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第31話 砕ける骨殻、帰還する箱舟

右手が、開かなかった。

創は壁へ肩を預け、握り込まれた自分の指を見下ろした。

動かそうとすると、前腕の筋肉が勝手に跳ねる。爪が掌へ食い込み、その隙間から薄く血が滲んでいた。

「……先生」

声を出すだけで、胸が痛んだ。

「手が、戻らない」

『無理に力を入れるな。今、どこだ』

「通路の……曲がった先」

赤い非常灯が、等間隔に並んでいる。

その一つが明滅し、創の影を壁へ長く伸ばしていた。

足元には、すでに水が流れていた。

上から落ちてきた水ではない。

通路の奥、継ぎ目のどこかから噴き出した水が、床を薄く覆っている。

冷たい水が足首へ触れた。

創は左手で壁を掴み、前へ進んだ。

胸の奥で、心臓が跳ねる。

一度、強く。

そのあと、妙な間が空く。

次の鼓動が来るまでの短い空白に、息まで止まりそうになった。

『創、止まれる場所はあるか』

白石の声が、いつもより低かった。

「……止まったら、戻れなくなる」

返事のあとで、膝が崩れた。

左手が壁を滑る。

創は床へ倒れかけ、通路の手すりへ胸をぶつけた。

傷口の奥で、鈍い痛みが弾ける。

『創!』

エマの声が重なった。

創は手すりへ肘を掛けたまま、息を吸った。

「大丈夫……まだ、歩ける」

『大丈夫という言葉は要らん。何ができるかだけ言え』

白石が言った。

創は目を閉じかけ、開き直した。

「左手は動く。脚は……右が、時々つる」

『分かった。右を無理に使おうとするな。左で支えろ』

創は頷いた。

通路の先に、円形の扉が見えた。

来たときに通ったエアロックだった。

     *

同じ頃、海底ドームの上層では、鋼鉄の隔壁が内側から押し曲げられていた。

鈍い音を立てて、金属の中央が膨らむ。

もう一度、衝撃。

継ぎ目が裂けた。

その隙間へ、白い指が掛かる。

セトは隔壁を押し開け、下層の通路を見下ろした。

赤い光の中に、創の姿はない。

床には水が流れていた。

壁を伝った血の跡が、曲がり角の向こうへ続いている。

セトはそこへ足を掛けた。

その瞬間、天井の配管が激しく震えた。

継ぎ目から白い霧が噴き出し、次いで、水の塊が通路へ叩きつけられる。

セトは身を引いた。

足元の金属格子が外れ、濁った水の中へ消える。

耳元で通信が鳴った。

『セト様。第三作業区画の隔離が完了していません。退避経路が閉鎖されます』

セトは答えなかった。

『専用ポッドまでお戻りください。直ちに――』

「分かっている」

声は静かだった。

だが、普段より短かった。

セトは自分の手を見た。

指の間に、灰色の破片が残っていた。

創の肩から剥がれた骨殻。

掴んだのは、それだけだった。

彼は指を開いた。

破片が水へ落ち、流されていく。

セトはその行方を見ず、踵を返した。

     *

エアロックの内側の扉は、半分だけ開いていた。

創は隙間へ身体をねじ込み、反対側の壁までよろめいた。

入口の縁に手を掛ける。

左手だけで、重い扉を引く。

動かない。

床の水が、足の周囲へ流れ込んでくる。

「……閉まらない」

『上の表示、何色ッスか』

レオが聞いた。

「赤い。点滅してる」

『主電源が落ちてるんだ。内側に非常用の操作部があるはずッス』

創は顔を上げた。

来るときには見なかった壁の奥に、黄色いカバーがあった。

その下に、太い取っ手。

手を伸ばす。

右手を使おうとして、腕が痙攣した。

創は歯を食いしばり、左手へ持ち替えた。

『扉を閉める分の蓄圧は残ってるはずだ。頼む……』

レオの最後の言葉は、創へ向けられたものではなかった。

古い機械へ祈るような声だった。

創が取っ手を動かすと、壁の中で低い唸りがした。

扉が少しずつ動き始める。

通路の赤い光が、細くなる。

その向こうで、水が跳ねた。

創は一瞬、黒いコートが見えた気がした。

だが、そこにあったのは、外れた配管の影だけだった。

扉が閉まった。

重い音。

創はその場へ座り込んだ。

しばらく、誰も何も言わなかった。

通信越しに、波の音が聞こえる。

海面にいる仲間たちの周囲で、夜の波が船を叩いていた。

ここから、八百メートル上。

創は頭を壁へ預けた。

遠すぎた。

     *

『創。マスクは無事か』

白石の声で、目を開けた。

胸元へ手を伸ばす。

固定具に留めていたマスクが、指へ触れた。

透明な窓に傷はある。

割れてはいない。

「……大丈夫」

『装置の表示は』

創は順番に読み上げた。

白石が短く息を吐く。

『呼吸の回路は生きている。帰れるかどうかは、お前の殻次第だ』

