第34話 コンテナの中の特訓
貨物船のコンテナというものは、外から眺めているぶんにはただの鉄の箱だが、その中で何日も暮らすとなると、積み荷には気にならないことが次々と問題になった。
昼間は太陽に焼かれて空気がこもり、夜には壁際から冷えてくる。船が揺れるたびに床を通して振動が伝わり、どこかで金属の軋む音がした。換気のためにわずかに開けた隙間からは細い空が見えたが、そこを雲が横切ったところで、どこまで来たのかは分からなかった。
与那国を出てから四日目になると、創も寝袋を敷く場所や、荷物にぶつからず立ち上がる動きには慣れていた。それでも、目の前の電球を三十秒間点けておくことには、まだ慣れなかった。
「二十七・四」
レオが計器を見ながら時間を読み上げた。
床に固定した簡易机には、古い電球と電圧計、自作の制御基板が並んでいる。創はそこへ右手を添え、電球の弱い光が変わらないように意識を集中していた。
指定された明るさを三十秒間保つだけだと聞いた時には、それほど難しいことには思えなかった。与那国では周囲の設備に異常を起こすほどの電気を放ったのだから、小さな電球を一つ点けるくらいならできるはずだった。
実際に始めてみると、全力で《トール》を使うよりも厄介だった。少し気を抜けば光が強くなり、抑えようとすると今度は消えかける。これまでは電流を流すか止めるかを考えればよかったが、今はその間の、ごく狭い範囲に留まり続けなければならなかった。
「二十八・九」
創がゆっくり息を吐いた時、右手の中指がわずかに震えた。それに合わせるように電球が明るくなり、レオが電圧計へ顔を近づける。
「上がったッス」
「分かってる」
創は急いで出力を落とした。電球は元の明るさを通り越して暗くなり、一瞬だけ光を失った。
レオがストップウォッチを止め、表示を創へ向けた。
「二十九・二秒」
「あと〇・八秒じゃん」
「〇・八秒もあるッス」
「そういう時は励ますもんじゃないの?」
「数字に励ましはないッス」
少し離れた荷物の上で本を読んでいたエマが、顔を上げて笑った。
「レオ、今日ちょっと白石先生に似てきた」
「それは嫌ッス」
「聞こえてるぞ」
コンテナの奥から声が飛んでくると、レオは計器へ視線を戻した。創も笑いかけたが、右手に残る痺れが気になり、机の下で指を開いたり閉じたりした。
「もう一回」
「休め」
白石は手元の端末を閉じ、荷物の間を抜けて近づいてきた。
「まだできます。あとちょっとなんですよ」
「できるかどうかは聞いてない。手を出せ」
差し出した右手を取り、白石は指先から前腕まで確かめていった。痛みはないと答えると、続けて痺れる場所を尋ねられた。創が中指と薬指を示すと、白石はその二本を軽く押さえた。
「さっきより増えてるな」
「でも、動きますよ」
創は指を何度か曲げてみせたが、白石は手を離さなかった。
「動くから問題ない、という判断はやめろ。さっきは脈も一度飛んだ」
創は空いている手を胸へ当てた。今はいつもと変わらず鼓動していて、訓練中にも胸の違和感はなかった。
「全然気づかなかった」
「だから、自分の感覚だけで続けるなと言ってる」
レオが電球につながる配線を外した。もう一回と頼んでも戻してはくれそうになく、創は机から少し身体を離した。
与那国を離れてから、白石には何度も同じことを言われていた。能力の制御が上達しても、その出力に身体が耐えられるとは限らない。《プロメテウス》を使えば代謝が上がり、《ヘルメス》は神経や循環器へ負担をかける。《ゴルゴン》で変化する骨や結合組織に加え、《トール》では心臓の電気活動にまで気を配らなければならなくなった。
できることが増えるたびに、白石から尋ねられる症状も増えていた。
「三十秒できるようになったからって、心臓まで丈夫になるわけじゃないぞ」
「じゃあ、どうすればいいんです」
「まず、出力を上げて解決しようとするな」
「それじゃセトに勝てない」
白石は創の手を離し、少し間を置いて顔を見た。
「またそこへ戻るのか」
創は答えず、机の上の電球へ目を落とした。
訓練を始めるたびに、与那国での戦いを思い出した。セトは創の動きに追いついていただけでなく、次にどこへ力を入れるのかまで分かっているようだった。《ゴルゴン》で身体を覆えば接合部を狙われ、逃げようとすれば進む先へ回り込まれた。攻撃を当てるつもりで踏み込んだ時には、その動作が終わる前に崩されていた。
