【第3部】第17話 砂漠の轍と、狂った解像度
熱かった。
数日前まで、創たちはマイナス五十度に迫るシベリアの永久凍土を走っていた。吐息は白く凍り、鼻から吸い込んだ空気が肺の奥を直接切り裂くような世界だった。雪と氷、凍りついた岩盤――目に映るものすべてが青白かった。
だが、今、アルゴー号の窓の外に広がっているのは、その正反対の景色だった。
どこまでも続く赤茶けた大地。乾いた岩山と砂礫。そして、それらを容赦なく灼く太陽。
ヨルダン。ペトラへ向かう砂漠地帯だった。
「うおおおおっ! 今度は砂漠ッスよォ!」
運転席のレオが叫ぶ。
アルゴー号の旧式ディーゼルエンジンは、ゴウン、ゴウンと低く不規則な唸りを上げながら、雪上用に換装された幅広のクローラーで赤い砂礫を豪快に蹴散らしていた。車体が跳ねるたびにサスペンションが軋み、巻き上げられた砂煙が後方へ長い尾を引いていく。
「どうッスか、創の旦那! 雪より砂のほうが走りやすいっしょ!」
「……」
「創?」
返事はなかった。
後部座席では、創が両手でこめかみを押さえていた。
「……暑い」
「そりゃ砂漠ッスから」
「違う」
創がゆっくり顔を上げた。
「暑いだけじゃない」
エアコンから吹き出す乾いた風が頬を撫で、首筋を通り、耳の後ろへ抜けていく。その流れだけではなく、皮膚に触れる場所ごとの微かな温度差まで分かる。まるで皮膚の表面を、無数の指で同時になぞられているようだった。
それだけではない。
聞こえるのだ。
ゴウン、と響くエンジンの音。砂を噛むクローラー。車体内部で揺れる工具の小さな金属音。そして、レオの指がハンドルを叩く音まで。
窓に砂粒が当たった。
パラッ。
普通なら、ディーゼルエンジンの轟音に完全に埋もれてしまう程度の音だ。それなのに創の耳には、窓を叩く砂粒の一つ一つが、まるですぐ耳元で撒かれているかのようにはっきり届いていた。
パラ。パラ。パラ。
「……うるさい」
創が呟いた。
「え?」
レオが振り返ろうとする。
「前見て!」
エマが叫んだ。
「うわっ!」
レオが慌てて正面へ向き直った瞬間、アルゴー号が岩を乗り越えて大きく跳ねた。
ドンッ!
車体全体が震える。
その振動さえ、創には異常なほど鮮明だった。シートの金属フレーム、クローラー、ディーゼルエンジン。それぞれが生み出す細かな振動が混ざり合うことなく、別々の情報として脳へ流れ込んでくる。
さらに――。
ドクン。
レオの心臓。少し速い。おそらく運転への緊張。
ドクン。
白石の心臓。こちらは遅く、一定している。
そして、ザーッという低い音。
エマの頸動脈を流れる血液だった。
ザーッ。ザーッ。
まるですぐ耳元に、水道管でも通っているようだった。
創はたまらず両耳を塞いだ。
「……やめてくれ」
エマが振り返る。
「創?」
「全部、聞こえる」
「何が?」
「心臓も……血液も……エンジンも……砂も……全部、同時に入ってくるんだ」
呼吸が速くなる。
創は目を閉じた。だが、視覚を遮断しても楽にはならなかった。まぶたの裏にまで情報が残っているような感覚がある。エンジンの振動、砂粒、人間の体温、血流、自分自身の心拍。
脳が止まらない。
「……創」
白石が静かに口を開いた。
「それはシベリアから続いている症状だろう」
創が顔を上げる。
「二つ目の石板の言葉によって、神経系の処理速度そのものが変わってしまった」
「でも……処理が速いなら、いいことじゃないの?」
エマが尋ねると、白石は首を横に振った。
「普通ならな」
端末を操作し、簡単な脳の模式図を表示する。
「人間の脳には、非常に優秀なフィルターがある。目から入ってくる情報だけでも膨大だ。耳も同じだし、皮膚、嗅覚、内臓からの情報まで含めれば、脳には毎秒、とんでもない量の刺激が流れ込んでいる」
「でも、全部は意識しない」
エマが言った。
「その通りだ。脳は必要な情報だけを選び、意識に上げている。いわば――ノイズキャンセリング装置だ」
創は苦しそうに笑った。
「それが……壊れてる?」
「完全に壊れたわけじゃない」
白石は慎重に答えた。
「ただ、処理速度が異常に上がった結果、これまで無意識下で捨てていた情報まで意識に流れ込んできている可能性がある」
白石は窓の外へ視線を向けた。舞い上がる砂粒、エンジン、レオ、エマ。そのすべてを一つの画面に映し出すかのように。
「例えるなら、世界中の防犯カメラを全部一台のモニターに接続している状態だ」
創の顔が強張る。
「……そんなの」
「ああ。普通の脳ならパンクする」
車内に沈黙が落ちた。
