第26話 青い海とノイズ
アルゴー号が止まったあとも、床下では何かが鳴っていた。
カン。
少し間を置いて、もう一度。
カン、カン。
冷えていく金属の音にしては、妙に硬い。車体の奥で、小さな部品が転がり続けているような音だった。
レオはハンドルから手を離さず、じっと耳を澄ませていた。
フロントガラスの向こうには、与那国島の海が広がっている。岬の突端で白い波が砕け、風に押された草が、同じ方向へ低く伏せていた。
「……レオ?」
創が声をかけると、彼はバックミラー越しに目を上げた。
「ちょっと待っててくだせェ」
いつもの軽い返事だった。
だが、エンジンを切る指先は慎重だった。
レオは車を降り、運転席側の下へしゃがみ込んだ。次いで腹這いになり、肩から先を車体の下へ差し入れる。
工具が金属に触れる音。
短い沈黙。
「オヤジ」
床下から声がした。
「ここ、整備ピットあったッスよね」
白石が助手席から顔を出す。
「ああ。カプセルの格納庫の隣だ」
「戻るッス」
レオが車体の下から這い出してきた。
頬には黒い油がついている。
彼は立ち上がると、目の前の海を一度だけ見た。
「海水浴の前に、この子の診察が先ッス」
*
旧保守施設の整備区画には、長い年月をかけて入り込んだ砂が、床の隅へ薄く積もっていた。
高い天井には、黄色い吊り上げ装置が渡されている。壁際に並ぶ工具棚の扉は赤錆に覆われていたが、その奥の密閉ケースには、まだ油紙に包まれた部品が残っていた。
レオはそれらを素早く確かめ、照明の生きている一角へアルゴー号を誘導した。
車体の中央が整備ピットを跨ぐ位置で、エンジンを止める。
静かになった途端、冷却ファンの回転音がひどく苦しそうに聞こえた。
「先生、私は海側の出入口を見てきます。外から車が見えないか、確認しておきたいので」
エマが端末を手に立ち上がった。
「一人で遠くへ行くなよ」
「すぐそこまでです」
彼女が出ていくのを見送り、創はベッドの端へ足を下ろした。
膝の奥が鈍く痛んだ。
昨日よりは、ましだった。
いや、本当に昨日なのか。
光のないチューブの中では、眠りと覚醒の境目ばかりが増えて、日付の感覚はとうに曖昧になっていた。
創はベッドの縁を握り、ゆっくり立ち上がる。
その動きを、白石が見逃すはずがなかった。
「何をしている」
「降りるだけです。ずっと寝てたから、少し……」
「立てることと、治ったことは違うぞ」
白石はそう言いながらも、創の肘へ手を添えた。
三段しかないステップが、やけに高く感じられた。
床へ降りると、ひんやりした空気が足元から上ってくる。創は車体へ左手をつき、初めて少し離れた位置からアルゴー号を見上げた。
そして、言葉を失った。
車内にいる間は、分からなかった。
艶消しの黒だったはずの外板は、砂と煤に覆われて灰色になっている。側面には、拳が入りそうな凹みがいくつも並び、その周囲を幾筋もの傷が斜めに走っていた。
窓の一枚は、別の金属板で塞がれている。
その縁には、シベリアで貼ったらしい補修材が、乾いて白くひび割れていた。
ドアの下半分は大きく歪み、閉じていても隙間が見える。
それを針金と金具で無理に引き寄せ、留めてあった。
「……こんなに」
創が呟く。
ピットの中から、レオの声が返った。
「中にいると、意外と分かんねえんスよ」
電動工具が短く唸った。
側面の装甲板を留めていたボルトが、一つずつ外れていく。
「もともと、何十年も前のキャンピングカーッスからね。鉄板貼って、窓を替えて、いろいろ誤魔化してるけど……本職の装甲車じゃねえんだ」
最後のボルトが抜ける。
レオが外板を持ち上げると、その裏から小さな黒い塊が落ちた。
カラン。
塊はコンクリートの床を跳ね、創の靴の近くで止まった。
創はそれを見下ろした。
先端が潰れた、弾丸だった。
白石が屈み、拾い上げる。
レオは何も言わなかった。
外板を壁へ立てかけ、露出した車体の内側へライトを当てる。
光が、破れた断熱材を照らした。
その奥の金属に、小さな穴がある。
レオが細い棒を差し入れると、棒の先端は、内張りのすぐ手前まで入った。
