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第5話 熾(おき)れ原初の熱

誰かが、左手を握っていた。

 創はその感触を頼りに、目を開けようとした。まぶたの裏には赤い光が残り、身体がどちらを向いているのか分からない。背中に硬いものが当たっている。肩の下には、丸めた布のようなものがあった。

「創。聞こえる?」

 エマの声だった。

 返事をしようとしたが、喉から出たのはかすれた息だけだった。唇を動かすと、彼女が顔を近づけた。

「今、動いた。博士、意識が戻ってる」

 創は何度か瞬きをした。

 ぼやけた輪郭が少しずつ形を取り、エマの向こうに岩の天井が見えた。自分は床に寝かされているらしい。頭の下には誰かの上着が敷かれ、右腕は身体から離して置かれていた。

 その腕が、まだ赤く光っていた。

「……手」

「触らないで。そのままでいて」

 エマが創の左手を握り直した。

 右手のひらから前腕にかけて、細い光が枝分かれしている。さっきより暗くなったのか、それとも目が慣れただけなのか、分からなかった。熱は消えていない。腕の内側に溜まったものが、行き場を探して動いているようだった。

 少し離れた場所で、レオが小さな機器を構えていた。

「手のところ、まだ六十を超えてるっス」

 数字が耳に入り、創は彼を見た。

「……六十?」

「表面の温度っス。作業用の計器なんで、正確かまでは分からないっスけど」

 レオは機器を下ろした。

「でも、近づけるだけで熱い。右手には、誰も触れないほうがいいっス」

 創は腕へ目を戻した。

 皮膚には汗が浮き、赤みもあった。けれど、少なくとも見える範囲に、大きな水疱や焼けただれた場所はなかった。指も残っている。自分が何を確かめているのかに気づき、胃の奥が冷えた。

 熱を感じているのに、感覚は失われていない。

 こんな状態がいつまで続くのか、分からなかった。

「身体を起こせるか」

 白石が反対側から声をかけた。

「ここから通路へ移したい。立たなくていい。こちらで支える」

 創は頷こうとしたが、その前に右腕が強く脈打った。

 肩まで熱が押し寄せ、息が詰まる。背中が床から浮き、左手がエマの指を握り締めた。

「っ……!」

 石板のほうで、低い音がした。

 創は顔を向けた。通路の入口は近かったが、まだ広間の中だった。中央に立つ石板は赤い光を残し、そこから伸びる影が床の機材を覆っている。

 これだけ離れても、熱は止まっていなかった。

「今、運ぶっス。博士、そっちを」

 レオが身をかがめたとき、創の右手の指が開いた。

 床に伏せていた手のひらが横を向き、赤い光がレオの袖へ当たる。彼は顔をしかめ、すぐに腕を引いた。

「……熱っ」

「来ないで」

 創の口から、ようやく言葉が出た。

 レオが動きを止める。

「右側に……来ないでくれ」

 創は右肘を動かした。今度は、自分で動かせた。

 腕を身体から離し、指先を誰もいない床へ向ける。そうすると、前腕の内側を満たしていた圧迫感が、ほんの少しだけ薄れた。

 前にも、同じことがあった。

 意識を失う直前、手を開いたときに熱が外へ出ていった。その瞬間だけ、痛みが弱まった。

 創は指を伸ばした。

 手のひらの光が強くなった。正面の床が赤く照らされ、空気が揺らめく。

「創、何を……」

「外へ……」

 息を継ぐ。

「出せる、かもしれない」

 白石が創の手と床を見比べた。

「動かそうとするな。今は——」

 言葉の途中で、また熱が膨れ上がった。

 創は身体を横へ向けた。肩まで押し戻されてきたものを、腕の先へ逃がしたかった。理屈ではなかった。手を閉じれば苦しくなり、開けば少しだけ楽になる。その感覚に従うほかなかった。

