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第29話 琥珀色の瞳――神代セト

その目を、創は知っていた。

朝、洗面台の鏡を覗くたびに見ていた色だった。

光の当たり方で金色にも、薄い茶色にも見える、琥珀色の虹彩。

だが、目の前の少年の瞳には、創の顔に浮かんでいるはずの疲労も、戸惑いもなかった。

「……誰だ」

声が掠れた。

少年は答える前に、創の身体へ視線を落とした。

水を滴らせる骨殻。

胸元に固定された呼吸装置。

震えを抑えきれない右手。

一つずつ、確かめるように見ていく。

「よく、その格好で降りてこられたね」

黒いコートの裾が、空調の風でわずかに揺れた。

白銀の髪。血の気を感じさせない白い肌。

年は、自分と大して変わらないように見える。

武器は持っていなかった。

少なくとも、見えるところには。

『創、距離を取って』

エマの声が、耳の奥へ届いた。

少年の視線が、創の耳元へ動く。

「一人じゃないんだ」

創の背筋が冷えた。

聞こえたのか。

骨伝導インカムの声を。

それとも、自分の目の動きだけで分かったのか。

少年は薄く笑った。

「安心して。今は君にしか用がない」

「誰だって聞いてる」

創は右拳を握り直した。

掌の奥の熱が、指先へ集まる。

少年の瞳が、その動きを追った。

そして、ようやく名乗った。

「神代セト」

創は息を止めた。

神代。

聞き間違いではなかった。

「……今、何て」

「セト。それとも、上のほうの名前が気になる?」

少年は、自分の胸へ軽く指を当てた。

「父上からいただいた名前だよ」

     *

空調の低い音が、通路を流れていた。

創の足元で、水滴が一つ落ちる。

小さな音だった。

それが、ひどく遠く聞こえた。

「父上……?」

セトは頷いた。

「神代宗助。君のお父さんでもあるね」

創の拳から、熱が引きかけた。

父の名を、この少年は何のためらいもなく口にした。

十年前に消えた男。

母が泣きながら話した男。

自分の身体に何かを残し、世界の果てまで道を引いていた男。

その男を、目の前の少年は、昨日も同じ食卓にいた家族のような口調で呼んでいる。

「親父は……生きてるのか」

セトの眉が、わずかに上がった。

「まだ、そこからなんだ」

その一言が、胸へ刺さった。

創は一歩踏み出した。

「どこにいる」

「会いたい?」

「答えろ」

「会って、何を聞くつもり?」

セトは動かなかった。

創の怒りが自分へ届くのを、待っているようだった。

「どうして僕を捨てたんですか。それとも、どうしてこんな身体にしたんですか、かな」

創の喉が詰まった。

図星だった。

聞きたいことは、山ほどある。

なぜ自分を救った。

なぜ母を置いて消えた。

なぜ、こんな旅をさせる。

だが、それをこの少年に言い当てられることが、どうしようもなく不快だった。

「お前に、何が分かる」

「君よりは知っているよ」

セトは静かに答えた。

「父上が何を求めていたかも。そのために、何が足りなかったかも」

彼は通路の奥へ向き直った。

黒いコートが翻る。

「来なよ。そこじゃ狭い」

「待て!」

創が踏み出そうとした瞬間、白石の声が飛んだ。

『追うな、創。相手の素性も能力も分からん』

「でも、先生。あいつは――」

『分かっている! だからこそだ!』

セトが振り返った。

今度は、創の耳の後ろをはっきり見た。

「白石先生もいるんだね」

創は黙った。

セトの笑みが少し深くなる。

「相変わらず、危ないところでは止めてくれるんだ」

その言い方には、知っている人間への親しみなど一切なかった。

ただ、道具の性質を確かめるような冷たさがあった。

セトは再び歩き始めた。

創は、数歩の距離を空けて後を追った。

     *

通路を抜けると、天井が消えた。

そう思うほど、高い空間だった。

創は足を止めた。

海底の岩盤をくり抜いた巨大なドーム。

その壁面に沿って、金属の足場と配管が何段にも張り巡らされている。白い作業灯が照らしているのは、空間のごく一部に過ぎない。

下方では排水ポンプが唸り、壁の亀裂から染み出した水が、細い溝を伝って流れ落ちていた。

古代の石と、現代の鋼鉄。

異なる時代のものが、互いを締めつけるように組み合わされている。

そして、その中央。

足場の向こうに、漆黒の巨石が立っていた。

創の呼吸が止まる。

第四の石板。

光を吸い込む表面に、鋭く枝分かれした溝が走っている。

