時間を凍らせた墓場。

 骨の表面には薄く氷が張りつき、風が吹くたびに、カラ……カラ……と乾いた音を立てていた。

 まるで死んだ生き物の骨が、まだ鳴っているようだった。

「……嫌」

 エマが小さく呟いた。

「何?」

「ここ、嫌い」

 手すりをさらに強く握る。

「まるで……死んだものが、まだ私たちを見ているみたい」

 創は何も言えなかった。

 その感覚は、自分にもあった。

 地底のずっと深い場所から、何かがこちらを待っている。そんな気配が、暗闇の奥からじっと這い上がってきていた。

 やがてアルゴー号が最後の斜面を越えた。

 ズンッ!!

 クローラーが凍った地面を捉え、レオがウインチを止める。

「……着底!」

 車体が大きく揺れたあと、ようやく静かになった。

 誰もすぐには動かなかった。エンジンの低い振動だけが、車内に響いている。

「……生きてる?」

 エマが呟いた。

「全員、生きてるッス」

 レオが答え、ハンドルを軽く叩く。

「アルゴー号も生きてるッス。さすが俺の相棒」


 その瞬間、エマが顔を上げた。

「……待って」

「どうした?」

 創が振り返る。

「今……何か聞こえた」

 車内が静まり返る。

 エンジン音。暖房。レオの呼吸。白石が端末を操作する微かな音。

 それ以外には何もない。

「何が?」

 創が尋ねると、エマは首を振った。

「機械音……」

 耳を澄ます。

 カチ。カチ。カチ。

 どこか遠くで、規則正しい音が響いていた。

 さらに――。

 ザリ……。

 雪を踏む音。

 エマの顔から血の気が引いた。

「……足音」

「足音?」

 レオが振り返る。

「こんなところに?」

「違う。一つじゃない」

 また聞こえた。


 ザリ……ザリ……ザリ……。


 複数の足音が、しかも一定の間隔で近づいてくる。人間の歩き方ではない。

「白石博士」

 エマの声が震えた。

「外に……何かいる」

 白石が端末を確認した。熱源探知はノイズだらけだったが、別のセンサーに反応が出ている。

「……金属反応」

 白石の顔が険しくなった。

「全員、伏せろ!」

 その瞬間。

 ドガァァァン!!


 アルゴー号の側面が吹き飛んだ。


「うわあああっ!」

 創たちの身体が座席から投げ出され、金属片が車内を飛び交う。窓ガラスが砕け、極寒の空気が一気に流れ込んできた。

「敵襲ッス!」

 レオが叫ぶ

 吹雪の向こうから何かが歩いてくる。

 純白の装甲。雪原と完全に同化する迷彩。

 だが、その歩き方だけが異様だった。


 ザリ……ザリ……。


 足が雪を踏むたびに青白い蒸気が漏れ、肩部から細く排気が立ち上っている。凍結したオイルの煙だった。

 その奥から、紅い光が二つ浮かび上がる。

「……サイボーグ」

 白石が呟いた。

 極地用装甲に覆われた身体は完全に人間の輪郭をしている。だが、人間ではない。白い装甲の隙間から見えるのは皮膚ではなく、黒い人工筋繊維だった。顔面には防寒マスクのような装甲があり、その奥で光学センサーが赤く明滅している。

 カチ……。

 照準が動く。

 ジジジ……。

 焦点が合う。

「アダム社……」

 白石が歯を食いしばった。


「こんなところまで……」


 サイボーグ兵の腕が上がる。

 機関砲。

「伏せろ!」

 レオが叫んだ。


 ダダダダダダダッ!!


 銃弾がアルゴー号の装甲へ叩きつけられ、ガガガガガッ! と激しい金属音が車内へ響いた。

 通常弾なら耐えられる。二重防弾鋼板。それこそ、レオが自慢していたアルゴー号最大の武器だった。

「無駄ッス! この車の装甲は――」

 レオが叫んだ、その直後。

 銃弾の音が変わった。

 ドンッ!!

