第10話 裂け目の死線――極地サイボーグ急襲
バタガイカ・クレーター。
その巨大な裂け目を、アルゴー号は見下ろしていた。
地上から見れば、ただの巨大な陥没地形にしか見えない。だが、縁まで近づいて初めて分かる。これは穴ではなく、断崖だった。白銀の大地が、途中から何かに食いちぎられたように途切れ、その向こうには底の見えない暗闇が広がっている。
吹き上げてくる風には、雪だけではなく、湿った土と古い氷の匂いが混じっていた。何万年ものあいだ太陽の光を浴びることのなかった地層。その底に眠っているものが、風に乗って地上まで這い上がってくるようだった。
「……ここを降りるのか?」
創はフロントガラス越しに奈落を見下ろした。視線を落としても底は見えず、遠い闇の中で、時折雪煙だけが渦を巻いている。
「冗談じゃないッスよね、と言いたいところだけど」
レオが運転席から立ち上がった。
「道はここしかないッス!」
いつもの軽口だったが、その声にもわずかな緊張が混じっていた。レオは防寒手袋を締め直すと、運転席を降りる。
「ちょっと待ってろよ、アルゴー号」
「何をする?」
白石が尋ねた。
「下りる準備ッス」
レオは車体後部から、人間の腕ほどの太さがある鋼鉄製ワイヤーを引きずり出した。その先端には大型のアンカーガンが取り付けられている。
「これで凍土に固定する」
クレーターの縁へ歩いていくレオを、吹雪が横から激しく叩いた。わずか数メートル先にいるだけなのに、その姿が雪煙の中へ消えたり現れたりする。
「アンカーの深度は?」
白石が叫んだ。
「凍土の奥、マイナス五メートル!」
「浅い!」
「その下に基盤岩があるッス!」
「そこまで撃ち込め!」
「了解!」
レオがアンカーガンを構え、巨大な銃口を凍土へ向けた。
「――いくッス!」
バシュゥゥゥン!!
轟音とともに鋼鉄のアンカーが飛び出し、凍った地面を突き破って地中へ消えた。数秒後、ワイヤーが張り、ギギギギ……と金属が悲鳴を上げる。
「固定!」
レオが叫んだ。
「いけるッス!」
アルゴー号がゆっくりと前進する。やがて車体前部がクレーターの縁を越え、前輪――クローラーの先端が空中へ突き出した。
「……っ」
創の喉が鳴る。
次の瞬間、車体が大きく傾いた。
「うわっ!」
エマが座席の手すりを掴む。アルゴー号の前半分は完全に宙へ突き出し、その下には百メートルを超える断崖と、さらに深く続く暗闇が口を開けていた。
「レオ!」
「大丈夫ッス!」
レオがウインチのレバーを倒す。
ギギギギギギ……!
ワイヤーが少しずつ巻き出され、アルゴー号はゆっくりと奈落へ沈み始めた。クローラーが空中で回転し、雪を掴もうとするように何もない空間を虚しく削っている。
その瞬間、ゴウンッ! と車体が大きく揺れた。
「きゃっ!」
エマが声を上げ、創も反射的に手すりを掴む。車体の金属がギシィ……と嫌な音を立てた。
下を見ると、断崖の壁が信じられない速度で上へ流れていく。
いや、違う。
アルゴー号が下へ降りているのだ。
何万年もの時間を閉じ込めてきた地層が、目の前を逆流するように通り過ぎていった。黒い土、灰色の泥、その間に挟まった古い植物の層。さらに下るにつれて地層の色は茶色から黒、そして赤褐色へと変化していく。
まるで、地球の歴史そのものを縦に切り開いて覗き込んでいるようだった。
「……すごい」
創が呟いた。
だが、エマは答えない。両手で手すりを握りしめた指先が真っ白になっている。
「エマ?」
「……平気」
「顔、真っ青だぞ」
「平気よ」
声が少し震えていた。
その直後だった。
ゴンッ!