丹後とも、シベリアとも、ペトラとも違う。

細い筋が幾つも集まり、一点で交わり、そこから再び四方へ広がっていた。

まるで、暗い空を一瞬だけ照らした稲妻を、そのまま石へ閉じ込めたようだった。

『創。そのまま顔を上げて』

エマの声が変わった。

『石板が見える。映像を保存するから、もう少し左へ――』

創はわずかに顔を動かした。

胸元の小型カメラが、石板へ向く。

「それが欲しいんだろう?」

セトが言った。

彼は石板へ続く通路の中央に立っていた。

「だったら、取りに来ればいい」

「邪魔をするな」

「邪魔?」

セトはその言葉を、面白そうに繰り返した。

「僕は確かめたいだけだよ」

ゆっくりと、両手をコートのポケットから出す。

細く、白い指だった。

「君が、本当にここまで来る価値のある人間なのか」

創は左足を半歩引いた。

背中と肩の骨殻を、もう一度厚くする。

筋肉が、その内側で痛んだ。

海を降りてきただけで、すでに消耗している。

分かっていた。

それでも、この少年の向こうには石板がある。

父へつながる答えもある。

創は息を吸った。

「――ヘルメス」

世界が遅くなる。

配管から落ちる水滴が、空中へ留まった。

作業灯の下を漂う霧が、白い布のように動きを止める。

床の排水溝を流れる水さえ、ゆっくりとした銀色の筋へ変わった。

創は踏み込んだ。

正面からぶつかるつもりはない。

右へ抜ける。

相手が向き直る前に、石板まで走る。

そのつもりだった。

セトの目が動いた。

ゆっくりになった世界の中で、その瞳だけが、創の進む先へ滑った。

(見えてる――?)

セトの足が、半歩ずれる。

ただ、それだけだった。

創の進路に、黒いコートが入った。

「どこへ行くの」

声が、普通の速さで聞こえた。

次の瞬間、胸へ掌が触れた。

押された。

大きな動作ではなかった。

なのに、創の足が床を離れた。

「……っ!」

背中から足場へ叩きつけられる。

金属板が激しく鳴り、肺の空気が押し出された。

世界の速度が戻った。

宙に留まっていた水滴が、創の頬へ落ちた。

セトは、さっきと同じ場所に立っていた。

息一つ、乱していない。

     *

『創、応答しろ!』

白石の声に、創は咳き込みながら答えた。

「……聞こえてる」

右手を床へつき、身体を起こす。

胸の骨殻に、薄い掌の跡が残っていた。

割れてはいない。

それなのに、衝撃は内側へ届いている。

セトは首を傾げた。

「君の加速は、始まる前に分かる」

「何だと」

「息が変わる。視線が止まる。足へ力を入れる順番も同じだ」

創は歯を食いしばった。

「名前を呼ばないと、自分の身体を動かせないの?」

セトの言葉が、エマとレオの顔を呼び起こした。

砂漠を走る車内。

力に名前を与えればいいと、レオが言った。

エマが神話の名を教え、白石が制御の可能性を認めた。

初めて、自分の身体に手が届いた気がした。

そのすべてを、目の前の少年は、幼い子供の練習を眺めるように見ていた。

「……黙れ」

創は立ち上がった。

右腕へ熱を集める。

「プロメ――」

言い終える前に、セトがいた。

白い指が、創の顎へ触れる。

下から、わずかに押し上げられた。

歯が噛み合う。

舌を噛みそうになり、声が途切れた。

同時に、もう片方の手が肋骨の下へ入った。

ドン。

鈍い衝撃。

息が抜けた。

右腕の内側で膨らみかけていた熱が、行き場を失って渦巻く。

「が……っ」

創は後退した。

咳とともに、熱い息が口から漏れる。

セトは追ってこない。

「ほら」

静かな声だった。

「まだ、途中だ」

創の右腕から、白い蒸気が上がった。

出しかけた力を止める。

止めながら、後ろへ下がる。

足元を確かめる。

考えることが多すぎた。

セトは、そのどれにも追われていないように見えた。

『創。相手の言葉に付き合わないで』

エマの声。

『あなたの状態とは違う。海を降りてきたばかりで、まだ傷も――』

「分かってる」

創は答えた。

分かっている。

身体が万全ではない。

それでも、いま目の前にある差を、そのせいだけにはできなかった。

セトが一歩近づく。

創は今度こそ、距離を取ったまま右拳を引いた。

短く、必要な分だけ。

殴りつけるのではない。

熱で、間を作る。

「――プロメテウス!」

青白い熱が、右拳へ収束した。

床の水が沸き、蒸気が立ち上る。

創は踏み込み、拳を振り抜いた。

セトは左手を上げた。

その掌が、白熱した拳へ触れた。

ジュウッ!!