創は車内の配置を思い浮かべた。
その場所には、簡易ベンチがあった。
シベリアで、エマが座っていた場所だ。
「……いつのだ?」
自分でも驚くほど小さな声だった。
「たぶん、クレーターで囲まれたときッス」
レオは棒を抜いた。
「この前のペトラの傷とは、向きが違う」
いつもなら、ここで騒ぐはずだった。
俺のアルゴーちゃんに何しやがる。
修理代を請求してやる。
そんな大声が響いて、白石が怒鳴り返すはずだった。
だが、レオは黙ったまま、次の箇所へライトを移した。
創も何も言えなかった。
あと少し。
それだけで、隣に座っていた人がいなくなっていた。
ベッドで眠っている間も、彼らはこんな薄い壁の向こうに死を置いて、走り続けていたのだ。
「……こっちもかよ」
レオが低く言った。
彼のライトは、車体下部の支持材を照らしていた。
付け根から伸びた細い線。
錆の筋に見えたそれを、レオが指で擦る。
線は消えない。
「亀裂だな」
白石が言った。
「ベッドの下ッス」
レオは答えた。
「ペトラで着地したときか、その前か……。どっちにしろ、このまま荒い道を走りゃ、広がる」
創は自分の足元を見た。
何度も意識を失い、何度も目覚めたベッド。
そこを支えていたのも、傷ついた金属だった。
「悪かった、レオ」
口から、自然に言葉が出た。
レオが顔を上げる。
「何がッスか」
「俺が、もっとちゃんと……」
「そいつは違う」
鋭い声だった。
創は言葉を止めた。
レオは手にしていた工具を置いた。置き方が少し乱暴で、乾いた音が整備区画に響く。
「創の旦那が外で倒れるまで踏ん張ってる間、俺はこいつのハンドルを握ってたんスよ」
レオの視線が、車体の穴へ向く。
「だったら、中くらいは安全にしとかなきゃ駄目だろ」
創は、何も返せなかった。
レオは頭を掻いた。
油のついた手で掻いたせいで、髪の一部が黒く固まる。
「ああ、くそ。……思ってたより、ひでえな」
それは、誰へ向けた悪態でもなかった。
しばらくして、レオは工具を拾い直した。
「二、三日くだせェ」
白石を見る。
「足回りと骨組みを直す。ドアも窓も、もう少しましにする。全部を新品にはできねえけど、次に撃たれたとき、中で誰かが血を流すのは減らせる」
「部材は足りるのか」
「使えるもんを、これから探すッス。足りなきゃ島で調達する」
白石は車体を見渡し、ゆっくり頷いた。
「分かった。創にも、それくらいの休養は必要だ」
「俺も、できることなら――」
「寝ることだ」
白石とレオの声が、ほとんど重なった。
創は口を閉じた。
そのとき、整備区画の入口からエマが戻ってきた。
「海側は大丈夫。岩壁がせり出していて、沖からもここは見えにくいわ。出入口も閉めれば――」
彼女は、外された装甲板と、三人の顔を見比べた。
「……何かあった?」
レオが、ひょいと工具を肩へ担いだ。
「アルゴーちゃん、しばらく入院ッス」
いつもの声に戻っていた。
だが創には、その軽さが少しだけ違って聞こえた。
*
昼を過ぎる頃には、車内の熱気が整備区画へ流れ出し、油と温まった金属の匂いが濃くなっていた。
白石は創の体温と傷の状態を確かめ、包帯を巻き直した。
「熱は落ち着いてきた。だが、痛みが軽くなったからといって力を使うなよ」
「分かってます」
「半日は何もするな。難しいことも考えるな」
「それは、ちょっと難しいですね」
「なら、ぼんやり海でも見ていろ」
追い出されるようにして、創は海側の通路へ向かった。
長く暗い通路の先に、光が見える。
出口を抜けると、潮風が顔を撫でた。
入り江は、岩壁に囲まれた小さな場所だった。白い砂の中に黒い石が点々と混じり、浅い水の底では、日差しが揺れる網目を描いている。
人の姿はない。
波は低く、砂を撫でて戻っていく。
その繰り返しを見ているだけで、創の呼吸は少しずつ深くなった。
「創」
背後から呼ばれ、振り返る。
エマが、通路の出口に立っていた。
薄い上着の裾から、見慣れない紺色の布が覗いている。肩にはタオルを掛け、片手に小さな袋を提げていた。
「先生に、外へ出されたの?」
