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第7話 氷点下の密航とシベリアへの標

毛布の端が右手に触れ、創は目を覚ました。

 擦れただけなのに、皮膚の下へ細い針を差し込まれたような痛みが走った。左手で布を退け、腕を動かさないようにして身体を起こす。

 床の下では、車とは違う振動が続いていた。

 窓の外に道路はなく、灰色の雲の切れ間から暗い海が見えている。翼の付け根で飛沫の跡が白く乾き、その向こうではプロペラが回っていた。

 舞鶴の湾内を飛び立ってから、どれくらい経ったのだろう。

 創は座席の脇に置いた水を取ろうとして、指が震えていることに気づいた。左手でボトルを持ち上げ、少しだけ飲む。

「起きた?」

 向かいにいたエマが顔を上げた。膝に広げていた端末を脇へ置き、創の毛布を足元まで掛け直す。

「寒くない?」

「……寒い」

「私も。さっきから、暖房を強くしてもらってるんだけど」

 操縦席との仕切りは開いていた。その向こうでレオが片手を上げる。

「今、上げてるっス。前はちゃんと暖かいんスけどね」

「後ろにも分けてほしいんだけど」

「俺もそう思って、送風管を直したんスよ。出発前までは、いい仕事してたんスけど」

「今もしてほしいの」

「帰ったら、よく言い聞かせとくっス」

 エマは小さく息を吐き、創へ顔を戻した。

「聞いた? 帰るまで、この調子みたい」

 創は少しだけ笑った。

 貨物室には荷物を固定する金具が床に並び、その脇へ簡単な座席が取りつけられていた。車から積み替えた工具箱と補給品がベルトで留められ、折り畳んだ担架も壁に固定されている。

 アルゴーⅡ。

 名前を聞いたときには冗談だと思ったが、レオは真面目な顔で、空を飛ぶほうにも名前が要るでしょうと言った。

 湾内の格納庫で初めて見た機体は、翼の下に二つのエンジンを持つ古い水陸両用機だった。塗装の継ぎ目や補修跡の多さは車と似ていたが、飛び立つ前、レオは普段よりずっと口数が少なく、一つずつ確認を済ませていた。

