第一部プロローグ 沈黙の螺旋
顕微鏡の中で、細胞がまた一つ壊れた。
神代創は接眼レンズから顔を離し、机の端に置いた温度計を確かめた。培養液は三十七度。観察を始める前と変わっていない。試料を作る手順も、使った薬剤の量も、記録を見る限り間違いはなかった。
もう一度レンズを覗く。視野の中央では、隣り合っていた細胞の一方がゆっくりと膨らみ始めていた。輪郭がいびつに押し広げられ、ほどなく膜の一部が破れると、内側にあったものが培養液へと流れ出した。
「……お前までかよ」
創は椅子の背にもたれ、両手で目をこすった。
同じ条件で昨日まで問題なく観察できていた細胞が、今日は次々と壊れていく。原因が分からない以上、このまま試料を使い続けても無駄になるだけだった。いったん片づけ、明日、培養の段階からやり直すしかない。
記録帳に手を伸ばしたところで、右の手のひらに違和感を覚えた。
熱いものに触った覚えはなかった。それなのに、指の付け根から手首にかけて、使い捨てカイロを握っていたような熱が残っている。
創は右手を開き、机の明かりにかざした。赤みも腫れもない。指も普段どおりに動く。左手の甲を重ねてみると、はっきり分かるほど温度が違った。
「なんだ、これ」
机に置いた非接触温度計を取り、手のひらへ向ける。短い電子音に続いて、液晶に数字が表示された。
四十二・五度。
創は測定対象の設定を確かめた。それから左手を測ると三十二・一度と出た。右手へ戻し、距離を変えて測り直しても、数値は下がらない。むしろ、今度は四十三・〇度になっていた。
温度計を机に置いてから、もう一度取り上げた。電源を切り、入れ直してみたが、それで自分の手が冷たくなるわけではなかった。
窓の向こうでは、十一月の雨が降り続いていた。
国立京都生体工科大学の旧棟三階からは、鴨川沿いに並ぶ銀杏が見える。黄色い葉が雨に打たれて歩道へ落ち、その上を傘を差した学生たちが足早に通り過ぎていった。雲の下には配送ドローンの赤い識別灯が点々と連なり、市街地の配送拠点へ向けて移動している。
二〇五〇年の京都では、自動販売機でさえ客の顔色を読み、体調に合った飲み物を勧めてきた。学生の健康管理を担う大学の医療AIも例外ではない。睡眠不足が続けば生活指導が届き、体調を崩す兆候があれば、本人が気づく前に検査の予約まで入れてくる。
先週も創は、夜更かしを三日続けただけで食事と睡眠についての長い通知を受け取っていた。
そのくせ、今は何も言ってこない。
左腕の端末を開くと、直近の健康評価には〈異常なし〉と表示されていた。創は右手と画面を見比べ、思わず鼻で笑った。
「肝心なときに頼りにならないな」
端末から症状を報告しようとして、指を止めた。
どう説明すればいいのだろう。右手だけが熱い。痛みはない。見た目にも変化はない。入力する言葉を考えている間にも、熱は皮膚の下からじわじわと湧き続けていた。
ひとまず冷やそうと、手のひらを机の金属製の縁に押し当てる。冷たさにほっとしたのも束の間、触れている場所はすぐにぬるくなった。少し横へずらすと、また冷たい。指を戻せば、さっきまで手を置いていた部分に熱が残っていた。
少なくとも、温度計だけの故障ではなさそうだった。
創は記録帳を引き寄せ、時刻と測定値を書きつけた。続けて、痛みなし、発赤なし、と書く。いつもと同じように事実を並べてみれば、少しは落ち着いて考えられる気がした。
ペン先を止めたとき、視線の先に顕微鏡の台座があった。
角の塗装が剥がれ、そのすぐ横には、小さな三日月形の傷がついている。父が使っていたころからある傷だった。
十年前、神代宗助が姿を消したあと、創の手元に残った父の道具は多くない。この顕微鏡は、事故の少し前に自宅から持ち出されていたおかげで焼けずに済んだものだった。
大学の新棟へ行けば、はるかに高性能な観察装置がある。画像の整理も細胞の分類もAIがやってくれるし、異常があれば関連する論文まで並べてくれる。それでも創は、授業が終わると旧棟の使われなくなった準備室へ足を運び、借りた机にこの顕微鏡を置いていた。