車体の側面に何かがぶつかり、アルゴー号が大きく振られた。
「きゃあっ!」
ワイヤーが悲鳴を上げ、車体が断崖から数メートル離れて、巨大な振り子のように揺れる。
「うわああああっ! 揺れる! 揺れるッス!」
「分かっている!」
白石も座席へしがみついている。
外では猛烈な突風が吹き荒れ、アルゴー号の巨体を木の葉のように揺さぶっていた。サスペンションが限界まで沈み込み、ギギギギ……と不吉な音を立てる。
「ワイヤー、大丈夫か!?」
「たぶん!」
「たぶんじゃない!」
「じゃあ大丈夫ッス!」
「意味が同じだ!」
創は笑う余裕もなかった。
再び下へ目を向ける。
暗い。ただひたすら暗い。
そして、その暗闇の中から何かが突き出していた。
「……あれは?」
創が指を向ける。
断崖の壁面から、白く巨大なものが伸びていた。
骨だった。
何メートルもある巨大な肋骨が、凍った土の中から半ば露出している。さらに奥には、空洞になった眼窩のような穴まで見えた。
「マンモス……?」
エマが呟く。
「いや」
白石が目を細めた。
「もっと古い可能性がある」
アルゴー号がさらに降下すると、今度は巨大な骨が次々と姿を現した。断崖の中に眠る太古の死骸。何万年もの時間を凍らせた墓場。
骨の表面には薄く氷が張りつき、風が吹くたびに、カラ……カラ……と乾いた音を立てていた。
まるで死んだ生き物の骨が、まだ鳴っているようだった。
「……嫌」
エマが小さく呟いた。
「何?」
「ここ、嫌い」
手すりをさらに強く握る。
「まるで……死んだものが、まだ私たちを見ているみたい」
創は何も言えなかった。
その感覚は、自分にもあった。
地底のずっと深い場所から、何かがこちらを待っている。そんな気配が、暗闇の奥からじっと這い上がってきていた。
やがてアルゴー号が最後の斜面を越えた。
ズンッ!!
クローラーが凍った地面を捉え、レオがウインチを止める。
「……着底!」
車体が大きく揺れたあと、ようやく静かになった。
誰もすぐには動かなかった。エンジンの低い振動だけが、車内に響いている。
「……生きてる?」
エマが呟いた。
「全員、生きてるッス」
レオが答え、ハンドルを軽く叩く。
「アルゴー号も生きてるッス。さすが俺の相棒」
その瞬間、エマが顔を上げた。
「……待って」
「どうした?」
創が振り返る。
「今……何か聞こえた」
車内が静まり返る。
エンジン音。暖房。レオの呼吸。白石が端末を操作する微かな音。
それ以外には何もない。
「何が?」
創が尋ねると、エマは首を振った。
「機械音……」
耳を澄ます。
カチ。カチ。カチ。
どこか遠くで、規則正しい音が響いていた。
さらに――。
ザリ……。
雪を踏む音。
エマの顔から血の気が引いた。
「……足音」
「足音?」
レオが振り返る。
「こんなところに?」
「違う。一つじゃない」
また聞こえた。
ザリ……ザリ……ザリ……。
複数の足音が、しかも一定の間隔で近づいてくる。人間の歩き方ではない。
「白石博士」
エマの声が震えた。
「外に……何かいる」
白石が端末を確認した。熱源探知はノイズだらけだったが、別のセンサーに反応が出ている。
「……金属反応」
白石の顔が険しくなった。
「全員、伏せろ!」
その瞬間。
ドガァァァン!!
