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第27話 沈んだ城

朝の整備区画には、焦げた油と、温め直したコーヒーの匂いが混ざっていた。

床に広げた紙の上で、レオが太い鉛筆を走らせている。

車体の輪郭らしい四角。その下にいくつもの線。脇には、部品の名前と数字が隙間なく書き込まれていた。

「……足りねえ」

レオは紙を睨んだ。

一本の線を消し、別の場所へ描き直す。

「こっちに回すと、今度はドアの方が足りねえんだよな」

「何が足りないんだ?」

背後から声をかけると、レオは振り返った。

創は上着を肩へ掛け、休憩室の戸口に立っていた。まだ歩くたびに右の脇腹が痛むが、壁へ手をつかずに立っていられる。

レオはその足元を見てから、紙へ視線を戻した。

「部材も、工具も、時間も。あと、できれば腕が二本くらい欲しいッス」

「それは先生に頼めば?」

「冗談でも言わねえでくだせェ。あのオヤジ、真顔で考え始めるから」

車体の向こうから、白石の声が飛んだ。

「聞こえているぞ」

レオが肩をすくめた。

アルゴー号の側面には、すでに新しい支持材が入っていた。ただし、外板はまだ戻されていない。剥き出しの配線が束ねられ、床には取り外した金具が大きさごとに並べられている。

