第22話 穿てぬ骨の檻
世界そのものが、落ちてくる。
創には、そう見えた。
天井でもなければ、ただの岩塊でもない。何千年、何万年ものあいだこの地下空間を支え続けてきた巨大な岩盤そのものが、視界のすべてを覆い尽くしながら降りてきている。
あまりにも巨大なため、その動きは異様なほど遅く見えた。落下しているというより、大地そのものがゆっくりと沈み込んでくるようだった。
だが、実際には数秒も残されていない。
「……動け」
創は呟き、右脚へ命令を送った。
膝を曲げろ。床を蹴れ。ほんの三メートル、横へ転がるだけでいい。
しかし、何も起きなかった。
「……動けよ」
今度は左脚へ意識を向ける。
反応しない。
右腕も同じだった。指先すら、自分の意思では動かせない。
脳から命令が出ていることは、自分でも分かっていた。
逃げろ。
立て。
走れ。
それでも肉体は、そのすべてを拒絶するように沈黙していた。
原因は分かっている。
さっきまで何度も繰り返した、異常な能力の切り替えだ。
ヘルメスで加速し、停止する。直後にプロメテウスで発熱し、また停止する。
その正反対の生理状態を、創は数秒単位で身体へ強制し続けた。
神経細胞は膨大なエネルギーを消費し、細胞膜のイオン勾配を維持することすら追いつかなくなっている。自律神経もまた、血管を開けという命令と閉じろという命令を何度も繰り返され、完全に混乱していた。
さらに右腕には、無理やり引き出したプロメテウスの熱による損傷が残っている。
筋肉を構成するアクチンやミオシン、その収縮機構そのものが壊れかけているのだ。
(頭では……分かってる)
創は奥歯を噛んだ。
(なのに……身体が動かない)
ソフトウェアは命令を出している。
だが、ハードウェアが応答しない。
ただそれだけのことだった。
そして、それが今は何より残酷だった。
「創!!」
声が聞こえた。
エマだ。
創は辛うじて目だけを動かした。
巨大な岩塊や倒れた石柱、崩れた壁。その向こうに、アルゴー号が半分だけ見えている。
フロントガラスは割れ、車体の側面には巨大な岩が食い込んでいた。片側のクローラーは完全に浮き上がっている。
その割れた窓から、エマが身を乗り出していた。
「創!」
「エマ……逃げろ……」
「無理よ!」
「いいから……」
「無理!」
エマは叫んだ。
「あなたを置いていけるわけないでしょ!」
創は一瞬だけ目を閉じた。
「……馬鹿」
「知ってる!」
強く返した声は、それでも微かに震えていた。
そのときだった。
エマの視界の端で、何かが光った。
「……?」
彼女が息を止める。
崩れた広間のさらに奥に、巨大な地割れができていた。その裂け目の底、深い暗闇の中に、淡い光が浮かんでいる。
青でも緑でもない。
白に近い、微かな燐光だった。
エマは端末を掴んだ。
「まさか……」
倍率を上げる。
画像は砂埃と崩落の振動で激しく揺れ、ノイズも多い。
それでも、見えた。
巨大な黒い石面。
そして、その表面に刻まれた独特の波形。
「……石板」
エマの瞳が見開かれた。
「第三の……」
そこにあった。
アダム社が長い時間をかけて掘り進め、古代の防衛機構が守り続けていた、その中心。
第三の石板。
皮肉なことに、遺跡そのものが崩れ始めたことで、初めてその姿を現していた。
「エマ!」
白石の声が飛ぶ。
「何をしている! 戻れ!」
「待って!」
エマは端末を石板へ向けたまま叫んだ。
「文字が見える!」
「そんな場合じゃない!」
「今しかない!」
震える指で画面を操作し、波形データを取り込んでいく。
あれは文字ではない。
音であり、振動であり、周波数であり、同時に意味でもある。
そのすべてが重なり合うことで、あの奇妙な記号は成立していた。
エマはすでに二つの石板を見てきた。
最初の石板には、熱、燃焼、拡散、上昇を示す特徴があった。
次の石板には、速度、伝達、跳躍、流れ。
どちらも、力が外へ向かって広がっていくような波形だった。
だが、今画面に現れているものは、どちらとも違う。
「……低い」
エマが呟いた。