創は自分の胸を見下ろした。

セトに砕かれた骨殻。

肩から胸へ続いていた灰色の装甲は、途中で途切れている。露出した服は血と水を吸い、肌へ冷たく貼りついていた。

これを閉じなければならない。

頭も。

腕も。

足も。

もう一度、全身をつなぐ。

創は息を吸った。

「……ゴルゴン」

顎の奥が震えた。

右肩の皮膚が盛り上がる。

だが、その直後、前腕から青い火花が跳んだ。

「ぐっ……!」

腕が勝手に胸へ引き寄せられた。

作りかけた骨殻に亀裂が入る。

小さな破片が床へ落ちた。

創は呼吸を乱した。

「駄目だ……勝手に、腕が……」

『続けて呼ぶな』

白石が言った。

『まず、身体の震えが弱まるのを待て』

「待ってたら、ここも――」

足元で、水が震えた。

壁の向こうから、鈍い音が伝わってくる。

何かが壊れた音だった。

創は扉を見た。

『創』

エマが呼んだ。

『最初にやったときのこと、覚えてる?』

創は答えなかった。

『腕を全部覆おうとして、動かなくなったでしょう。そのあと、少しずつ形を確かめた』

旧保守施設。

レオが差し出したマスク。

白石が紙へ描いた線。

エマが前へ置いた、小さな鏡。

『あの順番でやろう。まず、マスクを顔へ当てて』

創は左手でマスクを持ち上げた。

顔へ押し当てる。

自分の息が、内側へ戻ってきた。

『顎から。そこだけでいい』

創は目を閉じた。

顎の輪郭を思い浮かべる。

灰色の組織が、ゆっくり伸びた。

マスクの縁へ触れる。

そこで止める。

腕の震えが、少し収まる。

『次は、首』

エマの声だけを聞いた。

喉の周り。

うなじ。

肩。

痛みの強い場所では、何度も途切れた。

そのたびに呼吸を整え、もう一度つないだ。

身体の中に残った雷が、時折、指先を跳ねさせる。

それを力で押さえ込もうとすると、別の場所が動く。

創は、震えが過ぎるのを待った。

待って、骨を伸ばす。

また待つ。

背中を閉じる。

胸の裂け目が、少しずつ狭くなった。

太腿へ。

膝へ。

足首へ。

すべてがつながったとき、創は自分がどれほど汗をかいていたかに気づいた。

狭い殻の内側が、湿っている。

『内圧、保っている』

白石が言った。

その声が、少しだけ緩んだ。

『よくやった。まだ解除するなよ』

創は返事をしようとした。

喉から出たのは、短い息だけだった。

     *

エアロックが水で満たされていく。

足元から、黒い水が上がってきた。

膝。

腰。

胸。

来るときと、逆だった。

外の圧力が戻るにつれ、骨殻が鳴り始める。

ミシ。

創は壁の取っ手を掴んだ。

ミシ、ミシミシ。

さっきつないだ胸の部分へ、重い力がかかる。

内側へ押される。

殻の輪郭が崩れそうになる。

創は目を閉じず、その形を思い続けた。

窓の外を、水面が越えた。

空気が消えた。

再び、海の中になった。

外側のハッチが開く。

向こうには、闇があった。

その闇の中を、細い光が点滅していた。

『帰還装置の誘導灯ッス』

レオの声が言った。

『さっきより暗くしてある。そこまで戻ってきてくだせェ』

創は接続を切り替え、ハッチの外へ出た。

声が少し遠くなった。

保守通路には、上から落ちてきた部材が引っかかっていた。来るときにはなかった黒い板が、手すりを曲げている。

創はそれを越えようとして、右脚を取られた。

身体が傾く。

手すりへ手を伸ばす。

右手は、まだ開かない。

左手が、かろうじて金属へ届いた。

指が滑った。

落ちる。

そう思った瞬間、肘の骨殻が手すりへぶつかり、身体が止まった。

創はしばらく、そこへぶら下がっていた。

息が速い。

ライトの下を、白い粒が流れていく。

『創、どうした』

白石の声。

「……脚が、引っかかった」

『急ぐな。左を先に出せるか』

創は膝を動かした。

少しずつ。

引っかかっていた金属から、足を抜く。

通路へ身体を戻した。

遠くの点滅は、まだ続いていた。

創はその光だけを見た。

進む。

止まる。

また、進む。

やがて、潜降ソリの輪郭が浮かび上がった。

来たときには、ただの機械だった。

今は、その金属の枠が、ひどく懐かしく見えた。

     *

ソリへ身体を預けた瞬間、創はもう動きたくなくなった。

背中を支えられる。

頭が固定される。

誰かに抱えられたような感覚だった。

『固定具、左側だけでも掛けられるッスか』

レオが言った。

創は指示に従った。

金具が嵌まる。

胸元の表示を確認する。

『よし。こっちから作動させる。旦那は、殻を保つことだけ考えて』

低い振動が、ソリを伝った。

重りが外れる。

