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第21話 力を操る者、力に喰われる者

最初に動いたのは、ギデオンではなかった。

 ピッ、と小さな電子音が鳴り、創の胸元に赤い点が浮かんだ。

「……?」

 一つだった光点が二つ、三つと増え、瞬く間に十を超える。次の瞬間には、無数の赤い光線が暗闇の中から伸びてきた。

 狙われているのは創だけではない。エマ、白石、レオ、そしてアルゴー号の車体にも、次々とレーザーサイトが重なっていく。胸や額だけでなく、フロントガラス、クローラー周辺、燃料タンクにまで赤い点が張り付き、まるで巨大な蜘蛛の巣が一行全員を絡め取ったようだった。

「伏せろ!!」

 創が叫んだ。

 ほぼ同時に、ギデオンが右手を上げる。

「駆除しろ」

 ただ、それだけだった。

 ダダダダダダダダダダダダッ!!

 直後、地下広間そのものが爆発したかのような銃声が轟いた。

 石柱の陰、崩れた祭壇の裏、岩棚、さらには高所に刻まれた古代の回廊から、アダム社の強化兵たちが次々と姿を現す。

「まだこんなにいたのかよォッ!」

 レオが叫んだ。

 兵士たちが構えているのは重機関銃、自動小銃、グレネードランチャー、そして対装甲ロケット。現代兵器の火力が、一斉にアルゴー号へ集中した。

 ガガガガガガガガッ!!

 分厚い装甲板が激しく震え、弾丸が表面を削り取る。フロントガラスの外では、弾着の火花が流星のように連なっていった。

「車体の陰へ!」

 白石がエマの腕を掴み、アルゴー号の陰へ引き込む。

「レオ!」

「分かってるッス!」

 レオは運転席へ飛び込み、エンジンを始動させた。

 ゴウンッ!!

 だが、その瞬間だった。

 創の視界の端に、他とは異なる光が映った。

 兵士の肩口から白煙を引きながら、何かが飛び出してくる。

(ロケット――)

 対装甲弾だった。

 狙いはアルゴー号の側面。そこにはエマたちがいる。

 考えるより先に、創の口から名前が出た。

「――ヘルメス」

 カチッ。

 世界が変わった。

 耳をつんざいていた銃声が一瞬で低く引き延ばされ、ガトリング砲の連射音さえ、一発ずつ分離して聞こえる。

 ドン。

    ドン。

       ドン。

 空中には無数の弾丸が浮かんでいるように見えた。

 もちろん、実際に止まっているわけではない。弾丸は確かに飛んでいる。ただ、今の創の脳にとって、その速度はもはや「観察できる現象」に過ぎなかった。

(右から七発)

 視線を動かす。

(左から十一。上方から四)

 すべての弾丸そのものを見る必要はなかった。

 銃口の位置と射角、弾丸の初速、自分とアルゴー号の位置関係。必要な情報だけが透明な線となって、頭の中で次々と結ばれていく。

 以前のような情報の濁流はない。

 砂粒が床へ落ちる音も、レオの心拍も、エマの呼吸も、今は必要ではない。そうした情報はすべて意識の外へ押し出されていた。

(いける)

 創は一歩踏み出した。

 銃弾の間を縫うように進む。

 一発、二発、三発。

 頬の数センチ横を弾丸が通過する。それでも恐怖はなかった。どこを通るのか、その軌道が見えているからだ。

 問題はロケット弾だった。

 創の視線が、白煙を引きながら進む対装甲弾へ固定される。このままなら、間違いなくアルゴー号の側面へ直撃する。

(避けるだけじゃ駄目だ)

 創は息を吐いた。

「――オフ」

 カチッ。

 時間が戻る。

 ゴォォォォッ!!

 ロケット弾が猛烈な勢いで目前へ迫った。

 創は右拳を握る。

「――プロメテウス」

 ドクンッ!

 右腕の血管が浮き上がった。

 だが、以前のように全身が熱を帯びることはない。熱は肩から先へ集中し、上腕、前腕を経て拳へと集まっていく。

 必要な部位だけに、必要な量だけ。

 青白い光が右拳を包んだ。

「はああッ!!」

 創は拳を振り抜いた。

 狙うのはロケット弾そのものではない。拳が弾頭の先端を掠める瞬間、信管と推進部の境界へ、ほんのわずかな熱を叩き込む。

 ジュッ!!

