第28話 生身の潜水艇――水深800メートル
シャッターが下りると、車内が暗くなった。
ガン、と重い音が響く。
創は反射的に肩を強張らせた。
運転席の前に、小さな画面が点灯する。さっきまでフロントガラス越しに見えていた整備区画が、少し歪んだ映像になって映し出された。
「前方、見えてるッス。側面も……よし」
レオが操作卓のスイッチを順番に押していく。
外のカメラが切り替わり、車体の右側、左側、後方の映像が現れた。
「全部壊れたら?」
後部座席から白石が尋ねた。
「そのときは、シャッターを開けるか止まるか。状況次第ッスね」
「昨日よりはまともな答えだ」
「俺、いつもまともッスよ」
レオがレバーを戻す。
シャッターが持ち上がり、朝の光が車内へ差し込んだ。
与那国島へ来て、三日目だった。
アルゴー号の床には、新しい内張りが敷かれていた。色は前のものと少し違う。壁の補修箇所も揃っておらず、外から見れば、車体のあちこちが継ぎ接ぎになっている。
それでも、ドアを閉めた音は変わっていた。
以前のように、最後に金属が擦れる音がしない。
ぴたりと収まり、止まる。
創は簡易ベッドの端へ手を置いた。
押してみる。
揺れなかった。
脇には折り畳み式の処置灯が取り付けられ、白石の解析機へつながる電線が、壁際にまとめられている。
「少し、病院みたいになったな」
創が言うと、レオはバックミラー越しに笑った。
「できれば、あんまり使わねえでほしいッスけどね」
白石が医療用の収納を開き、中身を確かめる。
車体が揺れても器具が飛び出さないよう、一つずつ留め具が付いていた。
「悪くない」
「おっ。今の、録音しとけばよかったッス」
「何度も言わせるな。試走するぞ」
エンジンが低く唸る。
レオがアクセルを踏んだ。
アルゴー号が動き出す。
だが、その出足は、創が覚えているものより重かった。
車体を前へ押し出すまでに、ほんの少し時間がかかる。整備区画の緩やかな上り坂へ差しかかると、エンジンの音だけが先に高くなった。
レオは何も言わず、足元の操作を変えた。
ゆっくりと、車が坂を上っていく。
「……重そうだな」
創が呟く。
「重いッス」
レオは即答した。
「装甲も電源も、空気じゃできてねえんで」
出口の明かりが近づく。
彼は一度だけ計器へ目を落とした。
「でも、外さねえッスよ」
誰も、外せとは言わなかった。
*
日が落ちる頃、入り江の水は黒くなった。
昼間は底まで見えていた浅瀬も、今は波の輪郭しか分からない。海面には細い月明かりが揺れ、その向こうで、沖合の海洋プラントが白い光を並べていた。
遠目には、海の上に浮かぶ小さな街のようだった。
創は岸辺に立ち、その光を見つめていた。
背後で、レオが小型ボートへ機材を運び込んでいる。
船体は、旧保守施設の資材置き場に残されていたものだった。傷んだ箇所を補修し、調達した部品を組み合わせて、どうにか動くようにした。
その上へ、昨日まで金属の枠でしかなかった潜降ソリが固定されていた。
前方にライト。
中央に身体を支える台。
後方には、浮上のための装置と、小さな中継器が取り付けられている。
見た目は、ひどく無骨だった。
創はそれを見て、少しだけ安心した。
レオが作ったものだと、一目で分かったからだ。
「創」
白石に呼ばれ、振り返る。
老学者は呼吸装置を持っていた。
「最後に確認する。帰還の指示を出したら、石板が目の前でも戻れ」
「はい」
「使える時間は、装置の残量だけでは決まらん。お前の身体が先に持たなくなることもある」
創は頷いた。
昼間、浅い場所で試した。
殻は保った。
呼吸もできた。
だが、あれは海面のすぐ下だった。
八百メートルの海の底で何が起きるかは、誰にも分からない。
白石は装置の接続部を確かめ、創の胸元へ固定した。
