第23話 夜明けの砂漠
「右ッ! 右右右右ッ!!」
創の声に反応して、レオがハンドルを一気に切った。
アルゴー号の巨体が、次々と崩れ落ちる石柱の間を滑るように駆け抜ける。
ドガァァァン!!
直後、背後で天井の一部が崩落した。爆発にも似た衝撃波が車体を強く押し、右側のクローラーが一瞬、地面から浮き上がる。
「うおおおおッ!」
レオは反射的に逆方向へハンドルを切った。
アルゴー号の車体が大きく傾き、三十度、四十度と角度を増していく。サイドウインドウの向こうでは、岩床が恐ろしい勢いで迫っていた。
「レオ!」
「分かってるッス!」
レオはアクセルを踏み込む。
左側のクローラーが岩床へ食らいついた。
ガリガリガリガリッ!
金属と岩が擦れ合う激しい音とともに、傾いていた車体が強引に引き戻される。
ドンッ!
四本のクローラーが再び地面を捉えた。
「……っぶねえ!」
「前!」
エマの叫びに、レオが顔を上げる。
巨大な岩塊が、通路そのものを塞ぐようにこちらへ転がってきていた。
「無理無理無理! あれは無理ッス!」
「左に隙間がある!」
後部座席から創の声が飛んだ。
創はシートへ身体を縛りつけられたまま、荒い呼吸を繰り返している。胸部と腹部には応急処置が施され、右腕も固定されていた。
「創、喋るな!」
白石が怒鳴る。
「でも……左……」
「見えてるッス!」
レオも叫び返した。
「しっかり掴まってろォォォ!」
アルゴー号が急旋回する。
岩塊と壁の間には、かろうじて車一台が通れるかどうかという細い隙間しかない。
それでも、レオは減速しなかった。
「行けえええええッ!!」
アルゴー号が、その隙間へ突っ込む。
ガガガガガガガッ!!
右側面が岩壁を激しく擦り、車内へ振動が突き抜ける。左側では巨大な岩塊が、すぐそこまで迫っていた。
窓ガラスに亀裂が走る。
それでも、アルゴー号は抜けた。
直後。
ドゴォォォン!!
巨大な岩塊が背後の壁へ激突し、そのまま通路を完全に塞いだ。
「戻れなくなったわね」
エマが振り返りながら呟く。
「戻る気なんかないッスよ!」
レオは前方を睨んだ。
「出口は前だけだ!」
ゴウン!!
ディーゼルエンジンが低く吠え、アルゴー号は地下水路の跡を駆け上がっていく。
その背後から、遺跡の崩壊が追いかけてきていた。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ――。
もはやそれは、建物が崩れる音ではなかった。
山そのものが死んでいくような音だった。
創は薄く目を開けた。
頭の下には丸めた毛布が敷かれ、胸と腹部は応急的に固定されている。右腕にはシーネが当てられ、白石によって何本ものセンサーが貼り付けられていた。
車体が揺れるたび、身体のあちこちに痛みが走る。
だが、妙だった。
(……思ったより、耐えられる)
ギデオンに殴られた。
石柱へ叩きつけられた。
プロメテウスも限界を越えて使った。
さらに最後には、全身を灰色の骨殻が覆った。
普通なら、意識を保つことさえ難しいはずだった。
それなのに、今の創は喋ることができる。身体を大きく動かすことはできなくても、想像していたほどの激痛ではない。
「先生……」
「喋るな」
「俺……」
「喋るなと言ってる」
「意外と……平気なんですけど」
その言葉を聞いた瞬間、白石の手が止まった。
彼は創を見た。
そして、険しい顔をする。
「それが一番怖いんだ」
「……え?」
創が訊き返した、そのときだった。
アルゴー号の前方が、わずかに明るくなった。
「光……!」
エマが身を乗り出す。
曲がりくねった岩の裂け目の遥か先に、小さな白い点が見えた。
それは進むにつれて、少しずつ大きくなっていく。
「出口だ!」
レオが叫んだ。
アクセルを踏み込む。
「アルゴー号ォォォ! 最後のひと踏ん張りだッ!」
エンジンが低く、力強く吠えた。
狭い亀裂も、赤褐色の岩壁も、長く続いていた暗闇も、猛烈な勢いで後方へ流れていく。
正面の光は、急速に大きくなった。
そして。
アルゴー号は、闇を突き破った。
*
眩しかった。
創は思わず目を細めた。
何万年ものあいだ太陽の届かなかった地下世界から、アルゴー号は一気に朝日の中へ飛び出した。
ガァン!