白石は車内へ頭を突っ込み、医療用ベッドを置く区画を測っていた。

「ここへ電源を分ける。照明と解析機だけは、車の都合で落とされては困る」

「分かってるッス。でも、それ積んだ分だけ重くなるんスよ」

「軽さと引き換えに点滴台を飛ばされたいか?」

「そりゃ嫌ッスけど」

レオは図面の隅へ、また数字を書き足した。

その横で、創の腹が鳴った。

小さな音だった。

だが、二人とも顔を上げた。

レオが口元を緩める。

「こっちの燃料も足りねえみたいッスね」

     *

集落へ向かう道は、海から離れるにつれて緩やかに上っていた。

低い石垣の間を、潮を含んだ風が抜ける。道端の草は白っぽく乾き、その上を小さな配送機が影を滑らせていった。

エマは買い出し用の袋を肩へ掛け、創の半歩先を歩いていた。

「速くない?」

彼女が振り返る。

「大丈夫。これくらいなら」

「痛くなったら言ってね」

創は頷いた。

白石には何度も念を押された。

荷物は持たない。

長く歩かない。

能力は使わない。

それでも外へ出る許可が下りたのは、食事を取り、少し身体を動かせる程度には回復したと認められたからだった。

胸のポケットには、白石から渡された古い紙幣が入っている。

二〇五〇年の街では使える場所が限られるが、港に出入りする船員を相手にする店なら、まだ受け取ってくれるらしい。

「レオの方、うまくいくかな」

創が尋ねると、エマは袋から折り畳まれた紙を出した。

部品の名前が、雑な字で並んでいる。

「昨日のお店で、船の修理をしている人を紹介してもらったの。先生とレオくんが、あとで見に行くって」

「船の部品で車を直すのか?」

「使えるものもあるみたい。私には半分くらいしか分からないけど」

エマは紙を畳み直した。

「レオくんには、ちゃんと分かるのよね」

創は昨日の夜を思い出した。

傷んだ支持材を外し、新しい金属を当てていた手。

どこを残し、どこを替えるか。

レオは迷うこともあったが、最後には必ず自分で決めていた。

「……すごいよな」

「ええ」

エマは、自然に頷いた。

道の先に、小さな食堂があった。

軒先の布が風に揺れ、入口のガラス戸には、手書きの献立が貼られている。看板の片隅では、古い電子表示が同じ二文字を繰り返していた。

営業中。

その光だけが、少しちらついていた。

     *

店の中は、だしの匂いで満ちていた。

天井の扇風機がゆっくり回り、開いた窓から入る風とぶつかっている。奥のテレビは音を絞られ、海上交通の映像を流していた。

創たちは窓から離れた席へ座った。

しばらくして、大きな丼が二つ運ばれてきた。

湯気の向こうに、太い麺と肉が見える。

創は箸を取った。

一口目を飲み込んだとき、思わず目を閉じた。

塩気。

脂。

温かい汁。

身体のどこかが、ようやく食べ物に気づいたような感覚だった。

「……おいしい」

エマも小さく息を吐いた。

「ちゃんとした食事、久しぶりね」

創は返事の代わりに、もう一口食べた。

その食べ方を見て、店の女主人が笑った。

「足りなかったら言いなさい。ご飯もあるから」

「すみません」

「謝ることじゃないよ」

女主人は空いた皿を片づけながら、窓の外へ目を向けた。

「潜りに来たの?」

創の箸が止まりかけた。

エマが先に答えた。

「海を見たくて。遺跡の話も聞いていたので」

「今は、あまり近づかない方がいいねえ。沖に会社の大きな施設ができてから、入れない場所が増えたから」

テレビの中で、灰色の船が海を横切っていた。

船腹に、青白い二重螺旋の紋章が見える。

創は、丼へ視線を落とした。

「遺跡なら、昔からある」

店の奥から声がした。

窓際の席に、老人が一人座っていた。

日焼けした手で、小さな湯呑みを包んでいる。作業着の袖は肘までまくられ、細い腕には古い傷がいくつもあった。

「海の底に、城が沈んでるってな」

女主人が肩をすくめる。

「またその話」

「聞かれたから話してるんだ」

「まだ誰も聞いてないでしょう」

エマが顔を向けた。

「どんなお話なんですか?」

老人は少しだけ背筋を伸ばした。

「わしの祖母が言ってた。波の下には、石を積んでもいないのに壁のある城があって、その奥には、天の火花を抱いたものが眠ってるって」

創の箸が、今度こそ止まった。

天の火花。

父のノートに残されていた言葉が、脳裏へ浮かぶ。

――絶対の圧力に耐え、万の雷を呼べ。

「それに触れた人間がいた。城じゅうが青く光って、海が沸き立った。気がついたら、城は波の下へ消えていたそうだ」

老人は湯呑みを持ち上げた。

「欲張って、空のものを地べたへ引きずり下ろすな、って話だろうな」

創はエマと目を合わせた。

彼女の表情も変わっていた。

「そのお話、文字で残っているものはありますか?」

「さあな。ばあさんは歌にしてたが」

「歌?」

老人は少し考え込んだ。

指先で、卓上を叩く。

二度。

間を置いて、三度。

それから、低い声で短い節を口ずさんだ。

創には、言葉の意味が分からなかった。