 ドンッ!!

 それまでとは違う、鈍く重い衝撃。

 そして――。

 ズガァァン!!

 アルゴー号の側面装甲が、内側へ大きくめくれた。


「……え?」


 レオの顔から笑みが消える。

 装甲板には巨大な穴が開いていた。

「徹甲弾……!」

 白石が叫ぶ。

「凍結装甲破砕用だ!」

 もう一発。


 ズガァン!!


 二重鋼板が紙のように抉られ、断熱材が雪のように車内へ舞った。

「嘘だろ……」

 レオが舌打ちする。

 アルゴー号は、これまで何度も創たちを守ってきた。

 大学の包囲網から逃げたときも、丹後を脱出したときも、舞鶴から海へ飛び出したときも、この車はいつも最後の砦だった。

 その車体が今、目の前で少しずつ破壊されている。


 ズガァン!!


 また一発。

 車体が激しく震え、警報が鳴り始めた。

『装甲損傷率――三十二パーセント』

『右側隔壁、破損』

『油圧系統、異常』

「くそっ……!」

 レオがアクセルを踏み込む。

 クローラーが雪を掻くように回転した。しかし片側の駆動系が傷ついているせいで、アルゴー号はほとんど動かない。

「動け!」

 レオがハンドルを叩く。

「動いてくれよ!」

 そのときだった。

 バンッ!!

 運転席の窓に銃弾が突き刺さった。

「レオ!」

 創が叫ぶ。

 レオの肩から血が噴き出した。

「ぐっ……!」

 身体が大きく揺れる。

「レオ!」

 創が駆け寄ろうとした。

「来るな!」

 レオが叫ぶ。

「創、下がれ!」

 だが、遅かった。

 車体の外側から、ギギギギ……と金属が引き裂かれる音がする。

 サイドドアだった。

 外から、何者かが掴んでいる。


「……嘘だろ」


 レオが呟く。

 鋼鉄製のドアが、まるで薄い缶のように歪んでいく。サイボーグの鋼鉄の指がドアの縁へ食い込み、ギギギギギギ……と金属を軋ませた。


 そして――。

 バキィィィン!!


 サイドドアが丸ごと引き剥がされた。

 吹雪と冷気、雪が一気に車内へ流れ込む。

 その白い世界の中に、紅い光が浮かんでいた。

 サイボーグ兵が車内を覗き込み、その右腕から奇妙な刃が伸びる。

 高周波ブレード。

 刃そのものが微細に振動し、ウゥゥゥゥン……と空気を震わせていた。

「創!」

 エマが叫ぶ。

 サイボーグが踏み込み、白い装甲が視界を埋める。

 ブレードが振り下ろされた。

 創は避けられなかった。

 いや。

 避けなかった。

 右手を前へ出した。

 ガキィィィン!!


 刃を素手で掴んだ。


「なっ……!」


 エマが息を呑む。

 高周波振動が掌へ食い込み、皮膚が裂けて血が飛んだ。それでも、刃はそれ以上進まなかった。

 創の掌の中で、異様な熱が生まれていた。


「……熱い」

 創自身が呟いた。

 次の瞬間、首筋の抑制パッチが異常な熱を帯びた。


 ジッ……。


 皮膚の下から熱が突き上げ、焼けるような痛みとともにパッチが内側から浮き上がる。首の筋肉が痙攣し、創は歯を食いしばった。

 右腕の血管が一斉に浮き上がる。

 赤く、赤黒く。

 その奥から、白い光が滲み出してきた。


「創!」

 白石が叫んだ。

「やめろ!」

「でも……!」

「まだ使うな!」

 創の喉から掠れた声が漏れる。


「……使わなきゃ……」


 右手の中で、ブレードの金属が赤く変色していった。

 ジジジジ……。


 高周波ブレードが熱に耐えきれず、ゆっくりと歪み始める。サイボーグの光学センサーが激しく明滅した。


『警告』

『外部熱量――異常』

『装甲温度――上昇』


 創は目を閉じた。

 思い出したのは、丹後の石板だった。

 父の残した音。

 そして、自分の中で目覚めた力。


「――イグニ……」


 白石が息を呑む。

「創、やめろ!」


「フェル……」


 右腕が白熱する。

 皮膚の感覚が消えていく。

 熱い。

 だがもう、「熱い」という認識すら追いつかない。

 右腕そのものが燃えているようだった。


「――ウル!!」


 ドンッ!!


