第4話 同期する心拍、古代のトリガー
赤い光は、父の歌の続きをたどるように、石板の溝をゆっくりと移っていった。
創はその先を目で追った。曲がりくねった線の一つが灯り、消えると、少し離れた場所へ光が移る。単に順番に光っているのではなかった。長く残るものもあれば、瞬く間に消えるものもある。その間隔に気づいたとき、頭の中で続いていた歌と、目の前の光とが重なった。
「エマさん、これ……」
「録ってる。そのまま、そこにいて」
エマは端末のカメラを石板へ向けていた。画面には黒い面と赤い線が映り、その下を録音の波形が流れている。
創は耳を澄ませた。
遠くで水の落ちる音がした。その合間に、細い笛のような音が聞こえる。最初は耳鳴りだと思ったが、石板の光が消えると音も途切れ、次の溝が灯ると、わずかに高さを変えて戻ってきた。
「音がしてる」
エマが頷いた。
「私にも聞こえる」
彼女は画面を確かめ、石板へ視線を戻した。
「さっき車で聞いてもらった部分と似てる。でも、この続きは……」
そこで言葉を切った。
創も続きを尋ねなかった。知らないはずの音だったのに、次にどんな音が来るのか、分かる気がしたからだった。
高くなった音が少し下がり、短い間を置く。
その間に、創は無意識に息を吸っていた。
「創」
白石の声で、我に返った。
「それ以上、近づくな」
足元を見ると、つま先が一歩分、前へ出ていた。歩こうと決めた覚えはなかった。続きをよく聞こうとして、身体を寄せていたらしい。
創は足を戻した。
「……すみません」
右手が熱かった。
石板から離れたときには弱まっていた熱が、指の付け根から手首へ広がっている。左手で包もうとして、創は顔をしかめた。
熱の奥に、今までなかった痛みがあった。
指を反らせすぎたときのような、筋を強く引かれる感覚だった。右手を開こうとすると、小指と薬指がわずかに震え、思うように伸びなかった。
「手が……」
白石がすぐに振り返った。
「どうした」
「痛いです。さっきまでは、熱いだけだったのに」
エマが端末を下ろし、創へ近づいた。
「見せて」
「待って。触らないでください」
思ったより強い声が出た。エマが足を止める。
創は右手を身体から離した。触れた相手を傷つけるほど熱いのか、自分でも分からなかった。
「ごめん。どれくらい熱くなってるか、分からなくて」
「分かった。触らないから、こっちを見て」
エマは創の顔を確かめ、それから手へ視線を移した。
「指は動かせる?」
創は頷き、親指から順に曲げようとした。
人差し指を曲げたところで、手のひらの奥に痛みが走った。反射的に息を止めると、石板から聞こえていた音が、鋭く耳に響いた。
音の性質が変わっていた。
節をたどるような抑揚が消え、短い音が一定の間隔で繰り返されている。そのたびに石板の下部が赤く光り、創の右手にも熱が込み上げた。
「離れるぞ」
白石が創の左側へ回った。
創は頷き、石板に背を向けようとした。しかし、その途中で手首が強く引きつった。右腕を抱え込むと、足に力が入らなくなり、片膝が床についた。
「創!」
「大丈夫、まだ……」
言いかけたが、何が大丈夫なのか、自分でも分からなかった。
レオが近くの椅子を引き寄せた。座面を手で確かめ、創の後ろへ置く。
「ここ、座れるっス。左側、支えるっスよ」
創はレオに肩を借り、椅子へ腰を下ろした。身体を支える必要がなくなると、右手の痛みがいっそうはっきりした。皮膚を切ったような痛みではない。手の内側で何かが縮まり、それに引かれて指や手首が動こうとしている。
創は左手で右の前腕を押さえた。
手首の脈が指に触れた。
その直後、石板が光った。
もう一度、脈を感じる。少し遅れて、赤い線が浮かぶ。
創は顔を上げた。
「……脈と、同じだ」
「何が?」
エマが聞き返す。
「光る間隔。俺の脈と同じ気がする」
エマは石板と創を交互に見た。それから端末の録画を続けたまま、彼の左手首へ視線を落とした。
「時計に、心拍は出せる?」
創は右腕を膝に載せ、左手首の画面を見せた。エマが表示を切り替えると、心拍数と、拍動を示す印が現れた。
一一八。
彼女は時計の画面と石板が一緒に映る位置へ端末を動かした。
拍動の印が点く。そのあとを追うように、石板の溝が赤く光った。
創は画面を見つめた。形も大きさも違う二つの光が、ほとんど同じ間隔で現れていた。
「少し、ゆっくり息を吐ける?」