その手が、少し長く留まった。
「無茶を始める前に、必ず声を出せ」
「先生に止められるから?」
「止めるために、ここにいる」
創は小さく笑った。
白石は笑わなかった。
エマが近づき、創の耳の後ろへ骨伝導インカムを当てる。固定具を調整し、指先で位置を確かめた。
「聞こえる?」
耳を塞いでいないのに、彼女の声が頭の内側へ届いた。
「ああ」
「海中では、途切れることがある。聞こえなくなったら、慌てて進まないで。最後に確認した場所で止まって」
「分かった」
「創」
エマは手を離さなかった。
顔を上げると、彼女は真っ直ぐこちらを見ていた。
「帰ってきてから、続きを考えましょう」
創は頷いた。
父のことも。
石板のことも。
自分の身体のことも。
帰ってこなければ、何も確かめられない。
「……行ってくる」
*
ボートが入り江を出ると、波の揺れが大きくなった。
低く抑えたモーターの音が、船尾で震えている。レオは沖のプラントへ直進せず、海岸の影に沿って進路を取った。
エマは船底に膝をつき、端末の光を上着で覆っている。
海岸に残った白石の声が、通信機から聞こえた。
『生体データは届いている。創、気分はどうだ』
「緊張してます」
『正常だな』
創は暗い海へ目を落とした。
怖い。
そのことを口にする代わりに、右手を一度握り、開いた。
まだ、動く。
レオがモーターを止めた。
急に、波の音が近くなる。
「ここッス」
沖の施設は、船の右前方に見えていた。
水面を走るサーチライトが遠くで向きを変え、白い線となって夜を切っている。
レオとエマが潜降ソリを船縁へ寄せた。
創はマスクを顔へ当てる。
透明な窓の向こうで、二人の顔が少し小さく見えた。
息を吸う。
「――ゴルゴン」
歯の根が、鈍く鳴った。
顎の奥から振動が広がる。
首へ。
肩へ。
胸へ。
灰色の骨殻が、皮膚を押し上げながら身体を包んでいく。
昨日までの試行で覚えた形を、頭の中になぞる。
マスクの縁を覆い、呼吸装置の接続部を囲み、腹部から腰へつなぐ。
関節を閉じすぎるな。
だが、隙間は残すな。
硬さだけでは足りない。
創は目を閉じ、身体の外側にできていく輪郭へ意識を集中させた。
ミシ、ミシ。
骨の軋みが、喉の内側まで響く。
やがて、風を感じなくなった。
波の匂いも消えた。
自分の呼吸だけが、大きくなる。
「気密、確認」
エマの声が聞こえた。
レオが創の肩を軽く叩く。
その感触は、分厚い壁の向こうから届くように鈍かった。
ソリへ身体を預け、固定具を掛ける。
頭の下に冷たい金属が触れた。
視界には、夜空があった。
細い月。
幾つかの星。
レオの顔が、その端へ割り込む。
「行きはこいつに任せて、旦那は殻と呼吸に集中してくだせェ」
創は親指を立てた。
レオも、同じように返した。
ソリが傾く。
空が横へ流れた。
黒い水面が、視界いっぱいに迫る。
そして、海が閉じた。
*
最初に消えたのは、風だった。
次に、船の音。
ボートの底が頭上で揺れている。そこへ細い気泡が昇り、銀色の粒となって散った。
ソリが沈む。
創は胸を動かした。
吸える。
吐ける。
それを確かめるだけで、数秒かかった。
『創、聞こえる?』
エマの声。
「ああ。聞こえる」
声は、自分の耳へ届くまでに、骨の内側で何度か反響した。
視界の隅で、深度表示が変わる。
三十。
五十。
八十。
上を見ようとしたが、ソリに支えられた身体は自由に曲がらなかった。
首を少し動かす。
骨殻の接合部が、ギ、と鳴る。
創はそこで動きを止めた。
――百メートル。
海面の明かりは、すでに見えなくなっていた。
前方のライトが、青白い円錐を水の中へ伸ばしている。その中を、無数の白い粒が流れていく。
雪に似ていた。
だが、どの粒も同じ方向へ落ちているわけではない。
