第一部 エピローグ
窓の外は、いつの間にか暗くなっていた。
雲の下に海があるはずだったが、貨物室からは境目が見えなかった。翼の端の灯りだけが一定の間隔で瞬き、そのたびに窓ガラスへ薄い赤が映り込む。
創は毛布の中で身体の向きを変え、右腕の下に入れた布を直した。
少し眠ったらしい。けれど、目を覚ましても疲れは取れていなかった。脚には階段を上った痛みが残り、肩を動かすと、右腕の奥が重く引きつった。
座席脇の袋から水を取り、少しずつ飲む。
向かいでは白石が目を閉じていた。エマも端末を膝に置いたまま眠っている。操縦席の計器が淡く光り、その前でレオがときどき姿勢を変えていた。
創は音を立てないようにボトルを戻し、右手を開いた。
指の動きは、少しだけよくなっていた。
一本ずつ曲げ、また伸ばす。手首に近いところには赤い筋が残っていたが、光ってはいない。抑制パッチの表示も変わらず、熱が強くなる気配はなかった。
ほんの数日前まで、手の動きを確かめる必要などなかった。
顕微鏡のつまみを回し、ページをめくり、母からの連絡へ返事を打つ。そのどれも、指が自分の思うとおりに動くことを前提にしていた。
今は、その当たり前を一つずつ確かめている。
創は手を毛布の上へ置いた。
床を溶かしたときの光を思い出す。自分の内側から熱が流れ出し、痛みが薄れた瞬間も、そのあと立ち上がれなくなったことも、まだ身体に残っていた。
何が起きたのか、分かりたい。
あの力を、もう一度使ってみたいという気持ちも消えてはいなかった。ただ、そのためにエマやレオを巻き込み、また誰かに運んでもらうことになるのなら、今は試すべきではない。
創は座席脇の袋へ目を向けた。
父のノートには、自分の不揃いな字が加わっている。
『使用後に強い消耗と右腕の痛み。再使用は未確認。』
書き込んだのは、それだけだった。
それでも、父が残した指示を読むだけだったときより、少し呼吸がしやすかった。
創は背もたれへ頭を預け、目を閉じた。
エンジンの音が続いている。その低い響きの中に、ふと、父の歌に似た節が混じった。
創は目を開けた。
誰も起きていなかった。
窓の外を見ても、翼の灯りが瞬くだけだった。耳を澄ませると、聞こえるのはエンジンと、機体を流れる風の音だった。
右手の指が、小さく動いた。
創はその手を押さえかけ、途中で止めた。今の動きが自分のものだったのか、確かめるように、もう一度ゆっくり指を曲げた。
今度は、思ったとおりに動いた。
*
ニューヨークの空には、まだ明るさが残っていた。
アダム・ジェノミクスの支部ビル最上階で、ジュリアン・ヴァンスは会議室の窓に背を向けた。正面の大型画面には、雨の中で撮影された映像が止められている。
泥に膝をついた青年が、片腕を上げようとしていた。
その顔には、疲労と怒りがあった。右腕だけが熱画像の中で明るく浮かび、ほかの部位との違いを示している。
ヴァンスは映像を少し戻した。
青年が手を開く。指が震え、腕が下がりかける。隣の女性が支えようとすると、隊員の銃口が動いた。
「本人で間違いないのか」
背後に立っていた女性が答えた。
「顔認証と既存の記録が一致しています。神代創、十九歳。神代宗助の息子です」
「発現の判定は」
「現地で確認された熱反応と、その後の解析によるものです。第一段階に達した可能性は高いと判断されています」
画面の脇には、長年蓄積された検査結果が並んでいた。その下に、丹後で撮影された映像と、新しい判定が追加されている。
《覚醒シーケンス:第一段階 完了》
ヴァンスはその文字をしばらく見ていた。
「地下施設は?」
「入口付近で崩落が起きています。内部へ送った無人機も途中で進めなくなりました。全体の損傷は確認できていません」
「石は」
「所在を確かめられていません」
ヴァンスは何も言わず、別の資料を開いた。
古い写真だった。
黒い石の一部と、その前に置かれた観測機器が写っている。隅には神代宗助の名前があり、撮影日は十年以上前になっていた。
「彼は、そこへ戻ったわけか」
「創本人が施設の存在を知っていたかは不明です。白石が同行しています」
「それなら、案内したのは白石だろう」
ヴァンスは写真を閉じた。
「現在地は?」
「舞鶴周辺で航空機へ乗り換えた可能性があります。北へ向かったという情報がありますが、機体の追跡は途切れています」
「可能性ばかりだな」
女性は黙った。
ヴァンスはもう一度、創の顔を画面に出した。
宗助の息子。
記録の上では、病気を乗り越え、大学へ進んだ青年だった。定期検査の数値を追う限り、長い間、目立った変化はなかった。
それが今、石へ近づき、熱を発した。
「十年待って、ようやく動いた」
ヴァンスは小さく言った。
「回収部隊を再編しますか」
「追跡を優先しろ。今度は、移動先を確かめてから動かせ」
「次の施設へ到達する可能性があります」
「それを見たい」
女性が顔を上げた。
ヴァンスは画面から目を離さなかった。
「宗助がどこまで見つけ、何を息子に残したのか、我々はまだ知らない。ここで捕らえても、本人が答えを持っているとは限らないだろう」
「白石から聞き出すことはできます」
「白石が知っているなら、とっくに宗助の代わりをしている」
室内が静かになった。