エマに言われ、創は肩の力を抜こうとした。息を吸い、痛みをこらえながら細く吐く。それを何度か繰り返すうちに、時計の数字がわずかに下がった。
石板の光も、間隔を広げたように見えた。
エマは録画を少し戻し、確かめた。
「……同じ変化をしてる」
白石が彼女の画面を覗き込んだ。
「間違いないか」
「正確に比べるには、もっと記録が必要です。でも、速くなるときも遅くなるときも、ついてきているように見えます」
創は自分の胸へ左手を当てた。
そこにあるのは、いつもの心臓だった。走れば速くなり、眠ればゆっくりになる。生まれてから一度も、自分で動かそうとしたことのないものだった。
それが、目の前の石と同じ間隔で動いている。
「どっちなんですか」
創の問いに、エマが顔を上げた。
「石が俺に合わせてるのか。それとも、俺が石に……」
「今は分からない」
エマはすぐに答えた。
「だから、離れましょう。さっきは下がったら弱くなったでしょう」
創は頷こうとした。
そのとき、右手の指が一度に曲がった。
握ろうとしたのではなかった。爪が手のひらへ食い込むほど強く指が閉じ、前腕の筋が浮いた。創は左手で押さえたが、力を抜こうとしても右手は開かなかった。
「っ……!」
声が漏れ、身体が前へ折れた。白石が肩を支え、レオが椅子を押さえる。
「旦那、どうすればいいっスか」
「少し、待って……」
創は奥歯を噛みしめ、指が緩むのを待った。
数秒後、右手がわずかに開いた。手のひらには爪の跡が残っていたが、創はそこを見る余裕もなく、息を吐いた。
白石が低い声で言った。
「やはり、負荷が……」
言いかけて、口を閉じた。
創は顔を上げた。
「何ですか」
白石はすぐに答えなかった。
「今、何て言いました?」
「身体が反応に耐えられていないのかもしれん」
「反応するって、知ってたんですか」
白石の手が、創の肩で止まった。
エマも端末から顔を上げた。石板の音だけが、四人の間に規則正しく響いていた。
「宗助の治療と、この石が関わっていることは知っていた」
白石は言った。
「お前の身体に変化が出る可能性も聞いていた。だが、ここへ来ればこんなことになるとは、知らなかった」
「父から、何を聞いていたんです」
創は白石の目を見た。
「俺の身体に何をしたんですか」
白石は膝をつき、創と目の高さを合わせた。
「お前の病気は、当時の治療では進行を止められなかった。宗助は、自分が研究していたものを治療に使った。詳しい方法を私に話す前に、あの事故が起きた」
「自分の研究って、この石の?」
「ああ」
創は石板へ目を向けた。
赤い光が灯った。同時に、右手の奥が痛んだ。
父が病気を治してくれた。母から何度も聞かされ、そのことだけは疑ったことがなかった。父がいなくなったあとでさえ、自分が今、生きている理由は変わらないと思っていた。
けれど、父が治療に使ったというものは、十年後の身体にまで残っていた。
そして、ここへ来た自分を、石板に反応させている。
「俺を治すために、この石を調べたんですか」
創は尋ねた。
「それとも、この石を調べるために、俺を使ったんですか」
エマが息を呑んだ。
白石は創を見つめたまま、静かに答えた。
「宗助がお前を助けようとしていたことは、知っている」
「それは、答えになってない」
「……そうだな」
白石は目を伏せなかった。
「治療のすべてを見たわけではない。だから、私の知っていることだけで、お前を納得させることはできん」
創は口を閉じた。
否定してほしかったのかもしれない。そんなはずはない、お前は考えすぎていると、誰かに言ってほしかった。
病室で手を握っていた父の顔が浮かんだ。
眠りに落ちかけると、父は創の顔を覗き込んだ。苦しくないか、手は動くかと、何度も尋ねた。それを、心配してくれているのだと思っていた。
今になって、その記憶に別の意味が入り込もうとしていた。
父は、自分を心配していたのか。
それとも、治療の結果を確かめていたのか。
同じことだったのかもしれない。けれど、今の創には、その二つを一緒にして考えられなかった。
「創」
エマが呼んだ。
彼女は端末をしまい、創の左側へ回った。
「その話は、ここを出てから聞きましょう。今、分かっているのは、あなたの手が痛んでいること。まず、それを何とかしたい」
創は右手を見下ろした。
父が何を考えていたとしても、今ここで答えが出るわけではなかった。痛みは少し弱まっている。この間に離れたほうがいい。