車体が乾いた地面へ叩きつけられる。
巻き上げられた砂埃が、巨大な翼のように左右へ広がった。
レオがブレーキを踏む。
アルゴー号は赤茶けた砂漠の上を滑りながら、ザザザザザッ――と長い跡を残し、ようやく停止した。
しばらく、誰も何も言わなかった。
そこにあったのは、ただ朝日だけだった。
東の空から昇った太陽が、遠くの岩山を赤から橙へ、そして黄金へと染めている。夜の冷気を残した砂の一粒一粒が、朝の光を受けて静かに輝いていた。
創は窓の外を見つめた。
「……きれいだな」
ぽつりと呟く。
エマが微笑んだ。
「ええ」
レオはハンドルに額をつけた。
「……生きてる」
その声は微かに震えていた。
「俺たち……マジで生きてるッスよ」
白石も、大きく息を吐く。
「そうだな」
その瞬間だけは、それでよかった。
誰も戦っていない。
銃声も、崩落も、古代の罠も、ギデオンもいない。
ただ、夜明けだけがあった。
創は目を閉じた。
ようやく身体から力を抜く。
その瞬間だった。
「――――ッ!!」
全身に、火がついた。
「ぐ……」
創の身体が大きく跳ねる。
白石が振り返った。
「創?」
「ぐ、あ……」
次の瞬間。
「うあああああああああああああッ!!」
絶叫が、アルゴー号の車内を突き抜けた。
「創!」
エマが飛びつく。
創の背中が弓なりに反った。
「痛い……!」
自分でも驚くほど、単純な言葉しか出てこなかった。
「痛い……痛い……ッ!」
右腕だけではない。
肩も、胸も、背中も、腹部も、脚も。
特定の場所ではなかった。
全身だった。
身体の中へ砕いたガラスを大量に詰め込まれ、それを内側から掻き回されているような痛みが、一気に襲ってきた。
「先生!」
「押さえろ!」
白石が叫ぶ。
「創、動くな!」
「無理……!」
創の右脚が激しく痙攣した。
「ぐあああッ!」
「エマ、肩を押さえろ! レオ、救急ケース!」
「はいッ!」
白石はすぐに創の生体モニターを確認した。
心拍数はすでに百六十を超え、さらに上昇している。血圧も急激に上がり、呼吸は浅く速い。皮膚は大量の汗で濡れていた。
「どうして……!」
創の肩を押さえながら、エマが叫ぶ。
「さっきまで話せてたのに!」
白石はモニターから目を離さないまま答えた。
「ゴルゴンだ!」
「ゴルゴン?」
「解除したからだ!」
レオが後部へ医療ケースを投げる。
白石はそれを受け取ると、すぐに蓋を開いた。
注射器、薬剤、点滴ライン。
必要な器具を次々と取り出しながら、創の腕へ静脈ラインを確保していく。
「『ゴルゴン』は、こいつを治していたんじゃない!」
白石が叫んだ。
「ギデオンにやられた筋肉も、折れた肋骨も、損傷した関節も――全部そのままだ!」
創が再び悲鳴を上げる。
「じゃあ、どうして今まで動けたの!?」
「固定してたんだ!」
白石は薬液をラインへ注入した。
「異常形成された骨性組織が、壊れた身体を外側から固めていた!」
エマは苦痛に歪む創の身体を見た。
「生体ギプス……」
「そうだ!」
白石が頷いた。
「断裂した筋肉を固定し、骨折部を支え、関節の可動を制限する。それだけじゃない。身体にかかる荷重そのものを、骨殻全体へ分散させていたんだ」
創の身体が小刻みに震える。
「でも、それが……なくなった……」
「ああ」
白石はモニターへ視線を戻した。
「普通のギプスを外しただけなら、こんな痛みにはならん。だが、こいつの場合は違う」
あの灰色の骨殻は、創自身の組織から短時間で異常形成され、その後、能力を解除することで強制的に剥離した。
「骨殻が剥がれた場所には強い炎症が起きている。筋肉は損傷したままだし、骨膜にも相当な負荷がかかっている。それに――」
白石は創の顔を見た。
「戦っている間は、アドレナリンで痛覚そのものが抑えられていた」
創は荒い呼吸を繰り返している。
「緊急状態が終わって、交感神経の興奮が落ち始めた。そこで一気に痛みが表面化したんだ」
「だから……時間差で……」
「そうだ」
白石は注射器を抜いた。
「壊れた身体に、神経がようやく気づいたんだ」
創には、二人の会話の半分も聞こえていなかった。
ただ、痛かった。
それだけだった。
ゴルゴンの骨殻は強かった。
巨大な岩盤を受け止め、おそらく銃弾すら弾くだろう。
だが、どれほど強固な鎧で覆われようとも、それを脱いだあとの中身は、傷つき、壊れた一人の人間に過ぎなかった。
創の左手がシートを掴んだ。
指先に力が入り、爪が白くなる。
「創」
