第18話 受け継いだ力、自ら選ぶ名
砂漠の夜は、昼間とは別の顔を見せていた。灼けるようだった空気は日没とともに急速に冷え、アルゴー号の車内にはエンジンの低い振動だけが静かに響いている。
創は後部座席に横たわり、目を閉じていた。眠っているわけではない。身体の奥で、何かがずっと軋み続けていたのだ。筋肉を動かすたびに細かな痛みが走る。それは右腕だけではなく、肩から背中、太腿にまで及んでいた。まるで全身の筋肉が一度壊され、それを無理やり繋ぎ直されたような感覚だった。
「……創。腕、出してくれ」
白石博士の声に、創はゆっくりと右腕を差し出した。白石は袖をまくり上げ、携帯型の血液分析装置を腕に接続する。
小型の針が皮膚を穿ち、わずかな血液を吸い上げた。装置の内部で微細な分析音が続き、ピッ、ピッ、と電子音が鳴る。やがて青白いディスプレイに数字が次々と浮かび上がった。
白石は黙ったまま画面を見つめている。
「……どうしたんですか」
「いや」
眉間に深い皺が寄った。
「どうしたもこうしたもない」
白石は数秒間画面をスクロールし、低い声で続けた。
「筋障害マーカーが高すぎる。ミオグロビンも上がっている。ATP代謝の指標もおかしい」
「……まだ、シベリアのときの影響が残ってる?」
「ああ。残っているなんてもんじゃない」
創は黙った。
白石はディスプレイを創の方へ向ける。
「お前があのときやったことを、普通の人間の身体に置き換えて考えてみろ。筋肉を動かすにはATPが必要だ。アクチンとミオシンが滑り合って筋肉が収縮する。そのためには莫大なエネルギーがいる」
一度言葉を切り、創の表情を確認する。
「だが、お前はあのとき、通常の限界を遥かに超えて筋肉を動かした」
創の脳裏に、シベリアの光景が蘇った。飛んでくる弾丸。凍りついた世界。その中で異常な速度で動き出した思考と、自分の身体から噴き上がった熱。
熱と加速。二つの力を、同時に使った。
「アクチンとミオシンの結合と解離を繰り返しすぎた結果、筋線維そのものに損傷が残っている」
「……切れたってこと?」
「正確には、一本一本の筋線維が完全に断裂したわけじゃない。ただ、限界を超えた収縮を繰り返せば、筋原線維の構造は壊れる」
白石は画面を指で叩いた。
「お前の身体は、まだ修復途中だ」
「じゃあ、時間が経てば……」
「普通ならな」
その言葉に、創は顔を上げた。
「問題は、お前が普通じゃないことだ」
その一言で、車内の空気が重くなった。
「第一の力――熱」
白石は創の右腕へ視線を落とす。
「これは単純な発熱能力じゃない。お前の細胞内で、ミトコンドリアのエネルギー産生そのものを異常なレベルまで引き上げている」
創は黙って聞いていた。
「分かりやすく言えば、冷却水を抜いたエンジンのアクセルを踏み込んでいるようなものだ。しかも毎分十万回転までな」
「……」
「エンジンは回る。出力も出る。だが、冷やす仕組みが追いつかなければ最後は焼き付く」
創は自分の右手を見る。
何度も自分を救ってきた、あの熱。
「細胞も同じだ。ATPを作り、酸素を使い、エネルギーを吐き出す。その代償として大量の活性酸素や熱が発生する。それを制御できなくなれば、最後は細胞そのものが壊れる」
「……灰になる?」
「比喩としては、そうだ」
白石は頷いた。
「使い続ければ、お前自身の細胞が燃料になる」
創の喉が鳴った。
白石は続いて別の画面を開く。
「そして、第二の力」
「……加速」
「そうだ。こっちはもっと厄介だ」
白石は創の頭を指した。
「神経?」
「神経だ」
脳には無数の神経細胞があり、その間を電気信号と化学信号が複雑に駆け巡っている。創には、それが自分の身体の中で異常な速度にまで引き上げられていることが、今なら分かった。
「神経伝達を加速させれば情報処理能力は上がる。視覚も、聴覚も、反応速度もな」