 熱波が爆発した。

 サイボーグのブレードが、創の手の中で一瞬にして赤熱する。

 そして――。


 ドロォォッ……!


 刃が溶け落ちた。

 創はそのまま溶けたブレードの根元を掴み、白熱した右拳をサイボーグの胸部装甲へ叩き込んだ。


 ドゴォォォン!!


 熱が装甲を突き抜ける。

 白い装甲は一瞬で赤く染まり、次の瞬間には黒く炭化した。内部の人工筋繊維が焼き切れ、機械の身体が大きく痙攣する。


『ギ……ガ……』


 火花を撒き散らしながら、サイボーグが後方へ吹き飛び、雪泥の中へ転がった。

 動かない。

 創は立っていた。

 だが――。

「……が、はっ……!」

 膝から力が抜けた。

 同時に、身体の内側から猛烈な渇きが襲ってくる。喉が焼け、舌が張りつく。

 水が欲しい。

 大量に。

 今すぐ。

 それなのに――。

「寒い……」

 身体が震え始めた。

 歯がガチガチと鳴り、どうしても止まらない。

「創!」

 白石が駆け寄った。

「しっかりしろ!」

「寒い……喉が……焼ける……」

 創の身体が大きく震える。

 白石は首筋に手を当てた瞬間、顔色を変えた。

「……まずい」

「何が?」

 エマが尋ねる。

「体温調節が破綻しかけている」

 白石は創の身体を支えながら言った。

「熱を一気に使った反動で、代謝と循環がめちゃくちゃになっている。この極寒の環境では、熱を作ることと失うことのバランスが一瞬で崩れる」

「でも、創は熱を出したんじゃ……」

「だからこそだ!」

 白石が叫ぶ。

「こいつの身体は、熱を作るために大量のエネルギーと水分を消費している!」

 創の視界が歪んでいく。

 雪。血。白い装甲。エマの顔。

 そのすべてが少しずつ滲み、輪郭を失っていった。

「創!」

 エマが肩を抱く。

「私の声、聞こえる?」

「……エマ……」

「そう。大丈夫。ここにいるから」

 だが、その声さえ遠ざかっていく。

 創の身体が崩れ落ちた。

「創!」

 白石が受け止める。

 その瞬間、暗闇の向こうで再び紅い光が灯った。

 一つ。

 二つ。

 三つ。

 さらに、ザリ……と雪を踏む音が響く。

 複数のサイボーグ兵がゆっくりと姿を現し、機関砲を持ち上げる。赤い照準レーザーが、倒れた創の胸へ次々と集中した。


『熱源、急激に低下』

『対象、行動不能』

『排除を開始する』


 エマが創を抱きしめ、その前に白石が立ちはだかる。

 だが、二人に武器はない。

 肩を押さえながら、レオも立ち上がろうとしていた。

「……くそっ」

 レオが呟く。

「まだ……終わってねえぞ」

 その視線が車内を走り、白石の医療トランクで止まった。

 中にある、一本の黒いパッチ。

 レオはそれを見つけた。

「……これ」

 白石の顔が凍った。

「待て」

「これ、使えるんだろ?」

「待て、レオ!」

「動物実験すら終わってないんだろ?」

「だからだ!」

 白石がレオの腕を掴んだ。

「それを人間に使ったら、何が起こるか分からん!」

 レオは一瞬、黒いパッチを見つめた。

 それから、エマに支えられて倒れている創へ目を向ける。

 創の右腕だけが、まだ赤黒く脈打っていた。

 レオは笑った。

 いつもの軽い笑顔だった。

「じゃあ――」

 黒いパッチを首へ当てる。

「分からないまま死ぬより、試してみるッスよ」

「レオ!」


 バチンッ!


