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第30話 迸(ほとばし)れ、天の火花

『創』

名前を呼ばれている。

分かっていた。

けれど、返事をするための息が出なかった。

頬に触れた床は冷たく、胸の内側だけが、殴られた形のまま熱を持っていた。割れた骨殻の破片が、呼吸のたびに服の中で擦れる。

視界の端に、黒い靴があった。

その向こうで、排水溝へ血が流れていく。

自分の血だった。

父のノートを開く血。

古代の石板に応える血。

だが、その血を持っていても、目の前の少年には何も届かなかった。

『創。聞こえているなら、返事をして』

エマの声だった。

さっきより、はっきり聞こえた。

「……聞こえてる」

ようやく出た声は、自分でも驚くほど弱かった。

『顔を上げられる?』

「無理だ」

痛いからなのか。

怖いからなのか。

創には、もう分からなかった。

「俺……何やってるんだろうな」

言葉が漏れた。

「親父を追いかけて、ここまで来て……」

セトは何も言わない。

それが、つらかった。

否定する価値もないと思われている気がした。

「全部、あいつの言う通りなのかもしれない」

『創』

「俺一人じゃ、何も……」

『一人でできなかったら、失敗なの?』

創の唇が止まった。

エマの声は、震えていた。

けれど、泣いてはいなかった。

『私だって、石板を読めても、あなたみたいに氷の壁を融かせない。レオくんは車を直せるけど、先生の代わりに治療はできない』

創は目を閉じた。

『それで、私たちも失敗作になるの?』

黒い靴が、わずかに動いた。

セトが重心を変えたのだ。

創は答えられなかった。

『あなたのお父様が何を考えていたか、私は知らない。でも、私を助けたとき、あなたはお父様に言われて動いたんじゃないでしょう』

舞鶴の暗いドック。

火を噴かないエンジン。

自分を見つめる、怯えた目。

創は、血の味がする唇を少し開いた。

『あなたが失敗作かどうかなんて、あの人に決めさせないで』

エマが息を吸う音がした。

『創。私たちは、あなたが帰ってくるのを待ってる』

     *

創は左手を動かした。

床へ掌をつく。

指を開き、滑らない場所を探す。

痛みは消えなかった。

胸も、脇腹も、頭も痛い。

それでも、肘を少し伸ばした。

「……まだ立つの」

セトの声がした。

創は顔を上げた。

琥珀色の瞳。

同じ色なのに、何を考えているのかは分からない。

親父のことも、この少年のことも、自分は何も知らない。

だが、知っていることもあった。

レオの手は、いつも油で汚れている。

白石は怒るときほど、傷へ触れる手が慎重になる。

エマは海に足を入れたとき、小さく声を上げて笑った。

あの笑い声を、もう一度聞きたかった。

創は膝を引き寄せた。

「……帰る」

セトが眉を動かす。

「どこへ?」

答えるために、創は息を吸った。

痛みで途中までしか吸えない。

それでも、言った。

「仲間のところだ」

セトはしばらく創を見た。

それから、唇の端をわずかに持ち上げた。

「その身体で、もう一度海へ出るつもり?」

創は、砕かれた胸の骨殻を見下ろした。

その問いには答えられなかった。

今のままでは、戻れない。

「だったら、僕をどかさないとね」

セトが足を引いた。

創が立ち上がるだけの空間ができる。

見逃してくれたのではない。

この少年は、まだ終わらせるつもりがないのだ。

立ち上がらせ、もう一度倒す。

自分がどれほど無力かを、創自身に認めさせるために。

『創、時間を稼いで』

エマの声がした。

『石板の音律が、もう少しでつながる』

創は目を動かさなかった。

セトを見たまま、右膝へ手をつく。

ゆっくり立つ。

立ち上がる動作そのものが、今は時間になった。

     *

『最後の部分が、違う……』

通信の向こうで、エマが呟いていた。

『先生、この三つの波形、重ねられますか』