もっと速く動ければ、もっと強い力を出せれば、あんな負け方はしなかったのではないか。《トール》を得てからも、その考えは離れなかった。
「お前は与那国で何度も出力を上げただろ。それで、セトの対応は変わったか?」
白石に尋ねられ、創は顔を上げた。
「でも、もっと速くなれば――」
「どこまで速くするつもりだ。その前に身体が壊れたら、どうする」
創が口を閉じると、白石は電球を指した。
「これを使ってるのは、三十秒点けられるかどうかを競うためじゃない。必要な量を出して、そこで止める練習だ。強くできることと、加減できることは別だぞ」
「それで、セトに近づけるんですか」
「お前は何でもすぐ戦いに結びつけるな」
「今までずっと戦ってきたんだから、仕方ないでしょ」
白石は創の向かいに腰を下ろした。机の上から電球を取り、ガラスの内側を確かめるように傾けた。
「熱と速さと硬さと電気が、誰かを倒すために一式揃ってると思うか?」
「じゃあ、何なんです」
「普通の身体にもある機能から考えてみろ。体温を保つことも、神経が信号を伝えることも、身体を傷から守ることも、生きるために必要だろう。お前に起きている変化も、その延長にあると考えた方が自然なんだ」
創は白石が机へ戻した電球を見た。さっきまで弱く光っていた小さなガラス球は、今は天井の照明を映しているだけだった。
「能力じゃなくて、機能ってことですか」
「私はそう考えてる。戦いに使えば武器になるが、使い道がそれしかないわけじゃない。古代文明と関係しているなら、なおさらだ。そこに暮らしていた連中だって、毎日殺し合っていたわけじゃないだろう」
「先生、たまにすごく夢のないこと言いますよね」
「夢で心臓は守れない」
「そういうところです」
エマが本を閉じ、膝の上へ置いた。
「でも、セトがやってたことも、少し似てるのかも」
「どこが?」
「創の装甲を全部壊したわけじゃないでしょう。動きを止めるのに必要な場所を狙ったんじゃない?」
創は右腕へ視線を落とした。与那国でセトに破られた箇所を思い返すと、厚く覆った骨装甲の中央ではなかった。腕を動かすための継ぎ目や、覆いの薄い部分を、ほとんど迷わず選ばれていた。
あの時は、そこを守るためにさらに装甲を厚くしようとした。その分だけ動きが鈍くなり、次の攻撃へ対応するのが遅れたことも覚えている。
「……じゃあ、これを続ける意味はあるんですね」
創が電球へ目を戻すと、白石は頷いた。
「休んでからな」
「どれくらい?」
「最低三十分。痺れが残っていれば、もっとだ」
「長いな」
「一時間にするか?」
創は机から離れ、寝袋の横へ腰を下ろした。レオが笑いながら水のボトルを寄越したので、それを受け取って壁にもたれる。
「素直ッスね」
「合理的判断です」
「そういうことにしとくッス」
*
休息を挟み、手の症状が治まったことを確かめてから、白石は別の課題を用意した。
机に置かれたのは、中央に小さな黒い円を描いた白い紙だった。円の直径は五ミリほどしかなく、創はそれを裏返してから、白石の顔を見た。
「これを燃やすんですか?」
「燃やしたら失敗だ。黒い部分だけ四十二度にしろ」
「周りは?」
「なるべく温めるな」
白石は紙を元に戻し、黒い円の周囲を指で示した。
「中心は四十一・五から四十二・五度まで。そのすぐ外側は、今より二度以上上げない。レオ、温度を見ていてくれ」
測定器を渡されたレオは、紙の表面へ向けて角度を調整した。創はその小さな円を見つめ、電球の方がまだ簡単だったのではないかと思った。
「これ、面白そうッスね」
「見る側はね」
創は紙の前へ右手をかざし、《プロメテウス》へ意識を向けた。熱を生み、それを手へ集める感覚には慣れている。だが、いつものように熱を伝えると、黒い円だけでなく、その周囲まで一緒に温まってしまった。
「中心四十七。周り三十四ッス」
創は手を引き、白石を見た。
「駄目ですね」
「分かってるなら、次は下げろ」
二回目は慎重になりすぎ、三十八度から上がらなかった。三回目には周囲の温度を抑えられたものの、中心が四十三・一度まで上がった。