「何が?」
白石が叫ぶ。
「周波数が……違う」
エマは画面へ顔を近づけた。
「熱じゃない」
一つの波形を重ねる。
「加速でもない」
もう一つを比較する。
プロメテウスは上へ広がる。
放射。
ヘルメスは前へ走る。
伝達。
だが、この波形は違った。
外へ向かうのではなく、内側へ沈んでいく。
圧縮。
固定。
硬化。
その意味が、一つの言葉として浮かび上がった。
「……守る」
エマの唇が動いた。
「え?」
「これ……攻撃じゃない」
石板を見つめる。
波形は低く、重く、鈍い。
まるで地面そのものが唸っているようだった。
「防御……?」
白石の表情が変わる。
遠く離れた創にも、その言葉だけは聞こえた。
(防御……)
創は頭上を見た。
巨大な岩盤が、さらに近づいている。
あと三秒。
いや。
二秒。
「創!」
エマが叫ぶ。
「聞いて!」
「……」
「聞いて、創!」
周囲の轟音の中でも、その声だけは妙にはっきりと聞こえた。
創が目を開く。
「発音するの!」
「……何を」
「石板の言葉!」
「もう……声も……」
「声じゃなくていい!」
エマは叫んだ。
「喉じゃない!」
創が眉を寄せる。
「骨で響かせて!」
「……骨?」
「そう!」
エマは画面に表示された波形を睨んだ。
低音。
摩擦音。
破裂音。
これまでとはまるで違う。
イグニ・フェル・ウル。
ヴェロ・キネ・フラグ。
どちらも息を前へ放つような音だった。
だが、これは違う。
「重く!」
エマが叫ぶ。
「顎の骨を軋ませるように!」
エマは自分の顎へ手を当てた。
「胸じゃない! 頭でもない! 歯の奥、顎、首! そこへ響かせて!」
画面の中で石板の波形が揺れている。
エマは必死に音を組み立てた。
一音目。
閉じる。
固定する。
二音目。
石。
三音目。
壁。
いや。
もっと閉鎖的な意味。
檻。
そして、彼女の頭の中で一つの音列が完成した。
「創!」
巨大な岩盤が、さらに落ちる。
「言って!」
創は口を開いた。
血が唇を伝う。
「オ……」
「違う!」
エマが叫ぶ。
「もっと濁らせて!」
創は息を吸った。
肺が痛む。
折れた肋骨が軋む。
「オ……スト……」
「そう!」
顎が震えた。
ゴリッ、と歯の奥で骨が鳴る。
「ペ……」
「もっと低く!」
「ペト……ラ……」
その瞬間だった。
何かが変わった。
空気ではない。
石板でもない。
変化したのは、創自身だった。
歯から顎へ。
頭蓋骨から頸椎へ。
さらに鎖骨、肋骨、背骨、骨盤、大腿骨へと、一つの振動が骨から骨へ伝わっていく。
ゴォン――。
創の身体の内側だけで、巨大な鐘が鳴った。
「……っ!?」
創の瞳が見開かれる。
熱ではない。
プロメテウスとは違う。
脳が加速する感覚もない。
ヘルメスとも違う。
もっと深い場所。
骨。
その内側から、何かが返事をしている。
ドクン。
右手の奥。
ドクン。
肋骨。
ドクン。
背骨。
まるで、自分の骨格そのものに別の心臓が生まれたようだった。
「最後!」
エマが叫ぶ。
「創! 最後の音!」
創は歯を食いしばった。
岩盤は、もう目前だった。
視界が暗くなる。
それでも創は、残された息を絞り出した。
「――ヴァル」
ゴンッ。
世界が震えた。
いや。
違う。
震えたのは世界ではなく、創自身だった。
骨格そのものが共鳴した。
「……あ」
背骨に異変が走る。
熱いわけではない。
冷たいわけでもない。
ただ、重かった。
途方もなく重い何かが、骨の内側から身体を押し広げてくる。
ミシッ、と肩が鳴る。
続いて胸郭。
ゴキッ、と右腕の奥で何かが動いた。
「ぐ……ああ……!」
創の身体が仰け反る。
「創!?」
エマが叫んだ。
皮膚の下で、何かが動いている。
ギデオンのときとは違う。
外部から与えられたパッチもなければ、注射も薬もない。
それなのに、創の骨格そのものが、自分の意思とは別のところで何かを始めていた。
バキッ。
肩の皮膚が内側から押し上げられる。
「うあああああッ!!」
激痛が走った。
だが、骨が折れているのではない。
増えている。