 その姿を見て、創は乗ることにした。

 丹後を離れてから、二日が経っていた。

 追跡を避けて何度も道を変え、白石の知り合いがいる場所で休んだ。診察を受け、検査をして、水分と食事を取り、ほとんど一日を眠って過ごした。

 それで歩けるようにはなった。

 けれど、元に戻ったとは言えなかった。

 右腕には熱が残り、指を動かすと前腕の奥が痛んだ。握れる日用品が少しずつ増えていく一方で、何もしていないときに急に震え始めることもある。

 創は毛布の上で右手を開いた。

 指が途中で止まり、小さく痙攣した。

「……また?」

 エマが尋ねた。

 創は頷き、袖をゆっくりまくった。

 手首から肘にかけて、暗い赤色の筋が残っていた。地下で見たように光ってはいないが、皮膚の下を何かが通った跡のようで、見るたびに気分が沈んだ。

「腕は、熱いんだ」

「身体は寒いのに?」

「うん」

 首筋には汗をかいていた。それが冷えるせいか、肩の震えが止まらない。毛布を掛けると右腕の熱がこもり、外すと今度は全身が冷えた。

 どこまで温めればいいのか、自分でも分からなかった。

 白石が向かいの座席から立ち、手すりをつかみながら近づいてきた。

「痛みは強くなっているか」

「さっきよりは。あと、指が勝手に動きます」

「腕を見せてくれ」

 白石は創の手首に巻かれた測定器を確かめ、それから肘の少し上へ目を向けた。薄い灰色のパッチが貼られている。

 出発前に使ったものだった。

 端の表示が、黄色に変わっていた。

「交換する。前の分が切れてきたようだ」

 白石は鞄から小さな包みを取り出した。

 創は、その手元を見た。

「これ、貼り続けないと駄目なんですか」

「今のところは、間を空けすぎないほうがいい。最初に貼ったあと、熱と震えが弱まった。外したときにどうなるかを、飛んでいる最中に試すわけにはいかん」

 創は黙って腕を差し出した。

 白石は古いパッチを剥がし、皮膚を確かめてから新しいものを貼った。端を押し込むと、小さな音がして表示が変わる。

 浅い痛みに、創は顔をしかめた。

「何を抑えてるんですか、これ」

「異常な反応を一時的に弱めるための薬剤だ。普通の解熱剤ではない」

「俺に合うものが、あったんですね」

 自分で言ってから、その言葉に棘があることに気づいた。

 白石も気づいたようだった。包みを片づける手を止め、創を見た。

「宗助の研究と関係する試作薬だ。持ってはいたが、お前にどう作用するかまでは分からなかった。地上で身体を調べてから、少量で確かめた」

「地下では、使えなかった?」

「あの状態で何を加えればどうなるか、判断できなかった」

 白石は答えた。

「今も、完全に分かったわけではない。効いているか、副作用が出ていないか、確かめながら使うしかない」

 創はパッチを見下ろした。

 父が身体に残したものを抑えるために、また父の研究に関わるものを使っている。

 どこまで行っても、知らないところで用意されたものから抜け出せない気がした。

 しばらくして、指の震えが少し弱まった。

 痛みが消えたわけではなかったが、肩へ力を入れていなくても腕を置いていられるようになった。創は息を吐き、背もたれへ身体を預けた。

 白石が測定器の記録を確かめた。

「少し落ち着いてきたな」

「……動かしても?」

「ゆっくりなら。無理に握り込むな」

 創は指を曲げた。

 半分ほど曲げたところで、前腕が痛んだ。拳を作る手前で止め、また開く。

「熱が下がっても、動かないんですね」

「熱を抑えることと、傷んだ身体が戻ることは別だ」

 白石は端末に保存した検査結果を開いた。

「筋肉が傷んでいることを示す数値が上がっていた。水分も足りていなかった。休んで改善しているところはあるが、まだ元には戻っていない」

 創は画面を見た。

 診察を受けたときにも説明された数値だった。大学で学んだ言葉が、自分の身体について並んでいる。その意味が分かることは、今は必ずしも安心につながらなかった。

「石を溶かしても、手は焼けてなかったのに」

「見た目に火傷がないからといって、中まで無事とは限らん。あの熱に耐えた仕組みも、まだ分からない」

 白石は画面を閉じた。

「もう一度使って確かめようとは、考えるなよ」

 創は顔を上げた。

 何も言っていないのに、見透かされた気がした。

「……今は、無理です」

「今だけの話ではない。使い方も、止め方も、まだ分かっていないんだ」

 創は右手を毛布の上へ戻した。

 地下で床を溶かしたあと、もう一度できるかと考えた。そのことを、今も忘れてはいなかった。

 けれど、身体に残った痛みは、その好奇心よりずっとしつこかった。

「何回使えるんでしょうね」

 白石はすぐには答えなかった。

「回数では決められん。どれほど強く、どれほど長く使うかでも違うだろうし、今の身体が回復するかどうかも関わる」

「回復しなかったら?」

「だから、今は休ませる」

 創は窓へ目を向けた。

 雲の下の海は、どこまでも同じ色だった。ここから降りて大学へ戻ることはできない。右腕だけを置いていくこともできなかった。

     *

 白石が席へ戻ったあと、創はしばらく黙っていた。

 エマは隣に座り、端末を開いていた。画面には石板の写真が映っていたが、音は出していない。地下で録ったものは、創の近くでは再生しないことになっていた。