「離れて」

 エマが握っていた左手を、創はゆっくりほどいた。

「お願いだから」

 彼女は一瞬ためらい、創の顔を見た。それからレオの袖をつかみ、右手の正面を空けた。

 創は左肘を床につき、半身を起こした。

 立つ力はなかった。膝を引き寄せ、右腕を前へ伸ばす。それだけで心臓が激しく打ち、視界の端が白くなった。

 右手の中に、まだ熱が溜まっている。

 手首が震え、指が折れ曲がった。創はその手を支えきれなくなり、石の床へ押しつけた。

 白い光が、指の隙間から弾けた。

 乾いた破裂音が響き、床の表面が細かく割れた。創は反射的に目を閉じたが、手を離すより先に、腕の奥から熱が流れ出していった。

 肩を締めつけていた痛みがほどける。

 肘から手首へ、手首から手のひらへ、身体の中に押し込められていたものが一気に抜けていく。その勢いに身体まで引かれ、創は前へつんのめりそうになった。

「創、手を上げて!」

 エマの声がした。

 目を開けると、右手の下の床が橙色に光っていた。

 指をついた場所が沈んでいる。石の表面が形を失い、手のひらの縁から粘りのあるものが押し出されていた。

 創は息を呑み、右手を引いた。

 柔らかくなった床が指先へついてきて、細い糸のように伸びて切れた。落ちたものは足元へ広がり、赤い滴となって止まった。

 誰も、すぐには声を出さなかった。

 創は片膝をついたまま、床を見つめた。

 手を押しつけた場所に、浅いくぼみができていた。その中央はまだ明るく、縁に近づくにつれて赤く暗くなっている。ときどき小さな音がして、薄い表面が割れた。

「……溶けた?」

 創が呟くと、レオがゆっくり頷いた。

「そう見えるっス」

 いつもの軽さはなかった。

 創は右手を裏返した。

 赤い光は弱まり、指の形がはっきり見えるようになっていた。手のひらには黒っぽい汚れがついていたが、皮膚そのものが失われたようには見えない。

 指を曲げると、動いた。

 その手で、石を溶かした。

 機械も、薬品も使っていない。今まで顕微鏡のつまみを回し、記録帳に文字を書いていた手だった。

「何だよ……これ」

 問いかけた相手は、自分だった。

 その瞬間、左肘が折れた。

 床が近づき、肩をレオにつかまれる。身体を支え直そうとしたが、膝にも腹にも力が入らなかった。

「旦那、もういいっス。こっちへ」

 レオと白石に引かれ、熱を残した床から離された。背中を壁へ預けると、創はそのまま頭を落とした。

 呼吸はまだ速かったが、胸を押し広げていた熱は弱まっていた。

 代わりに、喉がひどく渇いていた。

 舌が口の中へ貼りつき、唾を飲み込もうとしてもうまくいかない。唇を舐めても何も変わらず、水を飲むこと以外、考えられなくなった。

「……水」

 エマがすぐにボトルを開けた。

「少しずつ。持てる?」

 創は左手を伸ばしたが、指が震えていた。エマが底を支え、口元へ運んでくれる。

 水が唇に触れると、創は思わず大きく飲み込んだ。

 直後にむせ、身体を折った。エマがボトルを離し、創は咳の合間に息を吸った。欲しいのに、身体が追いつかなかった。

「急がなくていい。もう一度、少しだけ」

 今度は口を湿らせ、ゆっくり飲んだ。

 冷たい水が喉を通る。その感触だけで、目に涙が浮かびそうになった。

 白石が左手首の画面を確かめていた。

「心拍は、少しずつ下がっている」

 エマが顔を上げる。

「腕は?」

 レオが計器を向けた。

「さっきより下がってるっス。まだ熱いけど、上がり続けてはいない」

 創は右手を膝の外へ置いた。

 指先に熱は残っている。しかし、もう腕を押さえつける必要はなかった。動かそうと思えば動き、止めようと思えば止まった。

 それだけのことが、今はありがたかった。

「……腹も、減った」

 口にしてから、創は自分で驚いた。

 空腹を気にするような状況ではない。それなのに腹の奥が締めつけられ、何かを食べなければならないという思いが、水を欲する感覚と一緒に押し寄せていた。

