第19話 薔薇の街の喧騒と、失われた地脈
アルゴー号がワディ・ムーサの街へ入った瞬間、世界が変わった。
数時間前まで、創たちは砂漠の中を走っていた。そこにあったのは風の音とエンジンの振動くらいで、見渡すかぎり人の気配さえほとんどなかった。
だが、今は違う。
人の声、クラクション、ロバの蹄、露店の呼び込み、そして頭上を飛び交う小型ドローンのローター音。あらゆる音が幾重にも重なり合い、街そのものが巨大な生き物のようにざわめいていた。
「うわ……」
創は思わず窓の外を見た。
強烈な陽射しが車内まで入り込み、その向こうには日干し煉瓦の壁や赤茶けた石造りの建物、布を張った露店がひしめいている。色鮮やかな香辛料を山のように積んだ店から漂ってくるクミンやカルダモンの香りに、焼いた肉の匂いが混じり、さらにそのすぐ隣からは機械油と電池の焦げたような匂いまで流れてきた。
古い。だが、完全に古いわけではない。
建物と建物の間を銀色の配送ドローンが音もなく通過し、壁面には薄い光で作られたホログラム広告が浮かんでいる。
『PETRA SMART TOUR――AIガイドによる完全自動観光』
『本日の気温――摂氏三十八度』
『熱中症リスク・レベルⅢ』
その広告の横を民族衣装をまとった老人がゆっくりと歩き、頭上では無人の観光タクシーが通過していく。
古代と未来――本来なら相容れないはずの二つの時間が、まるで何の違和感もなく同じ街の中に存在していた。
「すごいな……」
創が呟くと、ハンドルを切りながらレオが笑った。
「シベリアとは正反対っスね」
「向こうは何もなかったけど、こっちは何でもありすぎる」
創は苦笑しながら、あらためて耳を澄ませた。
人の声やエンジン音、ドローンのローター音、風に混じって遠くから聞こえてくる音楽。それら無数の音が一気に頭へ流れ込んでくるのと同時に、視界にも人の動きや車輪の回転、太陽光の反射、ホログラムの明滅といった膨大な情報が溢れていた。
創は無意識に眉間へ力を入れた。
「……っ」
頭の奥が、じわりと熱くなる。
「創?」
エマが振り返った。
「大丈夫」
創はそう答えてから、わずかに間を置いた。
「……少し、うるさいだけだ」
その言葉を聞いた白石は、すぐに携帯型血液分析装置を取り出した。
「ちょうどいい」
「何が?」
「人間の身体が、どこまで『普通』から外れているかを見るにはな」
白石はそう言って創の腕を取った。
「また採るんですか?」
「医者というのは、患者が嫌がることほどやりたがる生き物なんだ」
「それ、自分で言います?」
針が皮膚を穿ち、血液が装置へ吸い込まれていく。数秒後、画面に並んだ数値を見た白石は、しばらく黙ったまま目を細めた。
「……やっぱりな」
「何か悪い?」
「悪いという言葉では足りん」
白石はディスプレイを創へ向けた。
「昨日より筋障害の指標が下がっている」
「じゃあ、良くなってる?」
「一見な。問題は、その下がり方だ」
白石は一本指を立てた。
「どういうこと?」
「普通の人間なら、壊れた筋肉が時間をかけて修復されていく。だが、お前は違う」
「……また?」
「ああ。また身体が変わっている」
創は黙った。
白石は分析データを拡大し、画面に表示された数値の一部を指した。
「お前の遺伝子発現パターンが、シベリアに入る前と変わっている」
「遺伝子そのものが変わった?」
「そこを勘違いするな。DNAの文字列そのものが、毎回書き換わっているわけじゃない」
白石は即座に否定した。
「じゃあ、何が変わってるんですか?」
「スイッチだ」
そう言って、白石は指先で画面を叩いた。
「人間のDNAを、一軒の家の設計図だと考えてみろ」
「家?」
