第20話 死の迷宮と、暴力の王
アルゴー号のヘッドライトが闇を切り裂いたが、その光は二十メートルほど先で吸い込まれるように消えていた。
「……深いッスね」
レオがハンドルを握ったまま呟く。
ワディ・ムーサの外れにあった涸れ川。その底を走っていた巨大な亀裂へアルゴー号が潜り込んでから、すでに二十分近くが経過していた。
最初のうちは、明らかに自然に形成された岩の裂け目だった。両側から迫る赤褐色の岩壁には植物の根が垂れ下がり、足元の岩床には何百年も水が流れ続けたことで生まれた滑らかな削れ跡が残されている。
ところが、地下深くへ進むにつれて、その風景は少しずつ変わっていった。
岩肌から凹凸が消え、自然が作り出したはずの曲線もなくなっていく。代わりに現れ始めたのは、不自然なほど整った直線だった。
「止めて」
エマが言った。
「レオ、ちょっと止めて」
「了解ッス」
ギギッ……と鈍い音を立てて、アルゴー号が停止する。
エマは助手席から身を乗り出し、フロントガラスの向こうへ目を凝らした。
「これ……自然の亀裂じゃない」
創にもすぐに分かった。
左右の壁が、異常なほど平らなのだ。まるで巨大な刃物で山そのものを切断したかのように、岩盤が垂直に削られている。
さらに奥へ進むと、その人工性はますます露骨になった。
やがて闇の中から姿を現したのは、巨大な石柱だった。それが一本、二本、三本と続き、ヘッドライトの届かない彼方まで規則正しく並んでいる。一本一本の太さは、現代の高層ビルを支える柱にも匹敵するほどだった。
「……なんだ、ここ」
創は思わず呟いた。
アルゴー号がゆっくりと石柱の間を進んでいくと、やがて前方の視界が大きく開けた。
「うわ……」
レオの口から声が漏れる。
そこには、巨大な地下空間が広がっていた。
天井も壁の端も見えず、アルゴー号のヘッドライトだけではその全貌を捉えることすらできない。闇の中には巨大な柱が何十本も立ち並び、さらに正面には、一枚岩から削り出された途方もなく大きな壁面がそびえていた。
そこには階段があり、柱廊があり、三角形の破風と、人間の姿を模したような巨大なレリーフが刻まれている。その構造は、どこか地上のペトラにあるエル・ハズネを思わせた。
だが、あまりにも大きすぎた。
まるで地上にある神殿を、そのまま何倍にも拡大して地下へ埋め込んだような異様な建造物だった。
「……誰のために作ったんスかね、これ」
レオが言う。
「人間じゃないだろ。このサイズ」
誰も答えなかった。
アルゴー号が巨大な柱の間へ入っていく。
ゴウン……ゴウン……。
旧式ディーゼルエンジンの音が地下空間へ響き、一度鳴った音が数秒遅れて遥か彼方から返ってくる。
ゴウン……。
ゴウン……。
ゴウン……。
その反響は、まるで暗闇の奥に潜む巨大な何かが、アルゴー号の音を真似しているようだった。
創は無意識に右手を握った。
嫌な感覚がある。
まるで見られているような、そんな錯覚だった。しかも誰かにではなく、遺跡そのものに。
アルゴー号が、巨大な生物の口の中へ入り込んでいく。
石柱は牙で、回廊は食道。そして、この地下空間そのものが侵入者を奥へ奥へと誘い込む、巨大な胃袋のように思えた。
「待って」
突然、エマが声を上げた。
彼女は端末を持ち上げる。
「何か出てる」
「何が?」
「波形」
画面上には細い線が走っており、そこには規則的な振幅が現れていた。
エマが指を滑らせてノイズを除去していくうちに、その表情が変わる。
「これは……」
「どうした?」
「古代文字と同じよ」
創が振り返った。
「文字?」
「正確には、文字を音へ変換したときのパターン。この遺跡そのものが、ずっと微弱な振動を出してる」
エマは波形を拡大した。
二つの鋭いピークの間に、低く長い振幅が続いている。
彼女の唇が、ゆっくりと動いた。
「……拒絶」
誰も口を開かなかった。
「それと……排除」
その瞬間だった。
ズン。
床が揺れた。
「……え?」
レオが顔を上げる。
ズズン……。
今度は明らかだった。
アルゴー号の車体が揺れ、天井から細かな砂が落ちてくる。
「地震か!?」
「違う!」
エマが叫んだ。
「波形が変わった!」
端末の表示が一気に跳ね上がる。
ズズズズズズズ……。
巨大な振動が地下空間全体を駆け抜け、石柱の奥から何かが動く音が響き始めた。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……。
創の背筋に冷たいものが走る。
歯車や滑車、石材、そして金属。何千年、あるいは何万年という時間を沈黙したまま過ごしていた無数の構造物が、一斉に噛み合い始めるような音だった。
「遺跡が……」
白石が呟く。
「動いている」
その言葉通りだった。
これは単なる罠が作動したのではない。もっと巨大な、空間全体に組み込まれた何かが目を覚ましたのだ。
この遺跡そのものが、一つの機械だった。
侵入者を感知し、選別し、そして排除する。
巨大な防衛装置。
そして――。
ガコンッ!!
