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【第4部】エピローグ 届かなかった背中と、完璧の亀裂

指が、一本だけ動いた。

創は毛布の上に置いた右手を見つめていた。

人差し指。

ほんの少し、曲がった。

戻そうとすると、今度は薬指が引きつった。

「……違うだろ」

小さく呟く。

自分の手へ話しかけていることが、妙におかしかった。

だが、笑うとまだ胸が痛む。

創は息を吐き、指を動かすのをやめた。

アルゴー号の車内は薄暗かった。

処置灯は落とされ、壁際の小さな照明だけが点いている。コンテナの外からは、船の低い振動が途切れず伝わってきた。

窓の向こうに景色はない。

海の上を進んでいることは、身体に届くわずかな揺れでしか分からなかった。

どれくらい眠ったのだろう。

創は天井を見上げた。

最後に覚えているのは、エマが父のノートを閉じたことだった。

ギザ。

地下オシリス回廊。

次の場所がある。

父は、自分が雷を手に入れることも知っていた。

それなら、あの少年のことも。

「……セト」

名前を口にすると、胸の奥が重くなった。

白い手が見える。

自分の拳を受け止めた手。

骨殻の継ぎ目を、正確に砕いた指。

熱も、速さも、硬さも。

自分が命を削って手に入れたものを、あの少年は息をするように退けた。

創はもう一度、右手を見た。

指先に、青い光が小さく跳ねた。

パチ。

すぐに消える。

その音に、車内の奥で椅子が鳴った。

「試すなと言ったはずだ」

白石が立ち上がった。

眼鏡の下に、疲労の影が濃く残っている。

「……試してないです」

創は答えた。

「勝手に、出た」

白石はベッドの脇へ来ると、計器を確認した。

次いで、創の右腕へ手を添える。

掌を無理に開かせることはしなかった。

「まだ、お前の意思と身体の反応が噛み合っていない」

「どれくらいで戻りますか」

「それを調べている」

白石は椅子を引き寄せ、座った。

創はその顔を見た。

安心させるための嘘は、言ってくれない人だった。

今は、それがありがたかった。

「先生」

「何だ」

「俺、全然、勝てなかった」

白石は黙っていた。

「ギデオンのときもそうだったけど……あいつには、もっと」

創は言葉を探した。

「何をやっても、先に分かられてた。速く動いても、熱を出しても……こっちがやろうとする前に、もう、そこにいた」

船体が低く軋んだ。

白石は創の腕から手を離した。

「相手の能力について、まだ分かっていることが少なすぎる」

「でも、差があるのは分かる」

「ああ」

短い肯定だった。

創は目を伏せた。

白石は続けた。

「だから、次に何をするかだ」

     *

エマが起きてきたのは、その少しあとだった。

髪をまとめ直しながら、二人の前へ座る。

創の顔を見て、小さく頷いた。

「少し、顔色が戻ったね」

「ああ」

「手は?」

創は右手を見せた。

人差し指が、今度は少しだけ伸びた。

エマは笑わなかった。

大げさに喜びもしなかった。

ただ、その動きを最後まで見ていた。

「記録しておこう」

彼女が端末を開く。

白石の計器から、いくつもの波形が画面へ流れた。

創には、自分が眠っている間も、二人が同じものを見続けていたのだと分かった。

「……名前を呼べば、使えるようになったと思ってた」

創が言う。

「プロメテウス、ヘルメス、ゴルゴン。頭の中で分ければ、ちゃんと切り替えられるって」

エマは顔を上げた。

「前より、できるようにはなっていたわ」

「でも、止められなかった」

創の視線が、右手へ落ちる。

「トールを使ったあと、手すりから手が離れなかった。海へ戻るときも、骨を作ろうとしてるのに、腕が勝手に動いた」

「身体の中では、名前を呼び終えたからといって、全部が元へ戻るわけではない」

白石が言った。

「熱も残る。興奮した神経や筋肉も、すぐには静まらん。そこへ次の力を重ねれば、互いに邪魔をする」

創はゆっくり頷いた。

ペトラでも、起きていた。

加速へ切り替えたつもりなのに、腕の熱が引かなかった。

今回は、それがもっと複雑になったのだ。

「四つになったから、余計に……」

「そうだ」

白石は画面の波形を指した。

「今のお前は、使い始める合図を覚えたところだ。どれだけ使い、どう終えるかは、まだ身体に教え込めていない」

エマが端末を少し創へ向けた。

「声だけじゃなくて、呼吸や動作も記録する。あなたが何をしようとして、身体がどう反応したか。一つずつ確かめましょう」

創は画面を見つめた。

気が遠くなるような話だった。

次の石板を読めば、すぐに追いつけるわけではない。

また新しい力を得ても、今と同じように振り回されるだけかもしれない。

「……どれくらい、かかるかな」

「さあな」

白石は答えた。

「だが、この船は明日ギザへ着くわけではない。まず治す。そのあと、できることから始める」

創は右手を毛布の上へ戻した。