装置の一部が膨らみ、機体が海底から離れた。

ゆっくりだった。

思っていたより、ずっと遅い。

創は上を見た。

闇しかなかった。

背後で、青白い光が広がった。

海底施設のどこかで電源が短絡したのか、しばらくして、低い衝撃が水を伝って届く。

ソリが揺れた。

創の胸の殻が、ギ、と鳴った。

視界の隅で、深度の数字が減っていく。

七百五十。

七百二十。

七百。

創は目を閉じかけた。

『創』

エマの声がした。

『目を開けて』

開けているつもりだった。

だが、いつの間にか瞼が下りていた。

創は無理に目を開いた。

六百四十。

まだ、そんなにあるのか。

『話していて』

エマが言った。

「……何を」

『何でもいい』

創は息を吸った。

言葉が浮かばない。

痛い。

疲れた。

眠い。

それしかなかった。

やがて、口から小さな声が出た。

「……アルゴー号」

『うん』

「ベッド、揺れなくなったんだ」

少し間が空いた。

それから、レオの声が入った。

『当たり前ッス。誰が直したと思ってるんスか』

創は笑おうとした。

うまくいかなかった。

「……ちゃんと、寝てみたい」

『帰ってから、いくらでも寝てくだせェ』

五百メートル。

右肩が、内側へ沈むように感じられた。

創は息を詰め、殻へ意識を戻した。

痛い。

骨の奥が、熱い。

『創、呼吸』

白石の声。

吐く。

吸う。

殻を保つ。

それだけを繰り返す。

四百。

三百。

胸の表示が警告色へ変わった。

見ないようにした。

見なくても、残りが少ないことは分かっていた。

『まだ上がってる。止まってないッス』

レオが言う。

創には、上がっている感覚がなかった。

自分は、ずっと同じ暗闇の中へ固定されているのではないか。

機械の数字だけが変わっているのではないか。

そう思いかけたとき、頭上の黒が薄くなった。

青。

ほんの微かな青だった。

創はそこを見つめた。

その色が、少しずつ広がっていく。

『もう少しよ』

エマの声。

窓の外を、泡が上っていった。

その泡が、途中で銀色に光った。

     *

空気が、海を割った。

ソリの先端が水面を突き破り、冷たい夜風が骨殻を撫でる。

創には、風そのものは感じられなかった。

だが、世界が揺れた。

天井のない、広い揺れだった。

誰かが叫んでいる。

ライトが眩しい。

船縁へソリが当たり、金属が鳴った。

「旦那! 聞こえるか!」

レオの声が、今度は外から聞こえた。

創は顔を向けようとした。

首が動かない。

「いい、そのまま! エマさん、こっち持って!」

身体が引き上げられる。

ボートが傾く。

濡れた床へ、ソリごと乗せられた。

エマの顔が、窓の向こうへ現れた。

髪が頬へ貼りついている。

口が動いた。

「帰ってきた」

その声を聞いて、創はようやく力を抜いた。

灰色の殻に、細かな亀裂が走る。

顔の周囲から、少しずつ崩れていった。

エマがマスクを外す。

風が触れた。

冷たい。

潮の匂いがした。

創は口を開いた。

「……ただ、いま」

エマが何か答えた。

だが、その言葉は、波の音と混ざってうまく聞き取れなかった。

彼女の手が頬へ触れたことだけは、分かった。

     *

岸辺では、アルゴー号の後部ドアが開いていた。

車内の処置灯が、白く明るい。

レオとエマが創を運び込み、白石がベッドへ受け取る。

身体を置かれた瞬間、創は昨日までとの違いを感じた。

跳ねない。

横へ滑らない。

背中が、しっかり支えられている。

白石の手が胸元を開き、計器をつないだ。

規則正しい電子音の間へ、時折、違う音が混じる。

老学者の眉間に、深い皺が寄った。

「これ以上、能力を使うな。何があってもだ」

創は頷こうとした。

「動かなくていい」

白石が左肩を押さえる。

エマが濡れた髪を額から払った。

レオは後部ドアを閉めようとして、動きを止めた。

顔が、海の方へ向く。

「……オヤジ」

声が変わった。

遠くで、細い唸りが聞こえた。

創は目を動かした。

開いたドアの向こうに、白い光があった。

一つ。

その後ろに、もう一つ。

海面を走るサーチライトが、入り江の岩壁を照らしていく。

「来やがった」

レオがドアを閉めた。

重い音。

留め金が噛み合う。

次の瞬間、彼は運転席へ走っていた。

「全員、そのまま! 出すッス!」

エンジンが唸る。

車体が動いた。

創は反射的に右手へ意識を向けた。

掌の奥で、微かな火花が跳ねる。

白石が、その腕を掴んだ。

「言ったはずだ」

「でも……」

「寝ていろ」

短い命令だった。

直後、車体の外で銃声が弾けた。

ガガガガッ!