頭上で何かが外れた。
「上ッス!!」
レオが叫ぶ。
創が顔を上げると、闇の中から巨大な影が落ちてきていた。
厚さ数メートル、幅は回廊いっぱい。何十トンあるのか見当もつかない巨大な石板で、その下端は鋭く削られている。
ギロチン。
そう理解したときには、すでにアルゴー号の真上まで迫っていた。
「避けろ!」
白石が叫ぶ。
「無理ッス!!」
レオがアクセルを踏み込むと、ディーゼルエンジンが咆哮した。
だが、間に合わない。
創の瞳が細くなる。
以前なら、ここで身体が勝手に反応していただろう。心拍が跳ね上がり、脳神経が暴走し、世界が強制的に引き延ばされる。そして止め方も分からないまま、自分自身を壊していた。
だが、今は違う。
創は一度だけ息を吸い、心の中で明確に一つの名前を呼んだ。
「――ヘルメス」
カチッ。
頭の奥で、スイッチが入った。
世界が遅くなる。
ゴォォォォォォ……。
巨大な石板が空気を押し潰しながら落下してくる轟音が、低く引き延ばされていく。
だが、以前とは違った。
レオの心拍、エマの呼吸、エンジンの振動、砂粒が車体へぶつかる音。それら、以前なら脳を埋め尽くしていた無数の情報が意識の外へ押し出され、必要なものだけが残っていた。
落下する石板。
アルゴー号。
左右の壁。
そして、石板を支えていた構造。
(見える)
創の琥珀色の瞳が素早く動いた。
巨大なギロチンは、左右の石柱に刻まれた溝を滑り落ちている。
質量そのものを止めるのは無理だ。数十トン、いや、それ以上ある。人間一人がどうにかできるものではない。
ならば、止める必要はない。
創の視線が一点で止まった。
右側のレール。
そこには、石板が横へぶれないよう軌道を固定している巨大な金属製のピンがあった。
(あれを壊せば――)
ギロチンの軌道がずれる。
ほんの数十センチでいい。それだけあれば、アルゴー号が通過する時間を作れる。
創は運転席の背を叩いた。
「レオ」
極端に引き延ばされた時間の中では、自分の声さえ奇妙に聞こえる。
「そのまま真っ直ぐ行け」
そして。
「――オフ」
カチッ。
世界が戻った。
「えっ!?」
レオには、創がいつの間にか助手席の横まで移動していたようにしか見えなかった。
「真っ直ぐだ!」
「了解ッス!!」
アクセルが床まで踏み込まれ、アルゴー号が突進する。
創はサイドドアを蹴り開けた。
地下の熱気が一気に吹き込み、その向こうから巨大なギロチンが迫る。
あと数秒。
創は右拳を握った。
今度は、別の名前を呼ぶ。
「――プロメテウス」
ドクン。
右腕だけが脈打った。
以前のように全身が熱くなることはない。心臓も暴走せず、熱は肩を越えなかった。
上腕から肘、前腕、そして拳へ。
必要な場所だけに、必要な量だけの熱が集まっていく。
右拳の周囲で空気が揺らぎ、指の隙間から青白い光が漏れた。
「創!」
エマが叫ぶ。
「大丈夫だ!」
創は車体から身を乗り出した。
狙うのはギロチンそのものではない。
右側のレール、その一点。
「そこだッ!」
拳を叩き込む。
ジュッ――!!
金属製の固定ピンが一瞬だけ白熱し、次の瞬間。
バキンッ!!