アルゴー号の側面が吹き飛んだ。
「うわあああっ!」
創たちの身体が座席から投げ出され、金属片が車内を飛び交う。窓ガラスが砕け、極寒の空気が一気に流れ込んできた。
「敵襲ッス!」
レオが叫ぶ
吹雪の向こうから何かが歩いてくる。
純白の装甲。雪原と完全に同化する迷彩。
だが、その歩き方だけが異様だった。
ザリ……ザリ……。
足が雪を踏むたびに青白い蒸気が漏れ、肩部から細く排気が立ち上っている。凍結したオイルの煙だった。
その奥から、紅い光が二つ浮かび上がる。
「……サイボーグ」
白石が呟いた。
極地用装甲に覆われた身体は完全に人間の輪郭をしている。だが、人間ではない。白い装甲の隙間から見えるのは皮膚ではなく、黒い人工筋繊維だった。顔面には防寒マスクのような装甲があり、その奥で光学センサーが赤く明滅している。
カチ……。
照準が動く。
ジジジ……。
焦点が合う。
「アダム社……」
白石が歯を食いしばった。
「こんなところまで……」
サイボーグ兵の腕が上がる。
機関砲。
「伏せろ!」
レオが叫んだ。
ダダダダダダダッ!!
銃弾がアルゴー号の装甲へ叩きつけられ、ガガガガガッ! と激しい金属音が車内へ響いた。
通常弾なら耐えられる。二重防弾鋼板。それこそ、レオが自慢していたアルゴー号最大の武器だった。
「無駄ッス! この車の装甲は――」
レオが叫んだ、その直後。
銃弾の音が変わった。
ドンッ!!
ドンッ!!
それまでとは違う、鈍く重い衝撃。
そして――。
ズガァァン!!
アルゴー号の側面装甲が、内側へ大きくめくれた。
「……え?」
レオの顔から笑みが消える。
装甲板には巨大な穴が開いていた。
「徹甲弾……!」
白石が叫ぶ。
「凍結装甲破砕用だ!」
もう一発。
ズガァン!!
二重鋼板が紙のように抉られ、断熱材が雪のように車内へ舞った。
「嘘だろ……」
レオが舌打ちする。
アルゴー号は、これまで何度も創たちを守ってきた。
大学の包囲網から逃げたときも、丹後を脱出したときも、舞鶴から海へ飛び出したときも、この車はいつも最後の砦だった。
その車体が今、目の前で少しずつ破壊されている。
ズガァン!!
また一発。
車体が激しく震え、警報が鳴り始めた。
『装甲損傷率――三十二パーセント』
『右側隔壁、破損』
『油圧系統、異常』
「くそっ……!」
レオがアクセルを踏み込む。
クローラーが雪を掻くように回転した。しかし片側の駆動系が傷ついているせいで、アルゴー号はほとんど動かない。
「動け!」
レオがハンドルを叩く。
「動いてくれよ!」
そのときだった。
バンッ!!
運転席の窓に銃弾が突き刺さった。
「レオ!」
創が叫ぶ。
レオの肩から血が噴き出した。
「ぐっ……!」
身体が大きく揺れる。
「レオ!」
創が駆け寄ろうとした。
「来るな!」
レオが叫ぶ。
「創、下がれ!」
だが、遅かった。
車体の外側から、ギギギギ……と金属が引き裂かれる音がする。
サイドドアだった。
外から、何者かが掴んでいる。
「……嘘だろ」
レオが呟く。
鋼鉄製のドアが、まるで薄い缶のように歪んでいく。サイボーグの鋼鉄の指がドアの縁へ食い込み、ギギギギギギ……と金属を軋ませた。
そして――。
バキィィィン!!
サイドドアが丸ごと引き剥がされた。
吹雪と冷気、雪が一気に車内へ流れ込む。
その白い世界の中に、紅い光が浮かんでいた。
サイボーグ兵が車内を覗き込み、その右腕から奇妙な刃が伸びる。
高周波ブレード。
刃そのものが微細に振動し、ウゥゥゥゥン……と空気を震わせていた。
「創!」
エマが叫ぶ。
サイボーグが踏み込み、白い装甲が視界を埋める。
ブレードが振り下ろされた。
創は避けられなかった。
いや。
避けなかった。
右手を前へ出した。
ガキィィィン!!