古い機械のほうが、自分で見つけた気になれる。
誰かに理由を聞かれると、いつもそう答えていた。それは嘘ではなかったが、台座の傷を指でなぞる癖まで説明できる答えではなかった。
父のようにはならないと決めていた。
研究にのめり込み、家族との約束を忘れ、最後には母にすべてを背負わせて消えてしまうような生き方だけはしたくなかった。創が大学で医学と分子生物学を学んでいることについても、母は一度だけ、父に似てきたと言ったことがある。
そのとき、創がどんな顔をしたのかは分からない。ただ、それ以来、母は同じことを言わなくなった。
右手の奥に強い熱を感じ、創は顔をしかめた。
袖をまくり、手首から肘まで確かめる。目立った変化はない。具合が悪いわけでも、息苦しいわけでもなかった。身体のほかの部分はいつもどおりなのに、右手だけが自分の知らない動きを始めているようで、それがかえって気味悪かった。
さすがに、明日まで様子を見るのはまずい。
創は大学の医療窓口を呼び出した。画面に接続中の表示が出る。その間に試料を片づけようと立ち上がり、窓ガラスに映った赤い光に気づいた。
さっきから、同じ場所にある。
創は窓へ近づきかけ、途中で足を止めた。雨の向こうに、一機のドローンが浮いていた。配送機によく似た形だったが、荷物を収める箱が見当たらない。機体の下には黒い半球状の部品があり、その中央のレンズが準備室を向いていた。
飛行経路の確認でもしているのだろうか。
創が机の反対側へ動くと、レンズもわずかに向きを変えた。
足を止める。レンズも止まった。
端末から呼び出し音が消えた。画面を見ると、〈接続できません〉という表示に変わっている。創はもう一度接続を試みたが、今度は呼び出し音さえ鳴らなかった。
窓の外に、二つ目の赤い光が現れた。
別の機体がゆっくり高度を下げ、一機目から距離を取って停止する。二機の間から、雨に濡れた鴨川が見えた。ほんの少し前まで見慣れた風景だったものが、窓の向こう側へ遠ざかってしまったように感じられた。
創は身をかがめ、窓際から離れた。
その直後、天井の照明が消えた。
換気扇の低い音も途切れ、準備室は雨音だけになった。廊下の奥で電子錠が作動する音がして、少し間を置き、もう一度同じ音が響いた。
停電なら、なぜ鍵が動くのか。
考えながら、創は机の上の端末を手探りでつかんだ。非常灯の緑色の光が、引き戸の曇りガラスをぼんやり照らしている。廊下へ出ようとして、今度は近づいてくる足音に気づいた。
一人ではなかった。
創は戸へ伸ばしかけた手を引っ込め、部屋の中を見回した。机と戸棚、流し台、それから窓。三階から外へ出られる場所はない。反対側の壁にある隣室への扉は、古い備品棚で半ば塞がれていた。
足音が戸の前で止まった。
「神代創。中にいるか」
男の声だった。低く、息が上がっている。
返事をするべきか迷っているうちに、引き戸が軋みながら開いた。創は反射的に一歩下がり、背後の机に腰をぶつけた。
入ってきたのは、白髪の老人だった。雨を吸ったトレンチコートの肩が黒く濡れ、丸眼鏡には細かな水滴がついている。片手に革のブリーフケースを提げていたが、創の顔を見るなり、それを足元へ置いた。
「よかった。まだここにおったか」
「誰ですか」
「白石だ。神代宗助と一緒に研究をしていた」
父の名前が出たことで、創はかえって身構えた。
事故のあとには、知らない大人が何人も家へ来た。父の研究について尋ねる者もいれば、母に何かの書類を見せ、署名を求める者もいた。父を知っているというだけで信用していいわけではないことを、創は子どものころに覚えていた。
「父のことなら、俺には何も分かりません」
「今日は宗助の話を聞きに来たんじゃない。お前を迎えに来た」
白石の視線が、創の右手へ落ちた。