回り、漂い、ふいに光の外へ消える。
創は、その一つを目で追いかけた。
途中で、輪郭がやけに鮮明になった。
周囲の粒まで、細かな動きを伴って見え始める。
まずい。
創は息を吐いた。
見なくていい。
今は、見なくていい。
ヘルメスを引き出すつもりはなかった。
ただ暗闇を確かめようとしただけで、知覚が勝手に鋭くなる。
『呼吸が速い。創、私の声を聞け』
白石だった。
『装置は動いている。吸うことを急ぐな』
創は目を閉じた。
吸う。
吐く。
次の息を、少し待つ。
肺の動きに合わせて、胸を覆う殻の内側が微かに擦れた。
痛みがあった。
それでも、呼吸はできた。
――三百メートル。
ミシッ。
背中で、何かが鳴った。
創の目が開く。
殻だ。
背中から腰へ続く部分が、外から強く押し込まれている。
痛いのではない。
自分の形が、少しずつ変えられようとしている感覚だった。
創は腹へ力を入れた。
骨殻の輪郭を、もう一度思い浮かべる。
水を押し返す。
身体の外側を、閉じたままにする。
ミシ、ミシミシッ。
音が増えた。
「……先生」
『聞こえている』
「背中が、鳴ってる」
短い間があった。
『内側の圧力は保たれている。だが、嫌な感覚が強くなるなら降下を止める』
創は計器を見た。
殻の内側を示す数字は、ほとんど変わっていない。
外の数字だけが、増えていく。
「まだ……大丈夫」
『我慢比べではないぞ』
「分かってる」
返事をした直後、右の脇腹が引きつった。
ペトラで傷めた場所だった。
身体を動かしていないのに、殻を維持するための緊張が、筋肉の奥へ重く積もっていく。
創は歯を食いしばった。
舌に、薄い鉄の味がした。
――五百メートル。
海は、完全な黒になった。
ライトの届く範囲だけが存在していて、その外側には何もない。
上も、下も、岸も分からない。
装置が傾けば、世界全体が傾いた。
創はふと、固定具を外したらどうなるのかと考えた。
このまま、永遠に落ちていくのではないか。
海底など、本当はどこにもないのではないか。
『……そう……聞こえ……』
エマの声が途切れた。
「エマ?」
ザッ。
短い雑音。
その後、何も聞こえなくなった。
創は口を開いた。
「レオ。聞こえるか」
返事はない。
自分の呼吸音だけが、頭蓋骨の中を満たした。
スウ。
ハア。
スウ。
ハア。
急に、その音が息苦しく感じられた。
この小さな機械が止まったら。
骨の殻が、どこか一か所でも割れたら。
海面には仲間がいる。
だが、今ここで手を伸ばしてくれる者はいない。
創の右腕に、微かな熱が生まれた。
恐怖に呼応するように、掌の奥が疼く。
プロメテウス。
火を出せば、少なくともこの闇は――。
「……駄目だ」
自分へ向けて呟いた。
熱を放てば、位置が知れる。
気泡が上がり、機械も、自分の呼吸も、何が起こるか分からない。
創は右手を開いた。
指を一本ずつ伸ばす。
掌の熱を、ゆっくり引き戻す。
今、頼れるのは炎ではない。
殻を閉じること。
息を続けること。
教えられた手順を、忘れないこと。
創はソリの停止操作を入れた。
降下が緩む。
固定された身体が、暗い水の中で小さく揺れた。
待つ。
何もせず、待つ。
それが、ひどく難しかった。
やがて、雑音が戻った。
『……創! そのまま止まって!』
エマの声だった。
創は息を吐いた。
「止まってる」
『海底の設備が近いの。音響の反射が強くなってる。レオくんが中継器を調整してるから』
「ああ」
声が聞こえただけで、海に上下が戻ったような気がした。
*
海底は、突然現れた。
白い粒の向こうに、灰色の面が浮かび上がる。
岩だった。
巨大な岩盤が階段のように重なり、その間を、黒い管が横切っている。
人工の管。
そのさらに奥には、細長い光が幾つも並んでいた。
創は息を止めかけ、すぐに吐いた。