刃を素手で掴んだ。
「なっ……!」
エマが息を呑む。
高周波振動が掌へ食い込み、皮膚が裂けて血が飛んだ。それでも、刃はそれ以上進まなかった。
創の掌の中で、異様な熱が生まれていた。
「……熱い」
創自身が呟いた。
次の瞬間、首筋の抑制パッチが異常な熱を帯びた。
ジッ……。
皮膚の下から熱が突き上げ、焼けるような痛みとともにパッチが内側から浮き上がる。首の筋肉が痙攣し、創は歯を食いしばった。
右腕の血管が一斉に浮き上がる。
赤く、赤黒く。
その奥から、白い光が滲み出してきた。
「創!」
白石が叫んだ。
「やめろ!」
「でも……!」
「まだ使うな!」
創の喉から掠れた声が漏れる。
「……使わなきゃ……」
右手の中で、ブレードの金属が赤く変色していった。
ジジジジ……。
高周波ブレードが熱に耐えきれず、ゆっくりと歪み始める。サイボーグの光学センサーが激しく明滅した。
『警告』
『外部熱量――異常』
『装甲温度――上昇』
創は目を閉じた。
思い出したのは、丹後の石板だった。
父の残した音。
そして、自分の中で目覚めた力。
「――イグニ……」
白石が息を呑む。
「創、やめろ!」
「フェル……」
右腕が白熱する。
皮膚の感覚が消えていく。
熱い。
だがもう、「熱い」という認識すら追いつかない。
右腕そのものが燃えているようだった。
「――ウル!!」
ドンッ!!
熱波が爆発した。
サイボーグのブレードが、創の手の中で一瞬にして赤熱する。
そして――。
ドロォォッ……!
刃が溶け落ちた。
創はそのまま溶けたブレードの根元を掴み、白熱した右拳をサイボーグの胸部装甲へ叩き込んだ。
ドゴォォォン!!
熱が装甲を突き抜ける。
白い装甲は一瞬で赤く染まり、次の瞬間には黒く炭化した。内部の人工筋繊維が焼き切れ、機械の身体が大きく痙攣する。
『ギ……ガ……』
火花を撒き散らしながら、サイボーグが後方へ吹き飛び、雪泥の中へ転がった。
動かない。
創は立っていた。
だが――。
「……が、はっ……!」
膝から力が抜けた。
同時に、身体の内側から猛烈な渇きが襲ってくる。喉が焼け、舌が張りつく。
水が欲しい。
大量に。
今すぐ。
それなのに――。
「寒い……」
身体が震え始めた。
歯がガチガチと鳴り、どうしても止まらない。
「創!」
白石が駆け寄った。
「しっかりしろ!」
「寒い……喉が……焼ける……」
創の身体が大きく震える。
白石は首筋に手を当てた瞬間、顔色を変えた。
「……まずい」
「何が?」
エマが尋ねる。
「体温調節が破綻しかけている」
白石は創の身体を支えながら言った。
「熱を一気に使った反動で、代謝と循環がめちゃくちゃになっている。この極寒の環境では、熱を作ることと失うことのバランスが一瞬で崩れる」
「でも、創は熱を出したんじゃ……」
「だからこそだ!」
白石が叫ぶ。
「こいつの身体は、熱を作るために大量のエネルギーと水分を消費している!」
創の視界が歪んでいく。
雪。血。白い装甲。エマの顔。
そのすべてが少しずつ滲み、輪郭を失っていった。
「創!」
エマが肩を抱く。
「私の声、聞こえる?」
「……エマ……」
「そう。大丈夫。ここにいるから」
だが、その声さえ遠ざかっていく。
創の身体が崩れ落ちた。
「創!」
白石が受け止める。
その瞬間、暗闇の向こうで再び紅い光が灯った。
一つ。
二つ。
三つ。
さらに、ザリ……と雪を踏む音が響く。
複数のサイボーグ兵がゆっくりと姿を現し、機関砲を持ち上げる。赤い照準レーザーが、倒れた創の胸へ次々と集中した。
『熱源、急激に低下』
『対象、行動不能』
『排除を開始する』
エマが創を抱きしめ、その前に白石が立ちはだかる。
だが、二人に武器はない。
肩を押さえながら、レオも立ち上がろうとしていた。
「……くそっ」
レオが呟く。
「まだ……終わってねえぞ」
その視線が車内を走り、白石の医療トランクで止まった。
中にある、一本の黒いパッチ。
レオはそれを見つけた。
「……これ」
白石の顔が凍った。
「待て」
「これ、使えるんだろ?」
「待て、レオ!」
「動物実験すら終わってないんだろ?」
「だからだ!」
白石がレオの腕を掴んだ。
「それを人間に使ったら、何が起こるか分からん!」
レオは一瞬、黒いパッチを見つめた。
それから、エマに支えられて倒れている創へ目を向ける。
創の右腕だけが、まだ赤黒く脈打っていた。
レオは笑った。
いつもの軽い笑顔だった。
「じゃあ――」
黒いパッチを首へ当てる。
「分からないまま死ぬより、試してみるッスよ」
「レオ!」
バチンッ!