レオは惜しいと言ったが、創には、何を変えたことで結果が違ったのかがはっきりしなかった。うまくできそうな感覚だけを頼りに繰り返しても、次に同じことができるとは思えない。
「前より下手になった気がする」
創が右手を下ろすと、白石は測定された温度を紙の端へ書き留めた。
「今までは、そこまで細かく確かめていなかっただけだろう」
「それ、慰めになってます?」
「慰めてほしいのか?」
「……もう一回やります」
四回目はわずかに高かったが、五回目には中心が四十一・八度で止まった。周囲の温度もほとんど変わらず、レオが表示を白石へ向ける。
「これ、いけてるんじゃないスか」
白石は測定器を覗き込み、創へ頷いた。
「同じように、もう一回」
「成功でいいでしょ」
「次もできるか確かめるんだ。偶然うまくいっただけでは、必要な時に使えない」
創はため息をついたが、紙へ手を戻した。自分でも、さっきの加減をもう一度確かめたかった。
これまでは危なくなるたびに力を強め、その結果として痛みが出ても、目の前の危険を切り抜ける方を優先してきた。そうしなければ生き残れなかった場面もあったが、加減する余地がなかったのか、それとも加減する方法を知らなかったのかは、考えたことがなかった。
創は先ほどよりゆっくり熱を生み、黒い円の位置から意識が逸れないようにした。紙全体を温めようとすると、また同じ失敗になる。手のひらへ集まる熱が強くなりすぎる前に抑え、レオの声を待った。
「四十一・六」
わずかに熱を足すと、数値は四十一・九まで上がった。創はそこで加減を変えず、紙へ向けた手を保った。
「四十二・〇」
「そこで止めろ」
白石の声に合わせて、創は熱を送るのをやめた。レオは数秒間そのまま測定器を向け、周囲の温度を確認してから親指を立てた。
「今のは、きれいにできてるッス」
創は右手を下ろし、白石の顔を窺った。白石は記録を書き足していたが、視線に気づいて顔を上げる。
「何だ」
「今のは成功ですよね」
「ああ。今の加減を覚えておけ」
「もう少し褒めてもいいんじゃないですか」
白石は紙へ目を戻しかけ、少し考えてから言った。
「前よりマシだ」
創がエマを見ると、彼女は笑いをこらえながら頷いた。
「たぶん、かなり褒めてる」
「分かりにくいな」
白石は聞こえないふりをして測定器をレオへ返した。創は紙の黒い円を見下ろし、先ほど熱を止めた時の感覚を、忘れないうちにもう一度思い返した。
*
船旅の六日目は、朝から海が荒れていた。
壁にもたれていても身体がずれ、頭上の照明が揺れるたびに、積み上げた荷物の影が動いた。机の上の器具はレオが固定していたが、水のボトルまでは押さえきれず、何度か床を転がってきた。
《トール》の訓練を始めて二十分ほど経った頃、白石が創の右手を見て中止を告げた。
「今日は終わりだ」
「まだ始めたばっかりですよ」
「指が震えてる」
「船が揺れてるからでしょ」
「なら、両手を並べてみろ」
創は机から手を離し、左右の手を前へ出した。船の揺れに合わせて腕は動いていたが、右の中指だけは、それとは違う細かな震えを繰り返していた。
左手と見比べているうちに、言い返す気がなくなった。
「……分かりました」
椅子を離れて座り直すと、エマが水を差し出した。創は礼を言って受け取ったが、レオが器具を片づけ始めるのを見ると、つい口が動いた。
「セトなら、こんなことで休まないと思う」
エマはすぐには返事をしなかった。レオも片づける手を少し止めたあと、配線をまとめる作業へ戻った。
創はボトルの口をつけたまま、言わなければよかったと思った。皆が訓練を手伝ってくれていることも、白石が止める理由も分かっていた。それなのに、机の上から器具がなくなると、その分だけセトに追いつく機会が減ったように感じてしまう。
「別に、焦ってるわけじゃないです」
「そうか」
白石は否定もせず、創の隣に腰を下ろした。その返事がかえって居心地悪く、創はボトルの蓋を閉めた。
「……いや、焦ってます」
船体へ波が当たり、床の下から低い音が響いた。創は揺れが収まるのを待ち、右手を膝へ置いた。
「次に会った時、また何もできなかったらどうしようって思うんです。与那国では、持ってるものを全部使ったのに、あいつはまだ余裕があった」