白石が顔を覗き込んだ。
「今から鎮痛をかける」
「……もう……打ったんじゃ……」
「まだ足す」
「先生……」
「喋るな」
「これ……」
創は息を震わせた。
「次……使ったら……」
そこで白石の手が一瞬止まった。
「死にます?」
エマが創を見る。
白石はすぐには答えなかった。
数秒の沈黙が落ちる。
やがて、白石は低い声で言った。
「分からん」
そして、創の目をまっすぐに見た。
「だが、二度とあれを『鎧が手に入った』程度に考えるな」
「……」
「あれは防具じゃない」
白石の声は厳しかった。
「自分の骨格そのものを、無理やり作り替える行為だ」
創は目を閉じた。
その間にも、白石は端末へ視線を落としながら続ける。
「血中の電解質も確認する。カルシウム、リン、マグネシウム。それに腎機能もだ。筋障害がひどければ、ミオグロビンも上がる」
レオが青ざめた。
「……それ、かなりヤバいんじゃ」
「かなりどころじゃない」
白石は即答した。
「岩に潰されるのを防いだ代わりに、自分の身体そのものを材料にして鎧を作ったんだ」
その言葉を聞いて、創はゆっくりと自分の右腕へ目を向けた。
皮膚は赤黒く腫れ、細かな裂傷がいくつも走っている。少し前まで全身を覆っていた灰白色の骨殻は、もうどこにも残っていなかった。
「……ゴルゴン」
創は小さく呟く。
便利な力ではない。
絶対防御と呼べるような、都合のいいものでもない。
死なないために、自分の身体を一時的に檻へ変える力。
それが、ゴルゴンだった。
「効いてきた」
白石が言った。
創自身にも、それは分かった。
痛みが消えたわけではない。
だが、鋭く尖っていた痛みの輪郭が、少しずつ鈍くなっていく。
百あったものが九十になり、さらに八十、七十へと落ちていくような感覚だった。
ようやく呼吸ができる。
「……はぁ」
創は長く息を吐き、全身の力を少しずつ抜いていった。
「創?」
エマの声が聞こえる。
「大丈夫……」
「大丈夫じゃない」
「……先生と同じこと言うなよ」
「だったら、大丈夫なんて言わないで」
創が目を開けると、エマはすぐそばにいた。
彼女は頭に巻いていたストールを外し、それを丁寧に折り畳んでいる。
そして、水で濡らした布を創の額へそっと当てた。
「……冷たい」
「水で濡らしたから」
額にこびりついた汗や砂、血を、エマはゆっくりと拭っていく。
創は再び目を閉じた。
柔らかな布。
指先の感触。
人間の体温。
ほんの少し前まで自分を覆っていたのは、灰色の骨だった。
冷たく、硬く、ただ命を守るためだけに作られた生きた檻。
だが今、額に触れているものはまるで違う。
柔らかく、温かい。
「……エマ」
「何?」
「ありがとう」
エマの手が止まった。
「何が?」
「石板」
創はゆっくり息を吸った。
「君があの言葉を読んでなかったら……俺、潰れてた」
エマは一瞬、何も言わなかった。
それから、小さく首を振る。
「私だけじゃない」
「……?」
「あなたが発音した」
エマは創の額を拭いながら続けた。
「あなたが耐えた」
「でも――」
「それに」
今度は創を見る。
「名前をつけたのも、あなた」
創は少しだけ笑った。
「ゴルゴン」
「ええ」
「……あんまりいい神様じゃないけどな」
「怪物よ」
「そこ訂正する?」
「研究者だから」
創は笑った。
身体はまだ痛い。
それでも、笑うことはできた。
運転席からレオが振り返る。
「いやあ、俺はいい名前だと思うッスよ」
「聞いてたのか」
「車内で喋ってるんだから聞こえるッスよ」
レオはニッと笑った。
「プロメテウス、ヘルメス、ゴルゴン」
指を三本立てる。
「だんだんチームっぽくなってきたッスね」
「何のチームだよ……」
「神話オールスターズ」
「適当すぎる」
白石が呆れた声を出す。
ただ、その口元にはわずかに笑みが浮かんでいた。
創は窓の外へ視線を向けた。
太陽はすでに完全に砂漠の上へ姿を現し、赤茶けた岩山を金色の光で照らしている。
その景色を見ながら、創は右手をゆっくりと開いた。
プロメテウス。
熱。
ヘルメス。
加速。
そしてゴルゴン。
防御。
三つの力を手に入れた。
だが、どれも代償なしに使えるものではない。
力が増えたからといって、自分が単純に強くなったわけではなかった。
むしろ知れば知るほど、自分の身体がどれほど危うい均衡の上に成り立っているのかが見えてくる。
創はその事実を噛みしめるように、静かに目を閉じた。
そのときだった。
