【第3部】第24話 エピローグ もう一人の息子
スイス、ジュネーブ。
レマン湖を見下ろす高層ビルの最上階には、夜というものが存在しないかのようだった。
壁一面を覆う巨大なディスプレイが青白い光を放ち、暗い室内を絶えず照らしている。そこに映し出されているのは、ヨルダンのペトラ、崩壊した地下遺跡の映像だった。
衛星から送られてきた画像、現地ドローンの記録、地下へ投入された部隊の生体ログ。それら無数の情報がいくつものウィンドウに分割され、刻一刻と更新されている。
その中央に、一人の男が立っていた。
ジュリアン・ヴァンス。
アダム・ジェノミクス最高経営責任者。
彼はワイングラスを片手に、すでに何度見返したのか分からない映像を、また最初から再生していた。
画面の中で地下広間が揺れ、天井の一部が崩壊する。続いて巨大な岩盤が落下し、激しい砂塵が映像を覆った。
映像は大きく乱れ、そのまま途絶える。
「もう一度」
ジュリアンが静かに言った。
映像が巻き戻される。
崩落。
砂塵。
落下する岩盤。
そして、その直前。
ほんの一瞬だけ、灰色の何かが画面の中に映り込んでいた。
人間に見える。
だが、正確には人間の形をした、異質な構造物だった。
ジュリアンの目が細くなる。
「止めろ」
映像が静止した。
画質は荒く、砂塵のせいで細部も不鮮明だった。それでも、何が映っているのかは分かる。
神代創。
その全身を、灰白色の骨殻が覆っていた。
「……やはり」
ジュリアンは小さく笑った。
そのとき、背後でドアが開いた。
コツ、コツ、と靴音が近づいてくる。
だが、それはギデオンの足音とはまるで違っていた。
重くない。
むしろ、不自然なほど軽い。
「お呼びですか」
若い声だった。
ジュリアンは振り返らない。
「見ていたか?」
「もちろん」
声の主が、ディスプレイの光の中へ歩み出る。
少年だった。
年齢は創とほとんど変わらない。
白銀の髪に、透き通るような肌。余計な筋肉は一切ついていないにもかかわらず、ただ立っているだけで、身体のすべてが異常なほど完成されていることが分かる。
均整の取れた筋肉。
傷一つない皮膚。
その姿は人間というより、人間という生物を理想化し、そのまま彫刻として作り上げたようだった。
そして何より目を引くのは、その瞳だった。
琥珀色。
創と、まったく同じ色。
少年は巨大な画面を見上げた。
「随分と派手に壊しましたね」
「ギデオンがな」
「中東の歩く肉塊らしいやり方だ」
ジュリアンの口元がわずかに動いた。
「本人が聞けば怒るぞ」
「怒ればいい」
少年は興味なさそうに答える。
「感情で筋肉が増えるわけでもないでしょう」
「相変わらずだな、セト」
その名を呼ばれ、少年は薄く微笑んだ。
神代セト。
彼は静止した画面の中にいる創を見つめている。
「シベリアの機械人形よりは、少しは役に立ったようですね」
「ボロディンか」
「身体を機械に置き換えて強くなったつもりになる。理解できません」
セトはそう言いながら、自分の右手へ視線を落とした。
細く、白く、傷一つない指。
「必要なものは、最初から身体の中にあるのに」
ジュリアンはワイングラスをテーブルへ置いた。
「だが、その機械人形も、ギデオンも」
視線をディスプレイへ戻す。
「彼を止められなかった」
セトの微笑みが、ほんのわずかに薄くなった。
「まだ未完成ですね」
そう言いながら、セトは画面へ近づいていく。
そこには傷だらけの創がいる。
血と砂にまみれ、その全身を灰色の骨殻に覆われている。
「能力を使うたび身体を壊す。神経系の制御も不完全で、筋肉も代謝も、環境へ適応する速度も足りていない」
セトは画面の前まで進むと、映し出された創の顔へ指先を触れた。
「これが」
口元に笑みを浮かべる。
「父上が残したかったものですか?」
その瞬間、部屋の空気がわずかに変わった。
ジュリアンは初めて、セトの横顔へ視線を向ける。
「気になるのか?」
セトの指が止まった。
「何がです?」
「宗助が、どちらを選んだのか」
沈黙が落ちた。
一秒。
二秒。
やがて、セトは何事もなかったように微笑んだ。