 創が手を動かすたび、彼女は一度だけ視線を向け、それから画面へ戻った。

「気になる?」

 創が尋ねると、エマは顔を上げた。

「腕のこと?」

「うん。勝手に動いたら、危ないだろ」

「痛そうだから見てた」

 創は返事をしなかった。

 エマは端末を閉じた。

「何か、気になってる?」

 創は右手の筋を見た。

「元に戻るのかなって」

「腕が?」

「それもだけど」

 うまく言葉にならなかった。

 手が熱くなった。知らない言葉を口にした。床を溶かした。

 それぞれを並べれば起きたことは説明できる。けれど、その全部をした人間が自分だということに、まだ慣れなかった。

「また、勝手に喋ったらどうしようって思う」

 創は言った。

「腕が動くのも怖いけど、あのときは声まで……止めようとしても、止められなかった」

 エマは黙って聞いていた。

「今は、止まってる。でも次は、止まらないかもしれない。そのうち、自分で考えてるのかどうかも分からなくなるんじゃないかって」

 創は左手で口元をこすった。

 そんなことになると分かったわけではなかった。それでも一度考え始めると、別の可能性で打ち消すことができなかった。

「……俺、まだ普通に見える?」

 エマはすぐには答えなかった。

 創の顔を見て、それから毛布の上の右手へ視線を落とした。

「少し、触ってもいい?」

「熱いよ」

「先に確かめる」

 彼女は手の甲へ指先を短く当てた。温度を確かめてから、痛む場所を避け、創の指をそっと支えた。

 創は反射的に手を引きかけた。

「無理しなくていい」

「無理なら離す」

 エマの声は落ち着いていた。

 その手は、創の右手より冷たかった。普通なら、人の手を冷たいと感じるときに気に留めるほどの差ではない。それでも今は、その温度がひどく懐かしかった。

「普通かどうかは、私には決められない」

 エマは言った。

「何が起きてるのかも、まだ説明できない。でも、今ここで話しているのは創でしょう」

「今は、そうかもしれないけど」

「今はそう。それまで疑わなくてもいいと思う」

 創は彼女を見た。

「地下で苦しかったとき、右側へ来ないでって言ったの、覚えてる?」

「……うん」

「車に乗るときも、工具の袋で銃を押し返してくれた。腕が熱くなったからじゃない。あなたが、そうしようとした」

 創は目を伏せた。

 あのときは、考える余裕などなかった。銃口が車内へ向いたことと、床に工具袋があったことだけを覚えている。

「身体に分からないことが増えても、あなたが決めたことまで消えたわけじゃないでしょう」

 エマの指が、創の手を少し包み直した。

「勝手に動いたことと、自分でしたことを、全部一緒にしないで」

 創はしばらく、彼女の手を見ていた。

 普通の身体だと言ってほしかったのかもしれない。もう大丈夫だと、根拠がなくても言ってほしかった。

 けれど、そう言われていたら、信じられなかっただろうとも思った。

「怖くないのか」

 創が尋ねると、エマは頷いた。

「怖かった。石が溶けたときは、近づいたらどうなるか分からなかったし、あなたが息をしなくなるんじゃないかと思った」

「……うん」

「だから、次に何か変わったら教えて。動かしにくいとか、知らない言葉が浮かぶとか。小さなことでも」

「また、同じことになったら?」

「そのときは、また考える。一人で何とかしようとしないで」

 創は、ようやく肩の力を抜いた。

 エマに支えられている手は、まだ自分の身体だった。指を動かそうと思えば少し動き、痛みが出れば止められる。

 それを確かめるように、小指をわずかに曲げた。

 エマが気づき、手を引かずに待ってくれた。

「……ありがとう」

 声にすると、急に疲れが押し寄せた。

 エマは頷き、右腕の下へ畳んだ布を入れた。手を離したあとも、その温度が少し残っているように感じられた。

     *

 しばらくして、白石が創のそばへ来た。

「お母さんから、知り合いのほうへ連絡があった。今のところ、変わりはないそうだ」

 創は身体を起こした。

「俺のこと、何か言ってましたか」

「落ち着いたら、声を聞かせてほしいと」

 創は頷いた。

 出発前に一度、短く話した。大学の関係者と一緒にいて、少し遠くへ行く用事ができた。心配しなくていいと伝えたが、自分でも驚くほど説明になっていなかった。

 母は何度か問い返したあと、ちゃんと食べているのかと聞いた。

 その質問に答えるのが、一番苦しかった。

「次に連絡できるところで、電話します」

「ああ」

 白石はそれ以上聞かず、席へ戻った。

 創は窓の外を見た。

 雲の切れ間に、海岸線が現れていた。暗い海の向こうに雪の残る土地が広がり、低い丘が白と灰色の模様を作っている。

 操縦席から、レオが声をかけた。

「そろそろ陸地に沿って飛ぶっス。少し揺れるかもしれないんで、ベルト確かめてください」

 エマが創の腰のベルトを確認し、自分の席へ戻った。

 機体が緩やかに傾く。海の面積が小さくなり、白い土地が窓いっぱいに広がった。

 バタガイカまでは、まだ先だった。

 そこへ向かうと、父の用意した道をそのまま進むことになる。その思いは消えていない。けれど、立ち止まって待っていれば、この腕について誰かが説明してくれるわけでもなかった。