ところどころ日本語に聞こえる音もある。だが、その間に挟まる擦れた息と、妙に長く伸ばされる母音が、普通の歌とは違っていた。

老人は途中で首を振った。

「違うな。最後は、もっと息を抜いてたか」

エマが身を乗り出した。

「すみません。それ、もう一度聞かせていただけませんか」

老人が瞬きをする。

「こんな歌でよければ」

「録音してもいいですか?」

「構わんよ。覚えてるところだけだがね」

エマは端末を卓上へ置いた。

老人が再び歌う。

扇風機の音に混ざった、かすれた声。

創は、その節を聞きながら右手を見た。

何も起きていない。

熱も、加速も、骨の変化もない。

それでも、歌の終わりに喉の奥が微かに疼いた気がした。

老人が口を閉じる。

エマは録音を止めた。

「ありがとうございます」

「研究でもしてるのかい」

「ええ。古い言葉を、少し」

老人は嬉しそうに頷き、また湯呑みへ手を伸ばした。

創は冷めかけた汁を飲んだ。

さっきまで優しかった店の音が、急に遠く感じられた。

父は、この歌を聞いたのだろうか。

この島へ来て、同じように誰かの話を聞き、海を見たのだろうか。

その答えは、どこにもなかった。

     *

午後、旧保守施設へ戻ると、整備区画の入口に見慣れない箱が積まれていた。

金具、密閉容器、太い電線。

その横で、レオが腕を組んでいる。

「いいものあった?」

エマが尋ねた。

「使えそうなものは。お値段も、それなりだったッス」

「値切りすぎて、途中から先方が黙っていたぞ」

白石が車内から言った。

「黙ったのは、俺の熱意に感動したからッス」

「最後に『もう帰れ』と言っていたがな」

創は笑いかけて、途中で足を止めた。

運転席の窓の上に、厚い板が仮付けされていた。

レオが取っ手を引くと、それが下りて窓を覆う。

ガン、と重い音がした。

「防護シャッターッス。こっちを閉めれば、ガラスが割れても、そのまま車内へ破片が飛び込むのは減らせる」

「でも、前が見えなくなるだろ」

「だから、必要なときだけ閉める。外のセンサーも付け直すけど、そっちが壊れりゃ、俺が勘で運転するしかねえッス」

白石が顔を出した。

「勘で走る前に止まれ」

「止まってたら撃たれるときの話ッスよ!」

レオはシャッターを戻した。

腕に力が入っているのが分かる。

創が触れると、金属は厚く、重かった。

「こんなの増やして、走れるのか?」

「走るッス。ただ、今までみたいに元気よくは飛び出せねえ。燃料も余計に食う」

「それでも付ける?」

レオは、昨日外した装甲板を見た。

小さな穴が開いている。

「付けるッス」

返事は短かった。

     *

夕方、アルゴー号から外したテーブルを囲み、四人が集まった。

中央には、父のゲノム・フィールドノートが開かれている。

青い海のスケッチ。

水深八百メートルという数字。

その脇へ、エマが端末から投影した海底地形が重なった。

起伏の激しい海底に、人工的な直線が幾本も食い込んでいる。作業用の支柱、連絡管、海面のプラントから延びる降下設備。

その最下部に、大きな空洞があった。

「港の工事資料と、公開されていた設備の搬入記録を照合したわ。全部は分からないけど、アダム社はこの空洞に作業区画を作っている」

エマが一点を拡大した。

「耐圧隔壁と、出入りするためのエアロック。内部は、地上に近い気圧に保たれているみたい」

「石板は、その奥か」

創が呟く。

「ノートの座標は一致してる。それに、食堂で聞いた歌……」

エマは録音した声を再生した。

古老のかすれた節が、整備区画へ流れる。

レオが首を傾げた。

「子守唄みたいッスね」

「長い間、歌として伝わったんだと思う。意味が失われて、音だけ残った部分がある」

エマは画面へ波形を表示した。

「この息の切り方。石板に刻まれていた音律と似てる。でも、今ある情報だけでは読めない。現物を見て、確かめる必要があるわ」

歌が止まる。

機械の低い音だけが残った。

白石は腕を組んだ。

「問題は、どうやってそこへ行くかだ」

誰もすぐには答えなかった。

空洞の上には、八百メートルの海がある。

創は、テーブルの下で右手を握った。

「レオ。アルゴー号の潜水仕様は……」

レオは目を伏せた。

少しして、首を振る。

「無理ッス」

創は黙った。

レオが続ける。

「ペトラを出たときは、勢いで言った。でも、これ見たら……」

彼は車体の骨組みへ目をやった。

「浅いとこを渡るのと、八百メートル沈むのは別の話ッス。穴を塞いで、水が入らねえようにしただけじゃ、そこまで持たない」

その声に、言い訳はなかった。

「悪いッス。連れてってやるって言ったのに」

「謝ることじゃない」

創は言った。

昨日、自分が言われた言葉だった。

レオが顔を上げる。

創は右手をテーブルへ置いた。

「俺が潜る」

白石の目が細くなった。

「どういう意味だ」

「ゴルゴンを使う。ペトラじゃ、岩盤を受け止められた。あれで身体を全部覆えば――」

「殴られて壊れないことと、海の底で生きられることは同じではない」

白石が遮った。

指先で、地形図の八百という数字を叩く。

