第3話 丹後地下遺跡と沈黙の黒石板(2)
階段は大きな縦穴の壁に沿い、何度も向きを変えながら下へ続いていた。
踊り場に立つたび、中央にある使われなくなった昇降機の枠が見えた。太いレールは暗がりへ延びていたが、荷物を載せる台は見当たらない。落ちたのか、別の階で止まっているのか、上からでは分からなかった。
初めのうちは聞こえていた雨音が、幾つかの踊り場を過ぎると消えた。
代わりに、どこかで水が落ちていた。間隔のそろわない小さな音が、足音の合間に響いてくる。
創は壁へ照明を向けた。
入口に近い部分はコンクリートだったが、下へ進むにつれて岩がそのまま露出するようになった。そこへ金具を打ち込み、階段やケーブルを取りつけてある。壁には白い塗料で番号が書かれ、ところどころに測量の印らしい線が残っていた。
「この穴も、父が掘ったんですか」
「全部ではない。もともとあった空間を利用して、階段と昇降機を設けたと聞いている」
白石は壁沿いのケーブルを照らした。
「どこまでが宗助の工事なのか、資料を見つけなければ分からん」
次の踊り場に、小さな部屋があった。
扉は外れて壁に立てかけられ、中には金属製の机と、倒れた椅子が見えた。創が照明を向けると、机の脇に一足の長靴がそろえて置かれていた。
誰のものかは分からない。父が履いていたのかもしれないし、ここで働いていた別の誰かのものかもしれない。
それでも創は、その場をすぐには離れられなかった。
「帰りに調べよう」
白石に言われ、創は頷いた。
さらに下りると、手すりの一部が壁から外れかけていた。レオが金具を確かめ、そこを避けるよう三人へ伝える。彼は地下へ入ってから、車内にいたときより口数が少なくなっていた。ライトで足場と天井を順に確かめ、最後尾からときどき後ろも振り返っている。
「怖いのか?」
創が尋ねると、レオはすぐに頷いた。
「怖いっスよ。十年放置された階段なんて、俺が点検した機械より信用できないっス」
「意外と慎重なんだな」
「慎重じゃないと、古い機械とは付き合えないっス」
その答えを聞いて、創は少しだけ彼の見方を変えた。
また一つ踊り場を回ったところで、右手の熱が強くなった。
創は足を止め、手のひらを開いた。手袋をしているわけでもないのに、指の間に汗が浮いている。周囲の冷たい空気に触れても、内側の熱は引かなかった。
「白石さん」
呼びかけると、先を歩いていた二人が振り返った。
「また熱くなってます。車の中より、はっきり」
白石は階段を戻り、創の顔と手を確かめた。
「めまいや、息苦しさは」
「ありません。手だけです」
「座れるか」
創は踊り場の端に腰を下ろした。エマが鞄から布を出し、水で湿らせて差し出す。
「これで少し冷やしてみて」
創が手に巻くと、初めは冷たかった布が、じきにぬるくなった。
四人が動きを止めると、水の落ちる音がよく聞こえた。創はゆっくり息を整えながら、自分の手首に指を当てた。脈は少し速いが、階段を下りてきたせいでも説明はつく。
「下り始めてから、強くなったの?」
エマの問いに、創は考えてから答えた。
「たぶん。でも、地下だからなのか、時間が経ったからなのかは分からない」
白石が階段の上を見た。
「戻ることもできるぞ」
創は布を外し、指を曲げ伸ばしした。
動く。感覚もある。熱は強いが、今のところ、ほかに変わったところはなかった。
「少し休んだら、進めます。ただ、何か変わったら言います」
白石はすぐには頷かなかった。やがて創の顔をもう一度見て、短く息を吐いた。
「無理はするな」
エマは端末に時刻を記録していた。創が見ると、彼女は画面を少し傾けた。
「どこで、どんな変化があったか、残しておこうと思って。あとで比べられるように」
「……ありがとう」
原因は分からない。それでも、起きたことを一つずつ記録していくことならできる。
その当たり前の作業が、創にはありがたかった。
*
階段の終わりが見えたのは、それから幾つか踊り場を下りたあとだった。
白石が足を止め、照明を前へ向けた。狭い通路が続き、その先で天井と左右の壁が途切れていた。
創は最後の段を下りた。
靴の下の感触が変わった。金属の階段から、硬い石の床へ移っている。通路の端にはケーブルが数本延び、暗がりの手前で束ねられていた。
「ここで少し待て」
白石が持ってきた照明を床へ置いた。レオも荷物を下ろし、折り畳まれた脚を広げる。二つの灯りが点くと、光の届く範囲が一気に広がった。
創は思わず顔を上げた。
通路の先には、講堂を幾つも収められそうな空間があった。
壁は遠くで大きく湾曲し、上部は照明の届かない高さへ続いている。片側には金属製の足場が組まれ、机や観測装置が並んでいた。ケーブル、三脚、作業灯。その周囲だけを見ると研究施設だったが、足元の石の床は、そうした機材の下を抜けて奥まで広がっていた。