側面の装甲が、激しく叩かれる。

創は身を縮めた。

シベリアの記憶が蘇る。

窓が砕け、車内を弾丸が跳ねた。

レオの肩から血が出た。

エマが床へ伏せた。

今度も――。

衝撃は、外で止まった。

壁の内張りがわずかに震えたが、破片は飛んでこなかった。

白い処置灯も、消えなかった。

白石の手は止まらない。

エマは創の身体を支えたまま、顔を上げた。

前方でシャッターが下りる。

視界が、画面の光へ切り替わった。

「よし……耐えたな」

レオが呟いた。

誰へ言ったのかは、分からなかった。

     *

アルゴー号は、思うように速度を上げなかった。

坂道へ差しかかると、エンジンが高く唸る。

重い。

装甲も、医療用の電源も、今はすべて車体を地面へ押しつけている。

背後の唸りが近づいた。

無人機が、追いついてくる。

「レオ!」

エマが叫ぶ。

「分かってるッス!」

彼は速度計を見なかった。

前方の分岐を見ていた。

昼間、試走した道。

古い保守施設へ向かう坂と、資材搬出路へ分かれる場所。

レオは煙幕を作動させた。

車体の後方へ白い煙が広がる。

だが、無人機の光は煙の中でもこちらを探している。

「これだけじゃ、撒けねえッスよな」

レオがハンドルを切った。

アルゴー号が、狭い切り通しへ滑り込む。

左右の岩壁が迫った。

外板が岩へ擦れ、耳障りな音を立てる。

天井の低い搬出用の覆道へ入った瞬間、レオはさらに右へ切った。

車体が大きく傾く。

創の身体は固定具に支えられ、ベッドの上へ留まった。

背後で、銃弾がコンクリートを削る音がした。

無人機は真っ直ぐ抜けた。

光が、別の出口へ流れていく。

レオはアクセルから足を離し、資材壁の陰で車を止めた。

エンジンを落とす。

車内には、白石の計器の音だけが残った。

誰も話さなかった。

外で、推進器の唸りが行き来する。

白い光が、岩壁の縁を掠めた。

創は息を浅くした。

レオは両手をハンドルへ置いたまま、動かない。

長い時間が過ぎた気がした。

やがて、音が遠ざかった。

レオが、ゆっくり息を吐いた。

「……速さじゃ勝てねえからな」

彼は計器を確かめ、再びエンジンをかけた。

「道くらい、先に見とくッスよ」

     *

港へ着く頃には、東の空が薄く白み始めていた。

人の姿は少なかった。

広い貨物区画を、無人の搬送車が規則正しく行き来している。積み上げられたコンテナの間を黄色い警告灯が動き、遠くでは大型クレーンが静かに回っていた。

レオは表のゲートへ向かわず、修理業者の資材置き場へ車を入れた。

そこに、一つだけ扉を開けた大型コンテナがあった。

内側には断熱材が張られ、床には車輪を固定する金具が並んでいる。

創は、半分閉じた目でそれを見た。

「……これ」

「帰りの切符ッス」

レオが言った。

「部品を探してたときに、オヤジが押さえといたんだ」

白石が創の胸元の計器を確認しながら答える。

「島に留まれなくなる可能性は、最初からあったからな」

電子機器を運ぶために使われていた、電磁遮蔽仕様の輸送コンテナ。

そこへ、残っていた断熱材と蓄熱用の部材を追加してある。

外から中を見えにくくするための箱だった。

ただし、何もかも永遠に隠せるわけではない。