エマは水のボトルが転がらないように荷物の間へ挟み、創の方へ身体を向けた。誰も途中で口を挟まなかったので、創はそのまま続けた。
「《トール》が使えるようになって、少し安心したんです。これで、前にはなかったものが一つ増えたから」
「次は勝てそうか?」
白石の声に責めるような響きはなかった。創は少し考えたが、頷くことはできなかった。
「分かりません。まだ、うまく使えてないし」
「その状態で別の能力が増えたら、どうだ」
創は膝の上の指を見た。中指の震えは小さくなっていたが、完全には収まっていない。新しい力を得ても、それを使うのはこの身体なのだと、目の前の動きに言われているようだった。
「……同じかもしれないです」
「少なくとも、増えれば安心できるとは限らない。今あるものを使うだけでも、これだけ確かめることがあるんだ」
白石は机に残された電球へ目を向けた。
「セトのことが頭から離れないなら、あいつに何をされたかを考えろ。力の差だけで片づけるな。お前が大きく動く間に、あいつは何をしていた?」
創は与那国でのやり取りを思い返した。自分が腕を振り上げた時、セトは身体ごと逃げたわけではなかった。攻撃の軌道からわずかに外れ、創が次の動作へ移る前に、守りの薄い場所へ手を伸ばしていた。
「敵から習えってことですか」
「お前が対処できなかった動きだろう。調べる価値はある」
「それ、悔しいね」
エマに言われ、創は顔を上げた。
「めちゃくちゃ悔しい」
声に出すと、少し笑えた。白石もそこで話を切り上げ、床を転がってきた空の容器を拾ってレオへ渡した。
創は電球を眺めた。三十秒間、同じ明るさを保つだけの訓練に、何度も失敗している。だが、その失敗の仕方は少しずつ分かるようになっていた。焦って戻そうとすれば下げすぎるし、終わりが近いと思えば指先への注意が緩む。
セトとの戦いでも、自分は似たことをしていたのかもしれなかった。押し返されるたびに出力を上げ、次の動きを急ぎ、そのたびに対応する余地を失っていた。
創は膝の上で右手を開き、震えが治まるまで、そのまま休んだ。
*
翌日、創は初めて、電球の明るさを三十秒間ほとんど変えずに保った。
レオが終了を告げても、すぐには手を離さなかった。電流をゆっくり落とし、光が消えたことを確かめてから、机の上へ右手を置いた。
「三十・〇。途中も範囲内ッス」
レオはストップウォッチと計器の表示を見比べ、記録へ丸をつけた。創は指を一本ずつ動かしてみた。痺れも震えもなく、前腕に残っていた妙な張りも感じなかった。
白石が手首を取り、脈と手の状態を確認した。創はその間、結果を急かさずに待った。
「問題ない」
「じゃあ、成功?」
「ああ」
今回は条件がつかなかった。創が笑うと、レオは記録をこちらへ向け、エマも読んでいた本から顔を上げた。
「やっとッスね」
「もうちょっと言い方ない?」
「じゃあ、次も同じようにお願いします」
「先生が二人になってる」
白石は何も言わず、創の手を離した。すぐに次を始めたくなったが、創は自分から椅子を引き、水のボトルへ手を伸ばした。
貨物船は変わらない振動を床へ伝えながら、西へ向かって進んでいた。目的地まではまだ日があり、机の上には同じ電球と、黒い円を描いた紙が残っている。
創は休憩が終わったら、もう一度同じことを試すつもりだった。今度は三十秒を越えるためではなく、さっきの加減で、もう一度できるかを確かめたかった。
船がポートサイドへ近づいたのは、コンテナ生活を始めて十二日目の朝だった。
換気用の隙間を覗いていたレオが、急に背筋を伸ばした。外の様子を確かめるように顔の角度を変え、それから寝袋の方を振り返る。
「陸ッス」
創は上半身を起こした。船の振動はいつもと変わらなかったが、耳を澄ますと、機関の低い音に混じって汽笛が聞こえた。
「もう見える?」
「見えるというか、普通に港ッス。クレーンも建物もあるし、船がめちゃくちゃ多い」
エマが先に立ち上がり、荷物の間を抜けてレオの横へ向かった。創も寝袋から出て後を追ったが、外を覗ける隙間は一人分しかなかった。レオと交代したエマの肩越しに顔を寄せても、見えるのは明るい空の一部だけだった。
「ちょっと、押さないで」