パッチが首筋へ打ち込まれた。
次の瞬間。
レオの身体の奥で、何かが――ミシッ、と軋んだ。
「……え?」
最初に異変へ気づいたのはレオ自身だった。
首から肩へ、そして肩から腕へ。まるで硬い樹脂が皮膚の下へ流れ込んでいくような感覚が、ゆっくりと全身へ広がっていく。
「な、なんだ……これ……」
皮膚の色が変わっていた。
雪よりも白く、それでいて骨より鈍い、不気味な色だった。筋肉の輪郭が浮き上がり、その表面が次第に硬質な質感へと変わっていく。
レオは信じられないものを見るように、自分の腕を見つめた。
「俺の……腕……?」
「レオ、動くな!」
白石が叫ぶ。
「まだ薬剤の反応が――」
その声を遮るように、銃声が轟いた。
ダダダダダダッ!
「伏せろ!」
エマが頭を抱える。
だが、レオは逃げなかった。
いや、逃げる暇がなかった。
反射的に両腕を顔の前へ上げた次の瞬間、硬質化した腕へ無数の弾丸が叩き込まれた。
ガガガガガッ!
火花が散り、弾丸が次々と潰れていく。ひしゃげた金属片が床へ転がり落ちる様子を、レオは呆然と見つめていた。
「……え?」
恐る恐る腕を下ろす。
傷一つない。
「……嘘だろ」
再び銃声が響いた。
ダダダダッ!
今度は弾丸が胸や肩をまともに叩いた。しかし結果は同じだった。弾頭は硬化した皮膚に阻まれ、平たく潰れて足元へ転がっていく。
レオの顔から血の気が引いた。
「俺……」
恐る恐る自分の胸へ手を当てる。
硬い。
確かに皮膚のはずなのに、もはや皮膚とは思えない感触だった。
「……何になったんだ、俺」
「考えるのは後だ!」
白石が叫んだ。
「逃げるぞ!」
その言葉でレオは我に返った。
「……了解!」
運転席へ向かおうとした、その瞬間。
バキィン!
アルゴー号の側面装甲が吹き飛んだ。
「うわっ!」
開いた穴からサイボーグが腕を突っ込み、暗闇の中で赤い光学センサーを光らせる。
「……こいつ!」
レオが振り返った。
サイボーグの手には、高周波ブレードが握られている。その腕が伸びてくるのを見たレオは、反射的に仲間たちとの間へ身体を割り込ませた。
ギィィィン!