「……でも、その分だけ脳も消耗する」
「その通りだ」
白石は苦い顔をした。
「人間の脳は、スーパーコンピューターみたいに頑丈じゃない」
少しだけ間を置く。
「豆腐みたいに脆い有機物だ」
「豆腐……」
「そうだ。そんな脆い有機コンピューターに、スーパーコンピューター並みの電圧を流し込んでいるようなものだ」
創は息を呑んだ。
「回路が耐えられなくなる」
「……焼き切れる?」
「ああ」
白石の答えは冷たかった。
「神経細胞そのものが死ぬ可能性もある。神経回路の障害が残れば、感覚異常、運動障害、記憶障害……最悪の場合、意識そのものを失う」
創は何も言えなかった。
「だから、さっきから言っているんだ」
白石は分析装置を閉じた。
「力を使うな、と」
窓の外では漆黒の砂漠が流れている。星だけが異様なほど鮮明に見え、その鮮明さが今の創には怖かった。
耳を澄ませば、エンジンの振動だけではない。冷却水が流れる音、クローラーが砂を踏む音、レオの呼吸、エマの衣服が擦れる音。誰かの血液が血管を流れる音さえ、微かに聞こえるような気がした。
創は目を閉じる。
「……じゃあ」
声が震えた。
「俺は、あとどれくらい使えるんですか」
白石は答えなかった。
「先生」
「……分からん」
「分からない?」
「お前の身体は、俺たちが知っている人間の生理学から外れすぎている」
白石は一度、創の右手を見た。
「ただし、一つだけ分かっている。シベリアで負った損傷は、まだ完全には修復していない」
創の胸が締めつけられる。
「それなのに、また熱と加速を使えば――」
白石は言葉を止め、静かに続けた。
「次は、戻ってこられないかもしれん」
車内から音が消えたように感じた。
レオもエマも、誰も口を開かなかった。
創は俯き、右手を握る。拳の中では、あの熱が微かに脈打っていた。
その瞬間、別の記憶が蘇った。
白い壁。消毒液の匂い。幼い自分の腕に繋がれた点滴。苦しくて何度も母親を探したこと。
そして、その向こう側に立っていた男。
冷たい眼鏡をかけた神代宗助。
父親だった。
『あなたは、お父さんのおかげで助かったのよ』
母の声。
あのときは、それだけだった。
父が何をしたのか。自分の身体に何を入れたのか。なぜ自分だけが生き残ったのか。何も分からなかった。
そして今、シベリアで見つけた父の記録には、自分の成長過程が残されていた。
体温、免疫反応、筋肉量、神経発達。
まるで一人の人間ではなく、実験対象を観察するように。
創は歯を食いしばった。
「……親父は」
声が漏れた。
「俺の身体が、こうなることまで……計算してたのか?」
誰も答えなかった。
「熱を使えば細胞が壊れる。加速を使えば神経が壊れる。それでも俺に力を使わせるような仕組みを……最初から組み込んでたのか?」
右手が熱くなる。
だが創は、拳を握りしめたまま動かさなかった。
「俺が……自壊することまで知ってたんじゃないのか」
言葉が車内に落ちた。
誰も、それを拾えない。
ただ、アルゴー号のエンジンだけが一定のリズムで唸り続けていた。
創は窓の外へ目を向ける。
砂漠の闇。その先にペトラがある。
父が残した道標。次の石板。次の力。そして、その先に待っているはずの次の試練。
創は自分の右手を見つめた。
そこにある熱が父親の残したものなのか、それとも自分自身のものなのか。その答えはまだ分からない。
ただ一つ、胸の奥に冷たい疑念だけが残っていた。
――親父は、俺を救ったのか。
それとも。
――最初から、壊れるところまで作ったのか。
重苦しい沈黙を最初に破ったのは、レオだった。
「……なあ」
運転席から、ぽつりと声が飛んでくる。
「そんな難しいこと考えても、今すぐ答えなんか出ないんじゃないっスか?」
創は顔を上げた。
「……レオ」
「いや、だって」
レオは前方を見たままハンドルを握っている。