「そうだ。設計図には、壁の作り方も、屋根の作り方も、配線の方法も全部書いてある。だが、家を建てるとき、全部の部屋を同時に使うわけじゃない」
「……必要な部屋だけ使う?」
「その通り。遺伝子も同じだ。身体の中には膨大な数の遺伝子があるが、全部が四六時中働いているわけじゃない。必要な遺伝子をオンにし、逆に必要なければ抑える」
そこで白石の顔が険しくなった。
「それを調整している仕組みの一つが、エピジェネティクスだ」
創は口を挟まず、その説明に耳を傾けた。
「普通なら、環境の変化や身体への刺激によって、遺伝子の使われ方が少しずつ変わる。寒さにさらされれば寒さへの適応が起きるし、筋肉に負荷をかければ筋肉を作る方向へ変化する」
「筋トレみたいなもの?」
「そうだ」
白石は苦笑した。
「筋トレをしたからといって、翌朝いきなり腕が鉄のようになるわけじゃないだろう」
「まあ……」
「普通の生物なら、それが当たり前だ。だが――」
白石は再び画面を指した。
「お前の身体では、その変化が異常に速い」
創の表情が変わった。
「異常に?」
「能力を使う。身体が損傷する。すると、その環境に適応するために、特定の遺伝子群が一斉に動き始める」
「……身体が、自分で修理してる?」
「修理だけじゃない」
白石は低い声で言った。
「次に同じことが起きても耐えられるように、自分自身を作り替えようとしている」
創は自分の腕へ視線を落とした。
「つまり……」
「お前の身体は、戦闘のたびに『次はもっと耐えられる身体になろう』としている」
しばし、沈黙が落ちる。
やがて白石は、さらに続けた。
「たとえるなら、家の設計図を描き直しているわけじゃない。必要な部屋を、今この瞬間に増築しているんだ。しかも、住人が寝ている間に勝手にな」
前方からレオが口を挟んだ。
「それ、めちゃくちゃ怖い家っスね」
「怖いどころじゃない。どこまで増築されるか、誰にも分からん」
白石の返答に、創の喉が小さく動いた。
「じゃあ、俺の身体は……」
「今もアップデートされ続けている」
その言葉が、創の胸に突き刺さった。
「熱を使えば、熱に耐える方向へ。加速を使えば、神経の負荷に耐える方向へ。そして身体を壊せば、壊れにくい身体へ変わっていく」
創は自分の右手を見つめた。
その掌には、これまで何度も自分を救ってきた熱がある。だが同時に、自分を人間から少しずつ遠ざけている何かも、そこに潜んでいるような気がした。
「……兵器みたいだ」
創が呟いた。
白石は、その言葉を否定しなかった。
「その言葉が、一番近いかもしれんな」
車内の空気が再び重くなった、そのときだった。
「博士」
エマの声に、創が振り返る。
「少しは休ませてあげて」
いつの間にか、エマは服を着替えていた。
砂漠の陽射しに合わせた薄い色の長衣は軽い布地で作られており、風を受けるたびに肩から背中へと柔らかく流れている。頭には淡い色のスカーフを巻いていて、古代遺跡を研究する学者というより、この土地にずっと暮らしていた旅人のように見えた。
創は一瞬、言葉を失った。
「……何?」
「いや」
創は視線を逸らしながら言った。
「似合ってる」
「ありがとう」
エマが微笑む。
その声が聞こえた瞬間、創の頭の中へ押し寄せていた音が、ほんの少しだけ遠くなった。
レオの足音、エマの声、自分の呼吸。それらだけが輪郭を保ち、それ以外の音は少しずつ背景へ沈んでいく。
そこで創は気づいた。
――自分で選べる。
以前なら、すべての音が同じ強さで押し寄せてきた。しかし今は違う。意識を向ける対象を、自分の意思で選ぶことができる。
創はゆっくりと息を吸い、心の中で言った。
――プロメテウス。
右手の熱へ、意識を置く。
――ヘルメス。