「エマ、長いよ」
「十二日ぶりの陸なんだから、少しくらい見せて」
「俺も十二日ぶりなんだけど」
後ろで白石が荷物をまとめながら、呆れたように息を吐いた。
「着く前に片づけろ。降りる時になって慌てるぞ」
「先生は見なくていいんスか」
「そこを空けたらな」
三人は顔を見合わせ、少しずつ場所を譲った。
創がようやく外を覗くと、岸沿いに並ぶクレーンの腕が見えた。その下には背の低い建物が続き、手前を別の船がゆっくり横切っていた。遠くに見える作業車は小さかったが、それが道路を曲がって建物の陰へ消えるまで、創は目で追ってしまった。
十二日間、同じ壁と荷物ばかり見ていた。船の外にも人が暮らし、自分たちと関係のない用事で動いていることが、妙に新鮮だった。
場所を空けて荷物へ戻る頃には、船の速度が落ち始めていた。床から伝わる振動が変わり、机の脚に触れていた空の容器が細かく音を立てる。創はそれを拾い、袋へしまってから、宗助のフィールドノートを取り出した。
《エジプト。ギザ。地下オシリス回廊》
その下には、与那国を出てから何度も読み返した一文がある。
《雷を得たなら、眠る道へ流せ。閉ざされた門は、お前の到着を待っている》
以前は手掛かりにすることさえ難しかったが、今は少なくとも「雷」が何を指しているのかは分かる。創はノートを押さえていた右手を開き、指先へ意識を向けた。電気を生み出す感覚はすぐに浮かんだものの、実際に流すことはせず、そのまま手を下ろした。
白石に止められたからではなく、今ここで使う理由がなかった。
ノートを鞄へ戻すと、レオは最後まで机に残していた制御基板を布で包んでいた。創も隣に座り、電球が割れないよう、空いた箱へ詰めるのを手伝った。
*
港湾区画の外へ出た頃には、太陽が高くなっていた。
日差しに当たると、シャツの上からでも肩が熱くなった。海と油の匂いに、砂埃や排気ガスが混じっている。荷物を運ぶ車が通り過ぎるたびに乾いた風が起こり、創は目を細めて顔を背けた。
アルゴー号の引き取りまでには、まだ少し時間があった。日陰で待てる場所を探して歩いていると、エマが足を止めた。
「待って」
振り返ると、彼女は自分の袖へ鼻を近づけていた。そのあとで創とレオを順に見たので、創もつられてシャツの襟をつまんだ。
「私たち、臭くない?」
創は襟へ鼻を寄せ、すぐに離した。コンテナの中では気にならなくなっていた汗の匂いが、外へ出ると自分でも分かった。
「……確かに」
「これは着替えだけじゃ無理ッスね」
レオも困った顔で襟元を扇いだ。白石は三人から少し離れた日陰へ入り、荷物を足元へ置いた。
「十二日もあの中にいたんだ。仕方ないだろう」
「先生も同じです」
「分かってる」
「じゃあ、シャワーを浴びられる場所を探しましょう」
エマは相談というより、予定を確認するような口調で言った。創は道路の向こうへ目をやり、それから彼女へ向き直った。
「カイロまで行ってからじゃ駄目?」
エマは答えず、創を見た。髪をまとめ直す手が止まり、その指に引っかかった毛先が汗で首筋へ張りついている。
創は自分の襟元へもう一度目を落とした。
「……先に浴びようか」
「賛成ッス。車にもこの匂いを持ち込みたくないんで」
白石は端末で時刻を確かめ、近くの宿を探し始めた。車を引き取ってから休息を取り、カイロへ向かうのは翌朝にすることになった。
*
長距離トラックの運転手が利用するその宿は、壁に何度も塗り直した跡があり、廊下の空調からは絶えず低い音がしていた。シャワーの湯量も安定せず、創が頭を洗っている途中で急に冷たくなった。
それでも、もう一度湯に戻るのを待つくらいは苦にならなかった。身体を拭くだけで済ませていた間に、汗や塩気がどれほど残っていたのか、流してみて初めて分かった。首の後ろへ湯を当てていると、肩に入っていた力まで少しずつ抜けていった。
着替えて部屋へ戻り、ベッドに腰を下ろすと、そのまま仰向けになった。背中が沈み、床の硬さも船の振動も伝わってこない。少しだけ休むつもりで目を閉じたところへ、扉を叩く音がした。
「創、もう終わった?」
「終わった」
「ご飯に行くって」
創は返事をして起き上がり、扉を開けた。