エマが通路の出口にしゃがんだ。
「ここ、照らしてもらえる?」
創が光を向けると、床に細い溝が見えた。溝は一定の間隔で曲がり、金属製の足場の下へ続いている。
エマは足場を固定する金具と、その下の線を見比べた。
「この床のほうが先にあったのね。機材を置くために造ったわけじゃない」
創も腰をかがめた。金具を留めるために削られた部分で、溝が途切れていた。
「どれくらい古いんですか」
「今は分からない。石だけを見て年代は決められないから」
エマは立ち上がり、広間を見渡した。
「でも、あなたのお父さんが見つけたときには、もうこうなっていたはず」
創は、入口からここまで下りてきた道を振り返った。
父もこの場所へ出て、同じように立ち止まったのだろうか。まだ照明も、足場もない暗闇に光を向けたとき、最初に何を見たのだろう。
「旦那」
レオに呼ばれ、創は前を向いた。
広間の中央に、黒いものが立っていた。
写真で見た石板だった。
実物を前にすると、十メートルという数字は、ほとんど役に立たなかった。視線を上げても端がなかなか見えず、その足元に残された椅子だけが、ひどく小さく見える。
四人は、床に這わせてあるケーブルをまたいで進んだ。
近づくにつれ、石板の表面に細かな凹凸が現れた。遠くからは一枚の黒い面に見えたが、斜めから照明を当てると、無数の溝の縁がかすかに光る。
エマが端末の写真と現物を見比べた。
「あった……」
彼女は石板の下部を照らした。
「音にしたのは、ここ」
創はその隣へ立った。
車内で何度も見た線が、目の高さにあった。その続きは横へ延び、いったん折り返して上へ向かっている。写真では平らに見えた場所にも浅い線が残っていた。
「まだ、こんなにあるんですね」
「ええ。写真だと写っていなかったところもある」
エマの声には、抑えきれない喜びがあった。彼女は手を触れずに、照明の角度を何度も変えた。
創も目で線を追った。
父の歌を思い出そうとしたが、今は雨音も車の振動もない。その静けさの中で記憶をたどると、病室にいた父の顔が、先ほどより近く感じられた。
父はこの溝を読み、自分に聞かせていた。
そう考えたとき、右手の熱が強くなった。
創は反射的に手を開いた。手のひらの奥に、押し返されるような感覚があった。指先から手首へ広がり、一度弱まって、また強くなる。
「創?」
エマが振り向いた。
「熱が……」
言い終える前に、足元から低い振動が伝わってきた。
音というより、靴底がわずかに震えたようだった。創は石板から一歩離れた。隣でエマも動きを止め、レオが照明を持ち上げる。
「今、揺れたっスか」
誰かが同じものを感じたことに、創は一瞬ほっとした。しかし、その感覚はすぐに別の不安に変わった。
「余震か?」
白石が天井へ光を向けた。石の落ちる音も、土埃もない。
再び、低い振動が足元を通った。
今度は同時に、右手の奥が強く熱を持った。創は手首を押さえ、石板を見上げた。
黒い面の下部に、赤い光が見えた。
細い溝の一本だけが、内側から照らされたように浮かび、すぐに消えた。
「今の、見えました?」
創が尋ねると、エマは石板から目を離さずに頷いた。
「見えた」
レオが照明を下へ向けた。ライトの反射なら、それで位置が変わるはずだった。
けれど、同じ場所に赤い線が浮かんだ。
創はその瞬間、右手を握った。熱の強まる間隔が、光の現れる間隔と重なっていた。
「下がれ。ゆっくりだ」
白石の声に従い、創は数歩退いた。エマも隣へ戻り、レオが二人の足元を照らす。
石板の線は消えた。
創は息を止めたまま待った。右手にはまだ熱があったが、さっきのように急に強まる感覚は薄れていた。
「白石さんが来たときも、こうなったんですか」
白石は首を振った。
「いや。こんな反応は、一度も見ていない」
創は石板を見た。
近づいたときに光り、離れると消えた。ただそれだけで、自分に反応したと決めることはできない。たまたま同じ時に起きた可能性もある。
そう考えながらも、右手を押さえる指に力が入った。
白石が再び創の前へ出ようとしたとき、エマが小さく声を上げた。
「待って。あそこ」
石板の下部に、もう一度赤い光が浮かんでいた。
今度は一本で終わらなかった。最初の溝が消えると、その隣に短い線が灯り、少し離れた場所へ移っていく。光は、ゆっくりと溝をたどっていた。
エマが端末を開いた。保存していた写真と、目の前の光を見比べる。
「ここまでが、再現できた部分……」
彼女の声を聞きながら、創は動けずにいた。
頭の中で、父の歌が続いていた。何度も聞かされた、覚えているところまで。その終わりに重なるように、赤い光が一度消えた。
広間が静かになった。
そして、写真では読み取れなかった次の溝が、ゆっくりと赤く灯った。
創は知らず、前へ身を乗り出していた。
父が歌っていた、その先が始まろうとしていた。