「次は、あいつの前で……何もできないままには、なりたくない」

エマが静かに頷いた。

白石は、少しの間だけ創を見た。

「なら、今夜は眠れ」

「……はい」

     *

運転席の方で、紙が擦れる音がした。

レオだった。

毛布を肩へ掛けたまま、膝の上で何かを描いている。

「起きてたのか」

創が声をかけると、レオは振り返った。

「オヤジの声、狭い車内でよく通るんスよ」

「聞こえて悪い話はしておらん」

白石が言う。

レオは紙を持ち上げた。

四角い箱。

その上に並んだ、幾つかの小さな丸。

創には何だか分からなかった。

「何、それ」

「練習用ッス」

「もう考えてるの?」

エマが覗き込む。

「旦那、でかい力は出せるでしょ。でも、ちっさい力をちっさいまま出すの、たぶん苦手ッスよね」

創は返事をしなかった。

否定できなかった。

レオは鉛筆の尻で、描いた丸を叩いた。

「最初は何も流さない。指を置いて、決めた合図で離す。それだけ測れるようにするッス。ちゃんと動くようになったら、先はオヤジと相談」

「珍しく順序を守っているな」

「俺だって学習するッスよ」

レオは少し得意そうに言った。

「アルゴーちゃんの中で雷落とされたら、たまんねえし」

創は、思わず右手を毛布の下へ隠した。

レオが笑う。

「今のは冗談ッス」

「半分くらい本気だろ」

「まあ、直したばっかなんで」

エマも笑った。

白石は呆れたように息を吐き、計器の表示を落とした。

小さな笑い声が、鉄の壁の内側へ広がる。

創は、その音を聞いていた。

セトには届かなかった。

その事実は、変わらない。

父が何を考えているかも、分からないままだ。

それでも、次にすることはできた。

まず、治す。

この手を、自分の意思で開けるようにする。

創は毛布の中で、ゆっくり人差し指を伸ばした。

ほんの少し、動いた。

今度は、ほかの指は動かなかった。

     *

アダム・ジェノミクス、極東海上拠点。

調整室の空気は、乾いていた。

壁も、床も、白い。

窓はなく、外が朝なのか夜なのかを知るものは、壁面の時計だけだった。

セトは椅子に座り、目の前の映像を見ていた。

海底ドームの監視記録。

傾いた画面の中で、神代創が立っている。

肩が下がり、右腕は震えていた。

顔には血。

動作の遅れも、重心の偏りも、はっきり見える。

追い詰めていた。

もう一度触れれば、終わるはずだった。

映像の中で、創の目が動く。

セトはそこで止めた。

視線の先を拡大する。

自分ではない。

左の壁。

設備。

床のどこか。

次いで、創の唇が動いた。

映像に残っている音は、空調と排水ポンプの低い唸りだけだった。

創が何を聞いたのかは、分からない。

セトは再生した。

右手が上がる。

攻撃の予兆。

そう判断して、自分が踏み込む。

だが、創の手は後ろへ伸びた。

鋼鉄を掴む。

青い光。

映像が白く焼け、途切れる。

セトは最初へ戻した。

もう一度、同じ場面を見る。

神代創は、自分を見ていた。

確かに、見ていた。

だが、最後に従ったものは、目の前にいる自分の動きではなかった。

通信が入った。

画面の端へ、ジュリアン・ヴァンスの顔が現れる。

「施設の損害報告が届いた」

セトは視線を向けなかった。

「報告書なら読めばいいでしょう」

「君の見解を聞いている」

穏やかな声だった。

その穏やかさが、セトの耳にはわずらわしかった。

「オリジナルは第四の封印を解放した。出力は不安定。連続行使による生体機能の低下も著しい」

セトは淡々と答えた。

「単独での戦闘能力は、依然として低い」

「なるほど」

ジュリアンは頷いた。

「その相手を、取り逃がした」

セトの指が止まった。

画面の中で、創の右手が手すりへ伸びている。

「施設の維持管理に問題があった。あれほどの障害が、一度の――」

「改善はさせる」

ジュリアンが遮った。

「次の報告を期待しているよ、セト」

通信が切れた。

白い部屋へ、空調の音が戻った。

セトはしばらく動かなかった。

やがて、映像を閉じようと手を上げた。

そのとき、人差し指が震えた。

一度だけ。

わずかな動きだった。

他人が見ていても、気づかなかったかもしれない。

セトは自分の手を見た。

指を伸ばす。

止まる。

もう震えていない。

その手元へ、小さな通知が浮かんだ。

『定期調整予定時刻を超過しています』

セトは通知を消した。

画面へ目を戻す。

停止した映像の中で、創はまだ、何かを聞いていた。

血に汚れた顔で。

今にも倒れそうな身体で。

それでも、その目は、直前までと違う場所を見ている。

セトは再生位置を戻した。

創の視線が動く。

唇が開く。

聞こえない声へ、短く答える。

セトは、もう一度止めた。

白い調整室の中で、映像を巻き戻す小さな電子音が響いた。

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