 レオが荷物を探り、小さな袋を取り出した。

「補給用のゼリーならあるっス。登る途中で腹が減ると思って、持ってきたんで」

 白石が創の顔を確かめた。

「飲み込めそうか」

 創は頷いた。

 レオが封を切り、エマが手渡してくれた。少し口に含むと、強い甘さが広がった。普段なら好んで食べない味だったが、今は続きを欲しくてたまらなかった。

 急いで飲み込まないように、何度か間を置いた。

 その間も、床の赤いくぼみは視界に入っていた。

 さっきまで平らだった場所に、自分の手が入るほどの窪みがある。縁では溶けた石が固まり始め、照明を受けて鈍く光っている。

 創は右手を持ち上げた。

 同じ大きさだった。

 当然のことなのに、床の跡と手のひらを見比べずにはいられなかった。

「……俺がやったんだな」

 エマが創の視線を追った。

「ええ」

「本当に……」

 指を一本ずつ曲げた。

 大学の準備室では、細胞が壊れる理由さえ分からなかった。その自分が、手をついただけで石の形を変えた。

 恐ろしいことだった。

 少し向きが違っていれば、レオがそばにいた。エマが手を伸ばしていたかもしれない。あの熱を誰かに向けてしまえば、どうなるのか。

 そこまで考えて、創は右手を下ろしかけた。

 けれど、その前に、別の思いが浮かんだ。

 自分には、こんなことができる。

 考えた瞬間、胸の奥がわずかに高鳴った。

「……すごい」

 漏れた声に、創自身が驚いた。

 エマが彼を見た。創はすぐに口を閉じたが、言葉はもう戻せなかった。

 さっきまで、自分の身体に起きていることが怖くて仕方なかった。今も怖い。腕の中で何が動き、何を消費して、あれだけの熱を作ったのか分からない。

 それなのに、床に残った跡を見ていると、もう一度確かめたいという気持ちが生まれた。

 今度は、自分の意思で止められるだろうか。

 もっと小さなものに向ければ、量を調節できるだろうか。

 そこまで考えたところで、創は指を握り込んだ。

 つい先ほど、死ぬかもしれないと思っていた。

 その手を、もう試してみたいと思っている。

「創?」

 エマに呼ばれ、顔を上げた。

「どうしたの」

「……何でもない」

 そう答えてから、創は首を振った。

「いや。何でもなくは、ない」

 エマは急かさずに待っていた。

 創は膝の上の右手を見た。

「怖いのに、少し……面白いと思った」

 言葉にすると、胸の内側に冷たいものが残った。

「こんなことになったのに。もう一回できるのかって、考えた」

 エマは床のくぼみを見てから、創へ視線を戻した。

「今は、やめておきましょう」

「分かってる」

「分かっていても、試したくなったら言って」

 創は彼女を見た。

「止めるから」

 冗談ではない声だった。

 創はゆっくり頷き、右手を開いた。爪を立てるほど握っていたことに気づき、力を抜く。

 指は、自分の思うとおりに伸びた。

 それを確かめてから、創はもう一口、水を飲んだ。

     *

 しばらくすると、広間には水の落ちる音が戻ってきた。

 石板から響いていた高い音は消え、赤い光も弱くなっていた。床のくぼみだけが暗がりの中で鈍く光り、その上に薄い熱の揺らめきが残っている。

 レオが機材をまとめ始めた。

「少し落ち着いたら、上へ戻るっス。ここに長居する理由は、もうないっスよね」

「ああ」

 白石が答えた。

「創、急いで立つな。途中で休みながら上がる」

 創は頷いた。

 父の記録を探しに来たはずだった。それなのに、手に入れたのは答えの代わりに、扱い方も分からない熱だった。

 石板を見上げる。

 父も、この反応を見たことがあるのだろうか。

 自分がここで何を経験するか、どこまで分かっていたのだろう。

 そのとき、床の下で何かが動いた。

 創は顔を上げた。

 さっきの振動とは違った。低い音が長く続き、重いものを引きずるように広間へ響いている。

