第7話 氷点下の密航とシベリアへの標
毛布の端が右手に触れ、創は目を覚ました。
擦れただけなのに、皮膚の下へ細い針を差し込まれたような痛みが走った。左手で布を退け、腕を動かさないようにして身体を起こす。
床の下では、車とは違う振動が続いていた。
窓の外に道路はなく、灰色の雲の切れ間から暗い海が見えている。翼の付け根で飛沫の跡が白く乾き、その向こうではプロペラが回っていた。
舞鶴の湾内を飛び立ってから、どれくらい経ったのだろう。
創は座席の脇に置いた水を取ろうとして、指が震えていることに気づいた。左手でボトルを持ち上げ、少しだけ飲む。
「起きた?」
向かいにいたエマが顔を上げた。膝に広げていた端末を脇へ置き、創の毛布を足元まで掛け直す。
「寒くない?」
「……寒い」
「私も。さっきから、暖房を強くしてもらってるんだけど」
操縦席との仕切りは開いていた。その向こうでレオが片手を上げる。
「今、上げてるっス。前はちゃんと暖かいんスけどね」
「後ろにも分けてほしいんだけど」
「俺もそう思って、送風管を直したんスよ。出発前までは、いい仕事してたんスけど」
「今もしてほしいの」
「帰ったら、よく言い聞かせとくっス」
エマは小さく息を吐き、創へ顔を戻した。
「聞いた? 帰るまで、この調子みたい」
創は少しだけ笑った。
貨物室には荷物を固定する金具が床に並び、その脇へ簡単な座席が取りつけられていた。車から積み替えた工具箱と補給品がベルトで留められ、折り畳んだ担架も壁に固定されている。
アルゴーⅡ。
名前を聞いたときには冗談だと思ったが、レオは真面目な顔で、空を飛ぶほうにも名前が要るでしょうと言った。
湾内の格納庫で初めて見た機体は、翼の下に二つのエンジンを持つ古い水陸両用機だった。塗装の継ぎ目や補修跡の多さは車と似ていたが、飛び立つ前、レオは普段よりずっと口数が少なく、一つずつ確認を済ませていた。
その姿を見て、創は乗ることにした。
丹後を離れてから、二日が経っていた。
追跡を避けて何度も道を変え、白石の知り合いがいる場所で休んだ。診察を受け、検査をして、水分と食事を取り、ほとんど一日を眠って過ごした。
それで歩けるようにはなった。
けれど、元に戻ったとは言えなかった。
右腕には熱が残り、指を動かすと前腕の奥が痛んだ。握れる日用品が少しずつ増えていく一方で、何もしていないときに急に震え始めることもある。
創は毛布の上で右手を開いた。
指が途中で止まり、小さく痙攣した。
「……また?」
エマが尋ねた。
創は頷き、袖をゆっくりまくった。
手首から肘にかけて、暗い赤色の筋が残っていた。地下で見たように光ってはいないが、皮膚の下を何かが通った跡のようで、見るたびに気分が沈んだ。
「腕は、熱いんだ」
「身体は寒いのに?」
「うん」
首筋には汗をかいていた。それが冷えるせいか、肩の震えが止まらない。毛布を掛けると右腕の熱がこもり、外すと今度は全身が冷えた。
どこまで温めればいいのか、自分でも分からなかった。
白石が向かいの座席から立ち、手すりをつかみながら近づいてきた。
「痛みは強くなっているか」
「さっきよりは。あと、指が勝手に動きます」
「腕を見せてくれ」
白石は創の手首に巻かれた測定器を確かめ、それから肘の少し上へ目を向けた。薄い灰色のパッチが貼られている。
出発前に使ったものだった。
端の表示が、黄色に変わっていた。
「交換する。前の分が切れてきたようだ」
白石は鞄から小さな包みを取り出した。
創は、その手元を見た。
「これ、貼り続けないと駄目なんですか」
「今のところは、間を空けすぎないほうがいい。最初に貼ったあと、熱と震えが弱まった。外したときにどうなるかを、飛んでいる最中に試すわけにはいかん」
創は黙って腕を差し出した。
白石は古いパッチを剥がし、皮膚を確かめてから新しいものを貼った。端を押し込むと、小さな音がして表示が変わる。
浅い痛みに、創は顔をしかめた。
「何を抑えてるんですか、これ」
「異常な反応を一時的に弱めるための薬剤だ。普通の解熱剤ではない」
「俺に合うものが、あったんですね」
自分で言ってから、その言葉に棘があることに気づいた。