「ああ。海でも見てろって」
「私も同じ」
彼女は笑い、岩の上へ袋を置いた。
午前中、白石と近くの商店へ生活用品を買いに出たとき、ついでに見つけたのだという。
エマが上着を脱いだ。
創は反射的に海へ目を戻した。
「……何よ」
「いや」
「泳ぐつもりで買ったんだから、着るでしょう?」
「別に、何も言ってないだろ」
自分の返事が妙に早口になったことに、創は気づいた。
エマは気にした様子もなく、サンダルを脱いで浅瀬へ入る。
白い足首へ水がまとわりついた。
「わ、少し冷たい」
波が来る。
彼女は小さく声を上げ、それから笑った。
創の耳に、その笑い声が届く。
同時に、別の音も聞こえた。
トク、トクトク。
心音だった。
水の冷たさに驚いて、一度速くなり、少しずつ元の間隔へ戻っていく。
聞こうとしたわけではない。
エマの声へ意識を向けた途端、その周囲の音まで勝手に拾ってしまう。
風に揺れる髪。
水をかく指。
足元の砂が波に削られる細かな音。
創は眉を寄せ、呼吸を整えた。
必要なものだけを選ぶ。
ペトラへ向かう途中、そう教わった。
だが、何を選べばいい。
視線を上げると、エマが髪を耳へかけていた。
濡れた指先から、一滴の水が落ちる。
その水滴が、やけにゆっくり見えた。
太陽の光を抱えた小さな粒が、彼女の肩に触れ、肌の上を滑っていく。
創は慌てて顔を背けた。
(……落ち着け)
敵の銃弾なら、進む方向を見ればよかった。
落石なら、落ちてくる場所を読めばよかった。
今は、どこを見ても落ち着かなかった。
「創も入れば? 浅いところだけ」
エマが手招きした。
「いや、俺は……」
「泳げない?」
「泳げるよ」
思わず答えてから、創は自分の右腕を見る。
包帯が、肘の下まで巻かれていた。
エマの表情が少し変わる。
「あ、ごめん。傷、濡らせないわね」
「足だけなら、大丈夫だと思う」
創は靴を脱いだ。
砂の感触が、足の裏へはっきり伝わる。
数歩進み、波打ち際で止まった。
水が触れる。
冷たい。
創は思わず息を吸った。
ただの海水だ。
能力を使ったわけでも、薬を打たれたわけでもない。
それなのに、その冷たさが妙に嬉しかった。
「どう?」
エマが近づいてきた。
「……ちゃんと、冷たい」
彼女は一瞬だけ目を見開き、それから静かに笑った。
「それは、よかった」
シベリアで、何も感じなくなった時間があった。
熱も、冷たさも。
エマが触れていることさえ、遠かった。
今は足元の水が冷たい。
日差しを受けた肩は温かい。
隣に立つ彼女の声が、ちゃんと聞こえる。
創は水面を見下ろした。
揺れる光の中に、自分とエマの影が並んでいた。
「おーい。生きてるッスかー」
通路の方から声がした。
振り向くと、レオが飲み物の入った袋を持って立っていた。袖をまくった腕には、まだ油汚れが残っている。
「オヤジから差し入れ……って」
彼は創の顔を見た。
それからエマを見た。
口の端が、ゆっくり持ち上がる。
「旦那。顔、ゆでダコッスよ」
「日差しのせいだ」
「へえー。まだ足しか浸けてねえのに、ずいぶんあったまってるッスねえ」
「うるさい」
エマが創の顔を覗き込む。
「本当。熱が戻ったんじゃない?」
彼女の手が額へ伸びた。
ひんやりした指が触れる。
心臓が、大きく跳ねた。
自分の心音まで、耳の奥でうるさい。
「……大丈夫だって」
創が少し後ずさると、レオが堪えきれずに吹き出した。
「こりゃ重症ッスわ」
「何が」
「いやあ、平和だなと思って」
レオは砂へ腰を下ろし、冷えた飲料のボトルを取り出した。
遅れて現れた白石が、その頭を軽く小突く。
「休憩するなら、先に手を洗え。何を触った手だと思っている」
「ちゃんと洗ったッスよ。落ちねえだけで!」
「顔にもついているぞ」
エマがレオの頬を指差す。
彼が反対側の頬を擦り、さらに汚れを広げた。
今度は創も笑った。
笑うと脇腹が痛んだが、それでも笑ってしまった。
*
風が、エマの髪を揺らしていた。
彼女は岩の上へ腰を下ろし、タオルで濡れた足を拭いている。