「その手は、いつから熱い」
創は思わず右手を背中へ引いた。白石はそれを見て、険しい顔になった。
「……もう始まっているのか」
「何がですか。どうして、手のことを知ってるんです」
白石が答える前に、廊下から若い女性が顔を出した。オリーブ色のレインコートを着て、濡れた蜂蜜色の髪を耳にかけている。彼女は創と白石を素早く見比べると、手にしていた端末を伏せた。
「博士、ここでは長く話せません。表の階段は使わないで」
「分かっておる」
「待ってください」
ブリーフケースを拾おうとした白石に、創は声を強めた。
「外のドローンも、停電も、あなたたちがやったんですか」
「ドローンは違う。照明を落としたのは、こちらの仲間だ。窓からお前を確認しにくくするためにな」
「確認って、誰が」
白石は一度だけ窓を見た。
「アダム・ジェノミクス」
名前を聞いた瞬間、創は左腕の端末に目を落とした。
大学の医療システムにも、毎年受ける遺伝子検査の結果にも、その企業のロゴが入っている。創にとっては、病院や大学の名前と同じくらい見慣れたものだった。
「そんな会社が、俺に何の用があるんです」
「それを説明する。だが、ここを出てからだ」
知らない老人についていく理由などなかった。外で自分を見ているものが何なのかも、この二人が何を知っているのかも、何一つ確かめられていない。
創は机の縁をつかんだ。右手の熱が、指先から金属へ伝わっていく。
「俺の身体に、何が起きてるんですか」
白石は今度こそ、答えを急がなかった。創の手を見てから顔へ視線を戻し、言葉を選ぶように口を開いた。
「宗助が、お前を助けるためにしたことと関係がある」
幼いころに何度も聞かされた母の言葉が、不意に蘇った。
あなたは、お父さんのおかげで助かったのよ。
病室の記憶はほとんど残っていない。白い天井と、腕につながる管、それから眠る前に握っていた誰かの手。その程度の断片しかないのに、母がその話をするときの表情だけは、今もはっきり覚えていた。
「……父は、死んだんでしょう」
口にしてから、自分が何を確かめようとしているのか分からなくなった。白石は創を見つめたまま、静かに首を振った。
「十年前、あの焼け跡から宗助の遺体は見つかっていない」
「それは知ってます。でも、あの火事で——」
「生きているかもしれん」
廊下で女性が身じろぎした。何かを急かそうとして、それでも口を閉じたのが分かった。
創は机をつかんでいた手を緩めた。右手はまだ熱かったが、さっきまでとは違って、その熱から目をそらせなくなっていた。
「……そう思う理由が、あるんですか」
「ああ。だから、お前に会いに来た」
創は白石の顔を見つめた。眼鏡の奥の目に、冗談を言っているような様子はなかった。
「理由って、何ですか」
「宗助の研究施設が見つかった。十年前の事故で失われたと思われていた場所だ」
「そこに、父が——」
「博士」
戸口の女性が、声を抑えて遮った。
「表に車が入りました。大学の警備じゃありません」
白石は廊下へ目を向け、ブリーフケースを持ち直した。
「話は車で続ける。持っていくものがあれば、今のうちに取れ」
創は机を振り返った。記録帳と端末を鞄に入れ、顕微鏡の台座へ手をかける。持ち上げかけたところで、その重さにためらった。
戸口では、女性が廊下の様子を確かめている。白石も窓へ目を配っていた。
創は顕微鏡を机の奥へ寄せ、埃よけの布をかぶせた。
明日、取りに来ればいい。今日壊れた細胞も、培養の段階から調べ直せばいい。そう考えながら鞄を肩に掛けたが、右手に残る熱だけは、いつもの片づけでは追い払えなかった。
「行けます」
廊下へ出ると、女性が先に立った。
「エマ・ハワード。白石博士と一緒に働いています」
「神代……」
名乗りかけて、創は口を閉じた。彼女は振り向き、少しだけ表情を和らげた。
「名前は聞いてる。足元、気をつけて」