 創は足元に固定された鞄を見た。

 中には、父のノートが入っている。

 地下では、怒りと痛みの中でページを追うことしかできなかった。まだ読んでいないところがある。父の指示だけでなく、その根拠が書かれているかもしれない。

「エマ」

 呼ぶと、彼女が顔を上げた。

「鞄、取ってもらっていい?」

「何か欲しい?」

「ノート」

 エマは創の顔を見た。

「読めそう?」

 創は右腕を布の上へ置き直し、左手を差し出した。

「今度は、分かるところから読んでみたい」

 エマは床のベルトを外し、鞄から黒いノートを取り出した。

 創の膝へそのまま置こうとして、右腕が近いことに気づく。荷物の間から薄い板を探し、毛布の上へ載せてから、その上にノートを置いた。

「これなら、押さえなくても読めると思う」

「ありがとう」

 創は左手で表紙に触れた。

 銀色の宛名は、地下で見たときと変わらなかった。けれど今は、そこに書かれた名前より、側面の金具へ目が向いた。

「また、血がいるのかな」

 エマが留め具を確かめると、わずかに浮いていた。

「まだ開いてる。前に読んだあと、完全には閉じていなかったみたい」

 創は表紙を持ち上げた。

 最初のページに、父の一行があった。

 『よくここまで来たな、創。』

 そこは読み返さず、次へ進んだ。

 地下では、自分の名前や日付ばかりを追っていた。今回はページの端にある小さな項目へ指を触れ、記録の一覧を表示させた。

 治療経過、検査結果、経過観察。

 その下に、『発現に関する仮説』という項目があった。

 創はそれを開いた。

 父の手書きを写した文章と、簡単な図が現れた。身体の輪郭にいくつかの線が引かれ、右腕に相当する場所が囲まれている。

 エマが隣から覗き込んだ。

「それは?」

「能力について、書いてるのかもしれない」

 創は文章を上から追った。

 専門用語も略語も多かったが、途中に、意味の分かる一文があった。

 『初期反応は本人の意思に先行する可能性がある。』

 創の指が止まった。

「……知ってたんだ」

 喉と舌が勝手に動いた感覚を思い出した。言いたい言葉があるのに、口からは別の音が出ていた。

 その下にも、文章が続いていた。

 『自発的な開始と停止が確認できるまでは、制御を獲得したとみなさないこと。』

 創は二度読んだ。

「開始と、停止……」

 エマも同じ箇所を見ていた。

「熱が出ただけでは、使えるようになったことにはならない、という意味ね」

「地下で床に熱を逃がしたのは、自分でやった。でも、出したくて出したわけじゃない。止まったのも……使い切ったからかもしれない」

 創は右腕へ目を落とした。

 力を持ったのではなく、身体の中で起きたことに辛うじて対処しただけだった。

 その違いを、父は書き分けていた。

 だからといって、怒りが薄れるわけではない。分かっていたなら、なぜ先に読める場所へ残してくれなかったのか。苦しんだあとに答え合わせをさせられているようで、胸の奥が重くなった。

「日付、見て」

 エマがページの上を指した。

 事故より前だった。

 創はその数字を見つめた。

「父が消える前に、こうなる可能性を書いていたんだな」

「ええ。ただ、ここは『仮説』になってる。全部を確かめた記録ではないと思う」

 創は少し黙ってから頷いた。

 父が予測していたことと、実際に自分へ起きたことは、同じではない。そう分けて読まなければ、書かれた一行一行が、すべて父の計画に見えてしまう。

 左手でページをめくる。

 次には、発現時期についての記述があった。

 『十九歳前後を想定。ただし、成長および身体状態による変動が大きい。』

 創は息を吐いた。

「年齢まで……」

 向かいの白石が顔を上げた。

「何か見つかったか」

 創はノートを少し傾け、該当する部分を見せた。

 白石は眼鏡を直し、文章を読んだ。続けて前後の記録にも目を通し、ゆっくり頷く。

「私が聞いていたのは、成長してから変化が出るかもしれない、というところまでだ。ここまで具体的な予測は知らなかった」

「何を根拠に、十九歳だと思ったんでしょうね」

「それも調べなければならん」

 白石はノートを創の膝へ戻した。

「分からない箇所は、そのまま残しておけ。宗助が書いたことでも、正しいとは限らない」

 創は白石を見た。

 父の記録を、疑っていい。

 言われてみれば当たり前だった。研究の途中で書いた仮説なら、間違いもあるはずだった。それなのに、自分について書かれているだけで、覆せない決定のように受け取っていた。