白い蒸気が二人の間で炸裂した。

創は目を見開いた。

熱が、消えていく。

自分の腕から流れ出していたはずの熱量が、セトの掌へ触れた場所で急激に弱まっている。

黒い袖口に、白い霜が浮いた。

指先から手首へ向かって、細かな結晶が伸びる。

床の水が薄く凍り、そのすぐ隣では、まだ熱を受けた水が沸騰していた。

二つの現象が、同じ場所にある。

(何を……した?)

創が理解するより先に、セトの指が閉じた。

拳を掴まれる。

手首をわずかに返され、肘が外へ開く。

「その出力を、いつまで保つつもり?」

セトは息を乱さずに言った。

創の肩が、軋んだ。

熱を止めなければ、自分の腕が壊れる。

止めれば、相手に押し切られる。

その迷いを見透かしたように、セトの足が創の踵を払った。

視界が傾く。

床が迫った。

創は反射的に左腕を伸ばす。

「ゴルゴン!」

灰色の殻が、前腕で厚くなる。

衝撃を受け止めた。

金属の床が凹む。

骨殻は折れなかった。

だが、次に来た蹴りは、腕ではなく脇腹へ入った。

「ぐ、あっ!」

身体が床を滑る。

背中が手すりへぶつかり、そこで止まった。

口の中に、鉄の味が広がった。

     *

『映像を少し戻して……そう、その位置』

エマの声が聞こえた。

創へ話しているのではなかった。

海上で、何かを見ている。

『下段の最後が、支柱に隠れてる。先生、別のフレームは?』

『そこは動きが速すぎる。潰れている』

石板を読もうとしているのだ。

創は荒い息を吐いた。

自分が床を這っている間にも、エマは諦めていない。

左手で手すりを掴む。

立つ。

足に力が入らず、膝が一度折れかけた。

セトは、そんな創を見ていた。

「まだやるんだ」

創は答えなかった。

彼の肩越しに、第四の石板が見える。

下段。

支柱の陰。

もう少し右へ動けば、見えるかもしれない。

創は呼吸を整えるふりをして、身体の向きを変えた。

胸元のカメラが、石板へ向く。

セトの視線が、そこへ落ちた。

「なるほど」

彼は小さく頷いた。

「君は一人じゃ、読めないんだね」

創は身構えた。

遅かった。

セトの姿が、視界から外れた。

創が右腕を上げる。

その内側へ、白い手が入ってくる。

胸元で、何かが砕けた。

パキッ。

軽い音だった。

続いて、細かな破片が床へ落ちた。

『映像が――!』

エマの声。

セトは創の胸から手を離した。

小型カメラのレンズが、潰れていた。

「よそ見は失礼だよ」

創はセトの腕へ掴みかかった。

指が届く。

届いたはずだった。

次の瞬間、手首を取られていた。

腕が背中側へ回る。

肩に鋭い痛みが走った。

創は歯を食いしばり、骨殻を厚くしようとする。

「――ゴルゴン!」

灰色の組織が盛り上がる。

セトの指は離れなかった。

むしろ、殻が継ぎ合わさる位置へ正確に移った。

ミシ。

創の耳元で、嫌な音がした。

「硬くする場所を間違えてる」

セトが囁いた。

身体をひねられる。

創は肩を守ろうとして、自分から膝をついた。

その頭を越えて、セトの影が前へ回る。

胸の骨殻へ、指先が触れた。

一度。

二度。

同じ場所だった。

ペトラで岩盤を支えたとき、厚く作った胸部の装甲。

海の圧力に耐えるため、さらに形を変えた部分。

いくつもの力の使い方が重なり、継ぎ目になっていた場所。

三度目の衝撃で、そこに亀裂が走った。

パキ、パキパキッ。

創の目が見開かれる。

砕けた。

あの岩盤にも、徹甲弾にも耐えた殻が。

灰色の破片が胸から剥がれ、床へ散った。

その隙間へ、セトの掌が入った。

「――っ、があ!」

創の身体が、後方へ弾かれた。

足場の低い段差へ背中を打ちつける。

息ができない。

吸おうとすると、脇腹の奥が引き裂かれるように痛んだ。

視界の端で、作業灯が二重に揺れる。

『創! 返事をして!』

エマの声が、遠くなる。

創は口を開いた。

声にならなかった。

     *

水が、頬に触れた。

床を薄く流れる、冷たい水だった。

創はそこへ左手をつき、身体を起こそうとした。

指が滑る。

爪が金属を擦った。

右腕には、まだ熱が残っている。

頭の奥には、加速を使ったあとの鈍い痛み。

胸では、割れた骨殻の縁が呼吸のたびに肌へ当たっていた。

三つの力が、それぞれ違う場所で、創の身体を苦しめている。

セトの靴が、視界へ入った。

磨かれた黒い靴だった。

その先端に、水滴が一つついている。

創は、ゆっくり顔を上げた。

少年の白銀の髪は乱れていなかった。

コートの袖口にあった霜も、すでに消えている。