白石も気づいたようだった。包みを片づける手を止め、創を見た。
「宗助の研究と関係する試作薬だ。持ってはいたが、お前にどう作用するかまでは分からなかった。地上で身体を調べてから、少量で確かめた」
「地下では、使えなかった?」
「あの状態で何を加えればどうなるか、判断できなかった」
白石は答えた。
「今も、完全に分かったわけではない。効いているか、副作用が出ていないか、確かめながら使うしかない」
創はパッチを見下ろした。
父が身体に残したものを抑えるために、また父の研究に関わるものを使っている。
どこまで行っても、知らないところで用意されたものから抜け出せない気がした。
しばらくして、指の震えが少し弱まった。
痛みが消えたわけではなかったが、肩へ力を入れていなくても腕を置いていられるようになった。創は息を吐き、背もたれへ身体を預けた。
白石が測定器の記録を確かめた。
「少し落ち着いてきたな」
「……動かしても?」
「ゆっくりなら。無理に握り込むな」
創は指を曲げた。
半分ほど曲げたところで、前腕が痛んだ。拳を作る手前で止め、また開く。
「熱が下がっても、動かないんですね」
「熱を抑えることと、傷んだ身体が戻ることは別だ」
白石は端末に保存した検査結果を開いた。
「筋肉が傷んでいることを示す数値が上がっていた。水分も足りていなかった。休んで改善しているところはあるが、まだ元には戻っていない」
創は画面を見た。
診察を受けたときにも説明された数値だった。大学で学んだ言葉が、自分の身体について並んでいる。その意味が分かることは、今は必ずしも安心につながらなかった。
「石を溶かしても、手は焼けてなかったのに」
「見た目に火傷がないからといって、中まで無事とは限らん。あの熱に耐えた仕組みも、まだ分からない」
白石は画面を閉じた。
「もう一度使って確かめようとは、考えるなよ」
創は顔を上げた。
何も言っていないのに、見透かされた気がした。
「……今は、無理です」
「今だけの話ではない。使い方も、止め方も、まだ分かっていないんだ」
創は右手を毛布の上へ戻した。
地下で床を溶かしたあと、もう一度できるかと考えた。そのことを、今も忘れてはいなかった。
けれど、身体に残った痛みは、その好奇心よりずっとしつこかった。
「何回使えるんでしょうね」
白石はすぐには答えなかった。
「回数では決められん。どれほど強く、どれほど長く使うかでも違うだろうし、今の身体が回復するかどうかも関わる」
「回復しなかったら?」
「だから、今は休ませる」
創は窓へ目を向けた。
雲の下の海は、どこまでも同じ色だった。ここから降りて大学へ戻ることはできない。右腕だけを置いていくこともできなかった。
*
白石が席へ戻ったあと、創はしばらく黙っていた。
エマは隣に座り、端末を開いていた。画面には石板の写真が映っていたが、音は出していない。地下で録ったものは、創の近くでは再生しないことになっていた。
創が手を動かすたび、彼女は一度だけ視線を向け、それから画面へ戻った。
「気になる?」
創が尋ねると、エマは顔を上げた。
「腕のこと?」
「うん。勝手に動いたら、危ないだろ」
「痛そうだから見てた」
創は返事をしなかった。
エマは端末を閉じた。
「何か、気になってる?」
創は右手の筋を見た。
「元に戻るのかなって」
「腕が?」
「それもだけど」
うまく言葉にならなかった。
手が熱くなった。知らない言葉を口にした。床を溶かした。
それぞれを並べれば起きたことは説明できる。けれど、その全部をした人間が自分だということに、まだ慣れなかった。
「また、勝手に喋ったらどうしようって思う」
創は言った。
「腕が動くのも怖いけど、あのときは声まで……止めようとしても、止められなかった」
エマは黙って聞いていた。
「今は、止まってる。でも次は、止まらないかもしれない。そのうち、自分で考えてるのかどうかも分からなくなるんじゃないかって」
創は左手で口元をこすった。
そんなことになると分かったわけではなかった。それでも一度考え始めると、別の可能性で打ち消すことができなかった。