「目はどうする。口は。呼吸は。関節の隙間から水が入ったら? 外側が硬くても、内側が潰れれば終わりだ」

創は唇を噛んだ。

「じゃあ、内側が潰れない形にする」

「簡単に言うな」

「簡単だなんて思ってない」

声が少し強くなった。

白石も黙る。

創は自分の右腕を見た。

あのとき、骨は皮膚の内側からせり上がり、筋肉を包み込んだ。

身体の外側に、もう一つの輪郭ができた。

あれを、ただ厚くするのではなく。

つなぐことができたら。

「石板に触れるためには、誰かが行かなきゃならない。潜水艇がないなら、俺の身体で作るしかないだろ」

白石は、長い間、創を見ていた。

やがて、椅子を引いた。

「……試すだけだ」

「先生」

「試して、駄目ならやめる。その約束ができなければ、私は手伝わん」

創は頷いた。

     *

最初の試みは、失敗した。

創が右腕へゴルゴンを発現させると、灰色の硬質な組織が皮膚を覆った。

肘を動かす。

関節の内側に、細い隙間ができる。

白石はそこを指した。

「ここから入る」

二度目は、隙間を閉じようとして腕が動かなくなった。

三度目には、創の指先が細かく震え始めた。

「止めろ」

白石が言った。

創は息を吐き、骨殻を解除する。

薄い灰色の破片が、床へ落ちた。

「……くそ」

エマがタオルを差し出した。

「一度に全部やろうとしないで。まず、形を覚えるところから」

レオは床にしゃがみ、剥がれた骨殻の欠片を見ていた。

「旦那。その殻、身体にぴったりくっつける必要、あるんスか?」

創は顔を上げた。

「分からない」

「だったら……こっちに合わせられねえかな」

レオが持ってきたのは、船舶整備用の古い呼吸マスクだった。

透明な窓と、顔を囲む硬い枠がある。

「人間の顔って、隙間だらけッスから。こいつを芯にして、周りへ殻を伸ばす。目と口は中へ残すんだ」

白石がマスクを受け取った。

ひっくり返し、接続部を調べる。

「これだけでは深海の圧力には耐えんぞ」

「外は旦那の骨に任せるッス。こいつは内側の形を作るだけ。呼吸の方は、オヤジの仕事」

白石は返事をしなかった。

代わりに、テーブルの紙を引き寄せた。

鉛筆で線を描く。

一本。

その脇に、もう一本。

創は、二人の手元を見つめた。

自分の身体の輪郭が、少しずつ紙の上へ現れていく。

その周囲に、呼吸のための装置と、骨の殻が描き足されていった。

     *

夜が深くなる頃、創は作業台の前に座っていた。

顔には、レオが調整したマスク。

背後では、白石の組んだ呼吸循環装置が低く動いている。

まだ陸上の試験だった。

水圧に耐えられるかどうかは、何も証明されていない。

それでも、創の顎から頬へ伸びた灰色の骨殻は、マスクの縁へ沿ってつながっていた。

「呼吸は?」

白石が尋ねる。

「できる」

声が、内側で響いた。

狭い空間に自分の息が戻ってくる。

吸う。

吐く。

その音が、ひどく大きい。

エマが創の正面へ立った。

「今、開けられる?」

創は頷き、顎の周囲へ意識を集中させた。

骨殻の一部がゆっくり薄くなり、マスクの下端が外れる。

冷たい室内の空気が、口元へ触れた。

創は深く息を吐いた。

白石が計器を見ている。

「接続部分は、ひとまず保っている。ただし、深度を上げればどうなるかは別だ。お前自身が殻を維持できる時間も分からん」

「呼吸装置の方は?」

「無限ではない。途中で戦えば、それだけ帰りの余裕が削られる」

帰り。

創はその言葉を、口の中で繰り返した。

海底へ着くだけでは駄目なのだ。

石板を読み、敵を避け、もう一度八百メートル上へ戻らなければならない。

レオが、車体の脇から長い金属枠を引きずってきた。

昼間、アルゴー号の補強に使うと言っていた部材だった。

「それ、車のじゃなかったのか?」

創が尋ねる。

「一部、こっちへ回すッス」

レオは床へ置き、枠の端を叩いた。

「潜るときのソリ。それと、帰ってくるための装置を載せる」

「アルゴー号の方は?」

「別のでやる。少し面倒になるだけッス」

彼は工具を取った。

創はしばらく、その背中を見ていた。

昨夜は、自分が眠る場所を直していた。

今は、自分が帰ってくるためのものを作っている。

「……レオ」

「何スか」

「ちゃんと戻る」

レオの手が止まった。

肩越しに、創を見る。

「そうしてくだせェ」

短く答えて、また工具を動かした。

エマが、創の前へ小さな鏡を置いた。

顔の周囲には、まだ灰色の骨殻が残っている。

頬の線が変わり、顎が厚くなっていた。透明な窓の奥にある琥珀色の瞳だけが、自分のものだとはっきり分かる。

創は鏡へ手を伸ばした。

指先が、冷たい表面に触れる。

海の底へ行くには、この姿にならなければならない。

鏡の中で、自分の後ろをエマが横切った。

白石は机へ向かい、レオは床で金属枠を組んでいる。

創は、もう一度息を吸った。

呼吸の音が、骨の内側で響いた。

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