椅子の縁に左手をつき、立ち上がろうとした。
その瞬間、右手首が持ち上がった。
創は動きを止めた。
膝の上に置いていた右手が、ゆっくり浮いていく。指がほどけ、手のひらが石板へ向いた。
「……待って」
左手で右手首をつかんだ。
右腕に力を入れているつもりはなかった。それなのに、肘が伸びようとしている。押し戻すと前腕が震え、その下で筋肉が硬くなった。
「創?」
「俺、動かしてない」
エマの顔から表情が消えた。
創は右腕を胸へ引き寄せようとした。少し戻せたが、左手の力を緩めると、また石板へ向かって持ち上がる。
自分の腕を、もう片方の腕で押さえなければならない。
その事実が、痛みよりも怖かった。
「レオ、左側を。ここから離す」
白石の声で、レオが動いた。創の左腕を自分の肩へ回し、エマが鞄を退ける。
「立てるっスか」
「……立てる」
創は右肘を身体へ押しつけたまま、足に力を入れた。レオに支えられ、椅子から離れる。石板へ背を向けようとすると、右肩が強く引かれた。
外から引っ張られたのか、筋肉が勝手に縮んだのか、分からなかった。
創は足を踏ん張った。
「止まれ……」
自分の腕へ言い聞かせるように呟いた。
右手の指が開く。その先にある石板で、赤い線がひときわ明るくなった。
細い音が、再び節を作り始めた。
創は息を吸った。
吸おうと決める前に、胸が広がっていた。
喉の奥が動いた。言葉を出そうとしていることに気づき、創は唇を閉じたが、舌は上顎へ触れたまま、次の位置へ移ろうとしていた。
「……イ」
声が漏れた。
レオが創の顔を覗き込む。
「旦那?」
創は首を振った。話しかけられても、答えられなかった。
知らない音だった。自分で選んだ言葉でもない。それなのに、息をどれだけ吐き、舌をどこへ置けばいいのか、身体は迷っていなかった。
石板の赤い線が、次の溝へ移った。
創の唇が開いた。
「……イグニ」
その声に重なるように、石板の奥で低い音が鳴った。
エマが、石板から創へ視線を移した。
創は彼女を見て、必死に首を振った。止めたい。そう伝えたかった。
けれど、そのための言葉を作るより先に、喉が次の音を出そうとしていた。
創は息を止めようとした。
喉に力を入れ、唇を結ぶ。そうすれば声は出ないはずだった。けれど胸はゆっくりと縮み、閉じた口の奥へ空気が押し出されてくる。
「……フェル」
自分の声が、知らない言葉を作った。
石板の赤い光が横へ走った。細い溝から隣の溝へ移り、それまで暗かった部分まで浮かび上がる。
「創、こっちを見て」
エマが正面へ回った。
「私の声、聞こえる?」
創は頷いた。聞こえている。何を言われているのかも分かる。それなのに、返事をしようとすると、舌が別の形へ動こうとした。
右腕だけではなく、声まで自分のものではなくなっていく。
エマへ助けを求めようと口を開いた瞬間、次の音が漏れた。
「……ウル」
低い響きが床を伝わった。
レオが足を広げ、創の身体を支え直した。離れた場所で金属の触れ合う音がして、石板の横に残されていた観測機器の脚が小さく震えた。
「博士、まずいっス」
「分かっている。通路まで戻すぞ」
白石が創の右側へ近づき、コートの上から肘を抱えた。熱を持った手を避けながら、身体ごと向きを変えようとする。
創も足を動かした。
一歩、石板から離れる。
右肩に痛みが走ったが、足は動いた。もう一歩下がろうとして、伸びかけた右腕を白石と一緒に押さえる。肘は曲がった。抵抗できないわけではないと分かり、創は残っている力を込めた。
「そのまま。ゆっくりでいいっス」
レオの声が耳元でした。
創は頷き、左足を引いた。そのとき、石板の音が途切れた。
静けさの中へ、創の息遣いだけが残った。
一瞬、止まったのだと思った。
右腕の力も、喉の動きも、これで終わるのだと期待した。創は顔を上げ、エマへ何か言おうとした。
しかし、胸の奥から深い息が押し出された。
「イグニ……フェル・ウル」
今度は途切れなかった。
言い終わると同時に、石板の溝が一斉に赤く灯った。
床に置かれた照明も、周囲の機材も、四人の顔も、その光に染まる。遠くの壁が初めて見え、天井へ続く岩の起伏が赤い陰影を帯びて浮かび上がった。
創の右腕が、急に軽くなった。
引きつっていた筋肉から力が抜け、白石に支えられて肘が曲がる。手のひらを胸のほうへ戻せた。