「……俺、まだ普通に見える?」
エマはすぐには答えなかった。
創の顔を見て、それから毛布の上の右手へ視線を落とした。
「少し、触ってもいい?」
「熱いよ」
「先に確かめる」
彼女は手の甲へ指先を短く当てた。温度を確かめてから、痛む場所を避け、創の指をそっと支えた。
創は反射的に手を引きかけた。
「無理しなくていい」
「無理なら離す」
エマの声は落ち着いていた。
その手は、創の右手より冷たかった。普通なら、人の手を冷たいと感じるときに気に留めるほどの差ではない。それでも今は、その温度がひどく懐かしかった。
「普通かどうかは、私には決められない」
エマは言った。
「何が起きてるのかも、まだ説明できない。でも、今ここで話しているのは創でしょう」
「今は、そうかもしれないけど」
「今はそう。それまで疑わなくてもいいと思う」
創は彼女を見た。
「地下で苦しかったとき、右側へ来ないでって言ったの、覚えてる?」
「……うん」
「車に乗るときも、工具の袋で銃を押し返してくれた。腕が熱くなったからじゃない。あなたが、そうしようとした」
創は目を伏せた。
あのときは、考える余裕などなかった。銃口が車内へ向いたことと、床に工具袋があったことだけを覚えている。
「身体に分からないことが増えても、あなたが決めたことまで消えたわけじゃないでしょう」
エマの指が、創の手を少し包み直した。
「勝手に動いたことと、自分でしたことを、全部一緒にしないで」
創はしばらく、彼女の手を見ていた。
普通の身体だと言ってほしかったのかもしれない。もう大丈夫だと、根拠がなくても言ってほしかった。
けれど、そう言われていたら、信じられなかっただろうとも思った。
「怖くないのか」
創が尋ねると、エマは頷いた。
「怖かった。石が溶けたときは、近づいたらどうなるか分からなかったし、あなたが息をしなくなるんじゃないかと思った」
「……うん」
「だから、次に何か変わったら教えて。動かしにくいとか、知らない言葉が浮かぶとか。小さなことでも」
「また、同じことになったら?」
「そのときは、また考える。一人で何とかしようとしないで」
創は、ようやく肩の力を抜いた。
エマに支えられている手は、まだ自分の身体だった。指を動かそうと思えば少し動き、痛みが出れば止められる。
それを確かめるように、小指をわずかに曲げた。
エマが気づき、手を引かずに待ってくれた。
「……ありがとう」
声にすると、急に疲れが押し寄せた。
エマは頷き、右腕の下へ畳んだ布を入れた。手を離したあとも、その温度が少し残っているように感じられた。
*
しばらくして、白石が創のそばへ来た。
「お母さんから、知り合いのほうへ連絡があった。今のところ、変わりはないそうだ」
創は身体を起こした。
「俺のこと、何か言ってましたか」
「落ち着いたら、声を聞かせてほしいと」
創は頷いた。
出発前に一度、短く話した。大学の関係者と一緒にいて、少し遠くへ行く用事ができた。心配しなくていいと伝えたが、自分でも驚くほど説明になっていなかった。
母は何度か問い返したあと、ちゃんと食べているのかと聞いた。
その質問に答えるのが、一番苦しかった。
「次に連絡できるところで、電話します」
「ああ」
白石はそれ以上聞かず、席へ戻った。
創は窓の外を見た。
雲の切れ間に、海岸線が現れていた。暗い海の向こうに雪の残る土地が広がり、低い丘が白と灰色の模様を作っている。
操縦席から、レオが声をかけた。
「そろそろ陸地に沿って飛ぶっス。少し揺れるかもしれないんで、ベルト確かめてください」
エマが創の腰のベルトを確認し、自分の席へ戻った。
機体が緩やかに傾く。海の面積が小さくなり、白い土地が窓いっぱいに広がった。
バタガイカまでは、まだ先だった。
そこへ向かうと、父の用意した道をそのまま進むことになる。その思いは消えていない。けれど、立ち止まって待っていれば、この腕について誰かが説明してくれるわけでもなかった。
創は足元に固定された鞄を見た。
中には、父のノートが入っている。
地下では、怒りと痛みの中でページを追うことしかできなかった。まだ読んでいないところがある。父の指示だけでなく、その根拠が書かれているかもしれない。