天井の染みから雨水が落ち、床に小さな水溜まりができていた。創はそれを避け、正面階段へ続く角を通り過ぎた。エマは突き当たりの防火扉を押したが、開かないと分かると、手元の端末へ目を落とした。
「ここ、まだ鍵が……」
「それ、手で開けるんです」
創は横から補助錠のつまみを回し、扉を肩で押した。重い音とともに隙間が開き、冷たい空気が流れ込んでくる。
「下の扉も建てつけが悪くて。引くときに、少し持ち上げないと開きません」
「よく使うの?」
「正面から出ると、夜は警備の人に捕まるんで」
答えてから、今する話ではなかったと思った。けれどエマは真面目に頷き、扉を押さえた。
「じゃあ、ここからは案内して」
非常階段は薄暗く、踊り場の窓を雨が叩いていた。創は左手を手すりに添えて下り始めた。普段なら右手でつかむ場所を避けていることに気づくと、自分の身体なのに扱い方が分からなくなったようで、落ち着かなかった。
二階まで下りたとき、壁の向こうから扉を開く音がした。
「三階を確認しろ」
男の声だった。
創が足を止めると、すぐ後ろでエマが肩に触れた。
「大丈夫。そのまま下りて」
彼女の声は落ち着いていた。創は頷き、足元へ視線を戻した。声の主が誰なのか、何を確認しに来たのか、今は考えないようにした。
一階の扉を少し持ち上げながら引くと、錆びた蝶番が鳴った。外へ出た途端、冷たい雨が頬に当たる。
搬入口の庇の下に、灰色のワゴン車が停まっていた。側面には剥がしかけた会社名の跡があり、後ろのバンパーは片側だけ色が違う。運転席から若い男が顔を出した。
「博士、遅いっスよ。あと一分来なかったら、俺が迎えに上がるところだったっス」
「お前まで上がったら、誰が車を動かす」
「だから、来てくれて助かったって話っス」
男は創へ目を向け、後部のドアを指した。
「乗ってください。鞄は膝の上で頼むっス。足元の箱、踏むと面倒なんで」
創は車内へ身体を滑り込ませた。床には工具箱と束ねた配線があり、助手席の背には小さな画面が二つ固定されている。白石が隣へ乗り、エマが助手席のドアを閉めると、車はすぐに動き出した。
「俺、レオっス。ちゃんとした挨拶は、もう少し広い道に出てからで」
言いながら、レオは搬入口の柱をぎりぎりで避けた。創が思わず座席をつかむと、ルームミラー越しに目が合った。
「大丈夫っスよ。バンパーぶつけたのは前の持ち主なんで」
「何も聞いてません」
「顔に出てたっス」
ワゴン車は旧棟の裏を回り、資材置き場の横を抜けた。フェンスの切れ目にある門を通る直前、創は後ろを振り返った。
三階の窓で、白い光が動いていた。
さっきまで自分がいた準備室だった。懐中電灯らしい光は窓から室内へ戻り、机のある辺りをゆっくり照らした。
車が角を曲がると、旧棟は見えなくなった。
創は前へ向き直った。鞄を抱え直したとき、右手が小さく震えていることに気づいた。
*
大学から離れても、レオは大通りへ出なかった。住宅の間を抜け、交差点の手前で助手席のエマと短い言葉を交わしてから、再び進路を変える。
創は鞄から端末を取り出した。通信は戻っていた。母との連絡画面を開くと、最後に送られてきた買い物の頼みが目に入った。
帰りに、牛乳を一本。
たった数時間前の連絡だった。
「お母さんに連絡するなら、今日は帰りが遅くなるとだけ伝えてくれ」
白石に言われ、創は顔を上げた。
「母のところにも、誰か来るんですか」
「今、こちらの知り合いに様子を確かめてもらっている。何かあれば、すぐに知らせる」
「……俺から電話したほうが」
「声を聞かれたら、何かあったと分かってしまうぞ。説明できるようになるまで、少し待ってくれ」
創は画面へ目を戻した。
大学の用事で遅くなる。夕食は先に食べてほしい。牛乳は今日は買って帰れない。
入力した文章を読み直し、送信する。ほどなく、分かりました、雨が強いから気をつけてね、と返ってきた。
創は端末を伏せた。
「何か分かったら、必ず教えてください」
「約束する」