 レオが荷物から手を離した。

「……今度は何っスか」

 エマが石板へ光を向けた。

 巨大な黒い面の足元で、細い隙間が開いていた。床に積もった埃がその隙間へ落ち、赤い光を受けて渦を巻いた。

「全員、そのまま下がっていろ」

 白石が創たちの前へ出た。

 石板が動いていた。

 倒れるのではなかった。傾きもせず、まっすぐ下へ沈んでいる。表面の溝が少しずつ床の下へ消え、その跡に広間の向こう側が見え始めた。

 創は壁に左手をつき、身体を起こした。

 エマがすぐに肩を支えたが、創は石板から目を離せなかった。

 動きは遅く、一定だった。

 地震で地面が崩れているのではない。長い間止まっていた仕組みが、決められた位置へ戻ろうとしているように見えた。

 やがて黒い石板の上端が床と同じ高さになり、そのまま見えなくなった。

 重い音が止まった。

 残された暗がりへ、レオが照明を向ける。

 石板のあった場所の奥に、小さな台が現れていた。高さは創の腰ほどで、上には四角いものが載っている。

 エマが目を細めた。

「本……?」

 黒い表紙の、厚みのある一冊だった。

 創は息を止めた。

 表紙の文字までは、まだ読めない。それでも、角を金属で補強した黒い装丁と、側面を留める細い金具に見覚えがあった。

 子どものころ、父の机にあったものと似ていた。

 創はエマに支えられたまま、一歩だけ前へ出た。

「その本……照らして」

 声が震えた。

 レオの光が、台の上へ動いた。

 光が表紙を照らすと、銀色の文字が浮かび上がった。

 上段には、小さく『ゲノム・フィールドノート』。

 その下に、右上がりの字で一行だけ記されていた。

 ――我が息子、創へ。

 創は、その場で足を止めた。

 父の字だった。

 最後の一画だけが少し長く伸びる「創」の字を、覚えていた。小学校へ上がる前、父が買ってくれた図鑑の見返しに、同じ字で名前を書いてくれたことがある。

 あの図鑑は、今も自宅の本棚にあった。

「……父の字です」

 声にすると、目の前のものが急に現実になった。

 似ていると思っただけではない。父はこの本に自分の名前を書き、山の下へ置いていた。

 いつから。

 何のために。

 創はエマの手を借りながら、台へ近づいた。

 黒い表紙には細かな擦り傷があり、角を覆う金具は一部が曇っていた。古いものではあるが、石板や床の溝と同じ時代の遺物には見えない。父の机から、そのまま持ち出してきたと言われたほうが納得できた。

 白石が台の周囲を照らした。

 床から台の根元へ続く溝はあるものの、引き金や配線らしいものは見当たらない。彼はすぐに手を出さず、側面と裏側を順に確かめた。

「宗助が置いたものだろう。だが、どういう仕組みになっているかは分からん」

 創は表紙の文字を見つめた。

「俺が来ると、思ってたんですね」

 白石は答えなかった。

 答えを求めて言ったわけではなかった。宛名が、すでにそれを示していた。

 創は左手を伸ばした。

 表紙は硬く、乾いた革の感触があった。端を持ち上げようとすると、側面の金具が引っかかり、開かなかった。

「留め具があるっス」

 レオが横から照らした。

 金具の中央に、小さな青紫色の窓が埋め込まれていた。その下には、針の先ほどの穴と、細い字で刻まれた表示がある。

 〈認証試料〉

 レオは目を近づけた。

「普通の鍵じゃないっスね。何か読み取る仕組みみたいっス」

「指紋?」

 創は左の親指を窓へ当てた。

 反応はなかった。

 指を離すと、エマが金具の端を指した。

「待って。ここにも、何か書いてある」

 白石が眼鏡を直し、光の角度を変えた。

 〈血液一滴〉

 創はその文字をしばらく見ていた。

「……血までいるのか」

 小さく笑うような息が漏れた。おかしいからではなかった。自分のために置かれた本なのに、開くためには身体の一部まで差し出さなければならない。そのことが、今はひどく腹立たしかった。