 パッチが首筋へ打ち込まれた。

 次の瞬間。

 レオの身体の奥で、何かが――ミシッ、と軋んだ。


「……え?」


 最初に異変へ気づいたのはレオ自身だった。

 首から肩へ、そして肩から腕へ。まるで硬い樹脂が皮膚の下へ流れ込んでいくような感覚が、ゆっくりと全身へ広がっていく。

「な、なんだ……これ……」

 皮膚の色が変わっていた。

 雪よりも白く、それでいて骨より鈍い、不気味な色だった。筋肉の輪郭が浮き上がり、その表面が次第に硬質な質感へと変わっていく。

 レオは信じられないものを見るように、自分の腕を見つめた。

「俺の……腕……?」

「レオ、動くな!」

 白石が叫ぶ。

「まだ薬剤の反応が――」

 その声を遮るように、銃声が轟いた。

 ダダダダダダッ!


「伏せろ!」


 エマが頭を抱える。

 だが、レオは逃げなかった。

 いや、逃げる暇がなかった。

 反射的に両腕を顔の前へ上げた次の瞬間、硬質化した腕へ無数の弾丸が叩き込まれた。

 ガガガガガッ!

 火花が散り、弾丸が次々と潰れていく。ひしゃげた金属片が床へ転がり落ちる様子を、レオは呆然と見つめていた。

「……え?」

 恐る恐る腕を下ろす。

 傷一つない。

「……嘘だろ」

 再び銃声が響いた。


 ダダダダッ!


 今度は弾丸が胸や肩をまともに叩いた。しかし結果は同じだった。弾頭は硬化した皮膚に阻まれ、平たく潰れて足元へ転がっていく。

 レオの顔から血の気が引いた。

「俺……」

 恐る恐る自分の胸へ手を当てる。

 硬い。

 確かに皮膚のはずなのに、もはや皮膚とは思えない感触だった。

「……何になったんだ、俺」

「考えるのは後だ!」

 白石が叫んだ。

「逃げるぞ!」

 その言葉でレオは我に返った。

「……了解!」

 運転席へ向かおうとした、その瞬間。

 バキィン!

 アルゴー号の側面装甲が吹き飛んだ。

「うわっ!」

 開いた穴からサイボーグが腕を突っ込み、暗闇の中で赤い光学センサーを光らせる。

「……こいつ!」

 レオが振り返った。

 サイボーグの手には、高周波ブレードが握られている。その腕が伸びてくるのを見たレオは、反射的に仲間たちとの間へ身体を割り込ませた。

 ギィィィン!

 刃が硬化した腕へ食い込む。

 白い皮膚の表面に細い亀裂が走り、鋭い痛みが腕を貫いた。

「ぐっ……!」

 痛みはある。

 だが、刃はそれ以上深く入ってこない。

 レオの目つきが変わった。

「……これなら!」

 思い切り腕を振り抜く。

 その一撃を受けたサイボーグの身体が横へ吹き飛び、岩壁へ激突した。

 レオはその隙を逃さずアルゴー号へ飛び込む。

「全員乗って!」

 エマが創の身体を支え、白石も後部座席へ滑り込んだ。レオは運転席へ飛び乗ると、エンジンを叩き起こす。

「行くぞォッ!」

 アクセルを踏み込む。

 クローラーが雪を噛み、傷ついたアルゴー号がようやく動き始めた。

 しかし、追手はまだ残っている。

 暗闇の奥から青白い光がいくつも迫ってきた。サイボーグたちの光学センサーだ。

「数が多すぎる!」

 エマが叫ぶ。

 レオは周囲を見渡し、ふとバンパーの脇へ目を止めた。

「……あれだ!」

「何?」

「発煙筒!」

 レオは硬化した腕を伸ばし、金属製のカバーをまるで紙のように引き剥がした。


「こんなところに積んでたのか……!」

 赤い筒を掴み、安全ピンを抜く。

 シュッ!