 創は一覧へ戻り、次の項目を開いた。

     *

 バタガイカの地図が表示された。

 白い地表に大きな窪地があり、その一帯を囲む枠が引かれている。地下で見たときには次の行き先としか思えなかったが、よく見ると、枠の中にも幾つかの印があった。

 その一つに触れると、石板に似た図が現れた。

「ここ」

 エマが身を寄せた。

「この線、丹後の石板にもあった」

 彼女は自分の端末を開き、保存していた写真を表示した。音声の再生画面を閉じ、溝の一部だけを拡大する。

 創は二つの図を見比べた。

 枝分かれの仕方は似ていたが、全体が同じではない。ノートの図では、いくつかの線の端に小さな数字が添えられていた。

「父が書き足したんですか」

「たぶん。石板そのものには、こういう数字はなかったでしょう」

 エマはノートの次のページを開いた。

 同じ記号を何度も書き直した跡があり、脇には取り消し線の入った数字が並んでいた。さらに下には、二組の数値と、短い注釈があった。

 『位置情報としての解釈。要検証。』

 エマはしばらく黙って、そのページを見ていた。

「言葉として読んでいただけじゃないのね」

「どういうこと?」

「お父さんは、この記号の一部を、場所を示すものだと考えていたみたい」

 彼女は二組の数値を指した。

「緯度と経度の形になってる。ただ、どう変換したのかは、このページだけでは分からない」

「それが、バタガイカ?」

「確かめてみる」

 エマは端末の地図を開き、保存された地域の地図へ数値を入力した。

 印が一つ現れた。

 ノートに描かれた大きな窪地の、縁に近い場所だった。

「この辺り……」

 創が身を乗り出すと、右腕に痛みが走った。

 エマがノートを近づけてくれる。創は礼を言い、画面へ目を戻した。

 広い地図の中に点が一つあるだけで、目的地が急に具体的になった。

 白銀の世界のどこかではなく、この場所に行けばいい。

 父はそう考えていたのだ。

「レオ。この位置、航法用の地図でも確認できる?」

 エマが声をかけると、操縦席から返事があった。

「数字、読み上げてください。次の着陸地点を変えるなら、早めに頼むっス」

「今すぐ向かう場所を変えるわけじゃない。目的地の候補が絞れたの」

「候補、了解っス。そこ、大事っスね」

 エマは数値を読み上げた。

 レオが入力する間、創はノートの地図へ戻った。印のそばにある記号を拡大すると、その下に父の注釈が現れた。

 『第二の門――眠る石の門』

「眠る石……」

 創が呟いた。

 エマもその文字を見た。

「名前なのか、状態を表しているのかは、まだ分からない。でも、ここにも石の構造物があると考えていたのね」

 創は右手へ目を落とした。

 丹後と同じように、近づいただけで反応するかもしれない。そこでまた知らない言葉を口にしたら、今度は何が始まるのだろう。

 その考えを口にする前に、白石が言った。

「次の着陸地点で、今後の動きを決める」

 創は顔を上げた。

「現地へ直行はしない。補給をして、お前の身体ももう一度確かめる。そのあとは、まず私たちで入口の様子を見る」

「俺は?」

「休める場所に残れ」

 創は膝の上のノートを見た。

 地下でも、安全な場所へ行くように言われた。そのときは、自分の身体のことを知りたいという気持ちだけで同行を求めた。

 今は、もう少し分かっている。

 自分が行けば危険が増す。動けなくなれば、また誰かに支えてもらわなければならない。それでも、白石たちだけがあの場所へ行き、戻ってくるのを待つ自分を想像すると、胸の内側が落ち着かなかった。