 右手を開くと、手のひらに爪の跡が残っていた。力を込めて握り締めたときについたものだった。そのうちの一つは浅く皮膚が切れ、縁に赤いものがにじんでいた。

 創は手を金具の上へ持っていった。

「無理に傷を広げなくていい」

 白石が言った。

 創は頷き、にじんでいた血を試料口へそっと触れさせた。

 短い電子音が鳴った。

 青紫色の窓に光が入り、その内側を細い線が往復した。数秒後、側面の留め具が小さく動き、表紙との間に隙間ができた。

 創は手を引いた。

 自分の血で開いた。

 その事実を確かめるように、もう一度、宛名を読んだ。

「開ける?」

 エマに尋ねられ、創はすぐには頷けなかった。

 ここへ来るまでは、父が何をしたのか知りたいと思っていた。今も、その気持ちは変わらないはずだった。

 けれど、答えが手の届くところに置かれると、読む前の自分には戻れないことが分かった。

 父が、自分を研究のために使ったと書いていたら。

 病室で握ってくれた手も、何度も聞かせた歌も、自分が信じていたものとは違ったら。

 創は左手で表紙を持ち上げた。

 最初のページには、一行だけ文字があった。

 『よくここまで来たな、創。』

 声をかけられたような気がした。

 その親しさに、創の胸が強く痛んだ。

「……何だよ、それ」

 苦しんだことも、怖かったことも、何もかも承知したうえで待っていたような言葉だった。

「来たな、じゃないだろ……」

 ページをめくる。

 次の紙は、見た目よりも硬かった。薄い板のようなしなり方をして、開いた角度に合わせて表面へ文字が現れる。

「表示できるようになってるんスね」

 レオが呟いた。

 創は答えず、浮かび上がる記録を読んだ。

 神代創。

 生年月日。

 幼少期の検査結果と、治療経過。

 その下には、血液の数値や遺伝子の解析図が並んでいた。

 ところどころに、父の手書きの注釈が入っている。医学を学ぶ今の創なら意味の分かる言葉もあったが、略語だけで記された箇所や、既存の分類では理解できない項目も多かった。

 ページの端へ指を触れると、記録が切り替わった。

 入院中のもの。

 退院したあとのもの。

 創は日付を追い、指を止めた。

「これ……」

 白石が覗き込む。

「どうした」

「事故のあとです」

 創は日付を指した。

 父が消えた年より、三年あとだった。

 その下には身長と体重、採血の結果が並んでいる。創は表を見つめ、子どものころ、母に連れられて定期的に病院へ通っていたことを思い出した。

 大きな病気をしたから、念のために確かめるのだと聞かされていた。

「このとき、病院に行ってます。たぶん、経過を診てもらって……」

 創は次の記録を開いた。

 さらに半年後の数値が出た。

 父がいなくなったあとも、この本には自分の身体の記録が残されていた。

「父が、見てたんですか」

 白石の顔を見た。

「生きてて、これを……」

「まだ、そうとは言い切れん」

 白石は記録の下部を指した。

 小さな字で、検査施設からの取り込み履歴が記されている。

「自動で集めるようにしていた可能性もある。日付だけで、宗助がその時点で読んでいたとは決められない」

 創は再びページへ目を落とした。

 生きていた証拠かもしれない。

 そう思った瞬間に浮かんだ期待が、行き場を失って残った。

 父が直接見ていなかったとしても、自分の検査結果がここへ集まるようにしていたことは確かだった。学校へ通い、母と暮らし、父のいない生活に少しずつ慣れていく間も、身体の記録だけはこの場所へ届いていたのかもしれない。