「『イグニ……なんとか』みたいな舌噛みそうな呪文を毎回唱えなきゃいけないんでしょ? そんなの、とっさのときに絶対噛むっスよ」
創は思わず眉を寄せた。
「いや、別に呪文じゃないだろ」
「でも、石板に触ったら勝手に口から出たんスよね?」
「……そうだけど」
「だったら、なおさらダメじゃないっスか」
レオが振り返る。
「必殺技なんだから、自分で名前つけたらいいんスよ」
「必殺技って……」
「大事っスよ、名前」
レオは真顔だった。
「『イグニ・フェル・ウル』なんて、誰が聞いても古代の呪文じゃないっスか。そんなの、親父さんか石板が勝手に決めた名前でしょ?」
創は黙った。
その言葉が妙に胸に引っかかった。
イグニ・フェル・ウル。
石板に触れた瞬間、自分の意思とは無関係に喉から出てきた言葉。意味すら知らない。それでも、その言葉を発した瞬間に身体の奥で何かが起動し、熱が走り、細胞が変わり、力が自分の身体を飲み込んでいった。
あれは、本当に自分の言葉だったのか。
「……自分で名前をつける、か」
創が呟く。
「そうっス」
レオは笑った。
「自分の力なら、自分で名前つけたっていいじゃないっスか」
「……単純だな」
「俺、頭脳派じゃないんで」
レオは胸を張る。
「でも、こういうのは直感っスよ」
そのときだった。
「……レオ」
後部座席からエマの声がした。
「それ、案外いい考えかもしれないわ」
「ほら!」
レオが嬉しそうに叫ぶ。
「エマさんもそう言ってる!」
「ただし、『必殺技』という意味ではないけれど」
「そこはどうでもいいっス」
エマは苦笑しながら創の隣へ腰を下ろした。
「レオの言うことには、心理学的にも意味があるの」
「心理学?」
「ええ。アンカリングという考え方があるわ。言葉や動作をトリガーにして、特定の心理状態や身体反応へ切り替えるの」
「つまり……」
「自分で決めた言葉を合図にすることで、脳に『今からこの状態に入る』と教えるのよ」
エマは創の右手を見る。
「たとえば緊張したときに深呼吸をすると落ち着く。スポーツ選手が決まった動作をして集中状態に入る。そういうものも、広い意味ではアンカリングとして説明できる」
創は右手を握った。
「……じゃあ、俺が名前を決めれば、それがスイッチになる?」
「少なくとも、意識的に切り替えるための手がかりにはできる」
エマは頷いた。
「今までのあなたは、石板の言葉に引っ張られていた。言葉が先にあって、力が後からついてきた」
創の胸に冷たいものが走る。
「でも逆にすればいい」
「逆に?」
「あなたが言葉を選ぶの」
エマは静かに言った。
「あなたが、自分の力に名前を与える」
創は何も言わなかった。
エマは父のノートを取り出した。そこには古代文字についての記述が並んでいる。
「お父様のノートには、古代の言葉と神話について、いくつか興味深い記述があるわ」
「神話?」
「ええ」
エマはページをめくった。
「古代の人間は、理解できない現象に名前を与えてきた。雷、炎、嵐、死、病。人間には制御できないものに名前を与えることで、それを理解しようとしてきた」
創は黙って聞いていた。
「名前は、ただの記号じゃないの。得体の知れないものに形を与えるための『箱』にもなる」
「箱……」
「そう」
エマの視線が創の右手へ落ちる。
「あなたの中にある力は、あまりにも大きすぎる。熱も、加速も、あなた自身が完全には理解できていない。だからこそ、人間が知っている概念の中に置いてみるの」
「……神話の名前を使うってこと?」
「そうよ」
エマは微笑んだ。
「たとえば――プロメテウス」
その名が車内に落ちた。
「人間に火を与えた神」
「……火を盗んだ神だろ?」
「そうね」
エマは頷いた。
「でも、重要なのはそこじゃない。人間は火を恐れるだけではなく、火を使うことを覚えた」
創の右手が、わずかに熱を帯びた。