アダム社の海底施設だった。
深度表示は、七百八十を越えていた。
『その先はソリを置いていく。右側の窪みに入れられるッスか』
レオの声が戻っていた。
創は小さく返事をし、ソリの姿勢を変えた。
岩陰へ滑り込む。
着底の衝撃が、脚から腰へ伝わった。
砂が舞い上がり、一瞬、視界が白くなる。
創は固定具を外した。
身体を起こす。
重かった。
陸上で骨殻を纏ったときとは違う。
水が、動こうとする腕を押し戻す。膝を曲げるだけで、関節を包む殻が鈍く軋む。
『ソリの中継器へ接続して。そこからは、細い線があなたについていく』
エマが言った。
創はソリの側面から接続端子を取り、胸元の受け口へ差し込んだ。
カチリ。
声が変わった。
遠く、水の向こうから届いていた声が、急にはっきりする。
ソリまで降ろされた光ケーブルと、そこから伸びる細い通信線。
海面へ続く、頼りない道だった。
『映像、届いたわ』
エマが息を吐く。
『創、少し右を向いて』
創は顔を動かした。
岩盤の切れ目に、白い光が走った。
一本。
次いで、もう一本。
『ライトを消して』
創は即座に従った。
暗闇の中を、サーチライトが横切る。
その光源が、ゆっくり姿を現した。
丸い胴体。
左右に突き出した小さな推進器。
下部には、細い腕のようなものが折り畳まれている。
無人巡回ドローンだった。
創は岩へ身体を寄せた。
灰色の殻が、硬い表面に触れる。
ドローンの光が、海底を舐めて進んでくる。
逃げるべきか。
動けば見つかる。
止まっていても、光はここへ来る。
創の唇が動いた。
「……ヘルメス」
世界が、わずかに遅くなった。
サーチライトの向き。
機体が傾く角度。
岩の縁に伸びる影。
必要なものだけが、明確になる。
だが、腕を動かそうとすると、水は変わらず重かった。
思考だけが先へ行く。
身体は、その速度についてこない。
創は大きく動くのをやめた。
肩を引く。
頭を下げる。
岩からはみ出していた膝を、ほんの少し内側へ収める。
白い光が、目の前を通った。
透明窓のすぐ外で、漂う粒が眩しく輝いた。
創は動かなかった。
光が離れる。
ドローンの尾部が向きを変え、施設の支柱の向こうへ消えていった。
創はヘルメスを解いた。
心臓が、急に速く打ち始めた。
『通り過ぎたわ』
エマが言った。
『もう大丈夫。ゆっくり進んで』
創は頷こうとしたが、やめた。
その小さな動作にも、今は力が必要だった。
*
排水設備に沿う保守通路は、人が一人通れるほどの幅しかなかった。
上には太い配管。
足元には金属の格子。
片側の手すりは途中で途切れ、その外にはライトの届かない海底が落ち込んでいた。
創は手すりを掴んだ。
一歩進む。
骨殻の足裏が格子へ触れ、鈍い振動が脚を上った。
陸上なら数分もかからない距離だった。
今は、一歩ごとに呼吸を整えなければならない。
身体の表面を押す力が、ずっと続いている。
殻を作った瞬間だけ耐えればよいのではなかった。
止まっていても。
歩いていても。
考えていないときでさえ。
海は、休まず押してくる。
『創、心拍が上がっている』
白石の声。
「分かってる」
『右肩の出力が不安定だ。そちらへ力を寄せすぎるな』
創は右手を見る。
手すりを握る指の付け根に、細かな筋が走っていた。
亀裂なのか。
表面の模様なのか。
確かめる余裕はない。
創は左手へ持ち替え、右腕の殻を整えた。
指先へ意識を向けすぎると、今度は背中が軋んだ。
全身を、一つの形として保たなければならない。
頭の中で、自分の身体を何度も描き直す。
その輪郭が少しでも曖昧になると、海がそこへ指を入れてくるようだった。
「……まだ、着かないのか」
『前方、右側。壁の青い灯りが見える?』
エマが言う。
創は顔を上げた。
あった。
小さな青い光。