白石の返事を聞いてから、創は右手を開いた。準備室にいたときほどではないが、熱は残っている。指を曲げるときに痛みはなく、それが安心していいことなのかも分からなかった。
「もう、話してもらえますか」
白石はブリーフケースから端末を取り出した。
「一週間前、丹後沖で地震があった。ニュースは見たか」
「少しは」
「その地震で山の斜面が崩れて、埋まっていた施設の入口が見つかった」
画面に写真が映った。土砂の間からコンクリートの壁が突き出し、その奥に、人が通れるほどの暗い穴が開いている。手前では、根ごと倒れた木が何本も重なっていた。
「ここが、父の研究所なんですか」
「ああ。地上の建物は焼け落ちたが、地下の一部は残っていた」
創は写真を拡大した。
父の事故について、自分でも調べたことはある。記事に載っていたのは焼けた建物と、規制線の外から撮られた遠景ばかりだった。その下に施設が残っていたとは、どこにも書かれていなかった。
「それで、父が生きてると思ったんですか」
「宗助の遺体は見つかっていない。地下には、事故のあと誰も確かめていない場所がある。少なくとも私は、あいつがあそこで死んだと決めつける気にはなれん」
「でも、生きている証拠はないんですね」
白石は頷いた。
創は端末から手を離した。生きているかもしれないという言葉を聞いてから、頭のどこかで、父が見つかったのだと思い始めていた。急に目の前の写真が、ただの崩れた建物に戻ったように見えた。
「それなら、どうして俺を?」
「地下で見つかったものを見せる」
白石が画面を切り替えた。
照明に照らされた大きな空洞が現れ、その中央に黒い石が立っていた。
最初は、大きさが分からなかった。足元に置かれた作業灯と、壁沿いの階段に気づいて、創は画面を持つ白石の手へ指を添えた。
「これ、どれくらいあるんですか」
「見えている部分だけで、十メートル近い」
石板の上端は、照明の届かない暗がりに消えていた。表面には細い溝が幾重にも刻まれ、地下の壁には、それを囲むように金属製の足場や配管が残っている。
創はしばらく、その写真から目を離せなかった。
山の下に、こんなものが埋まっていた。父はそこまで下りていき、明かりをつけ、この巨大な石を見上げていたのだ。
「父が作ったんですか」
「いや。宗助は、これを調べるために施設を造った」
「遺伝子の研究をしてたんじゃ……」
「その研究と、これがつながっていた」
白石はそこで言葉を切った。
「どうつながっていたのか、私もすべてを知っているわけではない。最後のころ、宗助は研究の詳しい話をしなくなった」
助手席から、エマが身体をひねった。
「表面を拡大してもらえますか」
白石が操作すると、石に刻まれた溝が画面いっぱいに広がった。細い線が一定の間隔で並び、場所によって大きくうねっている。創には、文字よりも何かの測定記録に見えた。
「私、古代言語と古文書を研究していたんだけど、これは知っている文字のどれにも当てはまらなかった」
エマは画面の一部を指した。
「でも、溝の並びには規則がある。同じ形が繰り返されるし、間隔の変わり方にも意味がありそうなの。それで、音の変化を記録したものかもしれないと考えた」
「音を、石に残したってことですか」
「まだ仮説。ただ、そのつもりで読み取ってみると、少し面白いものが出てくる」
そう話すエマの目は、廊下にいたときとは違っていた。創は画面へ視線を戻した。石の溝から音を取り出すなど考えたこともなかったが、言われてみると、その細かなうねりが波形に見えてくる。
「聞けるんですか」
「短いところだけ。読み取り方が合っているかも、まだ分からないけど」
エマが端末を受け取り、保存されたファイルを開いた。
車内に、かすれた音が流れた。
笛にも、人の声にも聞こえた。いくつかの音がゆっくり高くなり、少し下がったところで途切れる。わずか数秒の音だった。
創は膝に置いていた右手を握った。
「……もう一度」
