【第5部】プロローグ 生命の冒涜
縫合した傷が開いたのは、出血が止まってから十一分後だった。
処置台に横たわる男の左前腕は、血の気を失ったまま不自然に膨らんでいた。血流画像には、傷の周囲へ新しい血管が伸びていく様子が映っている。その下では筋束が本来の走行を外れ、互いの隙間へ入り込むように増え続けていた。
ヴィクター・クロイツは眼鏡の位置を直し、断層像を拡大した。縫合した直後には揃っていた傷の縁が、内側から押されてずれ始めている。
「局所血流量、投与前の四・三倍。細胞増殖率も上昇を続けています」
助手の報告を聞きながら、クロイツは隣の画面へ検査結果を呼び出した。DNAの損傷は修復され、細胞死も抑えられている。従来の処置では増殖を止めていたはずの細胞が、今回はその段階を越えて分裂を続けていた。
どれも、これまでの実験で得ようとしてきた変化だった。しかし、処置台の上にある腕は、投与前よりも人間の形から遠ざかっていた。
「筋膜下を出してくれ」
助手が画像を切り替えると、傷の底で増えた筋線維が映し出された。線維は正常な方向へ伸びずに隣の筋束を巻き込み、一部では、絡み合った組織が自分自身を締めつけている。
クロイツがその箇所へ指を寄せた時、縫合糸の一本が皮膚を裂いて外れた。開いた傷口から、灰白色の硬い組織が覗いていた。濡れた肉の間を押し広げ、先ほどまで何もなかった場所へせり出してくる。
「骨形成です。予定領域を越えています」
助手は画面と傷口を見比べ、輸液ポンプへ手を伸ばした。
「投与を止めろ」
ポンプが停止しても、腕の膨らみは収まらなかった。肘の内側に新しい隆起が生じ、それに引かれるように手首が曲がり始める。助手が腕の位置を直そうとしたが、クロイツは手で制した。どこまでが正常な組織なのか、画像を見ても判別しにくくなっていた。
処置台の男が目を開けた。しばらく天井を見つめたあと、顔を横へ向け、自分の左腕へ視線を落とす。
「……先生。手が、動かないんです」
男は指を動かそうとしているようだった。肩には力が入ったが、処置台に置かれた手は、不自然に曲がったまま動かなかった。
クロイツは助手へ鎮静薬の追加を指示し、男の顔へ視線を移した。
「腕を動かさないでくれ。今は組織が不安定だ」
「治るって……言いましたよね」
男はクロイツを見ていた。数日前、この研究区画へ運び込まれた時にも、同じような目をしていた。説明された内容を十分に理解しているわけではなく、それでも白衣を着た人間が自分を助けてくれると信じようとしていた。
クロイツは返事をせず、追加された薬剤が流れる管を確かめた。やがて男の肩から力が抜け、瞼がゆっくりと下りていく。助手が声をかけても、もう答えはなかった。
呼吸が落ち着いたことを確認してから、クロイツは再び左腕へ目を向けた。眠った男の身体の上で、腕の形だけは変わり続けていた。
*
ギザ台地の地下深くに設けられた研究区画には、外の明るさが届かなかった。通路も処置室も同じ照明に照らされ、壁の時計を見なければ、地上が昼なのか夜なのかも分からない。
アダム・ジェノミクスが持ち込んだ機器は鋼鉄製の枠に固定され、配線と配管がその間を通っていた。設備の隙間からは、光沢のない黒い石壁が見える。新しい装置をいくら運び込んでも、古い地下構造物の一部を借りているという印象は消えなかった。
クロイツは観察室へ戻り、先ほどの実験記録を開いた。処置台の男は、冷却槽への移送に向けて準備が進められている。移送前の確認項目を承認すると、画面を投与直後の画像へ切り替えた。
三分後までは、修復は想定した範囲に収まっていた。傷の周囲に血流が戻り、失われた組織を埋めるように細胞が増えている。五分後から細胞密度が急激に上がり、七分後には、筋肉と周囲の組織を分けていた境界が崩れ始めていた。
その前後を何度か見直したが、増殖が収まる兆候はなかった。
細胞の生存率は高く、テロメアの短縮も抑えられている。DNA修復の指標にも、今回の変化を説明できる異常は見つからなかった。個々の細胞について調べるほど良好な数値が並ぶ一方で、それらが集まってできるはずの腕は、すでに機能を失っていた。
傷を塞ぎ、血管を伸ばし、骨や筋肉を作る反応そのものは起きている。ただ、それぞれの組織がどこまで増え、どの位置で止まるべきなのかが定まっていなかった。修復に必要な反応を促すたびに、残っていた正常な構造まで崩れていく。
「……また同じか」
クロイツは画像を止め、背もたれへ身体を預けた。
投与量を下げれば必要な修復が起きず、上げれば組織の形を保てなくなる。増殖を抑える処置を加えたこともあったが、その時は傷を塞ぐ働きまで止まってしまった。条件を変えて得られた記録は増え続けているのに、何年も同じ問題の前へ戻されていた。
右手の指を曲げると、関節に鈍い痛みがあった。左手で付け根を揉みながら眼鏡を外すと、端末の文字がぼやける。目の前では人間の細胞が常識を越える速度で増えているというのに、自分の手や目に起きている衰えを止めることすらできていなかった。
眼鏡を掛け直した時、机の端に置かれた古い写真が目に入った。
白石とクロイツ、それに神代宗助が並んで写っている。三人とも今より若く、背景のホワイトボードには、《SENESCENCE》という文字が残っていた。細胞老化について、まだ互いの考えを同じ机で話し合っていた頃の写真だった。