完璧な笑顔だった。
「くだらない」
「そうか。ならいい」
ジュリアンは再び画面へ視線を戻した。
だが、セトの指先はまだディスプレイから離れていなかった。
創の顔。
その上へ、指先が置かれている。
「ギデオンからの最終報告だ」
ジュリアンが言うと、別のウィンドウが開いた。
短いノイズのあと、低い男の声が再生される。
『オリジナルは巨大な岩盤の崩落に巻き込まれた。生存率は極めて低い』
ギデオンの声だった。
セトが笑う。
「では、終わりですね」
「いや」
ジュリアンは静かに否定した。
「生きている」
その言葉に、セトの表情が初めてわずかに止まった。
「……なぜそう思うんです?」
「彼が第三の力を引き出したのなら」
ジュリアンは静止映像をさらに拡大する。
画面いっぱいに、創を覆う灰白色の骨殻が映し出された。
「この程度では死なん」
セトはしばらく何も言わず、その映像を見つめていた。
「第三……」
「そうだ」
「熱」
「第一」
「神経加速」
「第二」
セトの琥珀色の瞳が細くなる。
「そして、骨格強化」
「第三だ」
セトは小さく息を吐いた。
「遅いですね」
「何?」
「僕なら、そんな段階的な覚醒など必要ない」
右手を持ち上げ、ゆっくりと掌を開く。
一見すると、何も起きていない。
だが、その皮膚の下でほんの一瞬だけ、何かが脈打った。
「最初から使えます」
ジュリアンは答えなかった。
少し間を置いてから、静かに言う。
「そこがお前と彼の違いだ」
「ええ」
セトは当然のように笑った。
「僕は完成していますから」
「そういう意味ではない」
その一言で、セトの笑みが再びほんの少しだけ薄くなった。
ジュリアンは別の画面を開いた。
巨大なディスプレイに世界地図が表示され、中東から東へ向かって視点が滑っていく。ヨルダンを離れ、インド、東南アジアを越え、日本列島へ。さらに南西へ移動し、沖縄から西へ離れた一つの島で地図の動きが止まった。
「与那国島」
セトが表示を読み上げる。
「そうだ」
続いて海底地形が重ねられた。
深度六百、七百、そして八百メートル。暗い海底地形の中央で、一つの赤い点が静かに点滅している。
「ここが次の座標だ」
セトは表示された数値へ目を向けた。
「海底八百メートル」
「生身の人間が自由に動ける環境ではない」
「そうでしょうね」
セトは興味がないように答えた。
ジュリアンが横目で見る。
「君の身体なら耐えられる」
「でしょうね」
またも即答だった。
そこに自慢する響きはない。
彼にとっては、それが特別なことではなく、最初から当然の前提であるかのようだった。
「ただし」
ジュリアンが言った。
「創もそこへ向かう」
セトは何も言わなかった。
今度の沈黙は、先ほどより少し長かった。
やがて、ゆっくりとジュリアンへ振り返る。
「……確実ですか?」
「宗助の残した道標を追っているならな」
その答えを聞いた瞬間、セトの琥珀色の瞳に初めてはっきりとした感情が浮かんだ。
ほんのわずかだった。
だが、確かに喜んでいる。
「そうですか」
口元が上がる。
「なら、僕が行きます」
「おまえがか?」
「ええ」
「回収部隊に任せればいい」
「嫌です」
即答だった。
ジュリアンがわずかに眉を上げる。
セトは再び画面の中に映る創を見た。
「僕自身で確かめたい」
「何を?」
創と同じ琥珀色の瞳。
だが、そこに宿っているものはまるで違っていた。
「父上が」
セトは静かに言った。
「なぜ、あれを残したのか」
画面には、血と砂にまみれた創が映っている。
「病弱だった。何度も死にかけた。力を使うたび身体を壊す」
セトは画面へ近づき、その指先で創の姿に触れた。
「不完全な身体」
その声には、これまでになかった微かな苛立ちが混じっていた。
「なのに」
そこで言葉が止まる。
ジュリアンは何も言わなかった。
セト自身が、その続きを口にするのを待つ。
「……なのに」
セトは画面の創を見つめた。
「父上は、彼のために道を残した」
その手がゆっくりと拳を作る。
しばらく沈黙が続いたあと、セトは指の力を抜き、静かに手を下ろした。
「会ってみたい」