「エマ」
呼ぶと、彼女が顔を上げた。
「鞄、取ってもらっていい?」
「何か欲しい?」
「ノート」
エマは創の顔を見た。
「読めそう?」
創は右腕を布の上へ置き直し、左手を差し出した。
「今度は、分かるところから読んでみたい」
エマは床のベルトを外し、鞄から黒いノートを取り出した。
創の膝へそのまま置こうとして、右腕が近いことに気づく。荷物の間から薄い板を探し、毛布の上へ載せてから、その上にノートを置いた。
「これなら、押さえなくても読めると思う」
「ありがとう」
創は左手で表紙に触れた。
銀色の宛名は、地下で見たときと変わらなかった。けれど今は、そこに書かれた名前より、側面の金具へ目が向いた。
「また、血がいるのかな」
エマが留め具を確かめると、わずかに浮いていた。
「まだ開いてる。前に読んだあと、完全には閉じていなかったみたい」
創は表紙を持ち上げた。
最初のページに、父の一行があった。
『よくここまで来たな、創。』
そこは読み返さず、次へ進んだ。
地下では、自分の名前や日付ばかりを追っていた。今回はページの端にある小さな項目へ指を触れ、記録の一覧を表示させた。
治療経過、検査結果、経過観察。
その下に、『発現に関する仮説』という項目があった。
創はそれを開いた。
父の手書きを写した文章と、簡単な図が現れた。身体の輪郭にいくつかの線が引かれ、右腕に相当する場所が囲まれている。
エマが隣から覗き込んだ。
「それは?」
「能力について、書いてるのかもしれない」
創は文章を上から追った。
専門用語も略語も多かったが、途中に、意味の分かる一文があった。
『初期反応は本人の意思に先行する可能性がある。』
創の指が止まった。
「……知ってたんだ」
喉と舌が勝手に動いた感覚を思い出した。言いたい言葉があるのに、口からは別の音が出ていた。
その下にも、文章が続いていた。
『自発的な開始と停止が確認できるまでは、制御を獲得したとみなさないこと。』
創は二度読んだ。
「開始と、停止……」
エマも同じ箇所を見ていた。
「熱が出ただけでは、使えるようになったことにはならない、という意味ね」
「地下で床に熱を逃がしたのは、自分でやった。でも、出したくて出したわけじゃない。止まったのも……使い切ったからかもしれない」
創は右腕へ目を落とした。
力を持ったのではなく、身体の中で起きたことに辛うじて対処しただけだった。
その違いを、父は書き分けていた。
だからといって、怒りが薄れるわけではない。分かっていたなら、なぜ先に読める場所へ残してくれなかったのか。苦しんだあとに答え合わせをさせられているようで、胸の奥が重くなった。
「日付、見て」
エマがページの上を指した。
事故より前だった。
創はその数字を見つめた。
「父が消える前に、こうなる可能性を書いていたんだな」
「ええ。ただ、ここは『仮説』になってる。全部を確かめた記録ではないと思う」
創は少し黙ってから頷いた。
父が予測していたことと、実際に自分へ起きたことは、同じではない。そう分けて読まなければ、書かれた一行一行が、すべて父の計画に見えてしまう。
左手でページをめくる。
次には、発現時期についての記述があった。
『十九歳前後を想定。ただし、成長および身体状態による変動が大きい。』
創は息を吐いた。
「年齢まで……」
向かいの白石が顔を上げた。
「何か見つかったか」
創はノートを少し傾け、該当する部分を見せた。
白石は眼鏡を直し、文章を読んだ。続けて前後の記録にも目を通し、ゆっくり頷く。
「私が聞いていたのは、成長してから変化が出るかもしれない、というところまでだ。ここまで具体的な予測は知らなかった」
「何を根拠に、十九歳だと思ったんでしょうね」
「それも調べなければならん」
白石はノートを創の膝へ戻した。
「分からない箇所は、そのまま残しておけ。宗助が書いたことでも、正しいとは限らない」
創は白石を見た。
父の記録を、疑っていい。
言われてみれば当たり前だった。研究の途中で書いた仮説なら、間違いもあるはずだった。それなのに、自分について書かれているだけで、覆せない決定のように受け取っていた。