『やっている。だが、映っていない部分までは戻せんぞ』

『映像じゃなくて、歌の方です』

創の脳裏に、食堂が浮かんだ。

扇風機。

湯気の立つ丼。

卓上を指で叩く老人。

二度。

間を置いて、三度。

そのあとに続いた、意味の分からない節。

「何を待っているの?」

セトが近づいた。

創は右へ動いた。

逃げ道を探しているように。

セトも同じだけ動く。

その肩越しに、第四の石板が見えた。

黒い表面の溝が、作業灯の光を受けている。

細い枝が集まり、また分かれる。

あの歌を思い出した途端、その幾何学模様が、創には少し違って見えた。

ひび割れではない。

何かの通り道。

「――ヘルメス」

創が囁く。

セトの瞳が動いた。

創は踏み込まず、足元へ落ちていた骨殻の破片を蹴った。

破片が跳ねる。

同時に、横へ抜けようとした。

セトは破片を見なかった。

創の肩を押さえ、進む方向を変える。

強い衝撃が背中へ入り、創は石の基壇へ叩きつけられた。

「ぐ……っ!」

肺から息が抜ける。

第四の石板が、すぐ頭上にあった。

セトが歩いてくる。

「同じだよ。何を挟んでも、最後に動くのは君の身体だ」

創は基壇へ手をついた。

冷たい石だった。

その冷たさの奥に、微かな振動があった。

指先から手首へ。

手首から肘へ。

痛みとは違う感覚が、骨を伝って上ってくる。

『分かった』

エマの声が、突然、澄んだ。

『おじいさんの歌は、最後の音だけ長く伸ばしていたの。言葉が変わっても、息を抜く場所が残ってる』

創は喉を動かした。

『石板の見えている部分と合う。創、聞いて』

セトの手が伸びた。

創は左腕を上げる。

残っていた骨殻へ、掌が当たった。

鈍い衝撃が腕を抜けた。

肘が曲がり、身体が沈む。

それでも、創は基壇から手を離さなかった。

『最初は、息を細く擦らせる。強く吐きすぎないで』

創は肺に残った空気を集めた。

血の味がする口を開く。

「……フルグ」

セトの手が止まった。

創の掌の下で、石が震えた。

喉の奥へ、鋭い味が広がる。

金属を舐めたような味だった。

『続けて。舌を切り替えて――エレク』

「……エ、レク」

首の後ろで、産毛が逆立った。

骨殻に覆われていない皮膚が、一斉に粟立つ。

セトが創の顎へ手を伸ばした。

さっきと同じだ。

口を閉じられる。

声を止められる。

創は顎を引いた。

逃げきれない。

白い指が頬へ触れる。

その直前、エマの声が届いた。

『最後。息を、前へ抜いて』

創は、歯の隙間からその音を押し出した。

「――ソルッ!」

     *

音がした。

乾いた、小さな音だった。

パチン。

創の頬へ触れかけていたセトの指と、皮膚の間に、青い光が跳んだ。

セトが手を引く。

創の身体が、大きく反った。

「……が、あっ!?」

両脚が勝手に突っ張った。

指が閉じる。

開こうとしても、開かない。

喉の奥で声が詰まり、歯が激しく鳴った。

熱ではなかった。

ヘルメスを使うときの、世界が遠ざかる静けさでもない。

全身の筋肉へ、同時に命令を叩き込まれたようだった。

動け。

縮め。

離すな。

自分の意思ではない信号が、皮膚の下を駆け巡っている。

腕の内側に、細い青白い筋が浮いた。

一本。

次いで、何本も。

血管とは違う枝分かれが、肩から肘、手首へ走る。

『創の生体電位が……!』

白石の声が途切れた。

耳の奥で激しい雑音が鳴った。

創は口を開いた。

吸えない。

胸の筋肉まで、固く引きつっている。

(離せ……!)

何を離せばいいのか、分からなかった。

力が、身体の内側で出口を探していた。

細胞の膜を隔てて保たれていた微細な電気の差。

普段なら神経を伝わり、筋肉を動かすために使われるものが、今は桁違いの規模で積み上がっている。

自分の身体そのものが、蓄えきれない電荷で満たされていく。

『吐け、創! 息を止めるな!』

白石の怒声が、雑音を裂いた。

創は喉を開いた。

「あ、ああああっ!」

青白い光が弾けた。

バヂィィィッ!!