視界、音、思考。自分の中へ雪崩れ込んでくるそれらを、ひとつずつ整理していく。
世界の情報量は相変わらず異常なほど多かったが、もうその波に飲み込まれることはなかった。
創はゆっくりと目を開けた。
エマが、こちらを見ている。
「……できてるわね」
「何が?」
「自分で選んでる」
創は少し笑った。
「名前をつけただけだよ」
「それが大きいのよ」
エマは静かに言った。
「力があなたを選ぶんじゃない。あなたが、力を選ぶの」
アルゴー号は、ワディ・ムーサの中心部へと進んでいく。
窓の外では、古代の石壁の向こうを最新型のドローンが飛んでいた。過去と未来、人間と機械、そして普通の人間と変わりつつある自分。その境界を見つめながら、創は胸の奥で二つの名前を繰り返した。
プロメテウス。
ヘルメス。
それはもう、石板から聞かされた言葉ではなかった。
自分自身で選んだ名前だった。
バンッ! という大きな音とともに、突然アルゴー号のサイドドアが勢いよく開いた。
「ただいまッス!」
飛び込んできたのはレオだった。両手には水の入ったポリタンクと紙袋を抱え、脇には冷却液のボトルまで挟んでいる。
「水、食料、冷却液! ついでに燃料フィルターも手に入ったッス! これでアルゴー号はあと千キロは戦える!」
「車を戦わせるな」
白石が呆れたように言うと、レオはポリタンクを床へ置き、額から流れる汗を腕で拭った。
「いやいや、この子は立派な戦友ッスよ。それにしても暑いッスね。シベリアじゃ鼻毛が凍ってたのに、今度は鼻毛が燃えそうッス」
「どんな環境でも鼻毛が基準なのね、あなた」
エマが苦笑する。
「重要なセンサーっスから」
いつものレオだった。
創は思わず笑った。こういうくだらない会話が、今は妙に心地よかった。
変わり続ける自分の身体、理解できない父親の目的、古代の石板、そしてアダム・ジェノミクス。そんなものとは無関係に腹が減り、汗をかき、くだらないことで笑う。それだけで、自分がまだこちら側にいるような気がした。
「で」
レオの表情が変わった。
「……ちょっと気になる話を聞いたッス」
白石が顔を上げる。
「何だ?」
「市場で冷却液を売ってくれた親父さんと話してたんスけどね」
レオは後ろ手にドアを閉めると、少し声を落とした。
「このところ、ペトラの周辺で妙な地震が続いてるらしいんスよ」
「地震?」
創が聞き返す。
「そう。だけど、普通の地震とはちょっと違う」
レオは床へしゃがみ込むと、拳で軽く床板を叩いた。
ゴン。
「こんな感じらしいッス」
もう一度、ゴン、と叩き、今度は一定の間隔を空けてから、さらにもう一度床を鳴らす。
「夜になると、地面の下からこういう音が聞こえてくるらしいんスよ。ズズン……ズズン……って」
レオの表情から、いつもの軽さが消えていた。
エマが眉をひそめる。
「周期的なの?」
「そう言ってたッス」
「自然地震じゃないわね。地震なら、そんなふうに一定の周期では続かない」
「俺もそう思って詳しく聞いたんスけど、音が始まったのは一か月くらい前かららしいッス」
「一か月……」
「最初は何日かに一度。それが最近じゃ、ほぼ毎晩」
白石の目が鋭くなった。
「他には?」
「井戸の水が濁ったとか、地面に新しい亀裂ができたとか。あと、夜中に遺跡の方角で青白い光を見たって人もいた」
「青白い光……」
創の表情が変わる。
見覚えがあった。アダム社の兵器、そして自分自身の力にも通じる色だった。
「地元の連中は何て言ってるの?」
エマが尋ねる。
「『古代の王が怒ってる』って」
「古代の王?」
「そうッス。ペトラの地下には死者の王が眠ってて、その眠りを誰かが邪魔してるから、夜になると地面の底で王が暴れてるんだ、とか」