破断した。
ゴガァァァァン!!
支えを失った巨大な石板が、落下しながらわずかに傾く。
ほんの数十センチ。
だが、それで十分だった。
「行けええええッ!!」
「うおおおおおッ! アルゴー号ォォォ!!」
レオが叫び、アルゴー号がギロチンの下へ飛び込んだ。
ガガガガガガッ!!
石板の先端が車体後部を掠め、ルーフの装甲が削られて火花が散る。
次の瞬間。
ドゴォォォォォン!!
巨大なギロチンが背後の床へ激突し、衝撃波がアルゴー号を押した。
車体が大きく跳ねる。
「うわあああッ!」
エマが座席につかまり、レオが必死にハンドルを切る。左右のクローラーが床を噛み、アルゴー号は横滑りしながらも転倒を免れ、そのまま走り抜けた。
「……抜けた?」
レオがバックミラーを見る。
巨大な石板が、完全に回廊を塞いでいた。
「抜けたッス……!」
だが、創は答えなかった。
開いたサイドドアのそばで膝をつき、荒い呼吸を繰り返している。
「創!」
白石が駆け寄った。
「大丈夫だ……」
創は息を整えながら答えた。
額には汗が浮かんでいる。
だが、吐血はない。鼻血もなく、右腕も焼け焦げていなかった。
白石はすぐに創の腕へ巻かれた生体センサーを確認し、表示された数値を見て眉を上げる。
「……驚いたな」
「何が?」
「心拍百二十八。血圧は上がっている。乳酸値も多少増えているが……以前とは比較にならん」
白石は端末を操作した。
「熱を使ったのは?」
「右腕だけです」
「加速は?」
「三秒……いや、俺の感覚ではもっと長かったけど」
「現実時間では一秒にも満たない」
白石は画面を見つめたまま言った。
「成功している」
「……何が?」
「アンカリングだ」
白石は創を見た。
「以前のお前は、能力を使うたびに身体中のスイッチを一斉に入れていた。熱を出す必要があるとなれば全身のミトコンドリアを暴走させ、速く動く必要があるとなれば、脳も末梢神経もまとめて限界まで叩き上げていた」
白石は首を振った。
「車で言えば、信号を一つ渡るためだけにエンジンをレッドゾーンまで回していたようなものだ」
創は右手を見る。
「でも、今は違う」
「ああ」
白石の口元が、わずかに緩んだ。
「『ヘルメス』と名付けた瞬間、お前の脳は必要な神経回路だけを選択的に加速させた。視覚処理、空間認識、運動予測。それ以外の情報はむしろ抑制されている」
エマが目を見開く。
「だから……情報過多にならなかったのね」
「そういうことだ。そして『プロメテウス』も同じだ。全身ではない。右上肢、それも最後は拳周辺へ熱産生を集中させている」
「ATPの消費は?」
創が訊いた。
白石はニヤリとした。
「以前のお前なら、今ので数時間は動けなくなっていた。だが今回は許容範囲だ」
端末を見せられた創は、しばらくその数字を見つめていた。
信じられなかった。
二つの能力を使った。それなのに意識は澄み、筋肉も動く。頭蓋骨の奥を焼くような、あの痛みもない。
「……俺が、止められた」
小さく呟く。
エマが創を見る。
「うん」
「自分で入れて……自分で切れた」
創は右拳をゆっくり開いた。
そこにあるのは、父親によって埋め込まれた得体の知れない呪いではなかった。
少なくとも、今だけは。
自分の意思に従う力だった。
「プロメテウス」
創が小さく呟く。
だが、何も起こらない。
発動させる意志を込めていないからだ。
創はわずかに笑った。
「……悪くない」
「だろ?」
レオが得意げに振り返った。
「だから言ったじゃないッスか。必殺技には名前が必要なんスよ」
「お前の理論じゃない」
白石が即座に返す。
「いやいや、名付け親として著作権料くらい――」
そのときだった。
ズン。
全員の表情から笑みが消える。
音は、さらに深い闇の奥から聞こえてきた。
ズズン……。
低い振動がアルゴー号の床を伝ってくる。
創はゆっくり顔を上げた。
違う。
さっきのギロチンではない。
もっと遠く、もっと巨大な何か。
そして、その振動に混じって――。
ドォン……。
微かに爆発音が聞こえた。
続いて、ガガガガガガガ……と、重機が岩盤を削るような音が響いてくる。
白石が低く呟いた。
「アダム社か」
エマは端末を確認した。
「近い……。さっきよりずっと」
創の右手の奥が微かに疼いた。
だが、今度は暴走しない。
創は静かに拳を握る。
「行こう」
その声に迷いはなかった。
「奴らより先に、石板へ辿り着く」
レオが前を向く。
「了解ッス」
ギアを入れる。
ゴウン……!