エマは創の顔を見てから、再生ボタンに触れた。
同じ音が流れた。最後まで聞く前に、その先に続く節が頭の中に浮かんだ。
白い天井と、消毒液の匂いを思い出した。
腕につながれた管を引っ張らないように、少しだけ身体を横へ向ける。ベッドのそばに父が座っている。目を閉じるのが怖くて手を伸ばすと、父は両手で包むように握ってくれた。
そして、同じ節を何度も繰り返していた。
歌詞は思い出せない。言葉があったのかどうかも分からなかった。ただ、音が下がるところで、握られた手に少し力がこもる。その感触だけが、不意にはっきりと蘇った。
「これ、父が歌ってました」
白石が創へ向き直った。
「いつだ」
「子どものころ、病院で。眠る前に、何度も」
エマが再生を止めた。
創は自分の右手を見た。熱のある手のひらを左手で包むと、記憶の中の父の手に、ほんの少し似ていた。
「どうして、こんな石から父の歌が出てくるんですか」
白石とエマが目を合わせた。
「宗助が、この石から読み取ったのかもしれん」
「じゃあ、父はこれを知ってて、俺に聞かせてたんですか」
「その可能性がある」
創は写真へ顔を近づけた。地下に立つ巨大な石と、病室で自分の手を握る父。その二つが同じ記憶の中に収まろうとしていることに、目まいに似たものを感じた。
「この手も、関係してるんですね」
「宗助の治療について、私は一部だけ聞いていた。お前の身体に、成長してから変化が出るかもしれないこともな」
「それなら、どうして今まで——」
「宗助は、その前に戻るつもりだったんだろう」
白石の声が低くなった。
「少なくとも、息子を放っておくつもりはなかった。そこだけは、私も知っている」
創は口を閉じた。
父について、そんなふうに言われたことはなかった。母は父を責めなかったが、生きて戻ってくるとも言わなかった。創自身も、いつからか、父を待つことをやめていた。
端末の中には、まだ調べられていない溝が並んでいる。
父は、ほかに何を見つけていたのだろう。自分に聞かせた音には、どんな意味があったのだろう。
「俺も、そこへ行きます」
白石は眉を寄せた。
「危険だぞ。お前はまず、安全な場所で身体を——」
「この手がどうなるか、分からないんですよね」
創は右手を開いて見せた。
「待っていれば治るんですか。それとも、もっとひどくなるんですか」
白石は答えなかった。
「だったら、自分で確かめたいです。父が俺に何をしたのかも、なぜこの歌を知っていたのかも」
言葉にすると、胸の中のざわつきが少しだけ収まった。
父を許したわけではない。会えたなら、言いたいことはいくらでもあった。けれど、その前に聞かなければならないことができた。
あの病室で、自分に何が起きていたのか。
白石はしばらく創を見つめてから、助手席へ目を向けた。エマは創の右手を一度見て、静かに頷いた。
運転席からレオが声をかけた。
「で、行き先は決まったんスか?」
「丹後へ向かってくれ」
「了解っス。少し走るんで、シートベルト、もう一度確かめといてください」
ワゴン車が広い通りへ出た。雨ににじむ街灯が窓を横切り、京都の街が後ろへ流れていく。
創は端末を膝の上へ引き寄せた。石板の写真を拡大すると、再現された音に使われた部分が、小さな枠で示されていた。
聞いたのは、全体のほんの一部分だった。
「エマさん」
彼女が振り返る。
「この続きも、読み取れますか」
「やってみる。現物を調べれば、写真では分からなかったところも見えるはずだから」
創は画面の上へ指を滑らせた。枠の外にも、細かな溝がどこまでも続いている。
子どものころ、父は歌の途中で言葉を切り、創の顔を覗き込むことがあった。
何かを待つような、確かめるような顔だった。
眠りかけた創が目を開けると、父はいつも笑って、また初めから歌ってくれた。
その理由を、今なら尋ねられるかもしれない。
創は端末を両手で支え直し、父が歌わなかった、その先の溝へ目を凝らした。