その下に、円形のハッチが見える。
ようやく、入口だった。
創は最後の数歩を進んだ。
ハッチの前で止まり、外側の操作盤へ手を伸ばす。
『そのまま。準備した認証を送る』
白石が言った。
青い表示が消えた。
赤くなる。
創の心臓が跳ねた。
数秒。
暗闇の中で、赤い光だけが瞬いている。
背後の海が気になった。
ドローンが戻ってくるかもしれない。
創は振り返らず、表示を見つめ続けた。
やがて、緑に変わった。
ハッチの周囲から気泡が漏れる。
重い金属が、ゆっくり動いた。
『入れ。線を扉に挟むなよ』
レオの声がした。
創は通信線を脇の保守用接続口へ移し、開いた隙間へ身体を滑り込ませた。
狭い区画だった。
正面に、もう一枚の扉がある。
壁には作業用の取っ手と、非常灯。
創が中へ収まると、背後のハッチが閉まった。
海が、鋼鉄の向こうへ消えた。
*
排水が始まった。
低い唸りが、足元から伝わってくる。
水面が、頭の上からゆっくり下がった。
肩へ。
胸へ。
腰へ。
骨殻に包まれた身体が、空気の中へ現れていく。
それでも、創は殻を解かなかった。
白石が何度も言っていた。
水がなくなっただけで、外へ出たと思うな。
計器を見ろ。
数字が落ち着くまで待て。
創は壁へ背中を預けた。
脚が震えている。
骨殻の内側で、膝が勝手に曲がりそうになる。
あと少し。
あと少しだけ。
区画の表示が、ゆっくり変化していく。
機械が止まった。
静寂。
それから、短い電子音が鳴った。
『……常圧になった。創、顔の殻を開けていい』
白石の声が聞こえた。
創は顎へ意識を集めた。
動かない。
焦りが胸を刺す。
もう一度。
薄くする。
つなぎ目を開く。
ゴリ、と嫌な音がした。
マスクの縁を覆っていた骨殻が、少しずつ後退する。
創は左手を上げ、固定具を外した。
空気が触れた。
冷たい。
乾いている。
鉄と、薬品のような匂いがする。
創は口を開いた。
「……は、あ……っ」
自分の肺で、吸う。
呼吸装置を通さない空気が、喉を抜けた。
もう一度吸う。
胸が痛い。
それでも、吸える。
創はその場に片膝をついた。
灰色の殻から水滴が落ち、床を小さく叩いた。
『旦那?』
レオの声。
「……着いた」
言った途端、全身から力が抜けそうになった。
エマが息を吐く音が聞こえた。
白石はすぐに、次の指示を出した。
『そこで少し休め。殻は一度軽くしていいが、帰りに使う分の余力は残せ』
「ああ」
創は頷き、肩と腕の殻を薄くした。
圧迫から解放された筋肉が、遅れて痛み始める。
右の脇腹を押さえ、深く息を吐いた。
海底へ着いた。
父のノートに記されていた場所へ、自分の足で来た。
顔を上げる。
内側の扉の表示が、緑に変わっていた。
創は眉を寄せた。
まだ、何も操作していない。
ゆっくりと、扉が開く。
その向こうには、薄暗い通路が続いていた。
床に埋め込まれた照明が、一定の間隔で奥へ並んでいる。
誰もいない。
警報も鳴らない。
静かすぎた。
「……エマ」
『見えてる。待って、施設図ではその先に――』
コツン。
声に重なるように、硬い音がした。
創は息を止めた。
コツン。
また、聞こえる。
足音だった。
通路の奥。
照明の届かない場所から、誰かが歩いてくる。
創は壁へ手をつき、立ち上がった。
右拳を握る。
掌の奥で、微かな熱が灯る。
暗がりの中で、足音が止まった。
「ずいぶん、時間がかかったね」
若い男の声だった。
柔らかく、よく通る。
創は目を細めた。
黒い輪郭の上に、白いものが浮かぶ。
髪だった。
「待っていたよ」
少年が、一歩だけ明かりの中へ出た。
その瞳が、創を捉える。
見覚えのある色だった。
鏡の中で、何度も見てきた色。
琥珀色。
少年の口元に、薄い笑みが浮かんだ。
「――オリジナル」