骨の表面、そのさらに外側に、白灰色の硬い組織が形成され、皮膚の下からゆっくりと姿を現していく。
エマは息を呑んだ。
「……同じ?」
脳裏に浮かんだのはギデオンだった。
あの灰色の装甲。
だが、白石はすぐに首を振った。
「いや……違う」
彼は目を見開き、創の腕に形成されていくものを見つめる。
「これは……」
頭上では、岩盤がさらに落ちてきている。
残された時間は、あと一秒。
創は最後の力を振り絞り、右手を床についた。
灰色の骨殻が指先から手首へ、前腕から肩へと走り、さらに胸郭へ一気に広がっていく。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ――!!
巨大な影が、創の頭上を完全に覆った。
「創ォォォ――!!」
エマの絶叫。
その声と、巨大な岩盤が落下する轟音がほぼ同時に響き、地下空間のすべてを飲み込んだ。
岩盤が落ちた。
正確な重量など、もはや誰にも分からない。巨大な天井の一部が崩落し、そのまま創のいる空間へ叩きつけられた。
「創ォォォ!!」
エマの叫びが、轟音の中へ消えていく。
砂塵、破砕音、石柱の崩れる音、アルゴー号の警報。あらゆる音が一度に重なり合い、地下空間は瞬く間に灰色の闇へ包まれた。
白石は反射的に腕で顔を覆った。
「くっ……!」
何も見えない。
視界を奪われた暗闇の中で、巨大な岩石同士が擦れ合う低い音だけが、いつまでも続いている。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……。
数秒しか経っていないはずなのに、ひどく長く感じられた。
やがて、砂塵の向こうから異様な音が聞こえ始めた。
ギギギギギ……。
石が擦れる音とも、金属が軋む音とも違う。
何か途方もなく硬いものが、巨大な圧力を受けながら耐えているような音だった。
「……?」
白石が顔を上げた。
「創……?」
そのとき、どこからか風が吹き抜け、立ち込めていた砂塵が少しずつ流れていった。
そして、最初にその姿を見つけたエマが息を呑んだ。
「……嘘」
創は、まだそこにいた。
両膝を床につき、頭を垂れたまま、両腕を頭上へ突き上げている。
そのさらに上には、崩落した巨大な岩盤が覆いかぶさっていた。
しかし、創が腕力だけでそれを持ち上げているわけではなかった。
灰色の何かが、創の身体から伸びている。
「……なんだ、あれ」
レオが呟いた。
腕、肩、背中、胸郭、腰、そして脚に至るまで、創の全身は灰白色の硬質組織で覆われていた。
人間の皮膚の上から鎧を着込んでいるのではない。
身体そのものから、鎧が生えている。
前腕から伸びた骨殻は巨大な岩盤へ深く突き刺さり、肩から背中へ伸びた灰色の構造物は、何本もの梁のように枝分かれしていた。さらに脚から生えた骨の突起が床へ食い込み、創の身体そのものを地面へ固定している。
「これは……」
白石が震える声で呟いた。
「受け止めてるんじゃない」
エマが振り返る。
「え?」
「荷重を逃がしてる」
白石は創の身体を凝視した。
「腕だけで支えてるんじゃない。肩、脊柱、骨盤、脚……全部を一つの構造物にしてる」
灰色の外殻は、もはや人体の表面を覆う鎧ではなかった。
それは人体の形をした巨大な支柱だった。
岩盤から加わる圧力を両腕で受け、それを肩から背中、骨盤、脚へ流し、さらに床へ逃がしている。
「……生きた支保工だ」
白石が呟いた。
その瞬間だった。
「ぐ……ぁ……」
創の声が聞こえた。
生きている。
「創!」
エマが叫ぶ。
「動かないで!」
「無茶……言うな……」
創は笑ったつもりだった。
だが、その表情は苦痛に歪んでいる。
身体中が痛かった。
単なる痛みではない。さきほどギデオンに殴られた箇所も、能力の連続切り替えによって痙攣していた筋肉も、プロメテウスによって傷ついた右腕も、何一つ治っていなかった。
ゴルゴンの力は治癒ではない。
「う……ぐっ……!」
姿勢がわずかに崩れた瞬間、全身へ激痛が走り、創の視界が真っ白になった。
(痛い……!)