廊下に立つエマは、まだ少し濡れた髪を肩へ下ろしていた。いつもは邪魔にならないようにまとめているので、それだけで見慣れない姿に思えた。彼女が顔へかかった髪を払うと、石鹸の匂いがかすかに届いた。
「何?」
尋ねられて、創は扉の取っ手から手を離した。
「いや、何でもない」
「じゃあ行こう。レオたち、先に下りてる」
エマが歩き出したので、創も部屋を出た。隣に並ぶとまた同じ匂いがして、つい、思ったことがそのまま口に出た。
「十二日ぶりに、人間らしい匂いがする」
エマがこちらを向いた。
「それ、褒めてる?」
「たぶん」
「たぶん?」
「いや、いい匂いだなって意味で」
言い直した方が恥ずかしかった。創が視線を階段へ向けると、エマはしばらく黙ったあと、小さく笑った。
「創も、さっきよりはいいと思う」
「それはどうも」
階段へ差しかかるまで、創は何を話せばよいか思いつかなかった。エマは特に困った様子もなく、壁に掛かった食堂の案内を見ながら下りていく。
船では毎日顔を合わせていたのに、髪形と石鹸の匂いが変わっただけで、横を歩くことに気を使っている。自分でもおかしかったが、気づいたからといって落ち着けるわけではなかった。
*
一階の食堂では、白石とレオが壁際のテーブルに座っていた。
運ばれてきた皿には、焼いた肉と豆の煮込み、香辛料の効いた米が盛られていた。平たいパンをちぎると、まだ内側に温かさが残っている。レオは肉を一口食べ、しばらく何も言わずに噛んでから、大きく息を吐いた。
「生き返るッス」
「分かる」
創も自分の皿を引き寄せた。保存食がまずかったわけではないが、毎日似たものを食べていると、食事は空腹を止めるための作業になっていた。今は皿のどれを先に食べるか、少し迷うくらいの余裕があった。
向かいに座ったエマが、髪を耳へ掛けてパンを取った。創はその動きへ目を向け、自分が見ていることに気づいて、慌てて豆の煮込みへ視線を戻した。
「創、具合でも悪いんスか?」
レオに尋ねられ、創は顔を上げた。
「何で?」
「いつもなら、もっと先に皿が空いてるんで」
「今日は味わってるんだよ」
白石が料理を口へ運びながら、一度だけ創を見た。何も言わずに皿へ戻ったが、その顔が気になった。
「先生、何ですか」
「何も言ってないだろ」
「今、何か思ったでしょ」
「食欲はあるようだから、心配はいらないと思っただけだ」
白石は平然と答えた。レオが創とエマを見比べ、何かに気づいたように口元を緩めたので、創はそれ以上尋ねるのをやめた。
「何の話?」
エマに聞かれても、うまく説明できなかった。
「俺の食べる速さの話」
「船の中では速かったよね」
「だから、今日は味わってるんだって」
エマが笑い、レオもこらえきれずに笑った。創はパンをちぎり、二人を見ないように煮込みへ浸した。
食堂の入口では、作業着姿の男たちが空いた席を探していた。厨房から皿の触れ合う音が聞こえ、外を大型車が通ると窓ガラスが少し鳴った。誰も創たちに注意を向けず、店員も空になった皿を下げる時に声をかけるだけだった。
食事の途中で逃げ出す必要も、荷物を抱え直す必要もなかった。レオがもう一皿頼もうか迷っている間、創は椅子の背へ身体を預け、残っていた水を飲んだ。
父を追い始めた頃には、この三人とエジプトで夕食を食べることになるとは思っていなかった。向かいではエマがレオへ料理を取り分け、白石が食べすぎるなと言いながら、自分も残りのパンへ手を伸ばしていた。
創は空いた自分の皿を少し脇へ寄せ、追加の料理を置く場所を作った。
*
食事を終えると、四人はテーブルの隅へ地図と宗助のノートを広げた。
翌朝にはカイロ方面へ出発する。港まで辿り着いたことで、ノートに記されたギザは、ようやく道路でつながる目的地になっていた。レオが端末で道順を調べる隣で、エマは《地下オシリス回廊》という文字を見つめていた。
「この名前にも、意味があると思う」
「オシリスって、死者の神だっけ?」
創が尋ねると、エマは頷き、テーブルにあった紙ナプキンを一枚取った。
「死と復活、それに冥界の神として知られているけど、神話では、もともと王だったの。妻がイシスで、弟がセト」
書きかけの名前を見て、創はコップへ伸ばした手を止めた。レオも端末から顔を上げる。
「セトって、あの?」