「あなたの第一の力は、まさにそれに近いと思う」
ミトコンドリア。ATP。熱。暴走。そして破壊。
危険な力だ。
だが、それだけではない。
人間は火を制御し、料理をし、金属を加工し、文明を築いてきた。
創は自分の掌を見つめた。
「……プロメテウス」
口に出した瞬間、右手の熱がほんの少しだけ変化した。
これまでのような暴れ方ではない。
まるで、自分の声を待っていたように。
「……今」
創が呟く。
「反応した」
エマが頷いた。
「意識が、力と結びつき始めている」
レオが嬉しそうに言った。
「ほら! 必殺技っスよ!」
「だから必殺技じゃないって……」
創は苦笑した。
だが、その表情から先ほどまでの硬さは少し消えていた。
「じゃあ、第二の力は?」
レオが聞いた。
創は少し考えた。
視界、音、神経、思考。世界そのものが異常な速度で押し寄せてくる力。
「……ヘルメス」
エマが顔を上げる。
「ヘルメス?」
「神話の中で、一番速い存在って言ったら……こいつだろ」
創は自分の頭を指した。
「伝令神。境界を越えて、どこへでも行く」
「ええ。そして、旅人の神でもある」
エマが微笑む。
創はその言葉を聞いて、少しだけ目を細めた。
「……旅人、か」
自分は今、どこへ向かっているのだろう。
父親が残した道標を追っている。石板を探し、自分の身体に隠された秘密を追っている。
だが、もう父親に答えを教えてもらうためではない。
自分自身の答えを探すためだ。
「第二の力は……ヘルメス」
創ははっきりと言った。
「第一は、プロメテウス」
その瞬間、右手の熱が静かに引いていった。
代わりに、世界の音が少しずつ整理されていく。
エンジン。クローラー。風。レオの呼吸。エマの鼓動。
すべてが聞こえる。
それでも、もう怖くなかった。
必要なものだけを拾える。
そういう感覚だった。
「……できた」
創は小さく呟いた。
エマが頷く。
「ええ」
「今までとは違う」
創は自分の右手を見た。
そこには父親から与えられた力がある。石板から押しつけられた言葉があり、身体を壊しかねない危険な能力が眠っている。
それでも。
「これはもう……親父が勝手に仕組んだ呪いじゃない」
創はゆっくりと手を握った。
「俺が使う」
声に迷いはなかった。
「俺が、いつ使うか決める」
そして、もう一度右手を開く。
「俺自身が選び取った力だ」
エマは何も言わなかった。ただ、創の手をそっと握った。
温かかった。
その温度だけが、今の創には確かなものだった。
やがて窓の外が明るくなり始めた。
夜明けだった。
遠くに山々の輪郭が浮かび上がり、砂漠の景色の中へ少しずつ建物が増えていく。
「おっ」
レオが前方を指差した。
「見えてきたっスよ」
道路の両側には店が並び始めていた。ホテル、土産物店、小さな食堂。観光客を乗せた車が行き交い、その傍らではロバを引く人々が歩いている。
砂漠の静寂が、少しずつ人間の喧騒へと変わっていった。
「ワディ・ムーサ」
エマが呟く。
ペトラ遺跡への玄関口。古代都市へ向かう人々が集まる街だ。
アルゴー号は砂埃を巻き上げながら、その中へ入っていく。
レオがハンドルを切った。
「よし! まずは飯っス!」
「……お前はそればっかりだな」
「腹が減っては戦はできないっスから」
創はほんの少しだけ笑った。
そして右手を見る。
熱はまだそこにある。
加速する神経も、壊れかけた身体も、父親への疑念も、何一つ消えたわけではない。
それでも、琥珀色の瞳から迷いは消えていた。
創は前を向く。
その先にペトラがある。
父が残した石板。古代の言葉。そして、まだ知らない力。
だが、もう石板の言葉に従うだけではない。
「行こう」
創は静かに言った。
「ペトラへ」
アルゴー号は人々の喧騒をかき分けるように走っていった。
その先に待つ、赤い岩の迷宮へ向かって。




