【第4部】第25話 プロローグ 暗黒の弾丸と、光溢れる島
最初の一機は、朝日の中にいた。
赤茶けた岩山の稜線を越え、黒い点が音もなく現れる。続いて二機。さらに、その後方から四機。
バックミラーを覗いたレオの口元から、笑みが消えた。
「……しつこい連中ッスね」
アルゴー号の後方では、ペトラの地下から噴き上がった砂煙が、まだ細い柱になって空へ伸びていた。朝日に照らされたその向こうを、黒い機影が横切っていく。
翼がない。
四つの推進器を備えた無人機の腹部で、小さなレンズが赤く瞬いた。
「オヤジ。お客さんッス」
助手席の白石が振り返る。砂塵に曇った後部窓へ目をやり、すぐに端末を開いた。
画面の上で、赤い警告が三つ重なった。
「熱源追尾か。……振り切れそうか?」
「平らな道路と新品のエンジンがあれば、考えるくらいはできるッス」
レオはハンドルを握り直した。
フロントガラスの向こうには、大小の岩が散らばった荒野が続いている。クローラーが石を踏み砕くたび、床下から嫌な金属音が響いた。
「でも、今のアルゴーちゃんは、どっちかっていうと入院待ちッスよ」
後部の簡易ベッドで、創はその会話を聞いていた。
右腕を動かそうとする。
わずかに肘を浮かせた瞬間、骨の奥へ釘を打ち込まれたような痛みが走った。
「……っ」
喉の奥から漏れた声を、歯を食いしばって押し殺す。
ペトラで自分たちを守った灰色の装甲は、もうなかった。薄い毛布の下にあるのは、包帯を巻かれ、腫れと内出血の浮いた生身の腕だ。
あの巨大な岩盤を受け止めた腕。
だが今は、自分の身体を起こすことさえできない。
「動かないで」
エマの手が、創の肩を押さえた。
砂埃に汚れたストール。頬に残った細い擦り傷。その顔を見上げながら、創は掠れた声を絞り出す。
「追手、だろ」
「分かってる」
「俺が……」
「今は、私たちに任せて」
短い言葉だった。
創は返事をしようとしたが、車体が大きく跳ねた。断裂しかけた筋肉が引き伸ばされ、息が詰まる。
白石が後部座席へ身を乗り出した。
「ゴルゴンで傷が治ったわけではないと言っただろう。お前は折れかけた身体に、外から添え木を当てて動いていたんだ。今また無理をすれば――」
ドドドドッ!!
乾いた破裂音が、言葉を断ち切った。
車体のすぐ右側で砂礫が弾ける。窓の外に、一直線の土煙が走った。
「来たッス!」
レオが急激にハンドルを切る。
毛布の上に置かれていた創の左手を、エマが掴んだ。転がりかけた身体を支え、ベッドの固定ベルトを引き締める。
創は天井を見つめた。
銃撃の間隔も、車体へ伝わる振動も、異様なほど鮮明に分かる。
なのに、動けない。
自分のせいで追われている。その自分が、寝たまま運ばれることしかできない。
「……くそ」
「悔しがるのは後にしろ」
白石が創の脈を確かめながら言った。
「今のお前の仕事は、生きてここを抜けることだ」
そのとき、運転席でレオが小さく声を上げた。
「あった」
前方の荒野に、低いコンクリートの建物が半ば砂へ埋もれていた。
窓はない。
風に削られた外壁には、かつて青かったらしい帯と、途中から剥がれ落ちた英文字が残っている。
建物の脇で、地下へ下る幅広い斜路が黒い口を開けていた。
「レオ。まさか、あそこへ入る気か」
「旧ハイパーループの保守搬入口ッス。昔の貨物屋の地図に載ってた」
「廃線だぞ」
「空よりは空いてるッスよ!」
レオがアクセルを踏み込んだ。
アルゴー号が斜路へ飛び込む。破れた金網がフロントガラスを掠め、クローラーに巻き込まれて甲高い音を立てた。
直後、入口のコンクリートが銃撃で砕けた。
白い破片が、朝日の中を散る。
そして、光が消えた。
*
地下には、乾いた鉄の匂いが淀んでいた。
アルゴー号のヘッドライトが、太い柱の列を照らし出す。その奥に、窓のない銀色の筒が横たわっていた。
列車に似ている。
だが、客を乗せるための座席も、外を見るための窓もない。胴体の側面には黄色と黒の警戒線が走り、剥げた塗装の下から鈍い金属肌が覗いていた。
「整備用の搬送カプセル……」
白石が呟く。
「車ごと入るッス。ガイドホイールも生きてる」
レオは車を降りると、工具袋を肩へ引っかけて走った。
背後の斜路から、推進器の唸りが近づいてくる。
エマが壁の制御盤へ駆け寄った。割れた透明カバーを取り払い、端末を接続する。
「先生、入口の防火扉は動かせます。でも、電源が非常用系統だけで……」
「閉める分だけ残っていればいい!」
白石が手動レバーへ両手をかけた。
重い歯車が軋む。
入口の上から、分厚い隔壁が少しずつ降り始めた。
その隙間へ赤い光が差し込む。
ドローンの機銃が回転する音。
ガガガガガッ!!