千切れかけた筋線維が引き伸ばされる。
骨殻によって身体は外側から固定されているため倒れはしない。
だが、内部の肉体は壊れたままだった。
むしろ、鎧によって無理やり姿勢を維持させられている。
(これ……ギプスだ……)
創は歯を食いしばった。
折れた身体を外側から固める。
ただし、それは石膏ではない。
自分の骨、自分の細胞、自分自身が作り出した生きたギプスだった。
「博士!」
エマが叫ぶ。
「創の身体で何が起きてるの!?」
「分からん!」
白石は端末へ視線を走らせた。
「いや……推測ならできる」
センサーは正常な値を返していなかった。
カルシウム、リン、骨代謝マーカー。そのすべてが異常値を示している。
「骨芽細胞の活動が……桁外れに上がってる」
「骨芽細胞?」
「骨を作る細胞だ!」
白石は創を見た。
「だが、普通ならこんな速度で骨はできん。おそらく元々あった前駆細胞が一斉に分化してる。コラーゲン性の基質を作り、それを異常な速度で鉱質化しているんだ」
「鉱質化……」
「カルシウムやリンを使って、硬い組織にしてる!」
レオが青ざめる。
「じゃあ……創の身体から骨が生えてるってことッスか?」
「そうだ。しかも、皮膚の内側だけじゃない」
白石がそう言った直後だった。
創の肩で灰色の突起が皮膚を内側から押し上げる。
バキッ。
硬質組織が外へ突き出し、裂けた皮膚から血が流れた。
「創!」
「……大丈夫」
「大丈夫じゃない!」
エマが叫んだ。
創自身にも分かっていた。
大丈夫なはずがない。
骨殻が形成されるたびに皮膚が裂け、組織が押し退けられ、神経が圧迫される。
身体の内側から、無数の楔を打ち込まれているようだった。
それでも、頭上の岩盤は止まっている。
ギギギギ……。
だが、灰色の骨殻にも限界がある。
パキッ、と乾いた音が鳴り、創の右腕から伸びる支柱の一本に亀裂が走った。
「ぐあっ!」
支柱が割れたことで荷重が別の場所へ移る。
肩。
背骨。
左脚。
すると、その負荷へ対応するように骨殻が即座に厚みを増した。
「まずい!」
白石が叫ぶ。
「何が!?」
エマが振り返る。
「止まってない!」
「何が?」
「骨形成だ!」
創の身体を覆う外殻は、まだ増え続けていた。
胸から首へ、さらに顎や頬へと、灰色の組織がじわじわと広がっていく。
「このままだと……」
白石の顔から血の気が引いた。
「創自身が動けなくなる」
創にもそれは分かっていた。
指が太くなり、関節が骨殻へ埋もれていく。肘や膝、肩の可動域も少しずつ失われていた。
(まずい)
これは防御ではない。
暴走だ。
守るために、身体そのものを完全に固めようとしている。
敵も味方も、自分自身さえ区別せず、すべてを石の檻の中へ閉じ込めようとしている。
「創!」
エマの声が飛んだ。
「名前!」
「……え?」
「名前をつけて!」
創の瞳が動く。