 金属が一瞬で白熱した。

 弾頭の外殻が融け、内部機構が破損する。ロケット弾はたちまち軌道を失い、アルゴー号の数メートル手前で地面へ突き刺さった。

 ドガァァァン!!

 爆発の衝撃波が創の髪を大きく煽る。

「創!」

「大丈夫だ!」

 創は叫ぶと、すぐに力を切った。

「――オフ!」

 右腕から熱が引いていく。

 だが、休んでいる暇はない。

 左上方に重機関銃。

「――ヘルメス!」

 再び世界が遅くなる。

(来る)

 銃口の向きが変わる。

 創は三歩だけ走り、射線から外れた。

「――オフ!」

 時間が戻る。

 ダダダダダッ!!

 次の瞬間には、創がいた場所の床が銃弾に抉られていた。

 別方向では、兵士がグレネードランチャーを構えている。

「――ヘルメス」

 カチッ。

 世界が沈む。

(アルゴー号を狙ってる)

 創は射角を読み、着弾位置を予測した。

 そして動く。

「――オフ」

 通常時間へ戻ると同時に、今度は右手へ意識を切り替えた。

「プロメテウス!」

 右手だけを加熱する。

 発射されたグレネードへ向けて、足元にあった砕けた石片を弾き飛ばした。熱を帯びた石片が弾頭へ衝突し、その軌道をずらす。

 直後、別の場所で爆発が起きた。

「オフ!」

 熱を切る。

 そして、再び。

「ヘルメス!」

 加速。

「オフ!」

「プロメテウス!」

 熱。

「オフ!」

「ヘルメス!」

 加速。

 切る。

 熱を使い、切る。

 再び加速し、また切る。

 創の中で、二つの力がまるで精密機械のスイッチのように切り替わっていった。

 数秒前まで広間を埋め尽くしていた十字砲火が、創一人を仕留めることすらできない。

「なんなんだ、あいつは!?」

 アダム社の兵士が叫んだ。

「照準が追いつかない!」

「面で撃て! 逃げ場を潰せ!」

 複数の銃口が一斉に動く。

 しかし、創にはそれすら遅く見えた。

「遅い」

 撃たれる前に分かる。

 肩が動く。

 銃口の角度が変わる。

 指が引き金へ力を加える。

 人間の身体が攻撃動作へ移る、そのわずかな予備動作までヘルメスが拾い上げていた。

(制御できてる)

 創の口元に、微かな笑みが浮かんだ。

(俺が使ってる)

 シベリアでは違った。

 あのときは力に振り回され、熱に身体を焼かれ、加速に脳を壊された。生き延びるたび、自分が人間から遠ざかっていくような恐怖だけが残っていた。

 だが、今は違う。

(これは俺の力だ)

 カチッ。

 ヘルメスを切る。

「プロメテウス!」

 右拳が青白く輝いた。

 飛来した最後のロケット弾へ拳を叩きつけ、弾頭の側面だけを融解させる。軌道を失った弾頭は背後の石柱へ突き刺さり、轟音とともに爆発した。

 ドゴォォォン!!

「オフ!」

 熱が消える。

 創は十字砲火の中心へ着地した。

 それでも、身体には一発の弾丸も当たっていない。

「……すげえ」

 アルゴー号の陰から、レオが呟いた。

「本当に……全部見えてるのかよ」

 エマも息を呑んで創を見ていた。

「創……」

 その目にあるのは、恐怖よりも驚きだった。

 創は自分の右手を見る。

 震えていない。

 痛みも、ほとんどない。

(いける)

 確信が生まれた。

(この切り替えなら――どれだけ敵が多くても戦える)