白石が床へ伏せるのと、隔壁の下端が地面へ叩きつけられるのは、ほとんど同時だった。
鋼鉄の向こうで、銃弾が跳ねた。
一発。
二発。
やがて音が止む。
短い静寂の中で、レオの声だけが響いた。
「閉まったからって、のんびりしてられねえッスよ! あいつら、次は穴を開ける道具を持ってくる!」
搬送カプセルの後部ハッチが、鈍い音を立てて持ち上がった。
レオがアルゴー号を後退させ、狭い貨物室へ押し込む。車体の左右と壁の間には、人が横向きで通れるほどの隙間しかなかった。
固定爪をクローラーへ噛ませ、太いワイヤーを張る。
白石は制御盤を調べ、エマは壁面の古い路線図を読み取っていた。
大陸を横切る無数の線。
そのほとんどには、赤い斜線が引かれている。
「全線が通っているわけじゃないな」
「ええ。中継駅ごとに切れてる。先の区間が使えるかどうかも、ここからは分からない」
「……それでも東へは続いている」
白石が図面の端へ指を置く。
海の下へ潜り込んだ細い線が、南西諸島の保守拠点にまで伸びていた。
創はベッドの上から、開いたドア越しに二人を見ていた。
父のノートに記されていた場所。
与那国島。
そこへ行くための道が、こんな地底に眠っていた。
「創の旦那」
レオが車内へ顔を出した。額には油の黒い筋がついている。
「ちょっとばかり、長いトンネルになるッス」
創は乾いた唇を動かした。
「……出口は、あるんだろうな」
「なかったら、俺が開けるッスよ」
レオは笑った。
その笑顔が消える前に、背後の防火扉が大きく震えた。
ドォン。
天井から砂が落ちる。
「全員、中へ!」
白石の声で、エマが車へ戻った。レオが外側のハッチを閉める。
厚い金属が噛み合う音がした。
カプセルの中を、低い振動が満たしていく。
隔離された発進区画から空気が抜かれ始めると、壁越しに聞こえていた爆破音が、急に遠くなった。
「気密、よし。制動系……頼むぜ、サボるなよ」
レオが古い操作卓へ手を置く。
緑の表示が、一つずつ点灯した。
「出すッス」
最初は、ゆっくりだった。
車輪が継ぎ目を越える細かな振動。
やがて床下の唸りが高くなり、創の身体がベッドへ押しつけられる。
表示された速度が上がっていく。
二百。
四百。
六百。
そして、八百。
だが、窓の外に流れる景色はなかった。
鋼鉄の壁のさらに外側には、空気を抜かれた長大な管がある。その外には、何千メートルもの岩盤がある。
前に進んでいるという実感を与えるのは、床から伝わるかすかな震えだけだった。
世界が、狭い箱になった。
*
最初の停止は、六時間後だった。
前方区間の電源が落ちていた。
次の停止では、切り替えポイントが固着していた。
その次は、区画の気密が失われ、進路を変えなければならなかった。
最高速度で走れる時間は、長く続かなかった。
保守区画へ入るたび、圧力を戻し、ハッチを開け、レオと白石が外へ出ていく。戻ってくる頃には、二人の服に新しい油汚れが増えていた。
創は何度も眠り、何度も目を覚ました。
目覚めるたびに、天井の同じ場所にある小さな錆が見えた。
昼なのか、夜なのか、分からない。
右腕の痛みだけが、妙に正確な間隔で意識を引き戻してくる。
三度目に起きたとき、エマはベッド脇の椅子で眠っていた。
端末を膝に置き、首を少し傾けている。蜂蜜色の髪の隙間から覗く目元に、薄い疲労の影があった。
創は左手を伸ばし、落ちかけていた毛布を彼女の膝へ戻した。
それだけの動作で、脇腹が痛んだ。
「……起きたの?」
エマが目を開ける。
「悪い。寝ててよかったのに」
「少し眠ったから、大丈夫」
彼女は身体を起こし、水筒の蓋を開けた。
創が飲み終えるまで、手を添えて待つ。
遠くから、工具の落ちる甲高い音がした。
続いて、レオの悲鳴。
「今のは違うッス! 部品が勝手に逃げたんス!」
「部品のせいにするな、バカ者!」
白石の怒声が返る。
エマが小さく笑った。
創も笑おうとして、痛む脇腹を押さえた。