アルゴー号のエンジンが再び唸りを上げ、ヘッドライトがさらに深い地下へ続く回廊を照らした。
その先には、床から、壁から、そして天井から、無数の巨大な石刃が獲物を待ち受ける牙のように突き出していた。
エマの端末に、新たな波形が浮かび上がる。
それを見た彼女の顔から血の気が引いた。
「創……」
「どうした?」
「さっきのは……入口だったみたい」
闇の奥で。
ガコン。
何かが動いた。
さらに奥で、また一つ。
ガコン。
ガコン。
ガコン。
その音は連鎖しながら遥か彼方へと続いていき、やがて地下回廊全体から、巨大な機構が目覚めるような低い咆哮が響き始めた。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……。
レオの口元が引きつる。
「……これ全部、抜けるんスか?」
創は前を見た。
無数の刃、圧殺機、崩落装置。そして、その先に待つ第三の石板。
静かに息を吸い、右手を握る。
熱は出ない。
世界も遅くならない。
まだ、必要ではないからだ。
「抜ける」
創の琥珀色の瞳が、暗闇を見据える。
「必要な時だけ使う」
そして、確かめるように拳へ力を込めた。
「今度は――俺がこいつらを使う番だ」
アルゴー号は速度を上げ、そのまま何万年ものあいだ侵入者を拒み続けてきた死の回廊へと突入した。
最初のギロチンは、本当に入口に過ぎなかった。
その先で、ペトラの地下迷宮は本格的に牙を剥いた。
ガコンッ!!
「左ッ!」
「了解ッス!」
創の叫びと同時に、レオが勢いよくハンドルを切る。
アルゴー号の巨体が横滑りした、その直後だった。
ドガガガガガガッ!!
右側の岩壁から、太さ数十センチもある石槍が一斉に突き出した。
一本や二本ではない。十本、二十本と並んだ鋭利な石の槍が、巨大な獣の牙のように通路を埋め尽くしていく。
ほんの一秒前までアルゴー号がいた空間は、完全に塞がれていた。
「次、正面!」
「どっちッス!?」
「そのまま!」
「そのままァ!?」
レオが叫んだ直後、前方の床が割れた。
アルゴー号のヘッドライトが照らす先で、石床が次々と暗闇へ崩れ落ちていく。
「アクセル踏め!」
「もう踏んでるッスよォォォ!!」
旧式ディーゼルエンジンが咆哮した。
ゴアアアアアアッ!!
クローラーが石床を噛み、アルゴー号が加速していく。そのすぐ後ろでは床が次々と崩れ、漆黒の裂け目が迫ってきていた。
崩落する床とアルゴー号、そして底の見えない暗黒。その三つが、ほとんど同じ速度で前方へ走っているように見えた。
「レオ、あと三秒!」
「三秒もないッス!!」
「二秒!」
「うおおおおおッ!!」
最後の石床が崩れ落ちる寸前、アルゴー号は跳んだ。
一瞬、四本のクローラーが完全に床を離れ、車内から重力が消える。エマの身体が座席から浮き上がり、白石の医療キットが宙を舞った。
「きゃっ!」
次の瞬間。
ドガァン!!
車体が反対側の床へ叩きつけられ、サスペンションが悲鳴を上げる。
アルゴー号は大きく蛇行したものの、そのまま姿勢を立て直し、再び前進した。
「まだ来る!」
創だけが前を見ていた。
暗闇の奥で、何かが光った。
金属ではない。
石だった。
直径十メートルはある巨大な円盤で、その表面には無数の刃が刻まれている。
そして、それが壁の奥から回転しながら飛び出してきた。
「なんじゃありゃあッ!?」
レオが絶叫した。
ゴゴゴゴゴゴゴゴッ!!