創は一覧へ戻り、次の項目を開いた。
*
バタガイカの地図が表示された。
白い地表に大きな窪地があり、その一帯を囲む枠が引かれている。地下で見たときには次の行き先としか思えなかったが、よく見ると、枠の中にも幾つかの印があった。
その一つに触れると、石板に似た図が現れた。
「ここ」
エマが身を寄せた。
「この線、丹後の石板にもあった」
彼女は自分の端末を開き、保存していた写真を表示した。音声の再生画面を閉じ、溝の一部だけを拡大する。
創は二つの図を見比べた。
枝分かれの仕方は似ていたが、全体が同じではない。ノートの図では、いくつかの線の端に小さな数字が添えられていた。
「父が書き足したんですか」
「たぶん。石板そのものには、こういう数字はなかったでしょう」
エマはノートの次のページを開いた。
同じ記号を何度も書き直した跡があり、脇には取り消し線の入った数字が並んでいた。さらに下には、二組の数値と、短い注釈があった。
『位置情報としての解釈。要検証。』
エマはしばらく黙って、そのページを見ていた。
「言葉として読んでいただけじゃないのね」
「どういうこと?」
「お父さんは、この記号の一部を、場所を示すものだと考えていたみたい」
彼女は二組の数値を指した。
「緯度と経度の形になってる。ただ、どう変換したのかは、このページだけでは分からない」
「それが、バタガイカ?」
「確かめてみる」
エマは端末の地図を開き、保存された地域の地図へ数値を入力した。
印が一つ現れた。
ノートに描かれた大きな窪地の、縁に近い場所だった。
「この辺り……」
創が身を乗り出すと、右腕に痛みが走った。
エマがノートを近づけてくれる。創は礼を言い、画面へ目を戻した。
広い地図の中に点が一つあるだけで、目的地が急に具体的になった。
白銀の世界のどこかではなく、この場所に行けばいい。
父はそう考えていたのだ。
「レオ。この位置、航法用の地図でも確認できる?」
エマが声をかけると、操縦席から返事があった。
「数字、読み上げてください。次の着陸地点を変えるなら、早めに頼むっス」
「今すぐ向かう場所を変えるわけじゃない。目的地の候補が絞れたの」
「候補、了解っス。そこ、大事っスね」
エマは数値を読み上げた。
レオが入力する間、創はノートの地図へ戻った。印のそばにある記号を拡大すると、その下に父の注釈が現れた。
『第二の門――眠る石の門』
「眠る石……」
創が呟いた。
エマもその文字を見た。
「名前なのか、状態を表しているのかは、まだ分からない。でも、ここにも石の構造物があると考えていたのね」
創は右手へ目を落とした。
丹後と同じように、近づいただけで反応するかもしれない。そこでまた知らない言葉を口にしたら、今度は何が始まるのだろう。
その考えを口にする前に、白石が言った。
「次の着陸地点で、今後の動きを決める」
創は顔を上げた。
「現地へ直行はしない。補給をして、お前の身体ももう一度確かめる。そのあとは、まず私たちで入口の様子を見る」
「俺は?」
「休める場所に残れ」
創は膝の上のノートを見た。
地下でも、安全な場所へ行くように言われた。そのときは、自分の身体のことを知りたいという気持ちだけで同行を求めた。
今は、もう少し分かっている。
自分が行けば危険が増す。動けなくなれば、また誰かに支えてもらわなければならない。それでも、白石たちだけがあの場所へ行き、戻ってくるのを待つ自分を想像すると、胸の内側が落ち着かなかった。
「俺も、現地までは行きたいです」
白石の表情が厳しくなった。
「今の腕で、何をするつもりだ」
「何があるかを見ます」
「見るだけで済むとは限らん。丹後では、石板に近づいただけで反応が始まった」
創は答えに詰まった。
それは自分も考えていたことだった。
白石は声を落として続けた。
「お前を除け者にしたいわけではない。前と同じことが起きれば、今度も助けられるとは約束できん」
機体が小さく揺れた。
創は左手でノートを押さえ、揺れが収まるのを待った。窓の外では、雪の積もった丘がゆっくり流れている。