ヴァンスは画面を拡大した。創が右手を見下ろしている。銃を向けられている最中でさえ、その腕をどう扱えばいいのか分からないようだった。
「オリジナルは、まだ自分の使い方を知らない」
その言葉だけ、女性は手元の端末へ記録しなかった。
「逃がし続けるのですか」
「行き先を失うなと言っている」
ヴァンスは振り返った。
「次に彼が何を開くのか。回収するかどうかは、それを見て決める」
*
ロンドンでは、大学の建物から人影が消え始めていた。
地下の資料室に残った研究者は、机に広げた複写資料を脇へ寄せ、届いたばかりの映像をもう一度再生した。
出所の確認は、まだ済んでいない。
映像は短く、撮影した位置もよく分からなかった。暗い地下空間に黒い石が立ち、その下部を赤い光が走っている。手前には数人の人影があり、一人が腕を押さえていた。
研究者は映像を止めた。
人物の顔より、石の表面へ目が向いた。
溝の折れ曲がり方。枝分かれする位置。赤く灯った線の終わりにある、小さな輪のような形。
彼は別の画像を開いた。
中東で記録された石面の拓本だった。続いて、南米の遺跡から出土した黒い石片、チベットの壁画の写真を並べる。
全体の形は違った。
けれど、同じ組み合わせの線があった。
研究者は椅子から立ち上がり、背後の棚から厚い資料集を抜いた。折り目のついたページを開き、机の灯りの下へ置く。
数百年前の写本を撮影したものだった。
中央には人の姿が描かれ、その胸と手から、炎に似た線が伸びている。周囲を囲む十二個の円には、それぞれ異なる記号が入っていた。
彼はその一つと、停止した映像を見比べた。
よく似ている、というだけでは足りなかった。
石の上で赤く灯っている線が、写本の中にもあった。
「……十二の門」
長い間、彼はそれを、土地ごとに形を変えた同じ伝承だと考えていた。断片的な資料をつなぎ合わせるたび、考えすぎではないかと疑いもした。
目の前の映像が本物なら、その前提から考え直さなければならなかった。
机の端で通知音が鳴った。
共同観測の記録を集めている画面に、新しい報告が届いていた。研究者は開き、眉を寄せた。
一地点ではなかった。
地図の上に、観測値の変化を知らせる印が増えていく。シベリアの観測所から届いた記録を開くと、普段は平坦な線に、小さな山が繰り返し現れていた。
別の地点でも、よく似た間隔の変化があった。
研究者は機器の不具合を疑い、時刻と観測条件を確かめた。すべてが同じ信号とは限らない。遠く離れた装置が、同時に別のものを拾った可能性もある。
それでも、地図へ戻ったとき、手が止まった。
印のついた場所のいくつかが、机に広げた資料の出土地と重なっていた。
シベリア。ヨルダン。エジプト。沖縄。アンデス。
新しい報告が一つ追加された。
研究者は画面の印を数え、写本へ目を落とした。
十二個の円が、人の姿を囲んでいた。
彼は椅子へ座り直した。映像と観測記録を一つの画面に並べ、丹後で最初に赤い光が現れた時刻を探し始めた。
*
アルゴーⅡの貨物室で、エマが目を覚ました。
創が起きていることに気づき、座席の向こうから小さく声をかける。
「痛む?」
「少し。でも、さっきと変わらない」
「眠れた?」
「たぶん。夢を見てた気がする」
エマは創の腕を見たが、手を伸ばさずに待っていた。創は自分でパッチの表示を確かめてから頷いた。
「変わってない」
「分かった。何かあったら起こして」
彼女は毛布を肩へ引き上げた。
創は窓へ目を向けた。
外には何も見えなかった。北へ向かっていることも、計器とレオの言葉を信じるほかなかった。バタガイカに父がいるという証拠も、求める答えが残っているという保証もない。
それでも、ノートに書かれた場所へ行けば、一つは確かめられる。
自分の身体が、そこでどう反応するのか。
そして、父の予測が正しかったのか。
創は右手を膝の上に置き、指を開いた。
今度は、自分の意思で握り、途中で止めた。痛みの出る手前で力を抜く。
「……使い方くらい、自分で覚える」
小さく呟いた。
父が何を残したとしても、この腕で痛みを感じるのは自分だった。誰かに向けるかどうかを決めるのも、使わずに済む方法を探すのも、自分でありたかった。
手首の近くで、細い赤が一度だけ浮いた。
創は動きを止めた。
窓に映った翼の灯りではなかった。袖の陰になった皮膚の下で、短い線がかすかに光っている。
「エマ」
彼女がすぐに目を開けた。
「今、少し光った」
エマは身体を起こし、創のそばへ来た。
「痛みは?」
「変わらない。指も動く」
「分かった。時刻を残しておく」
創は腕を差し出した。
隠さずに伝えられたことに、少しだけ安堵した。
エマが記録をつける間にも、機体は夜の空を進んでいた。
*
シベリアの観測記録に、もう一つ、小さな山が加わった。
雪に覆われた地表では、風が吹いているだけだった。観測装置を点検する者も、近くを通る者もいない。
その下、凍った土と岩に囲まれた空洞には、光が届かなかった。
長い間、何も動かなかった場所だった。
黒い石の表面で、一本の溝が淡く灯った。
光はすぐに消えたが、しばらくすると、今度はその隣に現れた。少しずつ移りながら、上端から下へと線をたどっていく。
誰も見ていない暗がりで、石に刻まれた模様が浮かび始めた。
創たちが到着するより先に、第二の門は反応を始めていた。