巨大な石円盤が、通路いっぱいを塞ぎながら迫ってくる。
避ける場所はない。
「創!」
エマが叫ぶ。
だが、創は動かなかった。
ゆっくりと息を吸う。
必要な時だけ。
必要な力だけ。
「――ヘルメス」
カチッ。
世界が沈む。
轟音が低く引き延ばされ、回転する石円盤と壁、床、天井だけが、異様なほど鮮明に創の意識へ浮かび上がった。
(壊せない)
判断は一瞬だった。
質量が大きすぎる。プロメテウスを使ったとしても、この距離では破壊しきれない。
ならば、別の道を探す。
視線が走る。
円盤。
軸。
左右の壁。
そして――。
(あそこだ)
左側の壁に、わずかに窪んだ退避スペースがあった。
幅は、アルゴー号がぎりぎり入れるほどしかない。普通の人間なら、この速度で走りながら見つけることすらできなかっただろう。
「――オフ」
世界が戻った。
「レオ! 十時方向! 壁際へ突っ込め!」
「壁ッスよ!?」
「穴がある!」
「信じるッスよォォォ!!」
レオがハンドルを叩き切った。
アルゴー号が横滑りする。
その瞬間、巨大な円盤が目前まで迫った。
「うおおおおおおおッ!!」
ガガガガガガッ!!
車体側面が岩壁を擦り、火花が散る。
サイドミラーが吹き飛んだ。
そして。
ゴォォォォォォォン!!
巨大な石円盤が、アルゴー号の目の前を通過した。
その距離は、わずか数センチ。
あと少しでもずれていれば、車体ごと真っ二つにされていた。
誰もすぐには喋れなかった。
荒い呼吸だけが車内を満たす。
やがて、エマが小さく呟いた。
「……生きてる?」
「たぶん……」
白石が眼鏡を直す。
レオはハンドルに額をつけた。
「もう嫌ッス……この遺跡……」
創が小さく笑う。
だが、その笑みはすぐに消えた。
「待って」
何かが違う。
創は顔を上げた。
前方だけ、空気が変わっている。
これまで延々と続いていた巨大な石柱の列が、そこで途切れていた。
「出口……?」
レオがアクセルを踏み、アルゴー号がゆっくりと前進する。
そして。
死の回廊を抜けた。
*
そこには、巨大な広間が広がっていた。
天井は高く、半球状にくり抜かれている。中央には祭壇のような石造構造物があり、さらにその奥には、地下深くへと続いているらしい巨大な門が見えた。
「……抜けたッス」
レオが呟く。
今度こそ、本当にトラップ地帯を抜けた。
それでも、誰一人として喜ばなかった。
異臭がしたからだ。
焦げた金属と燃料、焼けた樹脂。そして、その奥に混じる鉄臭い匂い。
血だった。
創の鼻は以前より遥かに鋭敏になっている。そのため、見えるより先に、それが何の匂いなのか分かってしまった。
「……血だ」
アルゴー号のヘッドライトが広間の床を照らした。
最初に見えたのは、人間の腕だった。
黒い装甲服に包まれた腕が、床の上へ不自然に投げ出されている。
「……ッ」
エマが息を呑む。
その先には、一人、二人、三人と、アダム・ジェノミクスの兵士たちが倒れていた。
だが、死体の状態がおかしい。
「これは……」
白石が顔をしかめた。
一人は岩壁にめり込んでいた。
比喩ではない。
背中から強烈な力で叩きつけられたのだろう。人体の形に沿って岩壁そのものが陥没し、その中央に装甲服の兵士が埋まっている。
胸部装甲は、完全に原形を失っていた。
別の兵士は床へ倒れ、四肢が人間の関節ではあり得ない方向へ折れ曲がっている。その隣には、持ち主の姿がないヘルメットだけが転がっていた。
さらに奥へライトが届く。
「……なんだよ、これ」
レオの声から、いつもの軽さが消えた。
そこには巨大な重機があった。
おそらくアダム社が地下掘削のために持ち込んだものだろう。
高さ五メートルを超える多脚式掘削車で、前部には工業用ダイヤモンドを埋め込んだ巨大な掘削アームが取り付けられている。厚い装甲板や油圧シリンダーを見る限り、そのすべてが軍用規格と思われた。
その重機が、真っ二つになっていた。
「……爆発したんじゃない」
創が呟く。
ヘルメスは使っていない。