 そのときだった。

「創!」

 白石の怒声が飛んだ。

「もう切り替えるな!」

 創が振り返る。

「え?」

「止めろ!」

 白石はアルゴー号の陰で、創の生体モニターを凝視していた。

 その顔色が変わっている。

「今すぐ能力を切れ!」

「でも、先生――」

「いいから切れ!」

 創には意味が分からなかった。

 呼吸はできている。

 意識も鮮明だ。

 右腕も焼けていないし、頭痛もない。

 これまでとは明らかに違う。

「大丈夫です!」

「大丈夫じゃない!」

 白石が叫ぶ。

「お前の身体の中で、切り替えが追いついていない!」

 その瞬間だった。

 創の視界が、わずかに揺れた。

「……?」

 右足に違和感がある。

 一歩踏み出そうとした。

 だが、動かない。

「な……」

 もう一度、脚へ命令する。

 動け。

 それでも右脚は、床に貼り付いたように反応しなかった。

 左足まで重い。

「なんだ……これ」

 創は右手を見る。

 プロメテウスは切ったはずだった。

 なのに、指先がまだ熱い。

 それだけではない。

 痺れている。

 触覚そのものが曖昧になっていた。

「創!」

 エマが叫ぶ。

「どうしたの!?」

「身体が……」

 創は右脚をもう一度動かそうとした。

 やはり反応しない。

「動かない……!」

 その直後。

 ドクンッ!!

 心臓が大きく跳ねた。

「ぐっ……!」

 創は胸を押さえる。

 ドクン。

 ドクンッ!!

 脈が乱れ始めた。

 速い。

 と思った次の瞬間には遅くなり、さらにその直後には異常なほど速くなる。

「先生!」

 エマが白石を見る。

 白石は創のモニターを睨みつけた。

「やっぱりだ……!」

「何が起きてる!?」

「切り替えそのものは成功している!」

 白石が叫ぶ。

「だが、身体はスイッチじゃない!」

 銃撃が続く地下広間に、白石の声が響いた。

「『ヘルメス』では脳と神経系へ血流を集中させ、神経伝達を極端に加速させる。一方、『プロメテウス』では筋肉と末梢組織の代謝を跳ね上げ、大量の酸素と血液を右腕へ送り込む!」

 創の視界が揺れる。

「要求している生理状態が、まるで違うんだ!」

 創は息を呑んだ。

「でも……俺はちゃんと切って――」

「脳ではな!」

 白石が遮った。

「お前は名前を使って、発動の命令そのものは切れるようになった。だが、命令を止めた瞬間に血管もホルモンも代謝も、全部元へ戻るわけじゃない!」

 創の顔から血の気が引いていく。

「生体反応には慣性がある。アドレナリンも血流も細胞内の代謝も、オンとオフの間には必ず移行時間が必要なんだ!」

 ドクンッ!

 創の心臓が再び跳ねた。

「それをお前は――」

 白石が端末を握り締める。

「数秒の間に何度切り替えた!?」

 創は答えられなかった。

 十回。

 いや、おそらくそれ以上。

 次の瞬間、右腕が大きく痙攣した。

 ガクッ、と膝が落ちる。

「……ッ!」

 白石が創を指差した。

「今のお前の身体で壊れかけているのは、自律神経と血流制御だ!」

 創の耳鳴りが一気に強くなる。

 キィィィィィン……。

 視界の周囲が暗くなった。

 脳は加速しろと命令している。

 一方で、末梢血管は熱を逃がそうとして拡張し、心臓は大量の血液を送り出そうとする。

 それなのに身体の別の部分では、加速状態から戻るために心拍を落とそうとしていた。

 交感神経と副交感神経。

 血管の収縮と拡張。

 加速と制動。

 相反する命令が同時に身体を引っ張っている。

「だから……」

 創は歯を食いしばった。

「動かないのか……?」

「脳と筋肉の連携が一時的にショートしてる!」

 白石が叫ぶ。

「身体が自分を守るために、強制的にフリーズをかけたんだ!」

 創の背筋を冷たい汗が流れた。

 そのときだった。

 突然、銃声が止んだ。

「……?」

 あまりにも唐突な静寂に、創が顔を上げる。

 アダム社の兵士たちも撃つのをやめていた。

 だが、誰も創を見ていない。

 全員が、上を見ている。

「……創」

 エマの声が震えた。

「上……!」

 創も見上げる。

 そこに、いない。

 さっきまで十メートルほど先に立っていたはずのギデオンが消えていた。

 ゾクリ、と全身に悪寒が走る。

 直後、頭上から低い声が降ってきた。

「なるほど」

 創の瞳が見開かれる。

「面白い力だ」

 天井近く、十数メートル上。

 そこにギデオンがいた。

(いつ……!?)