レオはそこで一度言葉を切った。
「まあ、そこまでは観光地によくある怪談っスよ」
「そこまでは?」
創が聞いた。
レオはゆっくり頷いた。
「問題は、その続き。人が消えてる」
車内から音が消えた。
「……何人?」
白石が尋ねる。
「正確には分からないッス。警察も公表してない。ただ、うわさじゃ少なくとも七、八人って話だった」
「観光客?」
「それが妙なんスよ。ほとんど地元の人間らしい。羊飼いとか、遺跡周辺で働いてる作業員とか、夜間の警備員とか」
エマの顔から笑みが消えた。
「最後に目撃された場所は?」
「全部、ペトラ周辺」
再び沈黙が落ちる。
アルゴー号の外では、相変わらず街が騒がしかった。人々の笑い声や露店の呼び込み、ドローンのローター音、クラクションが絶え間なく行き交っている。その明るい喧騒とは裏腹に、車内だけが急速に冷えていくようだった。
「それと」
レオが続ける。
「妙な連中がいる」
「どんな?」
「観光客じゃない」
レオは窓の外を確認してから、さらに声を落とした。
「黒い車列、大型トラック、掘削機材を積んだ輸送車。それが夜になると、ペトラの裏手へ入っていくらしい」
創は白石を見た。白石も、同じことを考えているらしい。
「……アダム社か」
「俺もそう思うッス」
レオは頷いた。
「市場の親父さんが、トラックの側面に妙なマークを見たって。青白い二重螺旋」
その特徴だけで十分だった。
「アダム・ジェノミクス……」
エマが低く呟いた。
白石はすぐに車内のホログラムマップを起動した。青白い光が立ち上がり、ワディ・ムーサとペトラ周辺の地形が空中へ投影される。
「奴らは、俺たちより先にここへ入っていたんだ」
「でも」
創が地図を見る。
「まだ石板を手に入れてない?」
「おそらくな。もし手に入れているなら、とっくに撤収しているはずだ」
白石はペトラの地下へ指を滑らせた。
「じゃあ、あの地鳴りは……」
「掘っている」
「掘ってる?」
「正確には――壊している」
その言葉に、創は顔を上げた。
白石はホログラム上に地下構造の推定図を表示する。
「丹後でも、シベリアでもそうだった。石板は、ただ置かれていたわけじゃない」
「遺跡そのものが守っていた」
エマが続ける。
「そうだ。侵入者を拒絶する構造、罠、封印、そして人類の技術では説明できない防衛機構が存在していた」
白石は地図の地下深くを指差した。
「アダム社は、それを正面から突破するつもりなんだ」
「大型重機で?」
「ああ。考古学的な価値など知ったことではないんだろう。壁があれば削る。扉があれば爆破する。通路がなければ作る」
白石の声には、露骨な嫌悪が滲んでいた。
「だから地震みたいな振動が起きてる……」
エマが呟く。
「おそらく、地下で大型の掘削機を動かしている。岩盤破砕機、油圧ハンマー、あるいは熱融解式の掘削装置かもしれん」
「待って」
創が口を挟んだ。
「じゃあ……消えた人たちは?」
誰も、すぐには答えなかった。
白石の顔が険しくなる。
「考えたくはないが、防衛機構の確認に使われた可能性がある」
「……どういう意味?」
「遺跡に未知の罠があるとする。どこを踏めば作動するか、何に反応するか。熱か、音か、重量か、それとも生体反応か」
創の背筋に寒気が走った。
「まさか……」
「機械を入れる前に、人間を歩かせれば分かる」
レオの顔から血の気が引いた。
「……実験台?」
白石は答えなかった。
その沈黙が、何より明確な答えだった。
「そんな……」
エマが唇を噛む。
「アダム社ならやる」
白石の声は冷たかった。
「奴らにとって人命は倫理の問題じゃない。データの一項目だ」
創は黙って拳を握った。
その瞬間だった。