ジュリアンはそんな少年をじっと見つめる。
「殺すのか?」
「まさか」
セトは笑った。
「最初から殺してしまったら、証明にならないでしょう?」
「証明?」
「ええ」
そう答えると、セトは窓際へ歩いていった。
眼下には夜のジュネーブが広がっている。
レマン湖の湖面に都市の灯りが映り、街は美しく、整然としていた。血も泥も混乱もなく、すべてが完璧な秩序の中に収まっている。
その景色の中に立つセトもまた、不自然なほどよく馴染んでいた。
「どちらが」
窓に映る自分自身を見ながら、セトは言う。
「父上の望んだ息子なのか」
ジュリアンの目が細くなった。
セトは振り返る。
「準備してください」
「深海対応の輸送艇を?」
「いりません」
ジュリアンが眉を上げた。
「何?」
「僕が耐えられるんでしょう?」
セトは微笑む。
「なら、その必要はない」
「八百メートルだぞ」
「知っています」
「水圧は――」
「計算済みです」
迷いはなかった。
ジュリアンはさらに問いかける。
「酸素も?」
「必要量は最低限でいい」
その答えを聞いたジュリアンが、初めて声を出して笑った。
「なるほど」
「何がおかしいんです?」
「いや」
ジュリアンは首を振った。
「やはり君は」
そこで一拍置く。
「宗助が夢見たものに近い」
セトの瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「……近い?」
だが、ジュリアンはそれ以上何も言わなかった。
セトの笑顔が一度消える。
しかし、それもすぐに元へ戻った。
「構いません」
少年は出口へ向かって歩き始める。
「すぐに分かりますから」
ドアが開いた。
セトはそのまま部屋を出ようとしたが、出口をくぐる直前で足を止めた。
そして、最後に一度だけ振り返る。
視線の先には、巨大なディスプレイに映し出された創の姿があった。
「神代創」
その名を、セトは初めてゆっくりと口にした。
まるで、自分とよく似た姿を持ちながら、決して同じではない未知の生物の名前を確かめるような声音だった。
「待っていてください」
白銀の髪が、青白いディスプレイの光を反射する。
「僕が、この手で証明してあげますよ」
それだけ言い残し、セトは部屋を出た。
ドアが閉じる。
再び静寂が戻った。
ジュリアンはしばらく何も言わず、巨大なディスプレイを見つめていた。
そこには、二つの映像だけが残されている。
一つは、ヨルダンの砂漠だった。
朝日に照らされた荒野を、傷だらけのアルゴー号がゆっくりと走っている。
その車内には神代創がいる。
血を流し、身体を傷つけ、仲間に支えられながら、それでも前へ進もうとしている青年。
もう一つの画面に映っているのは、与那国島の海底地形だった。
水深八百メートル。
光も空気も届かない漆黒の海。
そこには都市も道もなく、ただ巨大な水圧と暗闇だけが広がっている。
その深海の一点で、赤い座標が静かに点滅していた。
ジュリアンはワイングラスを手に取り、二つの映像を交互に見る。
一方は、傷つきながら進む青年。
もう一方は、その青年を待ち受ける深海。
そして今、その同じ場所へ、もう一人の青年も向かおうとしている。
決して交わるはずのなかった二人。
同じ父を持ちながら、まったく違う道を歩んできた二人の息子。
一人は、壊れながら力を手に入れてきた。
一人は、生まれたときから完成された身体を与えられている。
片方は仲間に支えられながら進み、もう片方は自分一人で十分だと信じている。
その二つの存在が、今、同じ一点へ向かい始めていた。
暗く、冷たく、すべての光と空気を拒む深海へ。
ジュリアンは何も言わなかった。
ただ、赤く点滅する座標を見つめている。
やがて画面の中で、アルゴー号が朝日に染まる砂漠の彼方へ小さくなっていった。
その隣では、深海八百メートルの赤い点が、一定の間隔で明滅を続けている。
二つの映像はまだ交わらない。
だが、その距離は確実に縮まり始めていた。
神代創。
神代セト。
二人の息子が初めて同じ場所を目指し、同じ深淵へ向かって進み始めていた。