 巨体が落ちてくる。

 いや、違う。

 落下したのではない。

 自らの脚力だけで十数メートルの高さまで跳び上がり、そこから創へ向かって降下しているのだ。

「――ヘルメス!」

 創が叫んだ。

 カチッ。

 だが、世界は変わらない。

「な……」

 もう一度。

「ヘルメス!」

 何も起こらなかった。

 頭の中では確かにスイッチを入れた感覚がある。

 それなのに、神経が応答しない。

「無理だ!」

 白石が叫ぶ。

「今のお前の身体じゃ切り替えられない!」

 ギデオンが迫る。

 創には、その姿がはっきり見えていた。

 ゆっくりではない。

 むしろ普通の人間より遥かに速い。

 巨大な拳。

 丸太のような前腕。

 スーツの下で一気に収縮していく異常な筋肉。

 避けろ。

 脳が命令する。

 右へ、半歩でいい。

 動け。

 動け。

 動け。

 だが、脚が反応しない。

 ギデオンの口元が歪んだ。

「力を支配したつもりか?」

 創の瞳が見開かれる。

「まだ――」

 ギデオンが右拳を引いた。

「身体に使われているだけだ」

 次の瞬間、その拳が創の腹部へ深々とめり込んだ。

 ドッ――。

 一瞬、音が消えた。

 創の身体が「く」の字に折れ、肺の中にあった空気が一滴残らず押し出される。

「が――」

 声すら出ない。

 そして、わずかに遅れて衝撃が爆発した。

 ドゴォォォォォォンッ!!

 創の身体が宙を舞った。

 十メートル。

 二十メートル。

 視界が激しく回転し、エマ、レオ、白石、アルゴー号、石柱、天井、床がすべて一つに混ざっていく。

 そして。

 ドガァァァン!!