「……俺、何もしてないな」
エマは水筒を閉めた。
「そうね。今は、してない」
思いがけない返事に、創は彼女を見る。
「だから、そのまま休んでいて。レオくんには直せるものがあるし、先生には治せるものがある。私にも、調べることがあるから」
彼女は膝の端末へ視線を落とした。
そこには、海底施設の粗い地形図が開かれていた。
「全部、あなた一人でやらなくていいのよ」
創は何も言えなかった。
機械の低い唸りが、二人の間を満たす。
自分が眠っている間にも、誰かが道を探し、誰かが壊れたものを直していた。
そのことが、少しだけ悔しかった。
そして、その悔しさより深いところで、身体の力が抜けていくのを感じた。
創は枕へ頭を戻した。
目を閉じても、今度は、暗闇の中へ一人で落ちていく感じはしなかった。
*
終端の保守施設へ着いたとき、レオの腕時計は、地下へ逃げ込んでから三日目の午後を示していた。
停車したカプセルの外で、空気が流れ込む長い音が響く。
気圧計の針が、ゆっくりと戻っていく。
ハッチが開くと、湿った匂いがした。
創は顔を上げた。
乾いた鉄でも、油でもない。
ずっと昔から知っているのに、しばらく忘れていた匂いだった。
「……潮?」
エマが頷く。
アルゴー号のエンジンが、久しぶりに太い音を立てた。
搬送カプセルから抜け出し、緩やかな上り坂を進む。白く塩を噴いたコンクリートの壁が、ヘッドライトに照らされて後ろへ流れていく。
突き当たりに、重い防圧ゲートがあった。
レオが車を降り、制御盤を開く。
しばらくして、太い駆動軸が回り始めた。
ギ……ギギギギッ。
扉の下端に、白い線が生まれる。
線は少しずつ太くなった。
あまりの眩しさに、創は目を細めた。
風が入ってきた。
温かい。
湿っている。
エマの髪が、窓の隙間から吹き込んだ風に揺れた。
アルゴー号がゲートをくぐる。
その瞬間、視界が開けた。
青かった。
空も、海も。
ただ、同じ青ではなかった。入り江の浅瀬は緑を透かし、沖へ向かうにつれて色を深めている。白い波が岩礁に砕け、その飛沫が太陽の光を受けて細かく輝いていた。
創は窓へ手をついた。
指先が、日差しで温まったガラスに触れる。
自分の身体から生まれた熱ではない。
空から降ってきた、ごく普通の温かさだった。
「……着いたッス」
レオが、珍しく静かな声で言った。
「与那国島ッスよ」
創は返事を忘れていた。
目の前の海を見つめたまま、ゆっくりと息を吸う。
胸の奥が、少し痛んだ。
それでも、もう一度吸った。
*
同じ頃。
島の沖合に浮かぶアダム・ジェノミクスの海洋プラントでは、太陽の光が厚い遮光ガラスに遮られていた。
室内は、白く冷えている。
壁面のモニターに映っていたのは、灰色の骨殻を纏い、巨大な岩盤を支える少年の姿だった。
神代創。
映像の端には、彼へ向かって何かを叫ぶ女と、装甲車から身を乗り出す青年が映っている。
セトは映像を止めた。
岩盤の下で歯を食いしばる創の顔を、しばらく眺める。
「……ひどい使い方だ」
独り言は、誰にも聞こえないほど小さかった。
背後の扉が開く。
「海底区画の受け入れ準備が整いました」
職員の報告に、セトは振り返らず頷いた。
椅子の背に掛けていた黒いコートへ腕を通す。袖口を整え、モニターを消した。
廊下の突き当たりには、一人乗りの降下ポッドが待機していた。
厚い耐圧殻。
小さな円形窓。
その奥に、垂直に海へ通じる黒い水面が見える。
「護衛は――」
「要りません」
セトはポッドへ乗り込んだ。
ハッチが閉まる。
固定装置が外れ、機体が静かに沈み始めた。
円形窓の外を、銀色の気泡が上っていく。プラントの底を抜けた一瞬だけ、水面を透かした陽光がセトの顔に揺れた。
琥珀色の瞳が、その光を映す。
だが、彼は上を見なかった。
膝の上で指を組み、これから降りていく暗がりへ目を向けていた。
やがて、光が届かなくなった。
深度を示す数字だけが、無音で増えていく。