 勢いよく白煙が噴き出した。

「うわっ、前が見えない!」

 エマが咳き込む。

「それでいい!」

 レオは叫ぶ。

「こいつらの目も見えなくする!」

 発煙筒を車外へ放り投げると、白い煙が一気に洞窟全体へ広がっていった。


 サイボーグたちの赤い光が次々と揺らぐ。光学センサーが白煙を拾い、照準を定められなくなっているのだ。

 ピピッ、と電子音が鳴った。


『ERROR』

『TARGET LOST』


「効いてる!」

 エマが叫んだ。

 その瞬間だった。

 アルゴー号の前方に、突如として黒い裂け目が現れた。

「レオ!」

「見えてる!」

 だが、避けるには遅すぎた。


 大地そのものが、巨大な口を開けるように裂けている。

「――ッ!」

 レオが咄嗟にハンドルを切ったものの、間に合わない。

 アルゴー号は、そのまま暗黒の裂け目へ突っ込んだ。


     *


 車体が宙へ投げ出された。

「うわあああああッ!」

 ヘッドライトが闇を切り裂く。

 その先に見えたのは、鋭く突き出した氷の牙と黒い岩盤、そして底の見えない暗黒だった。

 アルゴー号が落下していく。

 クローラーが虚しく回転し、ギャリギャリギャリッ――と空を掻いた。

 接地する場所などない。

 一瞬、胃が浮き上がるような無重力感が車内を支配した。

 次の瞬間。

 ドガァンッ!

 車体が岩盤へ叩きつけられ、火花が車内へ飛び散った。

「ぐあっ!」

 レオの身体がシートへ激しく押しつけられる。


 しかし、アルゴー号は止まらない。

 そのまま急斜面を雪崩のように滑り落ちていく。

 右へ、左へ、そしてまた右へ。

 ヘッドライトが照らせるのは、せいぜい数メートル先までだった。その光の中を氷の壁が猛烈な速度で流れ、車体は何度も岩盤へ衝突する。


 ドンッ!

 ガガガガガッ!

 バキンッ!


「ブレーキが効かない!」

 レオが叫んだ。

「クローラーは!?」

「空転してる!」

 白石が答える。

 追手の姿は、もう見えなかった。

 だが、誰も安心してはいなかった。

 サイボーグたちから逃れた先で待っていたのは、銃弾よりも厄介な、抗うことのできない自然そのものだった。


     *

「……創!」

 白石が後部座席へ身を乗り出した。

 創は毛布の中で激しく震えていた。

「……寒い……」

 唇は青く、歯が激しく鳴っている。

 白石が額へ手を当てた瞬間、その表情が変わった。

「……熱い」

 すぐに体温計を当てる。

 表示された数字を見た白石の顔が強張った。

「四十度を超えている……」

「でも、創は寒いって……」

 エマが言う。

「そうだ」

 白石は創の腕を確認した。

 右腕は異常なほど熱い。

 それなのに、手足の末端は冷え切っている。

「これは普通の発熱じゃない」

 白石の声に緊張が滲んだ。

「人間の脳には、体温を調整するサーモスタットがある。視床下部という場所だ。暑ければ熱を逃がし、寒ければ熱を作る。ところが今の創は、その温度調節そのものが壊れかけている」