 創は背中から巨大な石柱へ叩きつけられた。

 衝撃で石柱に亀裂が走る。

「創ォォォ!!」

 エマの絶叫が響いた。

 創はそのまま床へ崩れ落ちた。

 口の中に鉄の味が広がる。

「ごぼっ……」

 血を吐いた。

 息ができない。

 腹部には焼けるような痛みが走り、肋骨も何本か折れている。内臓にも強烈な衝撃が入っているのが、自分でも分かった。

 それでも、創は顔を上げた。

 霞む視界の向こうで、ギデオンは何事もなかったかのように着地していた。

 片膝すらついていない。

 ただ悠然と立ち、ゆっくりと創を見ている。

「脆いな」

 ギデオンが呟いた。

 創の身体が震えた。

 痛みのせいではない。

 ようやく理解したからだ。

 アンカリングは成功した。

 力を発動することもできた。

 止めることもできた。

 それでも足りない。

 自分の脳が力を制御できるようになったことと、自分の肉体がその力に耐えられることは、まったく別の問題だったのだ。

 ギデオンが一歩踏み出す。

 コツン、と革靴が床を打つだけで、石床が微かに震える。

 創は血に濡れた口元を拭い、立ち上がろうとした。

 だが、脚に力が入らない。

 そんな創を見下ろしながら、ギデオンは静かに右手を握った。

「さて」

 ボキッ。

 骨の鳴るような音が広間に響く。

「次は――」

 火傷に覆われた右半分の顔が、歓喜に歪んだ。

「私の力を見せてやろう」

 痛みより先に、息が消えた。

「――っ」

 創は床に膝をついたまま口を開いたが、肺がうまく動かなかった。先ほど腹部へ叩き込まれたギデオンの拳による衝撃が、まだ身体の奥を暴れ回っている。

 肋骨の内側から肝臓、脾臓、腎臓に至るまで、内臓のすべてを一度まとめて握り潰されたような感覚だった。

「創!」

 遠くからエマの声が聞こえる。

 返事をしようとした。

「だい……」

 しかし、声にはならなかった。

 ゴボッ、と喉の奥から赤黒い血が溢れ、石床へ落ちる。

 それを見た白石の表情が変わった。

「創! 動くな!」

 だが、ギデオンは待たなかった。

 コツン、と革靴の音が近づく。

 創が顔を上げると、すでにギデオンが目の前に立っていた。

「立て」

「……」

「その程度ではないだろう」

 ギデオンは創を見下ろしていたが、怒っている様子すらなく、呼吸もまったく乱れていない。人間一人を二十メートル近く吹き飛ばしたことなど、彼にとっては軽い準備運動に過ぎなかったのだろう。

 創は歯を食いしばった。

(動け……)

 右脚へ意識を向ける。

 だが、反応しない。

(ヘルメス)

 頭の中で名前を呼んでも、視界は遅くならなかった。

(なら……プロメテウス)

 今度は右腕へ意識を集中させる。

 ほんの少しでいい。熱を出せ。

 それでも、指先がわずかに震えるだけだった。

「……くそっ」

 その様子を見ていたギデオンの眉が、わずかに動く。

「もう終わりか」

 次の瞬間、巨大な右腕が振られた。

 拳ではない。

 裏拳だった。

 邪魔な物でも払い除けるような、あまりにも無造作な一撃。

「創――!」

 ドゴッ!!

 ギデオンの前腕が、創の腹部を横から薙いだ。

 今度は、身体の中で何かが軋む音がはっきりと聞こえた。

 ミシッ。

 肋骨なのか、それとも骨盤なのか。どこが壊れたのか、創自身にも分からない。ただ、内臓が破裂したのではないかと本気で思うほどの衝撃だった。

「がっ――!」

 次の瞬間、創の身体が床から消えた。

 まるでボールのように宙を飛び、視界が高速で回転する。天井、床、石柱、エマ、ギデオンが次々と入れ替わり、どちらが上なのかさえ分からなくなった。

 そして。

 ドガァァン!!

 背中から石柱へ激突した。

 巨大な柱へ亀裂が走り、その衝撃が脊椎を突き抜けて後頭部まで駆け上がる。

「――――ッ!!」

 声すら出せなかった。

 創はそのまま床へ落ちた。

 ゴトッ、と鈍い音がする。

 それはもう、人間が倒れた音というより、壊れた物が床へ落ちた音に近かった。

「創!」

 エマが駆け出そうとする。

「来るな……!」

 創は血に濡れた口で叫んだ。

「来るな!」

 エマの足が止まった。

 ギデオンはゆっくりと振り返り、彼女を見た。

「賢明だ」

 そう言うと、今度は周囲のアダム社兵士たちへ片手を上げた。

「撃つな」

 それまで創たちへ向けられていた銃口が、一斉に下がる。

 広間に静寂が訪れた。

「この実験体は」

 ギデオンは再び創へ向き直った。

「私が処理する」

 創は石柱にもたれたまま、荒い呼吸を繰り返していた。

 右目の視界がぼやけ、耳鳴りと吐き気が止まらない。息を吸うたびに、胸の奥を鋭い何かで刺されるような痛みが走る。

 それでも、創はギデオンを見た。

(考えろ)

 身体が動かないのなら、頭を使うしかない。

 真正面からでは勝てない。

 筋力も速度も耐久力も、すべて向こうが上だ。

 だが、人間である以上、どこかに弱点はあるはずだった。

 創はギデオンの身体を観察する。

 眼球。

 頸動脈。

 腋窩。

 膝窩。

 関節。

 どれほど身体が強化されていようとも、人体そのものの構造まで消えるわけではない。

 そして、自分には熱がある。

(皮膚を焼けなくても……内部なら)