戻った。
自分の腕だ。
そう思った直後、手のひらの奥で熱が膨れ上がった。
「――っ!」
創は身体を反らした。
手首から肘へ、熱いものを一気に流し込まれたようだった。右腕を押さえようとした左手まで熱を感じ、反射的に離す。袖の中で皮膚が焼けているようなのに、何が起きているのか見えなかった。
「袖……!」
創の声を聞き、エマがレインコートの前を開いた。白石とレオが身体を支える間に、右肩から布を外していく。
むき出しになった腕を見て、エマの手が止まった。
前腕の内側に、赤い筋が浮いていた。
血管が透けているだけではなかった。手首の付近から細い光が伸び、皮膚の下を枝分かれしながら肘へ向かっている。
創は左手でその上を覆った。
指の間から、赤い光が漏れた。
「……何だよ、これ」
石板の反射ではなかった。
腕の中から光っている。
言葉にしたくなかったが、ほかに説明のしようがなかった。指をずらしても、光の位置は変わらない。自分の皮膚の内側に、今までなかったものが現れていた。
白石が創の肩を引いた。
「見るのはあとだ。離れるぞ」
創は足を動かそうとしたが、膝が震えてうまく踏ん張れなかった。レオが腰を支え、エマが床のケーブルを払いのける。
「こっち、何もない。ここへ」
三人に支えられながら、創は石板から遠ざかった。
さっきまで右腕を引いていた力は消えていた。もう、前へ戻ろうとはしない。それでも熱は弱まらず、肘を越え、肩の奥へ広がっていった。
石板から離れているのに、止まらない。
そのことを伝えようとして、創は息を吸った。胸いっぱいに入れたはずの空気が足りず、すぐにもう一度吸う。
「息が……」
「苦しいか」
白石の問いに頷いた。
痛みをこらえていたときとは違った。呼吸をしてもしても、次の息を急かされる。心臓が胸を打ち、首の横まで脈が響いていた。
エマが床に鞄を置き、創を座らせた。レオが折り畳んだ上着を背中へ当てる。
「旦那、俺のほう見て。座れてるっス。もう支えなくて大丈夫っスよ」
創は左手がレオの袖を握っていることに気づいた。離そうとしたが、指が震えてすぐにはほどけなかった。
「……止まらない」
「何が?」
「離れても……熱が」
白石が右腕を見た。
赤い筋は消えていなかった。肘の内側に新しい枝が現れ、脈打つたびに、輪郭がわずかに明るくなっている。
エマが創の左手首の画面を確かめた。
「心拍が上がってる。一四〇……」
創にも数字は見えた。その横には、まだ上向きの印が出ていた。
彼女は端末を持つ手を下ろし、白石へ顔を向けた。
「地上へ連絡を」
「俺が戻るっス」
レオがすぐに言った。
「入口まで上がればつながる。車から必要なものも持ってこられるっス」
「待て。一人で急いで階段を上るな」
白石はブリーフケースを開けながら、顔を上げた。
「まず、ここから通路へ移す。石板との間に壁を挟んで、それでも変わらなければ——」
創の右腕が跳ねた。
言葉を遮るように肘が曲がり、指が強く閉じた。創は歯を食いしばったが、声を抑えきれなかった。
「熱い……!」
手のひらだけではなくなっていた。
肩から胸へ、背中へ、内側を伝って熱が広がる。大学の準備室で机に手を当てたときのように、冷たいものへ逃がせる気がしなかった。どこに触れても、自分の身体の奥で新しい熱が生まれている。
エマが水で濡らした布を首元へ当てた。
冷たさに、創は一瞬だけ目を閉じた。しかし、すぐにその感触が薄れ、胸の苦しさが戻ってきた。
どこかが壊れている。
そう考えた。
けれど、何が壊れたのか分からない。皮膚の色、呼吸、心拍。目に見える変化を順に確かめようとしても、痛みが思考を途切れさせた。
自分の身体なのに、今は外から眺めるほうがまだ分かるような気がした。
「創、聞こえる?」
エマの声がした。
創は頷いたつもりだった。
彼女の顔に焦りが浮かんだことで、うまく頷けていなかったのだと分かった。
「聞こえ……る」
「分かった。ここにいるから」
エマは創の左手に触れた。右腕とは違い、その手はまだ誰かに握ってもらえた。
創は指を曲げた。
彼女が握り返してくれた。
その感触に重なるように、白い病室が浮かんだ。
*
父はベッドのそばに座っていた。
眼鏡を外して、片手で目元を押さえている。いつもの白衣ではなく、皺の寄ったシャツを着ていた。
幼い創は、父が帰ってしまうと思った。