その隣では、レオが商店で買った菓子の袋を開けるのに苦戦していた。白石は瓶入りのコーヒーを飲み、顔をしかめている。
「甘すぎる」
「それしかなかったんです、先生」
「砂糖を飲んでいるようなものだ」
「普段、食事を忘れてコーヒーばっか飲んでるんだから、ちょうどいいッスよ」
レオが言い終わる前に、白石の手が伸びた。
今度は素早く避ける。
そのやり取りを見て、エマが声を上げて笑った。
創は、ふと彼女を見た。
こんな顔で笑うのか、と思った。
これまでの彼女は、いつも何かを見つめていた。
石板の溝。
端末の波形。
創の傷。
その目には、答えを探す緊張か、誰かを失うかもしれない不安があった。
今は、ただ笑っている。
創はボトルを持つ手を止めた。
もし、別の出会い方をしていたら。
大学の食堂か、図書館か。
そんな場所で知り合って、休日に海へ来ていたら。
レオはきっと同じように騒いで、白石は同じように小言を言うのだろう。
自分は帰る時間を気にして、母に土産を買うことを思い出す。
母。
その顔が浮かんだ瞬間、胸の奥が少し縮んだ。
今、どうしているのだろう。
自分がこんな場所にいて、こんな身体になっていることを、どれだけ知っているのだろう。
「創?」
エマがこちらを見ていた。
創は顔を上げる。
「どうしたの?」
「……いや」
彼は海へ目を向けた。
波が岩へ当たり、白くほどけていく。
「こういうの、久しぶりだなって」
エマはそれ以上尋ねなかった。
ただ、小さく頷いた。
「そうね」
しばらく、誰も話さなかった。
沈黙は、怖くなかった。
*
夜になっても、整備区画の明かりは消えなかった。
創は簡易ベッドの上で目を開けた。
アルゴー号から降ろされたベッドは、作業場に隣接した休憩室へ移されている。床に敷いたマットの上では白石が眠り、奥の間仕切りの向こうにはエマがいる。
金属を擦る音が、壁越しに聞こえた。
創はゆっくり起き上がった。
痛みは、昼より少し軽い。
足音を立てないように廊下へ出ると、開いた扉の向こうにアルゴー号が見えた。
外板を外された側面は、骨組みを剥き出しにしている。
その下で、レオが作業灯を動かしていた。
「……まだやってたのか」
声をかけると、レオは頭を上げた。
「旦那こそ、寝てなきゃ駄目ッスよ」
「音が聞こえた」
「あー。悪いッス。もうちょい静かにやる」
「そういう意味じゃない」
創は車体へ近づいた。
ベッドが置かれていた場所の下に、新しい支持材が仮留めされている。派手な装置ではなかった。灰色の金属が、傷んだ枠を内側から支えている。
「そこ、直してたのか」
「こっちを先に決めねえと、ほかの配置が決まんねえんスよ」
レオが工具を持ち替える。
「オヤジが処置するとき、毎回車の揺れに文句言うでしょ。ベッドもちゃんと固定して、医療機器の電源も別にする。エンジンが止まるたびに計器まで消えたら、面倒ッスから」
「……ありがとう」
レオの手が一瞬止まった。
彼は顔を上げず、鼻を鳴らした。
「まだ終わってねえッスよ」
創は頷いた。
床には、外された古い装甲板が並んでいる。
その一枚に、見覚えのある長い傷があった。丹後の山道を逃げた夜、車体へ枝が叩きつけられたときのものかもしれない。
あのときは、自分の右手のことで頭がいっぱいだった。
車が何にぶつかり、誰がハンドルを切り、どうやって道を抜けたのか。
ほとんど見ていなかった。
「これも替えるのか」
「使えるのは残すッス。全部替える部材なんかねえし」
レオが顔を上げ、傷のある板を見た。
「そいつ、結構頑張ってるんスよ」
創はその傷を、指先でそっとなぞった。
冷たい金属だった。
人間のように痛がりもしない。
それでも、ここまでの旅が、確かに刻まれていた。
「……そうだな」
背後で、レオが工具を回し始めた。
規則正しい、小さな音。
創はしばらくそれを聞いてから、休憩室へ戻った。
ベッドへ横になると、遠くで波の音がした。
その手前で、金属を締める音が続いている。
今度は、うるさくなかった。
創は左手を毛布の外へ出し、ゆっくり目を閉じた。
壁の向こうでは、レオがもう一本、新しいボルトを締めていた。