 血管。

 神経。

 ボロディンを倒したときと同じように、構造的に弱い場所だけを狙えばいい。

 創は右手を床についた。

「……プロ……メテウス」

 ドクン。

 ごく微かに、右手が熱を帯びた。

 弱い。

 それでも、完全に失われたわけではない。

 ギデオンも、その変化に気づいた。

「まだ抵抗するか」

 創は笑った。

 口の端から血が流れる。

「……人間なら」

「何?」

「焼けるだろ……」

 一瞬、ギデオンの表情から笑みが消えた。

 だが、すぐに再び口元が歪む。

「なるほど」

 右手を上げる。

「そこまで辿り着くか」

 その瞬間、創の背筋に嫌な予感が走った。

 ギデオンは左手を右腕の内側へ伸ばした。そこには、小さな黒いパッチが貼られている。

「それは……」

 白石が目を見開いた。

 形は違うが、創が使用している抑制パッチによく似ていた。

「アダム社の……遺伝子制御パッチ?」

「制御?」

 ギデオンは鼻で笑った。

「違う」

 親指でパッチを押す。

 ピッ。

「解放だ」

 電子音が響いた直後、ギデオンの右腕が大きく痙攣した。

 ビクッ、と一度。

 続いて、もう一度。

 そして突然、前腕の皮膚の下で何かが盛り上がった。

「……何だ?」

 創は息を呑んだ。

 筋肉ではない。

 もっと硬い何かが前腕の内側から皮膚を押し上げ、筋状の隆起となって走っていく。

 ボコッ。

 さらにもう一つ。

 ボコボコボコッ――。

「う……」

 エマが思わず口元を押さえた。

 皮膚の下を、生き物が這っているように見える。

 しかし、白石だけは別のものを見ていた。

「まさか……」

 携帯端末を操作しながら、目を見開く。

「骨形成……?」

「骨?」

「いや……違う。こんな速度で起こるはずがない」

 白石の声が震えた。

 ギデオンの皮膚が、徐々に色を変え始める。

 褐色だった皮膚の下から灰色が浮かび、それがやがて白灰色へ変わっていく。前腕の表面は光沢を失い、次第にざらついた質感へ変化していった。

 一見すれば、石のようだった。

 しかし、石ではない。

「骨……なのか?」

 創が呟く。

 白石は首を振った。

「骨だけじゃない」

 その視線はギデオンの腕へ釘付けになっていた。

「表皮の角質化、真皮下の硬化……それだけじゃない。皮下組織そのものに、異常な石灰化が起きている」

 ギデオンの右腕を覆う灰色の層は、さらに厚みを増していく。

 前腕から肘、上腕、そして肩へ。

 まるで骨格に沿って新たな装甲が形成されていくようだった。

 だが、それは人工物ではない。

 どこにも継ぎ目がなく、すべてが生きた組織だった。

「あり得ない……」

 白石が呟く。

「骨芽細胞様の組織を、あらかじめ皮下に仕込んでいるのか……?」

 創が振り返った。

「どういうこと……?」

「奴の身体そのものが、装甲を作っている」

 白石の声が低くなる。

「通常なら何週間、何か月もかかる骨形成を、遺伝子パッチで一気に加速させているんだ」

「そんなことしたら……」

「ああ。普通の人間なら代謝がもたない」

 それでも、ギデオンは何事もなかったかのように立っていた。

 苦しむ様子すらない。

 やがて右腕は、完全に灰色の外殻で覆われた。

 皮膚の上に石を貼りつけたのではない。皮膚も、結合組織も、骨も、すべてが一体となって、一つの生体装甲へ変質していた。

 ギデオンが拳を握る。

 ゴリッ、と岩石同士を擦り合わせたような音がした。

「アダムでは、これを」

 ギデオンが言う。

「ゴルゴン・プロトコルと呼んでいる」

 創の瞳が細くなった。

「ゴルゴン……」

「皮膚を固めるだけの幼稚な技術ではない」

 ギデオンは自らの拳を眺めながら続ける。

「角質層を増強し、結合組織を高密度化する。さらに骨格に沿って石灰化前駆組織を展開し、衝撃を全身へ逃がす」

 そう言うと、灰色に変わった拳を近くの石壁へ軽く当てた。

 コン。

 本当に、それだけだった。

 次の瞬間。

 バキバキバキッ!!