刃が硬化した腕へ食い込む。
白い皮膚の表面に細い亀裂が走り、鋭い痛みが腕を貫いた。
「ぐっ……!」
痛みはある。
だが、刃はそれ以上深く入ってこない。
レオの目つきが変わった。
「……これなら!」
思い切り腕を振り抜く。
その一撃を受けたサイボーグの身体が横へ吹き飛び、岩壁へ激突した。
レオはその隙を逃さずアルゴー号へ飛び込む。
「全員乗って!」
エマが創の身体を支え、白石も後部座席へ滑り込んだ。レオは運転席へ飛び乗ると、エンジンを叩き起こす。
「行くぞォッ!」
アクセルを踏み込む。
クローラーが雪を噛み、傷ついたアルゴー号がようやく動き始めた。
しかし、追手はまだ残っている。
暗闇の奥から青白い光がいくつも迫ってきた。サイボーグたちの光学センサーだ。
「数が多すぎる!」
エマが叫ぶ。
レオは周囲を見渡し、ふとバンパーの脇へ目を止めた。
「……あれだ!」
「何?」
「発煙筒!」
レオは硬化した腕を伸ばし、金属製のカバーをまるで紙のように引き剥がした。
「こんなところに積んでたのか……!」
赤い筒を掴み、安全ピンを抜く。
シュッ!
勢いよく白煙が噴き出した。
「うわっ、前が見えない!」
エマが咳き込む。
「それでいい!」
レオは叫ぶ。
「こいつらの目も見えなくする!」
発煙筒を車外へ放り投げると、白い煙が一気に洞窟全体へ広がっていった。
サイボーグたちの赤い光が次々と揺らぐ。光学センサーが白煙を拾い、照準を定められなくなっているのだ。
ピピッ、と電子音が鳴った。
『ERROR』
『TARGET LOST』
「効いてる!」
エマが叫んだ。
その瞬間だった。
アルゴー号の前方に、突如として黒い裂け目が現れた。
「レオ!」
「見えてる!」
だが、避けるには遅すぎた。
大地そのものが、巨大な口を開けるように裂けている。
「――ッ!」
レオが咄嗟にハンドルを切ったものの、間に合わない。
アルゴー号は、そのまま暗黒の裂け目へ突っ込んだ。
*
車体が宙へ投げ出された。
「うわあああああッ!」
ヘッドライトが闇を切り裂く。
その先に見えたのは、鋭く突き出した氷の牙と黒い岩盤、そして底の見えない暗黒だった。
アルゴー号が落下していく。
クローラーが虚しく回転し、ギャリギャリギャリッ――と空を掻いた。
接地する場所などない。
一瞬、胃が浮き上がるような無重力感が車内を支配した。
次の瞬間。
ドガァンッ!
車体が岩盤へ叩きつけられ、火花が車内へ飛び散った。
「ぐあっ!」
レオの身体がシートへ激しく押しつけられる。
しかし、アルゴー号は止まらない。
そのまま急斜面を雪崩のように滑り落ちていく。
右へ、左へ、そしてまた右へ。
ヘッドライトが照らせるのは、せいぜい数メートル先までだった。その光の中を氷の壁が猛烈な速度で流れ、車体は何度も岩盤へ衝突する。
ドンッ!
ガガガガガッ!
バキンッ!
「ブレーキが効かない!」
レオが叫んだ。
「クローラーは!?」
「空転してる!」
白石が答える。
追手の姿は、もう見えなかった。
だが、誰も安心してはいなかった。
サイボーグたちから逃れた先で待っていたのは、銃弾よりも厄介な、抗うことのできない自然そのものだった。
*
「……創!」
白石が後部座席へ身を乗り出した。
創は毛布の中で激しく震えていた。
「……寒い……」
唇は青く、歯が激しく鳴っている。
白石が額へ手を当てた瞬間、その表情が変わった。
「……熱い」
すぐに体温計を当てる。
表示された数字を見た白石の顔が強張った。
「四十度を超えている……」
「でも、創は寒いって……」
エマが言う。
「そうだ」
白石は創の腕を確認した。
右腕は異常なほど熱い。
それなのに、手足の末端は冷え切っている。
「これは普通の発熱じゃない」
白石の声に緊張が滲んだ。
「人間の脳には、体温を調整するサーモスタットがある。視床下部という場所だ。暑ければ熱を逃がし、寒ければ熱を作る。ところが今の創は、その温度調節そのものが壊れかけている」