「同じ名前ね。神話の中では、セトが兄のオシリスを殺す」
エマは二つの名前を線で結んだ。創はその線を見ながら、続きを待った。
「いくつかの形で伝わっているけど、有名なのは、棺へ閉じ込めたあと、遺体をばらばらにして各地へ散らしたという話。その身体をイシスが集めて、再び一つにする」
「それで、オシリスが復活するのか」
「そう。ただ、元の王として暮らし直すというより、冥界を治める存在になる」
創は紙に書かれたセトの名前から、宗助のノートへ目を移した。偶然かもしれないが、聞き流すには気になる一致だった。
「セトの名前って、父さんがつけたんですか」
白石はノートへ目を落としたまま、少し考えた。
「そこまでは知らん。ただ、宗助がこの神話を知らなかったとは思えない」
「じゃあ、意味があってつけた?」
「それはまだ分からない。誰がつけたかも確かめていないだろう」
創は椅子へ座り直した。白石の言うことはもっともだったが、神話の中のセトが兄を殺すという部分が、妙に耳に残った。
エマは紙ナプキンをノートの脇へ置いた。
「名前のことは、覚えておこう。それとは別に、宗助がここをオシリス回廊と呼んだ理由も気になる。身体を集めて元へ戻す話が、この場所と関係しているのかもしれない」
「次の石板も、そういうものなんスかね」
レオに言われ、創は自分の右腕へ触れた。
「再生とか?」
口にした途端、それまでよりはっきりと期待が湧いた。能力を使うたびに傷む身体を治せるのなら、白石が確かめている症状も、いずれ気にしなくてよくなるのかもしれない。
白石は創の手元を見てから、ノートを少し引き寄せた。
「期待するのはいいが、まだ名前から考えているだけだぞ」
「分かってます」
「それに、再生に関係していたとしても、細胞が増えれば治るわけじゃない」
創は腕から手を離した。
「傷が塞がっても?」
「塞がった部分が、元と同じように働くとは限らない。筋肉には線維の向きがあるし、神経にはつながる先がある。血管や骨も、必要な場所に作られなければ困るだろう」
白石は紙ナプキンの余白へ短い線を何本か描き、その一部を別の方向へ伸ばした。
「量だけ増やしても、配置が違えば機能は戻らない。場合によっては、残っている正常な組織まで邪魔する」
「じゃあ、元通りにするには、元の形が分かってないといけない?」
エマが尋ねると、白石は頷いた。
「何を、どこまで戻すかを決める仕組みが必要になる」
「設計図みたいなものッスか」
「そう考えると分かりやすいな。もっとも、その図をどう読んで、どう身体を作り直すのかという問題もある」
創は白石が描いた線を見た。熱を強くすれば紙が狙った温度になるわけではなかったのと同じように、再生も速ければよいという話ではないらしい。
それでも、身体を治せるかもしれないという期待は消えなかった。白石の説明を聞いてもなお、その仕組みが自分の中で正しく働くところを想像していた。
*
部屋へ戻ってからも、創はなかなか眠れなかった。
ベッドは船の床よりずっと柔らかく、横になれば身体は楽だった。それなのに、目を閉じると食堂で聞いた話へ戻ってしまう。《トール》を使ったあとに痺れが残らず、《ヘルメス》で無理をしても傷んだ部分を治せるとしたら、どれだけ違うだろう。
次にセトと会った時にも、今より長く動けるかもしれない。
そこまで考えて、創は枕の上で顔を横へ向けた。船の中で何度も話したはずなのに、新しい可能性を聞くと、また同じところへ考えが向かっていた。
喉が渇き、起き上がって共同スペースへ出た。窓際の椅子にはエマが座っていた。乾いた髪を簡単にまとめ、膝の上にノートを開いている。
「眠れない?」
「そっちも?」
「少しだけ。さっきの続きを見てた」
創は水を注ぎ、向かいの椅子へ座った。窓の外をトラックが通ると、壁に光が流れ、エマの手元を一瞬明るくした。
しばらくして、彼女がノートを閉じた。
「次の石板、怖い?」
創はコップを両手で持ち、どう答えればよいか考えた。
「前は、使ったら身体がどうなるのかが怖かった」
「今は違う?」
「それもある。でも、今は何も増えない方が怖い気がする」
エマは黙って待っていた。創は水を一口飲み、コップを膝の上へ下ろした。