「俺も、現地までは行きたいです」

 白石の表情が厳しくなった。

「今の腕で、何をするつもりだ」

「何があるかを見ます」

「見るだけで済むとは限らん。丹後では、石板に近づいただけで反応が始まった」

 創は答えに詰まった。

 それは自分も考えていたことだった。

 白石は声を落として続けた。

「お前を除け者にしたいわけではない。前と同じことが起きれば、今度も助けられるとは約束できん」

 機体が小さく揺れた。

 創は左手でノートを押さえ、揺れが収まるのを待った。窓の外では、雪の積もった丘がゆっくり流れている。

「……俺も、約束できません」

 白石が創を見た。

「行ったらどうなるか、分からない。大丈夫だとも言えないです」

 創は自分の右腕を見た。

「でも、戻ってきた人から説明を聞くだけで、自分の身体のことを決めたくない」

「説明は隠さずにする」

「白石さんが隠すって言ってるんじゃありません」

 創は首を振った。

「父にも、アダム社にも、俺の知らないところで俺のことを調べられてた。病気のことも、治療のことも、あとから知ったことばかりです」

 言葉にしているうちに、自分が何を嫌がっているのか分かってきた。

 ただ危険な場所へ行きたいのではなかった。

 何が起きているのか分からないまま、誰かが判断を済ませ、結果だけを渡される。それを、これ以上続けたくなかった。

「何が分かって、何が分からないのか、俺も一緒に確かめたいんです。引き返すかどうかも、その場で話したい」

 白石はしばらく黙っていた。

 エマも口を挟まなかった。創はノートの角を左手で押さえたまま、返事を待った。

「身体の状態が戻らなければ、出発は延期する」

 やがて白石が言った。

「現地へ行くとしても、いきなり石へ近づかない。先に周囲を確かめる。痛みや熱に変化が出たら、隠さずに伝えろ」

 創は顔を上げた。

「能力を使うために連れていくのではないぞ。氷があったからといって、お前に融かさせるつもりはない」

 白石は父の指示が書かれたページへ目を向けた。

「宗助が何を書いていようと、それは別だ」

 創はゆっくり頷いた。

「分かりました」

「それと、無理なら無理と言え。歩けないのに、歩ける顔をするな」

 創は少しだけ目を伏せた。

「……気をつけます」

「そこは、約束してほしいっスね」

 操縦席から声がした。

 レオは前を向いたまま続けた。

「旦那を運ぶとき、先に分かってたほうが、こっちも準備できるんで。黙って倒れるのが一番困るっス」

「分かった。約束する」

「了解っス」

 創は息を吐いた。

 これで怖くなくなったわけではない。現地で何かを見た瞬間、行かなければよかったと思うかもしれない。

 それでも、今度は何も知らずについていくのではなかった。

     *

 白石が席へ戻ると、エマが端末を開いた。

「印をつけておきましょう」

「何に?」

「今のうちに確かめたいこと。現地で慌てると、忘れるから」

 創は少し考えた。

「近づくだけで反応するのか。丹後では、どの辺りから熱くなったか、記録してくれたよね」

「うん。そこも比べられる」

「あと、音。聞くだけでも何か起きるかもしれないから、再生するときは先に教えてほしい」

 エマは頷いて記録した。

「勝手に試さない。約束する」

 創はノートを見た。

 『お前の熱で、永久の氷壁を融かせ。』

 その指示の横には、まだ何も書かれていなかった。

「そこにも、書き込めるのかな」

 創が尋ねると、エマはノートの縁を確かめた。側面の細い溝から、短いペンが外れる。

「たぶん、これで」

 創は左手で受け取った。

 右手で書くようにはいかなかった。ペン先を置く位置がずれ、最初の字は少し傾いた。それでも、白紙の余白に短い一文を書いた。

 『使用後に強い消耗と右腕の痛み。再使用は未確認。』

 少し考えて、もう一行加えた。

 『氷を融かせるかどうかも、まだ分からない。』

 父の整った字の隣に、自分の不揃いな文字が残った。

 創はそれを見てから、ペンを戻した。

 このノートに書かれているのは、父が知っていたことと、父がそうなるはずだと考えたことだった。自分に起きたことは、自分で書き足せる。

「……少し、休む」

 創が言うと、エマはノートを閉じた。

「預かっておく?」

「いや。ここに置いといて」

 座席脇の袋へ入れてもらい、創は背もたれへ身体を預けた。右腕の下の布を直すと、先ほどより楽な位置が見つかった。

 窓の外では雲が切れ、遠くの雪原に薄い光が差していた。

 あの先のどこかに、父が『第二の門』と呼んだ場所がある。

 創はそこへ行くつもりだった。

 ただし、父の指示どおりに何かをするかどうかは、まだ決めていない。

 機体の振動に身を任せ、目を閉じた。

 今は休む。

 それが、次に自分の目で確かめるために、創が最初に決めたことだった。

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