「……どういうこと?」
「身体の中では猛烈な熱が生まれている。細胞は焼ける寸前までエネルギーを使っている。それなのに脳は――」
白石は震える創を見つめた。
「『極寒のシベリアに裸で放り出された』と思い込んでいる」
だから震える。
寒いと判断した身体は、熱を作ろうとして筋肉をさらに動かす。その結果、また熱が生み出される。
「自分で自分を焼いているのに、本人は寒いと感じている」
白石の手がわずかに震えた。
「最悪の悪循環だ」
創は目を閉じる。
「……寒い……」
「創、目を開けろ!」
白石が肩を叩く。
「眠るな!」
*
「……先生」
前方からレオの声がした。
「俺も……ちょっとヤバいかもしれないっス」
白石が顔を上げる。
レオの腕には細い亀裂が走っていた。
ミシッ。
「痛っ……!」
レオが顔を歪める。
硬化した皮膚が、内側から引き裂かれるように軋んでいる。
「パッチの反動だ」
白石が唇を噛んだ。
「薬剤が血流に乗って全身を回っている。筋肉、血管、神経……どこまで作用しているのか分からない」
「……動物実験もしてないんでしたっけ?」
「ああ」
レオが乾いた笑いを漏らす。
「それ、今聞くとめちゃくちゃ怖いっスね」
ミシミシッ。
「ぐっ……!」
身体が震える。
「レオ!」
「大丈夫……」
そう答えながらも、額には大量の汗が浮かんでいた。
「創を……運ぶまでは……」
それでも、ハンドルを握る手だけは離さない。
「俺が止まったら……全員死ぬでしょ」
白石は何も言えなかった。
*
やがて、アルゴー号の速度が少しずつ落ち始めた。
傾斜が緩くなってきたのだ。
レオはハンドルを切り、車体を岩壁に擦りつけるようにして速度を殺していく。
ガガガガガッ――。
そして、ようやく平らな場所へ滑り込んだ。
ガンッ!
最後の衝撃。
それきり、アルゴー号は動かなくなった。
突然の静寂に、誰もすぐには口を開かなかった。
エンジン音だけが、暗闇の中へ低く響いている。
追手の光は、もう見えない。
遥か上方に青白い光が小さく揺れていたが、それもやがて闇の中へ消えていった。
「……逃げ切った?」
エマが呟く。
白石は答えなかった。
代わりに、毛布に包まれていた創が、ゆっくりと目を開いた。
「……聞こえる」
「何が?」
エマが振り返る。
創は目を閉じたまま、耳を澄ませていた。
ドン。
少し間を置いて。
……ドン。
さらに遠くから。
…………ドン。
地底の奥から響いてくる。
あまりにも低く、あまりにも重い音だった。
まるで、巨大な心臓がゆっくり鼓動しているかのようだった。
エマが端末を取り出し、すぐに音響解析を始める。
波形が画面いっぱいに広がった。
「……違う」
「何が?」
白石が尋ねた。
エマの顔が次第に青ざめていく。
「ただの反響音じゃない」
波形をさらに拡大する。
「この音……岩壁から返ってきてるんじゃない」
ドン。
今度は車体そのものが微かに震えた。
エマが画面を見つめたまま呟く。
「……遺跡そのものが、脈打ってる」
創の右手が、毛布の中で微かに動いた。
熱を帯びる。
まるで、暗闇の奥にいる何かが創の存在に気づいたかのように。
ドン。
また鼓動が響いた。
創は漆黒の闇を見つめる。
「……呼んでる」
その言葉に、エマが息を呑んだ。
アルゴー号のヘッドライトが、巨大な地下空洞を照らしている。
その先には何も見えない。
少なくとも、今は。
ただ、闇の奥から巨大な何かがこちらを見つめているような感覚だけが、はっきりとあった。
追手から逃げ切った。
つい先ほどまで、誰もがそう思っていた。
だが、違う。
彼らは逃げたのではない。
もっと深い場所へと追い込まれたのだ。
ドン。
地底の鼓動が、もう一度響いた。
それはまるで、長い眠りから目覚めようとしている何かが、暗闇の底から発した合図のようだった。