それでも、強化された視覚は細部を拾っていた。
爆発なら装甲は外側へめくれ、熱による変色も残る。
だが、これは違う。
金属が内側へ潰れていた。
まるで巨大な力で、左右から挟み込まれたように。
「圧壊……?」
エマが呟いた。
白石が重機へ近づき、しゃがみ込んで破断面を確認する。
「いや。違うな」
「何が?」
「圧壊なら、もっと広い範囲が均等に潰れる」
白石は金属の断面を指差した。
「力が一点に集中している」
創も気づいた。
厚い装甲板の表面に、深い窪みがある。
五本。
まるで指のような形だった。
巨大な手で掴んだ痕跡。
「……まさか」
エマが青ざめる。
レオが乾いた笑いを漏らした。
「いやいや……ないッスよ」
誰も答えない。
「こんな重機……何トンあると思ってるんスか」
さらにその横には、掘削アームが転がっていた。
直径一メートル近い特殊合金製の支柱が、中央から折れている。
切断されたわけでも、爆破されたわけでもない。
文字通り、折られていた。
巨大な鉄棒を、人間が膝でへし折ったように。
「……トラップじゃない」
創が言った。
エマが振り返る。
「え?」
「見ろ」
創は周囲を指した。
この広間には、古代の罠が作動した痕跡がほとんどない。槍もなければ落石もなく、床も崩れていない。
それなのに、人間と機械だけが破壊されていた。
「誰かがやったんだ」
創の声が低くなる。
「こいつらを」
沈黙が落ちた。
「素手で……?」
エマが呟いた。
そのときだった。
ピピッ。
端末が鳴った。
エマが画面を見る。
その顔色が、一瞬で変わった。
「……生体反応」
「どこだ?」
「広間の奥」
ピピピピピピピッ!!
警告音が激しくなる。
「なに、この数値……」
「エマ?」
「おかしい」
彼女は端末を何度も叩いた。
「センサーの故障じゃない。代謝反応が……人間の基準値を完全に超えてる」
創はゆっくり顔を上げた。
祭壇の向こう。
闇の中から、小さな音が聞こえた。
コツン。
足音だった。
コツン。
また一歩。
奇妙なのは、音そのものは静かなことだった。
それなのに、一歩進むたびに床が微かに震える。
コツン。
ズン。
コツン。
ズン。
まるで、人間の形をした重機が歩いてくるような音だった。
「……来る」
創が呟いた。
アルゴー号のヘッドライトが、闇の奥を照らす。
最初に見えたのは、磨き上げられた黒い革靴だった。
次にダークスーツが見え、その上に異常なほど巨大な肩が現れる。
男が闇の中から歩み出た。
身長は二メートル近い。
スーツを着ているというだけなら、ただの大柄なビジネスマンに見えたかもしれない。
だが、身体の比率がおかしかった。
首は異様に太く、肩幅は広すぎるほど広い。上腕はスーツの生地が裂けそうなほど膨張し、胸郭そのものも尋常ではないほど厚かった。
人間の骨格を保ったまま、その上から筋肉だけを何重にも巻きつけたような身体だった。
そして、その顔の右半分には古い火傷の痕がある。引き攣れた皮膚のせいで、男の表情は常に薄く笑っているように見えた。
男は床に転がる兵士たちを、まったく躊躇することなく踏み越えた。
まるで、そこに死体など存在していないかのように。
「なるほど」
低く、よく響く声だった。
「ネズミが罠を抜けてきたと思えば」
男の視線が、創を捉える。
「やはりお前か」
その瞬間、創の身体が勝手に反応した。
心拍が上がる。
だが、能力の暴走ではない。
本能だった。
危険だ。
理屈より先に、身体そのものがそう判断していた。
「……誰だ」
創が訊いた。
男は答えなかった。
代わりに、床へ転がっていた巨大な掘削アームの前で足を止める。
「これは使い物にならんな」
そう呟くと、男は片手でそれを掴んだ。
「……え?」
レオの口から声が漏れる。
ギギギ……。
金属が床を擦った。
数百キロはあるはずの掘削アームが、ゆっくりと持ち上がっていく。
男はそれを、邪魔な椅子でも退けるように横へ放り投げた。
ドガァァァン!!