――ズン。
「……?」
創が顔を上げる。
「どうした?」
白石が聞いた。
「今……何か」
創は耳を澄ませた。
街は騒がしい。クラクション、人々の声、ドローンの飛行音、市場から流れる音楽、風に揺れる布の擦れる音。無数の音が幾重にも重なり合っている。
だが、その遥か下、すべての音の底に、別の何かがあった。
――ズ……ン。
創の瞳が細くなる。
「創?」
エマがこちらを見る。
「静かに」
創は目を閉じ、意識を集中した。
以前なら、こんなことをすれば一瞬で情報の濁流に呑み込まれていただろう。だが、今は違う。
――ヘルメス。
心の中で名前を呼ぶ。
世界から音を消すのではない。必要なものを選び、不要なものを背景へ送る。
クラクション、人の声、ドローンの音を意識から外していく。さらに、レオの呼吸、白石の心拍、エマの衣擦れさえも、一つひとつ遠ざけていった。
そして、最後に残った。
――ズズ……ン。
遥か地下。
何百メートル先なのかも分からない岩盤の向こう側で、巨大な何かが大地を殴っている。
一定の周期だった。
――ズン。
数秒。
――ズン。
そして、その直後。
ギギギギギギ……。
岩が砕かれる音と、巨大な金属が擦れ合う音が微かに響く。
さらに、その奥には、あまりにも低く、音というより振動に近い何かがあった。それは創の足裏から骨へ伝わり、そのまま脊椎を這い上がってくる。
「聞こえる……」
創が呟いた。
「何が?」
「地下だ。何かが……岩盤を砕いてる」
全員が創を見た。
「ここから聞こえるのか?」
白石が驚く。
創は答えなかった。
右手が熱い。
「……っ」
掌を見る。
何もしていない。プロメテウスを起動しているわけでもない。それなのに皮膚の奥、血管よりさらに深い場所で、かすかな熱が脈打っている。
ドクン。
地下の振動。
ドクン。
右手の熱。
二つが、まるで互いを呼び合っているようだった。
「創?」
エマが異変に気づく。
「右手が……」
創は掌を押さえた。
熱は強くない。火傷するほどでもない。それでも確かに、何かに反応している。
「石板……」
エマが呟いた。
創が顔を上げる。
「第三の石板が?」
「分からない。でも、あなたの能力が石板から引き出されたものなら……」
そのとき、地下から再び振動が届いた。
――ズン。
ほぼ同時に、創の右手が脈打つ。
ドクン。
「……呼んでる」
創が呟いた。
「何?」
「分からない。でも、急がないといけない気がする」
右手を握りながらそう言うと、その言葉を待っていたかのようにエマがホログラムへ手を伸ばした。
「なら、正面から行くのは無理ね」
地図を拡大する。
「ペトラの主要な入口はここ。シークよ」
狭い岩の裂け目を通る、正面ルートが表示された。
「ここは間違いなく監視されてる」
「でしょうね」
レオが腕を組む。
「大型重機を入れてるなら、周辺道路も押さえてるはずッス」
「だから、別の道を使う」
エマが地図を横へずらした。
「別の道?」
「市場で服を買ったときに聞いたの。街の南東側に、昔から地元の密輸業者が使っていたルートがある」
「密輸?」
「今はほとんど使われてない。監視網が発達してから廃れたみたいだけど」
地図上に一本の細い線が表示された。
「ワディ――涸れ川よ」
レオが画面を覗き込む。
「これ、道なんスか?」
「道じゃない。天然の亀裂」
「……嫌な予感しかしないッス」
「奇遇ね。私もよ」
エマはさらに地図を拡大した。
「雨季に鉄砲水が流れ込むことで、何千年もかけて岩盤が削られた。地表から見るとただの涸れ川だけど、途中から地下へ潜り込んでいる」
「どこまで?」
「分からない」
「分からない!?」
「でも、方向は合ってる」