右腕から伸びた電弧が、傍らの鋼鉄の支柱へ跳んだ。

激しい火花。

焦げた匂い。

頭上の作業灯が、一斉に明滅した。

床に触れていたセトの足が、離れる。

黒いコートが翻った。

次の瞬間、彼は少し離れた石の基壇へ着地していた。

創の腕から、さらに光が迸る。

制御できない。

止めようとすると、肩の内側で痛みが膨れ上がる。

吐き出そうとすれば、指が勝手に曲がり、別の方向へ火花が飛ぶ。

石板の溝が、青く脈打っていた。

その光を受けて、セトの顔が初めてはっきり照らされた。

笑っていなかった。

「……第四まで」

声は、低かった。

創には、返事をする余裕がなかった。

     *

放電が途切れた。

その瞬間、創は基壇へ崩れかかった。

筋肉の引きつりが緩む。

空気が肺へ入った。

痛い。

指先から肩まで、皮膚の内側を無数の針で縫われたように痛んでいた。

だが、右手にはまだ火花が残っている。

小さな光が、親指と人差し指の間を跳んだ。

第四の力。

父のノートにあった、万の雷。

『創、聞こえる?』

エマの声が戻った。

「ああ……」

『その力は、雷を生む力よ』

創は右手を見た。

『ノートの対応する神話名は――トール』

トール。

創は、その名を頭の中で繰り返した。

名前を与える。

形を作る。

ただ、名前を呼べば従うわけではない。

ペトラで、そのことを思い知らされた。

それでも、正体のないものを身体の中で暴れさせておくよりは、よかった。

「……トール」

右腕に残る光を見つめ、呟く。

これは、雷だ。

熱ではない。

骨でも、加速でもない。

自分が、今、扱わなければならない力。

創は顔を上げた。

セトが、こちらを見ている。

その表情にあった驚きは、すでに薄れかけていた。

「それが、君の次の答えか」

創は右手を向けた。

セトが足を動かす。

創はその先へ意識を向けた。

「――トール!」

腕に力が集まった。

青白い電弧が、空間を裂く。

だが、セトはそこにいなかった。

創の手が向く前に、すでに身体をずらしていた。

光は背後の金属足場へ当たり、火花を散らした。

「遅い」

声が、左から聞こえた。

創が振り向く。

セトの手が、右肘の外側へ触れた。

腕を押し上げられる。

続く放電が、天井へ逸れた。

作業灯が一つ砕け、熱い破片が降ってくる。

腹部に、短い衝撃。

創は膝をついた。

セトはその正面から、すでに離れていた。

「新しい力でも、使うのが同じ君なら、同じことだ」

創の腕が震える。

当たらない。

狙っている場所へ、相手がいない。

新しい力を手に入れた。

それでも、この少年には届かない。

『もう続けるな!』

白石の声がした。

『心拍が乱れ始めている。次も同じ出し方をすれば、お前自身が先に倒れるぞ!』

創は右手を下げた。

掌から、小さな火花が落ちる。

セトが近づいてくる。

あと、何回使える。

一回か。

それすら、使えるのか。

創は床へ視線を落とした。

排水溝の中を、自分の血が混じった水が流れている。

その先で、さっきの電撃を受けた足場の継ぎ目が、赤く燻っていた。

     *

『創の旦那』

レオの声だった。

いつもの軽さがない。

『今、あいつの後ろで何が壊れた?』

創は息を整えた。

「足場……と、上の照明」

『床は?』

「濡れてる。水が流れてる」

『どっちへ』

創は排水溝を見た。

壁際へ続いている。

その向こうに、黄色い枠で囲まれた設備が並んでいた。

太いケーブル。

配管。

制御盤。

「左の壁……ポンプの方だ」

短い沈黙。

通信の向こうで、エマが何かを操作する音がした。

『保存した映像にある。レオくん、これ?』

『そう。それッス』

セトが歩いてくる。

創は後ずさった。

「何する気だ」

声を落として聞く。

『旦那、そいつに当てなくていい』

創は瞬きをした。

レオが続ける。

『そいつがどんだけ速くても、ここ全部を抱えて逃げることはできねえッス』

創はセトを見る。

その向こうにある、鋼鉄の足場。

壁を這う管。

排水溝。

父の石板を囲むように築かれた、アダム社の設備。

自分はずっと、セトだけを見ていた。

あの顔へ一発当てること。

あの余裕を崩すこと。

自分が失敗作ではないと、あいつに認めさせること。

そのために、残った力を使おうとしていた。

『創』

エマが言った。

『帰る道を作るわ』

創は、ゆっくり息を吐いた。

     *

『左の壁に、黄色い制御盤があるはずよ』

エマの声が続く。

『その下から伸びている足場を見て。途中に、赤い手動レバーがある』

創は視線だけを動かした。

あった。

下層の保守通路へ降りるための、格子状の蓋。

その横に、赤いレバーが突き出している。

『そこから、入ってきた通路の下へ戻れる。施設図では、最後のところで合流しているわ』

「閉まってる」