「前にやったでしょ!」
エマが叫んだ。
「名前で縛るの!」
プロメテウス。
ヘルメス。
得体の知れない力へ、人間が理解できる名前を与える。
枠を作る。
境界を決める。
では、この力は何だ。
創は自分の腕を見る。
灰色。
石。
骨。
触れたものを動かなくし、攻撃を拒絶する。
穿てない。
壊せない。
そして、石化。
創の脳裏に、一つの名前が浮かんだ。
ギリシャ神話に登場する、見た者を石へ変える怪物。
「……ゴルゴン」
小さく口にした。
その瞬間、骨殻が一度だけ脈打った。
「創!」
「……ゴルゴン」
今度は、はっきりと言った。
ドクンッ。
身体の奥で、骨が応えた。
創は歯を食いしばる。
「俺を……全部固めるな」
誰に向かって言っているのかは、自分でも分からない。
自分自身か。
能力そのものか。
あるいは、父親が仕込んだ遺伝子なのか。
それでも創は命令した。
「守れ」
灰色の組織が蠢く。
「必要なところだけ……!」
肩を覆おうとしていた骨殻の増殖が止まった。
「俺を石にするんじゃない!」
創は叫ぶ。
「俺が――使うんだ!」
ドンッ!!
骨格全体が一度だけ大きく震えた。
そして次の瞬間、無秩序に広がっていた灰色の外殻が変化し始めた。
胸郭、背骨、骨盤、両腕、両脚。
荷重を支えるために必要な場所へ構造が収束し、それ以外の増殖は次々と止まっていく。
「止まった……」
白石が呟いた。
「増殖が止まった!」
さらに、創の前腕から伸びていた骨の突起が形を変えた。
外へ無秩序に突き出すのではなく、岩盤と床へ向かって深く伸びていく。
バキンッ!!
右腕から伸びた一本が岩盤へ食い込む。
左腕からもう一本。
さらに脚や腰からも骨棘が伸び、それぞれが天然のアンカーボルトのように岩と床を繋いでいった。
「……そうか!」
白石が叫ぶ。
「創は持ち上げてるんじゃない!」
骨殻が人体を中心としたアーチ構造を作っている。
「岩盤の荷重を周囲へ逃がしてるんだ!」
ギギギギギギ……。
巨大な岩盤の落下が、わずかに止まった。
その代わり、創の膝が床へ沈んでいく。
数センチ。
さらに十センチ。
石床そのものが砕け始めた。
「ぐ……ああああああッ!!」
創が叫ぶ。
筋肉も、骨も、関節も、内臓も、すでに限界だった。
それでもゴルゴンは崩れない。
灰色の外殻が、創の身体を一本の柱へ変えていた。
「創!」
エマが叫ぶ。
「あと少し!」
「……何が……あと少しなんだよ!」
創が血だらけの顔で笑う。
エマも泣きながら笑った。
「知らない!」
「……適当だな……」
「生きてから文句言って!」
「……分かったよ」
創は最後に、頭上の岩盤を睨んだ。
「ゴルゴン」
もう一度、その名を呼ぶ。
「支えろ」
骨殻が軋む。
「ここだけでいい」
琥珀色の瞳が強く光った。
「俺の仲間を――守れ」
直後。
ドゴォォォォン!!