宗助だけはカメラを見ていなかった。机に開いたノートへ片手を置き、誰かに呼ばれたように横を向いて笑っている。何がそんなに面白かったのか、クロイツにはもう思い出せなかった。
覚えているのは、あの日の実験も失敗していたことだった。
クロイツが考えられる原因を並べたあと、宗助は少し黙ってから、別の問いを返した。聞いた時には、今話している問題と何の関係があるのかと思った。それでも説明を続けるうちに、自分が最初から疑わずにいた条件へ目を向けることになった。
宗助と仕事をしていると、そういうことが何度もあった。翌日には自分も同じ考えへ辿り着けたように思えるのに、その場で最初に口にするのは、いつも宗助だった。
クロイツは写真を手に取り、しばらく眺めてから机へ伏せた。
「君なら、ここからどうする」
観察室には機器の作動音が続いていた。クロイツは止めていた画像を再生し、組織の境界が崩れる直前まで戻した。
*
数時間後、極東の海上施設から優先通信が届いた。
クロイツは実験記録を閉じ、与那国海底施設の識別番号が付いた報告を開いた。設備の損傷や区画の閉鎖について記された項目を送り、最後に添えられた一文で指を止める。
《対象に新たな能力発現を確認》
添付映像には、崩れた足場と、その上に立つ二人の姿が映っていた。傷だらけの神代創の前に、セトがいる。画面の揺れが収まるのを待ち、クロイツは再生速度を落とした。
セトが手を伸ばした直後、創の身体に青白い光が走った。最初に見えたのは小さな火花だったが、続く場面では腕から周囲へ放電が広がり、近くの設備に異常が起きている。
クロイツはそこで映像を止め、創の足元と背後を拡大した。電源設備へつながるものは見当たらず、近くの配線から電流が流れ込んだ様子もなかった。少し前まで巻き戻して確認しても、放電は創の身体を起点としていた。
もう一度だけ同じ箇所を再生してから、クロイツは別の資料を呼び出した。
神代宗助が残した古い研究記録だった。生体膜の模式図と、細胞間に生じる電位についての書き込みがあり、その隣に古代遺跡の回路が描かれている。以前に読んだ時には結びつけられなかった二つの図を、今度は与那国の映像と並べて見た。
欄外には、宗助の短い書き込みが残っていた。
《第四の発現と、門の応答を照合すること》
クロイツはその一文を読み返した。創の身体を走る青白い光が、隣の画面で繰り返し再生されている。
やがて映像と研究記録を端末へ転送すると、クロイツは席を立ち、研究区画の奥へ向かった。
*
仮設通路の終点では、巨大な黒い扉を照明が照らしていた。手前に並ぶ測定器から何本ものケーブルが延び、石面に取り付けられた端子へつながっている。
アダム社がこの地下構造物を発見して以来、クロイツたちは扉を開くための試験を繰り返してきた。電圧や周波数を変え、直流と交流の両方を試した。磁場を加えたことも、生体信号を模した波形を入力したこともあったが、扉が動いたことは一度もなかった。
測定器の前にいた技術員が、クロイツに気づいて立ち上がった。
「前回の条件でもう一度通電しますか?」
「必要ない」
技術員は操作盤へ伸ばしかけた手を下ろし、次の指示を待った。クロイツはケーブルを避けて扉へ近づき、何も取り付けられていない石面へ手を置いた。
表面は冷たく、掌で押しても反応はなかった。手を離したあとにも、触れた場所に変化は見られない。
これまでは、扉を動かすためのエネルギーか、その与え方が足りないのだと考えていた。出力を変え、波形を調整すれば、いずれ応答を得られると思っていた。しかし、宗助の記録が示しているのは、電源装置の条件ではなかった。
クロイツは端末を開き、与那国の映像を表示した。血に汚れた創の腕を、青白い電気が走っている。
必要なのは、電気を外から与えることではないのかもしれなかった。それを生み出し、制御する身体が、この場所へ来ること。宗助が「第四の発現」と書き残した変化を備えた人間に、扉が応答するのだとすれば、機器の設定を変え続けても開かなかった理由は説明できる。
「扉を開ける試験は中止ですか?」
背後から尋ねられ、クロイツは端末から顔を上げた。
「開け方を変える」
技術員は返答の意味を測りかねたように、扉と端末へ視線を向けた。クロイツはそれ以上説明せず、画面に残る創の姿を見つめた。
宗助が自分には残さなかったものを、この少年は身体の中に持っている。そのことを認めるのは不快だった。長年集めてきた記録も、ここへ運び込んだ設備も、それだけでは扉を開く役に立たなかったのだとすれば、なおさらだった。
それでも、映像を閉じる気にはなれなかった。これまで反応のなかった扉に対して、初めて試す価値のある方法が見つかっていた。
研究区画では、先ほどの男を冷却槽へ移す作業が進んでいるはずだった。細胞を生かし、増やすことはできても、それを元の身体へ戻す方法は分からない。冷却槽を一つ埋めるたびに、その問題を先送りしてきた。
この扉の向こうに、足りないものがあるのなら、確かめなければならなかった。そのためには、神代創にここまで来てもらう必要がある。
クロイツは端末を下ろし、黒い扉を見上げた。
「ようやく鍵が来る」