「……俺も、約束できません」
白石が創を見た。
「行ったらどうなるか、分からない。大丈夫だとも言えないです」
創は自分の右腕を見た。
「でも、戻ってきた人から説明を聞くだけで、自分の身体のことを決めたくない」
「説明は隠さずにする」
「白石さんが隠すって言ってるんじゃありません」
創は首を振った。
「父にも、アダム社にも、俺の知らないところで俺のことを調べられてた。病気のことも、治療のことも、あとから知ったことばかりです」
言葉にしているうちに、自分が何を嫌がっているのか分かってきた。
ただ危険な場所へ行きたいのではなかった。
何が起きているのか分からないまま、誰かが判断を済ませ、結果だけを渡される。それを、これ以上続けたくなかった。
「何が分かって、何が分からないのか、俺も一緒に確かめたいんです。引き返すかどうかも、その場で話したい」
白石はしばらく黙っていた。
エマも口を挟まなかった。創はノートの角を左手で押さえたまま、返事を待った。
「身体の状態が戻らなければ、出発は延期する」
やがて白石が言った。
「現地へ行くとしても、いきなり石へ近づかない。先に周囲を確かめる。痛みや熱に変化が出たら、隠さずに伝えろ」
創は顔を上げた。
「能力を使うために連れていくのではないぞ。氷があったからといって、お前に融かさせるつもりはない」
白石は父の指示が書かれたページへ目を向けた。
「宗助が何を書いていようと、それは別だ」
創はゆっくり頷いた。
「分かりました」
「それと、無理なら無理と言え。歩けないのに、歩ける顔をするな」
創は少しだけ目を伏せた。
「……気をつけます」
「そこは、約束してほしいっスね」
操縦席から声がした。
レオは前を向いたまま続けた。
「旦那を運ぶとき、先に分かってたほうが、こっちも準備できるんで。黙って倒れるのが一番困るっス」
「分かった。約束する」
「了解っス」
創は息を吐いた。
これで怖くなくなったわけではない。現地で何かを見た瞬間、行かなければよかったと思うかもしれない。
それでも、今度は何も知らずについていくのではなかった。
*
白石が席へ戻ると、エマが端末を開いた。
「印をつけておきましょう」
「何に?」
「今のうちに確かめたいこと。現地で慌てると、忘れるから」
創は少し考えた。
「近づくだけで反応するのか。丹後では、どの辺りから熱くなったか、記録してくれたよね」
「うん。そこも比べられる」
「あと、音。聞くだけでも何か起きるかもしれないから、再生するときは先に教えてほしい」
エマは頷いて記録した。
「勝手に試さない。約束する」
創はノートを見た。
『お前の熱で、永久の氷壁を融かせ。』
その指示の横には、まだ何も書かれていなかった。
「そこにも、書き込めるのかな」
創が尋ねると、エマはノートの縁を確かめた。側面の細い溝から、短いペンが外れる。
「たぶん、これで」
創は左手で受け取った。
右手で書くようにはいかなかった。ペン先を置く位置がずれ、最初の字は少し傾いた。それでも、白紙の余白に短い一文を書いた。
『使用後に強い消耗と右腕の痛み。再使用は未確認。』
少し考えて、もう一行加えた。
『氷を融かせるかどうかも、まだ分からない。』
父の整った字の隣に、自分の不揃いな文字が残った。
創はそれを見てから、ペンを戻した。
このノートに書かれているのは、父が知っていたことと、父がそうなるはずだと考えたことだった。自分に起きたことは、自分で書き足せる。
「……少し、休む」
創が言うと、エマはノートを閉じた。
「預かっておく?」
「いや。ここに置いといて」
座席脇の袋へ入れてもらい、創は背もたれへ身体を預けた。右腕の下の布を直すと、先ほどより楽な位置が見つかった。
窓の外では雲が切れ、遠くの雪原に薄い光が差していた。
あの先のどこかに、父が『第二の門』と呼んだ場所がある。
創はそこへ行くつもりだった。
ただし、父の指示どおりに何かをするかどうかは、まだ決めていない。
機体の振動に身を任せ、目を閉じた。
今は休む。
それが、次に自分の目で確かめるために、創が最初に決めたことだった。