エマの指が、推定される地下構造と重なる一点で止まる。
白石が地図を睨んだ。
「石板があると推定される地下領域へ向かっている……」
「正面から入ればアダム社」
創が言う。
「裏から入れば、どこに出るか分からない地下亀裂」
「どっちにするッス?」
レオが尋ねる。
創は迷わなかった。
「裏だ」
レオの口角が上がる。
「そう来なくちゃ」
*
数十分後、アルゴー号はワディ・ムーサの喧騒を離れ、赤茶けた荒野を疾走していた。
太陽は高く、摂氏四十度近い熱気が地表を焼いている。遠くの岩山は蜃気楼の向こうで揺らめき、街の音はすでに聞こえなくなっていた。
耳に届くのは、ディーゼルエンジンの唸りと、砂を噛むクローラーの音だけだ。
「そろそろッス!」
レオが叫んだ。
前方の大地に、一本の黒い線が見える。
近づくにつれ、それがただの線ではないことが分かった。
「……でかい」
創が呟く。
大地そのものが、裂けていた。
幅は十数メートル。赤茶けた岩盤が左右へ引き裂かれ、その中央に漆黒の亀裂が大きく口を開けている。底は見えず、灼熱の太陽光さえ数十メートル先で闇に呑み込まれていた。
それはまるで、巨大な生物が大地に開けた傷口のようだった。
「本当に、ここを降りるの?」
エマが窓から下を覗き込み、わずかに顔を引きつらせる。
「他に道はないッス」
対照的に、レオはどこか嬉しそうだった。
「こういう道のためにクローラーつけたんスから!」
「雪道用だっただろう」
「細かいことは気にしない!」
レオがトランスミッションを低速へ落とす。
ガコン、と鈍い音を立て、アルゴー号の車体が低く沈んだ。
創はシートベルトを締め、それから最後に背後を振り返った。
遥か遠く、蜃気楼の向こうにはワディ・ムーサの街が見える。人々が暮らし、光のある世界だ。
その足元の遥か地下で――
――ズン。
また聞こえた。
岩盤を砕く音が、今度は先ほどよりもはっきりしている。
アダム社は近い。
そして、それに応えるように。
ドクン。
創の右手が脈打った。
「……待ってろ」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
石板なのか、父親なのか。それとも、すでに地下へ入り込んでいる敵なのか。
「行くッスよ!」
レオがアクセルを踏み込んだ。
アルゴー号の巨体が、ゆっくりと亀裂へ傾いていく。
フロントガラスいっぱいに広がっていた青空が少しずつ消え、灼熱の太陽も赤い砂漠も遠ざかっていく。その代わりに、底の知れない闇が視界の下からせり上がってきた。
クローラーが岩を噛む。
ガリガリガリガリッ!!
砂礫が崖下へ落ちていき、やがてヘッドライトが点灯する。二本の白い光が、底の見えない暗黒へ真っ直ぐ突き刺さった。
「うおおおッ! アルゴー号、地底モード突入ッス!!」
「そんなモードはない!」
白石の怒声が響いた、その次の瞬間だった。
車体が大きく前へ傾く。
「きゃっ……!」
エマが反射的に創の腕を掴んだ。
創は彼女の身体を支えながら、フロントガラスの向こうを睨む。
地上の光が、急速に小さくなっていく。
そして最後の一筋の太陽光が岩壁の向こうへ消れたとき、周囲は完全な暗闇に包まれた。
そこに響いているのは、アルゴー号のエンジン音と、遥か地底から伝わってくる重い振動だけだった。
ズン。
ズン。
ズン。
まるで巨大な何かが、地下深くで脈打っているかのようだった。
創は右手を握りしめる。
掌の奥では、プロメテウスの熱が静かに応えていた。
その熱はまるで、暗闇のさらに奥に眠る「何か」の存在を、創だけに教えているようだった。
アルゴー号は灼熱の地上世界を離れ、古代の死が待つペトラの深層へと、ゆっくり沈んでいった。