掘削アームが数メートル先の壁へ激突した。
誰も喋れなかった。
男はそこでようやく創を見た。
「アダム・ジェノミクス最高執行責任者」
一歩。
「ギデオン・レイス」
さらに一歩。
「お前を回収しに来た」
創は無意識に拳を握った。
ヘルメスを使うべきか。
そう考えた瞬間だった。
「やめておけ」
ギデオンが言った。
創の思考が止まる。
「……何?」
「その目」
ギデオンが笑う。
「シベリアで手に入れた力だろう」
創の背筋に冷たいものが走った。
「ボロディンの戦闘記録は見た」
ギデオンは首を鳴らした。
ゴキッ。
異様に重い音だった。
「あの男は悪くなかった」
肩を回すたび、ゴキ、ゴキ、と関節が鳴り、スーツの下で巨大な筋肉が波打つ。
「だが、根本的に間違っていた」
「……何がだ」
「機械だ」
ギデオンは吐き捨てるように言った。
「人間の肉を削り、骨を金属に置き換え、神経をケーブルへ繋ぐ」
鼻で笑う。
「愚かだと思わんか?」
創は黙っていた。
「人間の身体を捨てなければ強くなれないと思っている」
ギデオンは自分の胸を指した。
「逆だ」
その指が胸板へ沈む。
ただ筋肉が硬いのではない。
密度が違う。
創の鋭敏な視覚が、スーツ越しに男の異常さを拾い始める。
呼吸は遅い。
心拍は、それ以上に遅い。
これほど巨大な身体でありながら、まるで大型肉食獣が獲物へ飛びかかる直前のように、代謝が異様なほど静かだった。
首筋や肩、前腕では、わずかな動作のたびに筋肉の束が互い違いに滑っている。
一本一本が、鋼鉄のワイヤーのようだった。
(なんだ……こいつ)
創は無意識に『ヘルメス』へ意識を向ける。
まだ発動はしない。
ただ、観察する。
人体には限界がある。
筋肉が強くても、腱が耐えられなければ切れる。腱が強くても骨が耐えられなければ折れ、骨が強くても関節が耐えられなければ壊れる。
だからこそ、人間の出力には上限が存在する。
だが、目の前の男には、その常識が当てはまらないように見えた。
筋肉だけではない。
腱も、骨も、関節も。
すべてが一つの目的のために、異常な方向へ強化されている。
――暴力。
ただ、それだけのために。
「シベリアのサイボーグどもは、機械に頼りすぎたから敗れた」
ギデオンが言った。
「人間の遺伝子にはな」
一歩。
ズン。
「もとより機械など足元にも及ばない――」
さらに一歩。
ズン。
「闘争の力が眠っている」
創の首筋を汗が流れた。
暑さではない。
恐怖だった。
ボロディンと対峙したときとは違う。
あれは機械だった。
人間の形をした戦車。
だからこそ、構造を読むことができた。
装甲、関節、ケーブル、人工心臓。
機械には設計思想があり、設計思想がある以上、どこかに弱点も存在する。
だが、目の前にいるものは違った。
生きている。
呼吸し、血が流れ、心臓が動いている。
それなのに、人間という生物が本来持っているはずの「壊れやすさ」が、どこにも感じられない。
創の脳の奥で、原始的な警報が鳴っていた。
逃げろ。
こいつとは戦うな。
何百万年という進化の果てに、人間の遺伝子へ刻み込まれた、捕食者を前にした獲物の恐怖だった。
ギデオンは創の顔を見て、満足そうに笑った。
「いい顔だ」
右半分の火傷痕が歪む。
「機械人形を壊した程度で、自分が強くなったと思っていたか?」
創の拳が震える。
「安心しろ」
ギデオンはゆっくりと両腕を広げた。
「教えてやる」
暗闇の中で、その巨体だけが異様な存在感を放っている。
「熱でもない」
一歩。
「速さでもない」
また一歩。
「小細工でもない」
ギデオンは立ち止まった。
創との距離は、およそ十メートル。
そして。
ボキッ。
右拳を握った。
ただそれだけで、指の関節から石を砕くような音が響いた。
「純粋にして絶対的な――暴力というものをな」
その瞬間、創は理解した。
死の回廊など、まだ優しかったのだ。
あそこには規則があり、仕組みがあった。見抜けば避けることができ、弱点を探せば突破できた。
だが、目の前に立っている男には、そもそも攻略法というものが存在するのかさえ分からない。
ペトラ地下深層。
何万年もの時を超えて眠る第三の石板を目前にして。
神代創は初めて、人間そのものの姿をした怪物と対峙した。




