第2話 丹後地下遺跡と沈黙の黒石板(1)
雨の向こうに、丹後方面へ向かう分岐の案内が見えた。
レオがハンドルを切ると、ワゴン車はゆるいカーブに沿って進み、山間へ延びる道路に入った。街の明かりが少なくなり、フロントガラスには、ヘッドライトに照らされた雨粒ばかりが浮かんでいる。坂に差しかかるたび、床の下で古いエンジンが唸った。
創は膝の上の端末を閉じた。
石板の写真をいくら拡大しても、画面から新しいことが分かるわけではなかった。それでも目を離すと、さっき聞いた音が頭の中に戻ってくる。
父が歌っていた節だった。
十年間、ほとんど思い出さなかったものを、見知らぬ女性が、山の下から見つかった石の記録として聞かせてきた。その奇妙さは、時間が経つほど強くなっていた。
「創の旦那、そこに水があるっスよ」
運転席から声をかけられ、創は顔を上げた。
「……旦那?」
「名前だけで呼ぶのも、いきなり馴れ馴れしいかなと思って」
「それで旦那になるのか」
「嫌なら変えるっスけど」
創は返事の代わりに、座席脇の袋から水のボトルを取り出した。喉が渇いていたことに、飲んで初めて気づく。
レオはミラー越しにそれを確かめると、視線を道路へ戻した。
「暖房、少し下げるっスか。さっきから右手、気にしてるみたいなんで」
「いや、寒いくらいでいい。……ありがとう」
「了解っス」
送風の音が小さくなった。
創は右手を開いた。車に乗ってから、熱は強くなったり弱くなったりしている。痛みはなく、指先の感覚も残っていた。手首に触れると脈は普通に打っているのに、手のひらの奥だけが、それとは別の熱を持っていた。
「少しは落ち着いた?」
助手席からエマが尋ねた。
「分からない。見た目は変わらないし、普通に動く。でも、熱い」
「どうして熱くなっているのか、見当はつく?」
「調べないと何とも言えない。血流が増えてるのか、細胞で熱が作られてるのか、それとも別の原因なのか」
創はボトルを右手で持ち、すぐに左手へ替えた。
「大学を出る前は四十三度あった。測り方の問題はあるかもしれないけど、これだけ続いてるのに、痛くもならないのが気になる」
「痛くないなら大丈夫、ってわけでもないんスね」
「それが分からないから困ってる」
口にすると、自分が何を怖がっているのか、少しはっきりした。
熱そのものより、この先どうなるのか分からないことが怖かった。数分後には治っているかもしれないし、指が動かなくなるかもしれない。知っている病気をいくつか思い浮かべても、どれもうまく当てはまらなかった。
隣で白石の端末が短く鳴った。
創が顔を向けると、白石は画面を読んでから言った。
「お母さんのところに、今のところ変わった様子はないそうだ。知り合いが近くで様子を見てくれる」
「本当ですか」
「ああ。何かあれば、こちらへ連絡が来る」
創は息を吐き、座席にもたれた。
家を出たときには、母に夕食のことを聞かれた。遅くならないと答えたはずだった。その返事からまだ一日も経っていないことが、今は不思議だった。
車が長い坂を上り始め、エンジン音が大きくなった。後方の棚で金属が触れ合い、レオがミラーを見た。
「あ、そこの留め具、押し込んでもらっていいっスか。青い箱の横」
創が手を伸ばすと、棚の縁から金具が半分浮いていた。押して固定すると、音が止まった。
「助かるっス。出る前に工具を積み替えたんで、締め方が甘かったみたいっスね」
「この車、普段は何に使ってるんだ?」
「移動と修理と寝泊まり。だいたいのことは、こいつで済むっス」
創は改めて車内を見回した。
外からは古い業務用のワゴン車に見えたが、後部には折り畳んだ寝台があり、その下に工具や機材が収納されていた。棚は車体に直接固定され、配線は通路へ垂れないよう壁沿いにまとめられている。物は多いものの、何をどこに置くかは決まっているらしかった。
「名前はアルゴー号。古い車体を買って、中は俺が組み直したっス」
「こういう状況で走るために?」
「最初は、好きな場所で機械をいじれる車が欲しかっただけっスよ。気づいたら、博士の無茶な用事にも対応することになってたっス」
「無茶とは何だ」
白石が言うと、レオは前を向いたまま答えた。
「雨の夜に大学から人を連れ出して、そのまま山の中の地下施設へ行く用事っス」
白石が黙り、エマが小さく笑った。
創も少しだけ口元を緩めたが、すぐに窓の外へ目を戻した。道路の上には、交通監視用らしいカメラが並んでいる。
「この車なら、見つからないのか?」
「見つかるときは見つかるっスよ」
意外なほどあっさりした答えだった。
「ただ、こいつは現在地も走行記録も外へ送らない。大学を出るときも、カメラに映る場所をできるだけ避けたっス。向こうはまだ、どの車を捜せばいいか絞り込めてないはずなんで」
レオは道路脇のカメラを顎で示した。
「だから、ああいうのに顔を見せないでくれると助かるっス」
創は窓から離れた。
端末を取り出しかけ、手を止める。その動きを見たエマが言った。
「連絡が済んだら、通信は切っておいて。必要な写真と資料は、こっちに保存してあるから」
創は頷き、自分の端末を鞄にしまった。
道の先で、山の稜線が黒く重なっていた。父の研究所は、あの暗がりのどこかにある。
「白石さんは、あそこへ行ったことがあるんですよね」