『俺が補助電源側の開閉信号を試すッス。開かなかったら、その赤いレバーを引いてくれ』

レオが言った。

『ただ、先にあいつを離してほしい』

創はセトを見た。

少年は、こちらの視線を追っている。

何か考えていることは、もう気づかれていた。

「相談は終わった?」

セトが尋ねる。

創は右拳を握った。

皮膚の下で、光が走る。

『創、よく聞け』

白石の声。

『長く流そうとするな。今のお前には止め方が分かっていない。一度放ったら、すぐに手を離せ。追い打ちを考えるな』

「……分かった」

『倒れても困る。帰ってきてから倒れろ』

創の口元が、わずかに動いた。

笑えたのかどうかは、自分でも分からなかった。

セトが一歩踏み込む。

創も動いた。

右手を上げる。

セトの視線が、肩から肘へ走った。

来る。

腕を逸らすために、左側へ入ってくる。

創はヘルメスを使わなかった。

見切れるとも思っていない。

ただ、右足を引き、背後の手すりへ身体を寄せた。

「また同じ――」

セトの声が、途中で止まった。

創の右手は、彼へ向いていなかった。

背後の鋼鉄を、掴んでいた。

「――トールッ!」

光が、手すりを走った。

     *

バヂヂヂヂィィッ!!

青白い電弧が、濡れた継ぎ目を飛び越えた。

一本の光が何本にも分かれ、足場の支柱へ、壁際の制御盤へ、露出した設備へと跳んでいく。

創の掌が、手すりから離れなくなった。

指が締まる。

腕の筋肉が、固く盛り上がる。

(離せ――!)

左手で右の手首を掴んだ。

引く。

皮膚が裂けるような痛みが走った。

それでも、引いた。

指が外れた瞬間、黄色い制御盤の扉が内側から弾けた。

ドォンッ!!

火花と黒煙が噴き上がる。

頭上の照明が一列ずつ消え、非常灯が赤く点灯した。

警報。

今まで静かだった海底ドームが、突然、無数の音に満たされた。

『電源異常。区画隔離。退避してください』

機械音声が繰り返す。

鋼鉄の隔壁が、上方から降り始めた。

足元で唸っていた排水ポンプの音が乱れ、止まる。

壁際の設備から、激しい水音が上がった。

セトは後ろへ跳んでいた。

放電が届く前に、金属の足場を離れ、石の基壇へ移っている。

やはり、避けられた。

だが、創はそちらを見なかった。

『今! 左へ!』

エマの声で、走った。

走ったつもりだった。

右脚がもつれ、膝を床へ打ちつける。

激痛。

それでも左手をつき、身体を前へ押し出した。

赤いレバー。

黄色い枠。

見失うな。

背後で、金属が鳴った。

セトが追ってくる。

「そんなもので――」

声が近づく。

創はレバーへ手を伸ばした。

右手が開かない。

指が、握ったまま震えている。

左手を使う。

レバーを掴む。

引く。

動かない。

『もう一段、下へ!』

レオの声。

創は体重をかけた。

ガコンッ。

足元の蓋が落ちた。

黒い隙間が開く。

創は、その中へ身体を落とした。

     *

肩が梯子へぶつかった。

脚が空を蹴る。

創は左腕を横木へ引っかけ、落下を止めた。

頭上を、白い手が掠めた。

コートの袖。

セトの指が、創の肩に残っていた骨殻へ触れる。

掴まれる。

創は反射的に身体をひねった。

薄くなっていた殻が砕けた。

セトの手に、灰色の破片が残る。

創は梯子を滑り落ち、下の通路へ転がった。

頭上で、重い隔壁が閉じた。

ドォォン!!

空気が押し出され、床の水が波立った。

セトの姿が、鋼鉄の向こうへ消える。

創は両手をつこうとして、右腕から崩れた。

指が開かない。

肘が勝手に曲がる。

息を吸うたび、胸の奥で鼓動が不規則に跳ねた。

『創!』

エマが呼ぶ。

「……いる」

声が出た。

「まだ、いる」

『前へ進んで。そこは止まっちゃ駄目』

上から、水が落ち始めた。

最初は細い筋だった。

すぐに量が増える。

配管のどこかで、金属が激しく鳴っている。

創は左手で壁を掴み、立った。

通路は低く、少し先で曲がっていた。

頭上の隔壁を、何かが叩いた。

一度。

鋼鉄が凹むような、重い音。

創の背中が強張る。

まだ、終わっていない。

『次の角を右』

エマの声。

『その先に、戻る通路がある』

創は歩き出した。

右脚が思うように上がらない。

壁へ肩を擦りつけながら、一歩ずつ進む。

背後で、もう一度、衝撃が響いた。

それでも振り返らなかった。

セトには勝てなかった。

新しい力を得ても、一度もまともに触れられなかった。

その悔しさは、痛みとは別の場所で、まだ熱を持っている。

だが、ここで振り返れば帰れなくなる。

創は曲がり角へ手をかけた。

壁の向こうから、赤い非常灯の光が差している。

『そのまま、真っ直ぐ』

エマが言った。

創は頷いた。

今度は、自分の足で踏み出した。

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