足元から、ピッ、と小さな電子音が聞こえた。
「……?」
白石が振り返る。
音は創の荷物の中からだった。
もう一度。
ピッ。
エマが荷物へ手を伸ばし、音の発生源を取り出した。
「これ……」
父のゲノム・フィールドノートだった。
黒い表紙を持つその端末は、これまで何度開こうとしても反応しなかったページの縁に、淡い光を走らせている。
「創」
エマがノートを見つめた。
「ノートが……」
創は反射的に身体を起こそうとした。
「動くな!」
白石が即座に肩を押さえ、シートへ戻す。
「……はい」
「俺が持つ」
白石はエマからフィールドノートを受け取ると、その画面を開いた。
これまで何も表示されなかった黒いページに、文字が一文字ずつ浮かび上がっていく。
創は息を止めた。
『鋼の檻を手に入れたか、創』
その一文を見た瞬間、車内から笑いが消えた。
創の琥珀色の瞳が、ゆっくりと文字を追う。
『次なる扉は、すべての光と空気を拒絶する深淵にある』
さらにその下へ、新たな情報が表示された。
地図。
海。
一つの島。
そして座標。
エマが画面を拡大する。
「……日本?」
レオが運転席から身を乗り出した。
「どこッスか?」
白石は地図と座標を確認し、低い声で読んだ。
「沖縄……与那国島」
さらに数値へ目を移す。
「水深……八百メートル?」
「八百?」
レオの顔が引きつった。
「いやいやいやいや。今度は海ッスか?」
創は何も言わなかった。
視線は、画面の最後に表示された父の言葉へ向けられている。
『絶対の圧力に耐え――』
一行の空白。
そして。
『万の雷を呼べ』
創の右手が微かに動いた。
プロメテウスが反応したわけではない。
ゴルゴンが発動したわけでもない。
ただ、自分の意思で拳を握っただけだった。
「……親父は」
創の声が低くなる。
「最初から……これを知ってたんだ」
誰も答えなかった。
「俺がここでゴルゴンを手に入れることも、その次に海へ行くことも……」
創はノートを見つめたまま続ける。
「その先に何があるのかも」
まるで、あらかじめ決められた手順を示されているようだった。
「俺の身体を、次の段階へ進ませるための試験みたいだ」
白石の眉がわずかに動いた。
エマも何も言わない。
創は視線をノートから外し、朝日に照らされた砂漠を見た。
「……踊らされてるのかもしれない」
自分の右手へ目を落とす。
「親父が作った道を、そのまま歩かされてるだけなのかもしれない」
その可能性は否定できなかった。
父がどこまで計算していたのか。
なぜ自分の身体にこれらの力を仕込んだのか。
何を見せようとしているのか。
何一つ分かっていない。
それでも創は、ゆっくりと拳を握った。
「それでも」
頭の中に三つの名前が浮かぶ。
プロメテウス。
ヘルメス。
ゴルゴン。
「この力は、もう親父だけのものじゃない」
その声に、迷いはなかった。
「俺が名前をつけた」
朝日の光が、琥珀色の瞳へ映り込む。
「俺が引き出した」
そして創は、握った拳を見つめたまま言った。
「俺自身の力だ」
しばらく誰も口を開かなかった。
やがてレオが大きく息を吐く。
「……で」
全員が彼を見る。
「八百メートルって、アルゴー号で行くんスか?」
「行けるわけないだろ」
白石が即答した。
「ですよね?」
「普通はな」
白石が付け加える。
レオの顔が、露骨に嫌そうに歪んだ。
「その『普通は』って言い方、やめてもらえます?」
エマが吹き出した。
創も小さく笑う。
窓の外では、太陽がさらに高く昇り始めていた。
地下へ残してきた石や血、死、そしてそこで手に入れた三つ目の力。そのすべてが、黄金色の朝日の向こうへ少しずつ遠ざかっていく。
創は目を閉じた。
身体は壊れている。
痛みもまだ残っている。
父の真意も、何一つ分からない。
これから向かう海の底に何が待っているのかも分からなかった。
それでも、一つだけははっきりしている。
たとえ父が道を用意していたとしても、その道を進むかどうかまで父に決めさせるつもりはない。
どの力を使うのか。
どこまで進むのか。
誰を守るのか。
それを決めるのは、自分だ。
アルゴー号のエンジンが静かに唸り始める。
朝日に染まった砂漠の中を、傷だらけの車体がゆっくりと走り出した。
向かう先は、与那国島。
水深八百メートル。
すべての光と空気を拒絶する、次なる深淵。
そして、父が残した最後の言葉が、創の胸の奥にいつまでも残っていた。
――絶対の圧力に耐え、万の雷を呼べ。