「……どういうこと?」

「身体の中では猛烈な熱が生まれている。細胞は焼ける寸前までエネルギーを使っている。それなのに脳は――」

 白石は震える創を見つめた。

「『極寒のシベリアに裸で放り出された』と思い込んでいる」

 だから震える。

 寒いと判断した身体は、熱を作ろうとして筋肉をさらに動かす。その結果、また熱が生み出される。

「自分で自分を焼いているのに、本人は寒いと感じている」

 白石の手がわずかに震えた。

「最悪の悪循環だ」

 創は目を閉じる。

「……寒い……」

「創、目を開けろ!」

 白石が肩を叩く。

「眠るな!」


     *

「……先生」

 前方からレオの声がした。

「俺も……ちょっとヤバいかもしれないっス」

 白石が顔を上げる。

 レオの腕には細い亀裂が走っていた。

 ミシッ。

「痛っ……!」

 レオが顔を歪める。

 硬化した皮膚が、内側から引き裂かれるように軋んでいる。

「パッチの反動だ」

 白石が唇を噛んだ。

「薬剤が血流に乗って全身を回っている。筋肉、血管、神経……どこまで作用しているのか分からない」

「……動物実験もしてないんでしたっけ?」

「ああ」

 レオが乾いた笑いを漏らす。

「それ、今聞くとめちゃくちゃ怖いっスね」

 ミシミシッ。

「ぐっ……!」

 身体が震える。

「レオ!」

「大丈夫……」

 そう答えながらも、額には大量の汗が浮かんでいた。

「創を……運ぶまでは……」

 それでも、ハンドルを握る手だけは離さない。

「俺が止まったら……全員死ぬでしょ」

 白石は何も言えなかった。


     *

 やがて、アルゴー号の速度が少しずつ落ち始めた。

 傾斜が緩くなってきたのだ。

 レオはハンドルを切り、車体を岩壁に擦りつけるようにして速度を殺していく。

 ガガガガガッ――。

 そして、ようやく平らな場所へ滑り込んだ。

 ガンッ!

 最後の衝撃。

 それきり、アルゴー号は動かなくなった。

 突然の静寂に、誰もすぐには口を開かなかった。

 エンジン音だけが、暗闇の中へ低く響いている。

 追手の光は、もう見えない。

 遥か上方に青白い光が小さく揺れていたが、それもやがて闇の中へ消えていった。

「……逃げ切った?」

 エマが呟く。

 白石は答えなかった。

 代わりに、毛布に包まれていた創が、ゆっくりと目を開いた。

「……聞こえる」

「何が?」

 エマが振り返る。

 創は目を閉じたまま、耳を澄ませていた。

 ドン。

 少し間を置いて。

 ……ドン。


 さらに遠くから。

 …………ドン。

 地底の奥から響いてくる。

 あまりにも低く、あまりにも重い音だった。

 まるで、巨大な心臓がゆっくり鼓動しているかのようだった。

 エマが端末を取り出し、すぐに音響解析を始める。

 波形が画面いっぱいに広がった。

「……違う」

「何が?」

 白石が尋ねた。

 エマの顔が次第に青ざめていく。

「ただの反響音じゃない」

 波形をさらに拡大する。

「この音……岩壁から返ってきてるんじゃない」

 ドン。

 今度は車体そのものが微かに震えた。

 エマが画面を見つめたまま呟く。

「……遺跡そのものが、脈打ってる」

 創の右手が、毛布の中で微かに動いた。

 熱を帯びる。

 まるで、暗闇の奥にいる何かが創の存在に気づいたかのように。

 ドン。

 また鼓動が響いた。

 創は漆黒の闇を見つめる。

「……呼んでる」

 その言葉に、エマが息を呑んだ。

 アルゴー号のヘッドライトが、巨大な地下空洞を照らしている。

 その先には何も見えない。

 少なくとも、今は。

 ただ、闇の奥から巨大な何かがこちらを見つめているような感覚だけが、はっきりとあった。

 追手から逃げ切った。

 つい先ほどまで、誰もがそう思っていた。

 だが、違う。

 彼らは逃げたのではない。

 もっと深い場所へと追い込まれたのだ。


 ドン。


 地底の鼓動が、もう一度響いた。

 それはまるで、長い眠りから目覚めようとしている何かが、暗闇の底から発した合図のようだった。

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