「俺だけ、何も知らなかったんだな」

 創は呟いた。

 白石も、エマも、言葉を返さなかった。

 ページの隅で、表示が変わった。

 赤い細い枠が現れ、その中に新しい文字が浮かぶ。

 《生体認証完了》

 続いて、別の一行。

 《覚醒シーケンス:第一段階 完了》

 創は右手を見た。

 熱は、まだ残っていた。

「第一段階……?」

 声に出した途端、さっきまでの痛みが戻ってくるような気がした。

 これで終わりではない。

 父が準備したものの中では、石板の前で倒れ、腕から熱を放ったことさえ、最初の一つにすぎないらしかった。

 エマがページを見つめた。

「さっき起きたことを、確認したのね」

「どうやって?」

「血液の認証から分かったのか、この場所の装置から受け取ったのか……そこまでは分からない」

 彼女は本の側面と、台の下を見た。

「でも、今の表示は、あらかじめ書かれた文章とは違う」

 創は本を閉じたくなった。

 続きを読めば、また自分について知らないことが増える。しかも父は、それを先に知っている。

 けれど、閉じたところで右手は元に戻らなかった。

 創はページの端へ指を滑らせた。

     *

 白い画面に地図が現れた。

 最初に映ったのは日本だった。小さな印が丹後半島の北側に灯り、そこから地図が遠ざかる。海を越え、大陸が広がり、さらに北へ移っていった。

 創はその動きを見ていた。

 やがて、雪に覆われた土地の写真が表示された。中央に、大地を大きくえぐったような窪地がある。縁は不規則に広がり、むき出しの斜面が奥へ落ち込んでいた。

「……シベリア?」

 エマが画面を確かめた。

 白石が地名を読んだ。

「バタガイカだ」

「ここに、何があるんです」

 創が尋ねたとき、写真の下に文字が浮かび上がった。

 父の字だった。

 『創。次へ進め。』

 続けて、二行目が現れる。

 『氷の閉ざす北の果てへ向かえ。』

 創は画面を見つめた。

 謝る言葉でも、何が起きたのかを説明する言葉でもなかった。次にどこへ行けという指示だった。

 指先が冷たくなった。

 右手の熱とは別に、胸の奥に怒りが溜まっていく。

「先に……説明しろよ」

 小さな声が出た。

 ページは答える代わりに、次の文章を表示した。

 『第一の封印は、熱によって目覚めた。』

 『次の扉は、氷の中にある。』

 そして、その下に少し間を空けて、一行。

 『お前の熱で、永久の氷壁を融かせ。』

 創は本から手を離した。

 薄いページが戻りかけ、エマがそっと押さえた。

 誰も何も言わなかった。

 広間の端には、創が溶かした床が残っていた。もう赤くは光っていない。照明の下で、その部分だけが不自然に滑らかな形をしている。

 父は、この手で何ができるのか知っていた。

 少なくとも、氷を融かすだけの熱を生むことは予想していた。そのうえで、次の場所を示している。

「俺を、どこまで……」

 声が詰まった。

 続きを言えば、怒りより先に別のものがこぼれそうだった。

 病気を治してくれた父に、感謝していた。母を一人にして消えた父を、憎んでもいた。その二つは、ずっと創の中にあった。

 今は、そこへ新しい疑いが入り込んでいる。

 父は、いつからこの道を考えていたのか。

 病室で手を握っていたときも、その先に、石板や氷の中の扉を見ていたのか。

 創は台の縁を左手でつかんだ。

「……全部、父の決めたとおりなんですか」

 白石はしばらく黙っていた。

 やがて、本のページへ目を落としたまま言った。

「宗助が何を準備していたか、私にも分からん部分が多すぎる」

「じゃあ、また行くんですか。次の場所へ」

「今、決める必要はない」

 白石は創へ向き直った。

「まず、お前をここから出す。身体を診てもらい、記録を調べる。そのうえで考える」

 創はエマを見た。

 彼女は父の指示が書かれたページを閉じた。

「持って帰りましょう。ここで全部、読まなくてもいい」

「でも……」

「次へ行くかどうかは、あなたが決めていい。書かれているからって、従う約束をしたわけじゃないでしょう」

 創は閉じられた表紙へ目を落とした。

 我が息子、創へ。

 その文字だけは、何も変わらなかった。

     *

  レオが本を収める袋を差し出した。

「旦那、それ、入れてください。帰りの階段で落としたら、取りに戻るのは大変っスから」

 創はノートを持ち上げた。薄いページが少し開き、その端に小さな表示が見えた。

 《第二段階への移行条件――極寒環境》

 創の指が止まった。

 父は、次の場所を示しているだけではなかった。そこへ行けば、自分の身体にまた何かが起きる。その可能性を承知して、北へ向かえと書いている。

 右腕には、まだ熱が残っていた。

「……まだ、行くって決めてないからな」

 父へ言うつもりで呟き、ノートを閉じた。

 レオが袋の口を締め、創の鞄へ収める。エマは水と照明を持ち直し、白石は通路へ光を向けた。

「まずは地上へ戻る。途中で休みながら上がろう」

 創は左手で台の縁を押し、身体を起こした。膝はまだ頼りなかったが、エマの腕を借りれば歩けそうだった。

 背中の鞄には、父の残した本がある。その中に書かれた行き先は、遠い氷の大地だった。

 だが今、創が見つめたのは、地上へ続く通路だった。


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