管のつながった腕を動かすと、父はすぐに気づき、身を寄せてくれた。何かを尋ねられた気がするが、その言葉は思い出せない。
ただ、手を握ってくれたことだけは覚えていた。
父の手は温かかった。
その温かさを、今まで疑ったことはなかった。
*
「……父さん」
自分の声で、創は目を開けた。
父はいなかった。
白石が膝をつき、エマが手を握っている。レオはすぐそばで荷物を広げていた。頭上には白い天井の代わりに、赤く照らされた岩の闇があった。
見えたものは記憶だったのか、それとも、苦しさの中で思い浮かべただけなのか、分からなかった。
創は白石を見た。
「父は……」
息を継ぐ。
「こうなるって……知ってたんですか」
白石は答えかけ、言葉を止めた。
その顔を見て、創は目を伏せた。今の白石にも答えられないのだと分かった。
助けるためだったのか。
自分を何かに使うためだったのか。
確かめたくて、ここまで来た。なのに、分かったことが増えるほど、父の顔が遠くなっていく。
右腕にまた痛みが走り、創は身体を丸めた。
その瞬間、頭の中に言葉が浮かんだ。
――熾れ、原初の熱。
誰かの声ではなかった。
耳から聞こえたのでも、思い出したのでもない。さっきまで意味の分からなかった音に、突然、理解できる言葉が重なったようだった。
創は顔を上げた。
石板が見えた。
赤く灯った溝のうち、中央の幾本かが強い光を放っている。左右へ伸びた線が上方で折れ、炎の先端に似た形を作っていた。
「……俺が」
エマが身を寄せた。
「何?」
「声を……出したら」
創は右腕を見た。
最初に光ったのは石板だった。そのときは、近づけば熱が強まり、離れれば弱くなった。
けれど、あの言葉を口にしてからは違う。
右腕を引く力が消えたあとも、熱は自分の中で強くなり続けていた。
「これ……始まった」
エマは創の顔を見つめ、それから石板へ視線を移した。
「さっきの言葉で?」
創は小さく頷いた。
手を伸ばす必要など、なかったのかもしれない。
石板には触れていない。それでも、自分の声はこの場所へ響き、その直後から身体が変わり始めた。
父が歌っていた節。
その続きを、知っていた喉と舌。
父は病室で、自分に何を覚えさせていたのだろう。
考えようとしたが、言葉がまとまらなかった。視界の端から色が薄れ、エマの顔だけが妙にはっきり見えた。
「博士、移しましょう」
エマが言った。
「ここで待っていても止まらない」
「レオ、肩を」
「分かってるっス」
創は三人に支えられた。
立ち上がった途端、足元が遠くなった。膝を伸ばしているつもりなのに、身体が沈む。レオが腰を引き寄せ、白石が反対側を支えた。
「旦那、足は無理に出さなくていいっス。こっちで運ぶから」
創は返事をしようとした。
舌は、もう勝手な言葉を作らなかった。けれど今度は、言いたい言葉を作る力が残っていなかった。
冷たい汗が額から落ちた。背中は濡れ、身体の奥は熱いままだった。左手まで震え始め、指先の感覚が遠くなる。
自分の中で何かが使い果たされようとしている。
そんな気がした。
「創、目を開けて」
エマの声を頼りに、創は顔を上げた。
彼女の向こうに、石板が立っていた。
離れていくはずなのに、その中央の記号だけが、視界から消えなかった。赤い輪郭がにじみ、幾重にも重なって見える。
右腕の奥で、何かが弾けた。
創は声を上げた。自分では叫んだつもりだったが、耳にはかすれた息しか届かなかった。
手のひらから肘にかけて、赤い光が強くなった。
レオの袖と白石の顔が、その光に照らされた。床へ落ちていた四人の影が、照明とは違う方向へ伸びる。
「腕から離れて!」
エマの声が響いた。
創は右手を身体から遠ざけようとした。これ以上、誰かを巻き込みたくなかった。
指が開いた。
その隙間からあふれた光が、石の床を赤く染めた。
熱が外へ出ていく感覚があった。
それまで腕の内側に押し込められていたものが、ようやく出口を見つけたようだった。痛みが一瞬だけ薄れ、創は息を吐いた。
その直後、身体を支える力がなくなった。
「創!」
エマの手が左腕をつかんだ。誰かが背中を支え、床へ倒れ込むのを止めてくれる。
創は、その手を握り返そうとした。
指が動いたかどうかは、分からなかった。
最後に見えたのは、遠ざかる石板と、その中央に浮かぶ炎に似た記号だった。
父も、これを見たのだろうか。
そう思ったところで、赤い光も、呼びかける声も途切れた