「船でやってたことが無駄だとは思ってないよ。少しは分かってきたと思う。でも、次に何かあった時、今のままで足りるのかって考えると、分からなくなる」
「だから、次の能力が欲しい?」
「うん」
答えてから、創は右手の指へ目を落とした。
「……欲しいけど、使うのが怖くなくなったわけじゃない。一つ増えるたびに、自分の身体なのに、知らないことが増えるから」
エマは閉じたノートの角を指で押さえていた。しばらくして顔を上げ、創を見た。
「私も怖いよ。創が強くなるのを見ていて」
創が何も答えられずにいると、彼女は言葉を足した。
「助けてもらったことは分かってる。能力がなかったら、ここまで来られなかったと思う。でも、できることが増えるたびに、もっと危ないところまで行けるようになるでしょう」
創はコップを机へ置いた。エマはその動きを見ながら続けた。
「そのうち、私たちが一緒に行けない場所でも、一人で行こうとするんじゃないかって思う時がある」
「そんなつもりはないよ」
「今はね」
静かに返されると、創はその先を言えなかった。危険な場所で仲間を待たせ、自分だけで進もうと考えたことがなかったわけではない。その方が安全だと思えば、また同じことを選ぶかもしれなかった。
「俺も、どこまで変わるのかは分からない」
創はしばらく考えてから言った。
「でも、自分じゃなくなるつもりはないよ」
「それ、つもりで何とかなる?」
「分かんない」
エマが小さく笑ったので、創も少しだけ肩の力を抜いた。
「頼りないなあ」
「正直に答えてるんだけど」
「それは分かる」
廊下の奥で扉が閉まり、誰かの足音が階段へ遠ざかった。創は水を飲み、昼間、エマと並んでその階段を下りた時のことを思い出した。
髪がいつもと違うだけで落ち着かなくなり、食堂では白石やレオの顔色を気にしていた。あの時は気まずかったが、今はそんなことを考えていた自分に少し安心した。能力のことを忘れていた時間が、今日にもちゃんとあった。
エマは膝のノートを脇へ置き、創へ向き直った。
「じゃあ、一つだけ約束して」
「何?」
「戻ってきてね」
創はすぐには頷かなかった。
ギザから生きて帰るという意味だけではないのだろう。今日のように同じテーブルで食べ、くだらないことでからかわれたり、こうして眠れずに話したりするところへ戻ってきてほしいのだと、創は受け取った。
次の石板で何が起きるかは分からなかったが、戻りたいと思う場所なら、今は分かった。
「うん。戻ってくる」
エマは創の顔を見てから、膝のノートを持って立ち上がった。
「じゃあ、明日寝坊しないようにしないと」
「起こしてくれるんじゃないの?」
「レオに頼んでおく」
「それはうるさそうだな」
二人は使ったコップを片づけ、部屋へ戻った。創はベッドに入ると、翌朝着る服の横へ鞄を寄せた。ノートが入っていることを確かめてから、今度は明かりを消した。
*
翌朝、アルゴー号はカイロへ向かう道路を走っていた。
港町の建物が後ろへ遠ざかると、窓の外に見える空が広くなった。道沿いには倉庫や低い建物が途切れながら続き、その間に乾いた土地が広がっている。対向車が巻き上げた砂埃を避けるように、レオが換気を切り替えた。
「やっぱり、自分の車はいいッスね」
ハンドルを握る横顔は、船の中にいた時よりも機嫌がよさそうだった。創は後部座席から身を少し乗り出した。
「コンテナより、アルゴー号が恋しかった?」
「そりゃそうッス。あそこ、ハンドルついてないんで」
「そこが大事なんだ」
「行き先を自分で決められるのは重要ッスよ」
助手席の白石は端末から目を上げ、前方の分岐を示した。レオが頷いて車線を移ると、エマは膝の地図へ現在地を書き込んだ。
創は鞄から宗助のノートを出しかけ、いったん手を止めた。隣のエマが気づいてこちらを見たので、何でもないと首を振り、窓の外へ目を向ける。
ノートに書かれた文は、もう覚えていた。ギザの地下に何があるのか、父がなぜそこへ向かわせるのかは、読み返しても変わらない。
今は道路の先に目を向けながら、昨夜、自分がした返事を覚えておこうと思った。
車が大きく揺れ、エマの膝から地図が滑りかけた。創が端を押さえると、彼女は礼を言い、二人の間へ広げ直した。カイロからギザへ続く道を、エマの指がゆっくりと辿っていった。