 拳を触れさせた場所を中心に、蜘蛛の巣状の亀裂が壁全体へ走った。

 創の喉が鳴る。

「攻撃力だけじゃない……」

 白石が呟いた。

「衝撃に対する耐性そのものが上がっている」

 ギデオンは創を見る。

「焼いてみろ」

「……」

「その程度の熱で」

 灰色の右手を広げた。

「この身体をな」

 創は歯を食いしばった。

 右手に、残された力を集める。

「プロメテウス……!」

 ドクンッ!!

 右腕が熱を帯びた。

 痛い。

 皮膚の内側から裂けていくような痛みが走る。

 それでも、創は熱を一点へ集中させた。

 床を蹴る。

 二歩。

 わずかそれだけで、視界が白くなる。

「創、やめろ!」

 白石の声が聞こえた。

 それでも止まらない。

 創は残った力を振り絞り、右拳をギデオンの腹部へ叩き込んだ。

「はああああッ!!」

 ジュウウウウウッ!!

 灼熱によって空気が歪み、ギデオンのスーツが一瞬で焦げ落ちる。

 その下に現れたのは、灰色の外殻だった。

 プロメテウスの熱が直撃する。

 しかし。

「……嘘だろ」

 焼けない。

 外殻の表面が赤くなるだけで、その奥まで熱が届かない。

「熱量不足だ!」

 白石が叫ぶ。

「今のお前じゃ、その厚さを貫けない!」

 ギデオンは、腹部へ当てられた創の拳を静かに見下ろしていた。

「その程度か」

 創が顔を上げる。

 次の瞬間、ギデオンの左手が創の首を掴んだ。

「がっ……!」

 身体が浮いた。

 片手だけで、両足が完全に床から離れる。

「お前は面白い」

 ギデオンが言った。

「熱」

 指に力が入る。

「加速」

 気道が締まり、息ができなくなる。

「そして、おそらくまだ何かが眠っている」

 その瞳は、創という一人の人間を見ているのではなかった。

 実験動物。

 標本。

 興味深い研究対象を見る目だった。

「だが」

 ギデオンは創を放り投げた。

 ドガァン!!

 創は床へ叩きつけられ、そのまま何度も転がった。

「制御できない進化に価値はない」

 創は床へ伏したまま血を吐いた。

 そのときだった。

 ダダダッ!!

 突然、銃声が響く。

 ギデオンの後方で、アダム社の強化兵の一人が何かへ向かって発砲していた。

「何を撃って――」

 エマが言いかけた。

 弾丸が、崩れかけた壁面へ当たる。

 カン、と金属音が響き、火花が散った。

 その一発が、重機による掘削ですでに無数の亀裂が入っていたアーチ部分を撃ち抜いた。

 小さな石片が落ちる。

 コツン。

 床へ転がった。

 続いて、握り拳ほどの岩が落ちてくる。

 ゴトン。

「……まずい」

 白石が天井を見上げた。

 ミシ。

 ごく微かな音。

 それが、ミシミシ……と次第に広がっていく。

 エマの顔色が変わった。

「レオ……」

「分かってるッス」

 天井に一本の亀裂が走った。

 その亀裂はすぐに枝分かれし、さらに周囲へ広がっていく。

 バキッ。

 バキバキバキバキッ――!

「全員、アルゴー号へ!!」

 レオが叫んだ。

 次の瞬間、地下空間全体を揺るがす轟音が響いた。

 ドゴオオオオオオオオオオオオン!!