血もない。

汗も、見えない。

「……どうして」

声が漏れた。

セトが見下ろす。

「何が?」

「お前は……何とも、ないのか」

その問いを口にした瞬間、自分が何を聞いているのか分かった。

なぜ痛くない。

なぜ壊れない。

なぜ、お前だけが。

セトは少しの間、創を見つめた。

その口元に、ゆっくり笑みが戻る。

「そういうふうに作られたから」

創の喉が動いた。

「作られた……?」

「父上が、人間の身体に残された欠点を取り除いた」

セトは、自分の手を開いて見せた。

細い指。

傷のない掌。

「君は力を使うたびに、自分の身体と争っている。でも、僕にはその必要がない」

白石の声が飛んだ。

『創、聞くな。そいつが何を知っていようと、お前の――』

「白石」

セトが、初めて笑みを消した。

創の耳元へ、冷たい視線を向ける。

「また、本人の代わりに答えるんですか」

創は息を呑んだ。

セトはすぐに、こちらへ目を戻した。

「君は聞きたいんだろう。父上が、どうして君のところへ戻らなかったのか」

創の左手から、力が抜けた。

床へ肘が落ちる。

「……知ってるのか」

「君を救うための処置は、始まりに過ぎなかった」

セトは言った。

「助かった。でも、足りなかった。だから父上は、先へ進んだ」

創は、幼い頃の病室を思い出した。

白い天井。

機械の音。

顔を覗き込む、眼鏡の男。

その男が何を考えていたのか、創には分からない。

覚えているのは、冷たい手だけだった。

「僕は、その先にいる」

セトの声が落ちる。

創は顔を上げた。

目の前に、自分と同じ色の瞳があった。

だが、その奥には、自分が持っていない確信がある。

父について知っている。

父を、父と呼べる。

その父が何を望んだのか、自分が答えなのだと言い切れる。

「……親父が、そう言ったのか」

セトの目が、わずかに細くなった。

「結果を見れば分かる」

答えは、少しだけ早かった。

だが創には、その違いを考える余裕がなかった。

セトは一歩近づいた。

「君はここへ来るだけで、誰かに治療してもらわなければならない。呼吸するための機械も、進む道を教える声も必要だ」

創の胸元で、呼吸装置の表示が小さく点滅していた。

レオが固定した金具。

白石がつないだ管。

エマが位置を合わせたインカム。

セトの視線が、それらを順に辿る。

「一つでも欠けたら、海の底へ沈んでいただろうね」

創は反論しようとした。

仲間がいたから、ここへ来られた。

それは分かっている。

昨日までなら、そう答えられた。

だが、いま目の前には、一人で立つ少年がいた。

自分の三つの力を、苦もなく退けた少年が。

「父上は、お前を失敗作として見捨てた」

セトの口調から、柔らかさが消えた。

その言葉だけは、どこにも逃がさず突き刺すようだった。

「僕こそが、父上の望んだ完成形だ」

     *

創は、返事をしなかった。

できなかった。

海の底へ来るまでに、何度も痛い思いをした。

丹後では、自分の腕が焼け落ちると思った。

シベリアでは、世界から感覚が消えた。

ペトラでは、骨の内側を砕かれるような痛みに叫んだ。

そのたびに、誰かが手を伸ばした。

水を飲ませ、薬を打ち、名前を呼んだ。

一人では、ここへ来られなかった。

それは事実だった。

父のノートが、頭に浮かぶ。

よくここまで来たな、創。

あの文字を、自分は何度も読み返した。

罠かもしれない。

実験かもしれない。

それでも、その先へ行けば、父へ届くと思っていた。

だが、父はもう、自分の先へ行っていたのか。

追いかけている間に。

追いかけ始めるよりも、ずっと前に。

自分より強く、壊れず、迷わない息子を作って。

「……じゃあ」

創の唇が動いた。

「俺は、何のために……」

最後まで言えなかった。

セトは答えなかった。

ただ、見下ろしていた。

その沈黙が、答えのように感じられた。

創の頬を伝った血が、床の水へ落ちる。

赤い筋が細く広がり、排水溝の方へ流れていった。

指を動かそうとする。

動く。

まだ、動かせる。

なのに、立ち上がる理由が、急に遠くなっていた。

第四の石板は、すぐそこにある。

また身体が壊れて、また誰かに助けられて。

その先にいる父は、本当に自分を待っているのか。

黒い靴が近づいた。

創は顔を上げなかった。

耳の奥で、雑音が弾ける。

その向こうから、誰かが自分の名前を呼んでいた。

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