最後の岩塊が落ちた。
だが、アルゴー号の周囲だけは潰れなかった。
創を中心に形成された灰色の骨殻。
残された石柱。
そして、その上へ折り重なった岩盤。
それらが奇跡的に噛み合い、一つの小さな空間を作っていた。
しばらく、誰も動かなかった。
静寂の中、砂だけが岩の隙間からぱらぱらと落ちてくる。
「……生きてる?」
レオの声が聞こえた。
「生きてる」
白石が答える。
「全員……いるな」
エマだけは、何も言わなかった。
灰色の人影を見つめている。
創はほとんど石像のような姿になっていた。
「創……」
呼びかけると、創の瞳がゆっくり動いた。
「……エマ」
「うん」
「オフ……って、どうするんだろうな」
エマの口元が震える。
「自分で名前をつけたんでしょ」
「……そうだった」
創はほんの少しだけ笑い、ゆっくりと息を吐いた。
「ゴルゴン」
一拍置く。
「――オフ」
何も起きない。
「……あれ」
「創?」
「もう一回」
創は目を閉じた。
意識を集中する。
もう守る必要はない。
戦いは終わった。
ここで止めていい。
「ゴルゴン」
今度は静かに呼ぶ。
「オフ」
パキ。
小さな音がした。
右手の骨殻に一本の亀裂が走る。
続いて、パキ、パキパキ、と乾いた音が重なり、その亀裂が一気に全身へ広がっていった。
灰色の表面が、乾いた石膏のように剥がれ始める。
肩。
腕。
胸。
背中。
脚。
硬質な破片がボロボロと崩れ落ち、床へ落ちるたびにカラン、カラン、と乾いた音を立てた。
その灰色の鎧の内側から、ようやく人間の皮膚が現れる。
傷だらけで、血にもまみれていた。
それでも、そこには確かな温かさが残っていた。
「創!」
骨殻が完全に外れた瞬間、創の身体からすべての力が抜けた。
「……あ」
膝が折れる。
「創!」
エマが駆け寄り、倒れ込む創の身体を両腕で受け止めた。
重い。
だが、その重さが嬉しかった。
それが石でも骨殻でもなく、人間の身体の重さだったからだ。
「創!」
エマは彼を強く抱きしめた。
「創……!」
「……聞こえてる」
「馬鹿……」
「それ……さっきも言われたな」
エマの頬から一滴の涙が落ち、創の頬へ触れた。
「……温かい」
創が呟く。
「え?」
「涙」
創はゆっくりと左手を動かした。
指が動く。
ただそれだけのことなのに、なぜか笑いそうになった。
エマの腕の感触。
体温。
呼吸。
鼓動。
どれも、ついさっきまで自分を覆っていた無機質な硬さとは正反対だった。
「エマの……おかげだ」
エマは首を振った。
「私は音を読んだだけ」
「それがなかったら……」
「違う」
エマは創の胸へ額を押しつけた。
「最後に選んだのは、あなたよ」
創は目を閉じた。
その言葉だけは、素直に受け取ることができた。
足音が近づいてくる。
白石だった。
彼は創の脈を確認し、瞳孔を見て、腕に触れる。
「骨折多数。筋損傷。熱傷。脱水。おそらく内臓にもダメージ」
「……褒めるところないですね」
「ある」
白石が言った。
創が目を開ける。
白石は、床に散らばった灰色の骨殻へ視線を向けた。
「治癒能力じゃない」
「……」
「筋力増強でもない」
灰色の破片を一つ拾い上げる。
「完全に防御へ特化している」
そして、創を見る。
「……ゴルゴン、か」
白石の口元がわずかに緩んだ。
「いい自己暗示だ」
創は何も言わなかった。
「お前はついに三つの力を手に入れた」
一つは熱。
二つ目は加速。
そして三つ目は、骨の檻。
「自分の意志で引き出したんだな」
創は自分の右手へ目を落とした。
まだ震えている。
火傷も傷も、そのまま残っている。
何も治ってはいない。
それでも確かに、新しい何かが自分の中に存在していた。
「……ゴルゴン」
創はもう一度、その名前を口にした。
今度は何も起こらない。
発動させる意志を込めていないからだ。
創は小さく笑った。
「……ちゃんと、言うこと聞くじゃないか」
エマも涙に濡れた顔で、少しだけ笑った。
その頭上では、数千トンにも及ぶ巨大な岩盤が、なお静かに軋み続けている。
それでも、その下に生まれた小さな空間には、確かに人間の体温が残っていた。