「昔、宗助に連れられてな。今回の地震のあとにも、一度入っている。写真はそのときのものだ」
「父の記録は残ってなかったんですか」
「すべての部屋を見られたわけではない。入口の状態を確かめ、石板を撮影して戻った。崩れて通れない場所もある」
白石はブリーフケースへ手を置いた。
「今夜は、まず通れる場所と、残っている資料を確かめる。危険なら引き返す。お前の手に変化があっても、その場で知らせろ」
創は頷いた。
「エマさんは、初めてなんですか」
「現物を見るのは初めて。写真が届いてから、ずっと調べていたの」
「音にするのは、どうやって思いついたんです?」
エマは端末に溝の拡大写真を出した。
「文字だと考えて区切ろうとすると、うまくいかなかった。でも、線の幅や間隔が少しずつ変わっているところがあるでしょう。同じ形に見えても、完全に同じじゃない」
彼女が示した場所では、細い溝が次第に間隔を広げ、再び狭まっていた。
「その変化を音の高さや長さに置き換えて、いくつか試したの。車で聞いてもらったのは、そのうちの一つ」
「じゃあ、正しい読み方かは、まだ……」
「分からない。ただ、あなたが同じ節を知っていたなら、偶然とは考えにくくなる」
創は写真を見た。父は何度もこの線を見比べ、同じように音を探していたのだろうか。
「ほかの場所にも、似たものがあるんですか」
「よく似た線の組み合わせが残された資料はある。でも、同じものだと断定できるほど調べられていない。だから、今回は現物を見たい。写真だと、溝の深さも、途中で削れた部分も分からないから」
エマは画面を閉じ、フロントガラスの先へ目を向けた。
「実際に見れば、最初から考え直しになるかもしれないけど」
「それでも、行きたいんですね」
「ええ。間違っているなら、どこを間違えたのか知りたいもの」
創には、その気持ちは分かった。
今日の細胞がなぜ壊れたのか、結局確かめられないまま大学を出てきた。そのことが、こんな状況でも頭の隅に残っている。
父も、同じだったのだろうか。
ただ知りたいという気持ちで、この道を何度も通っていたのだろうか。それが、いつから母や自分を置き去りにするほど大きなものになったのか、創にはまだ分からなかった。
*
海が見えたのは、それからしばらく経ってからだった。
山道のカーブを抜けると、樹木の切れ目から黒い水面が現れた。波が岩に当たるたび、その縁だけが白く崩れる。雨は弱まっていたが、車体を揺らす風が強くなっていた。
レオは舗装道路を外れ、岩壁の陰にある小さな空き地へ車を入れた。
「ここから歩きっス」
エンジンが止まると、屋根に落ちる雨の音が急に大きくなった。
創はレオから借りたレインコートを羽織り、車外へ出た。風に雨粒が押しつけられ、フードの縁から冷たい水が流れ込んでくる。
レオは後部の収納から迷彩模様の覆いを引き出し、創へ端を渡した。
「そっち、後ろまで引っ張ってもらっていいっスか」
二人で車体を覆うと、灰色のワゴンは岩や藪の陰へ紛れた。すぐそばで見れば車の形は分かるが、少し離れると輪郭を見失いそうになる。
「これで大丈夫なのか?」
「上から見つけにくくするだけっス。誰かが歩いてきたら、普通にばれるっスよ」
レオは裾を留め、荷物から照明を取り出した。
「その前に戻りたいところっスね」
白石を先頭に、四人は木々の間へ入った。
道は細かったが、ところどころで枝が切り払われ、泥の上には先に歩いた人間の足跡が残っていた。創はそれを踏まないように進み、倒木をまたいだところで足を止めた。
木々の向こうに、土がむき出しになった大きな斜面が見えた。
山肌が広く崩れ、赤茶色の泥と岩が下へ流れ落ちている。その端に、四角いコンクリートの枠があった。車で見せられた写真の入口だった。
写真よりも小さく見えたのは、周りの崩落が大きかったせいだった。地面には幹の折れた木が横たわり、その根の下から、錆びた配管が突き出している。
「斜面の中央には入るな。端を回る」
白石の言葉に従い、創たちは岩に沿って進んだ。
入口の扉は片側だけが半開きになっていた。白石が押すと、金属の縁が床をこすり、狭い隙間が広がる。中から流れてきた空気には、濡れた土とは違う、冷たい石と古い金属の匂いがあった。
レオが照明をつけた。
短い通路の先に、地下へ下りる階段が見えた。天井には切れたケーブルが垂れ、壁に残った案内板の文字は錆と汚れで読みにくくなっている。
創はその中の一枚に目を留めた。
〈搬送時は下方を確認〉
ありふれた注意書きだった。
巨大な石板の写真よりも、その文字のほうが、父がここで働いていた事実を身近に感じさせた。誰かが荷物を運び、階段の下へ声をかけ、仕事が終わればこの扉から外へ出ていたのだ。
「足元を見て歩け。手すりにも体重を預けすぎるな」
白石が先へ進み、エマが続いた。創は照明を受け取ってその後ろに入り、最後にレオが入口を振り返った。
「帰りにここが分からなくなる心配だけは、なさそうっスね」
「どうして?」
エマが尋ねると、レオは階段の下を照らした。
「帰る道が、これ一本しかないっス」
「それ、安心できる話なのか」
創が言うと、レオは少し考えた。
「今のは取り消すっス」
四人の足音が、地下へ続く壁の間で重なった。