 何本もの巨大な石柱が、一斉に傾き始める。

「崩れるぞ!!」

 天井から岩塊が落ちてくる。

 一メートル級の岩に続き、三メートル、五メートルと、さらに巨大な塊が次々に崩落していく。

 だが、本当に恐ろしいものは、そのさらに向こうにあった。

「そんな……」

 エマが絶句する。

 天井そのものが動いていた。

 巨大な岩盤が視界の端から端まで伸び、天井の一部を丸ごと剥ぎ取られるようにして落下し始めている。

 あまりにも巨大なため、動いているようにすら見えない。

 それでも、確実に近づいていた。

「創!」

 エマが駆け出す。

 ギデオンはその姿を見た。

 だが、追おうとはしなかった。

 代わりに自分の部隊へ合図する。

「撤収」

「しかし、オリジナルは――」

「必要ない」

 ギデオンは床へ倒れ、血を流しながら這いつくばっている創を見た。

「適応できない個体に」

 灰色の右腕を静かに下ろす。

「未来はない」

 創が顔を上げた。

「待……て……」

 声にならなかった。

 ギデオンはすでに背を向けていた。

「アダム社の偉大な進化の礎にもなれぬ」

 一歩。

「無価値な実験体として」

 コツン、と革靴の音を響かせながら、暗闇へ歩いていく。

「死ね」

 その姿は、崩れ落ちる石柱の向こうへ消えていった。

「創!!」

 エマが駆け寄ろうとする。

 しかし。

 ゴガァァァン!!

 二人の間へ、巨大な岩塊が落下した。

「きゃっ!」

「エマ!」

 一瞬で岩壁ができ、二人は完全に分断された。

「創!」

 向こう側から、エマの声が聞こえる。

「創! 返事して!」

「俺は……」

 創は立ち上がろうとした。

 だが、身体が動かなかった。

 右腕の感覚がない。

 視線を向けると、プロメテウスを無理に引き出した腕は赤黒く腫れ上がり、一部の皮膚は焼け、指先が細かく震えていた。

 いや。

 震えているのではない。

 痙攣している。

 そして、頭が痛い。

 まるで頭蓋骨の内側から、太い楔を何本も打ち込まれているようだった。

「ヘルメス……」

 創は小さく呟いた。

 何も起きない。

「……ヘルメス」

 もう一度呼ぶ。

 それでも世界は遅くならず、視界が二重になるだけだった。

「くそ……」

 ならば。

「プロメテウス……」

 右手へ意識を向ける。

 反応しない。

 いや、微かな熱だけは残っていた。

 だが、それはもう力ではない。

 傷んだ細胞が、炎症によって熱を持っているだけだった。

 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……。

 創は上を見た。

 巨大な岩盤が落ちてくる。

 逃げろ。

 頭では分かっていた。

 ほんの数メートル、横へ移動するだけでいい。

 だが、右脚も左脚も動かない。

 右腕も使えない。

 左手に至っては、指先すら思うように動かなかった。

(……終わった)

 初めて、そう思った。

 ボロディンと戦ったときも、シベリアで凍りついたときも、どこかに選択肢は残されていた。

 熱を使う。

 加速する。

 逃げる。

 戦う。

 何か一つは、自分で選ぶことができた。

 だが、今は何もない。

 回避できない。

 壊すこともできない。

 逃げることもできない。

 創の視界いっぱいに、巨大な岩盤が広がっていく。

 不思議な感覚だった。

 ヘルメスは発動していない。

 それなのに、時間だけがゆっくり流れているように感じられる。

 砂が天井から舞い落ちてきた。

 一粒。

 また一粒。

 遠くでは、エマが何かを叫んでいる。

 だが、もう聞こえない。

 レオの声も、白石の声も、ひどく遠くに感じられた。

 創は仰向けになった。

 身体中が痛いはずなのに、妙に静かだった。

 右手を見る。

 十九年間、自分の身体の中に隠されていた父の仕掛け。

 呪いであり、同時に力でもあったもの。

 プロメテウス。

 ヘルメス。

 二つとも、もう応えてくれない。

「……親父」

 創の口から、小さな声が漏れた。

「ここまで……なのかよ」

 巨大な岩盤が光を塞いでいく。

 視界が暗くなる。

 死ぬ。

 今度こそ。

 その事実だけは、奇妙なほど冷静に理解できた。

 創は目を閉じた。

 その瞬間だった。

 ――ドクン。

「……?」

 右手の奥で、何かが脈打った。

 熱ではない。

 神経の加速でもない。

 もっと深い場所。

 骨の奥、さらにその内側にある骨髄の奥から、何かが目を覚まそうとしている。

 ドクン。

 もう一度。

 その鼓動に呼応するように、創の指先がほんのわずかに動いた。

 そして、暗闇の向こうからエマの声が届く。

「創――!」

 岩盤が落ちる。

 最後に残っていた光が消え、創の視界は完全な黒に染まった。

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