空気にも、温度にも限界がある。

「船へ載るまで、余計な熱を出すな。航行が落ち着いたら、換気を切り替える」

白石が言った。

レオはアルゴー号を慎重に進めた。

左右の隙間は狭い。

与那国島にくるときに乗り込んだ搬送カプセルを、創は思い出した。

また、箱の中へ入る。

だが今度は、その箱の中に自分たちの車がある。

傷だらけのまま、少しだけ強くなった車が。

エマが外へ降り、扉の脇で端末を操作した。

白石が用意していた搬送記録を確認する。

画面に、船の識別番号が表示された。

東シナ海を南下し、さらに西へ向かう無人貨物船。

エマは端末をしまい、車内へ戻った。

「積載待ちに入ったわ」

レオが固定具を確かめる。

最後に、コンテナの扉を閉めた。

光が細くなる。

消える。

暗闇が戻った。

     *

しばらくして、床が持ち上がった。

創は目を開けた。

金属の箱全体が、ゆっくり揺れている。

遠くで機械の音がした。

続いて、重い衝撃。

車体が一度だけ沈み、止まった。

誰も声を出さなかった。

さらに時間が過ぎる。

床の下から、低い振動が伝わり始めた。

規則正しく、途切れない振動だった。

レオが小さな受信機を見ていた。

何度か表示を確かめる。

そして、椅子の背へ身体を預けた。

「……離岸したッス」

エマが目を閉じた。

白石は、ようやく眼鏡を外した。

創は天井を見つめていた。

セトの顔が浮かぶ。

傷のない手。

乱れない呼吸。

自分と同じ色の瞳。

胸の奥に、重いものが残っている。

だが、その隣で、船の振動が続いていた。

自分はまだ、生きている。

エマがベッドの脇へ座った。

「創」

彼女の手には、黒革のノートがあった。

「包帯を替えるとき、触れたでしょう。その血で……」

表紙に埋め込まれた結晶が、淡く光っていた。

カチリ。

静かな車内で、留め金の外れる音がした。

創は少しだけ顔を向けた。

エマがノートを開く。

新しいページに、線が浮かび上がる。

三角形の影。

その下へ続く、長い回廊。

角ばった記号が、通路の壁を埋めていた。

そして、父の筆跡。

『エジプト、ギザ。地下オシリス回廊』

創の喉が動いた。

さらに、その下へ文字が現れる。

『雷を得たなら、眠る道へ流せ。閉ざされた門は、お前の到着を待っている』

創は、しばらくその一文を見つめた。

また、知っていたのか。

自分が雷を得ることも。

ここまで生きて戻ることも。

セトに会うことさえ。

問いが浮かぶ。

だが、それを口にする前に、エマが創の顔を見た。

「今は、閉じる?」

創は小さく頷いた。

黒い表紙が、ゆっくり重なる。

父の文字が見えなくなった。

創は左手を動かした。

ベッドの縁へ触れる。

揺れない。

脇では、白石が器具を片づけている。

運転席では、レオが腕を組んだまま目を閉じていた。

エマが創の手へ、自分の手を重ねた。

右手は、まだうまく動かない。

だから、創は左手で握り返した。

アルゴー号の下で、船の低い振動が続いていた。

今度は、創が何もしなくても、前へ進んでいた。

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