ディーゼルエンジンの重低音だけが、ゴウン、ゴウンと繰り返し響いている。
白石は創の首筋に貼られた黒いパッチを指先で確認した。
「だから、この抑制パッチを使っている」
「神経伝達を抑える?」
「正確には、過剰な神経活動を少し落とす。神経伝達物質の放出と再取り込みを調整して、脳の処理速度を無理やり通常域へ近づけている」
「でも……」
創は窓の外へ目を向けた。
赤い砂が風に舞っている。
「それでも、見える」
「そうだな」
白石は静かに答えた。
「お前の脳は、もう以前の脳ではない」
その言葉が、創の胸に重く突き刺さった。
*
やがてアルゴー号は砂丘の陰へ入り、レオが速度を落とした。
「この先ッス」
「何が?」
「ワディ・ムーサ。ペトラ観光区画の裏側ッス。表から入るのは無理だから、旧道を使う」
エマが窓の外を見た。
「……あれ」
その先に、巨大な赤い岩壁が見えていた。何百メートルもの高さを持つ岩山が、大地そのものを切り裂いたようにそびえ、その表面には長い年月をかけて風雨に削られた複雑な筋が走っている。
創がその岩壁を見つめた瞬間だった。
「……っ」
頭の奥に、鋭い痛みが走った。
「どうしたの?」
「……今」
創は岩壁から目を離さない。
「何か……聞こえた」
「聞こえた?」
エマが耳を澄ます。
聞こえるのは風と砂、それに遠くを飛ぶ鳥の声だけだった。
しかし創には、それとは別のものが聞こえていた。
岩盤の奥。地下。さらに深い場所。
何かが低く、一定の間隔で脈打っている。
ドン。
ドン。
ドン。
巨大な心臓の鼓動にも似た振動だった。
「……まただ」
創は自分の右手を見る。
掌の奥が、かすかに熱を帯びていた。
エマがすぐに端末を取り出す。
「創、これ……」
画面に波形が現れた。
丹後で記録したもの。シベリアで観測したもの。そして今、ペトラで拾っている波形。
三つのデータが重なっていく。
白石の顔から表情が消えた。
「……石板だ」
誰も言葉を発しなかった。
赤い砂漠の地下。数千年の闇の奥で、何かが確かに彼らを待っている。
アルゴー号は再び速度を上げた。
ゴウン――。
ゴウン――。
ゴウン――。
その重低音に紛れ、創だけが地中から響くもう一つの鼓動を聞いていた。
「……遺跡だ」
白石の低い声が響いた。
創はフロントガラスの向こうを見つめる。
赤茶けた大地の向こうでは、陽炎に揺れる岩山が幾重にも連なり、そのさらに奥に巨大な岩壁が蜃気楼のように浮かび上がっていた。
ペトラ。
その名を意識した瞬間、創の脳へ流れ込む情報が、また一段階鮮明になった。
風に舞う砂粒の一つ一つ。岩肌に刻まれた亀裂。遠くを飛ぶ鳥が羽ばたく動き。そして、身体の下から絶え間なく伝わってくるアルゴー号の振動。
ゴウン……ゴウン……。
「……うるさい」
創が呟いた。
「え?」
運転席のレオが振り返る。
「エンジンが……うるさい」
「いやいやいや! このアルゴー号の魂みたいなもんッスよ! 静かにしろって言われても無理ッス!」
「そういう意味じゃ……」
創が言い返そうとしたところで、エンジンの低い振動に、クローラーが砂を噛む音、車体の軋み、冷却ファンの回転、レオの呼吸までが重なって押し寄せてきた。
いや、重なっているのではない。
それら一つ一つを区別できてしまうからこそ、余計に耐え難いのだ。
「うっ……」
創は再びこめかみを押さえた。
そんな創を見て、レオがいつもの調子で言った。
「俺の可愛いアルゴー号を悪く言うと、傷つくッスよ?」
創は顔を上げる。
「……アルゴー号が傷つくのかよ」
「そりゃそうッス。こいつ、シベリアの極地ドライブまで耐え抜いたんスよ?」
「極地ドライブって……」
「最高だったじゃないッスか。雪原を爆走して、氷の下の古代神殿まで行って!」
「……普通は行かないんだよ」
「そうッスか?」
レオは本気で不思議そうな顔をした。
その声だけが、不思議と創の耳に残った。
エンジン音も、砂の音も、風の音も、すべてが無機質な「情報」として押し寄せてくる。その中で、レオの声だけはどこか違っていた。
くだらなくて、いつも通りで、どうしようもなく普通だった。
丹後で追われたときも、氷の大地を走ったときも、どれだけ死にそうな状況に陥っても、レオは変わらずアルゴー号の心配をしていた。
その変わらなさが、今の創にはありがたかった。
「……ふっ」
思わず口元が緩む。
「なんで笑ってるんスか?」
「いや……レオが、いつも通りだから」
「そりゃ俺ッスからね!」
即答だった。
「……そうだな」
ほんの少しだけ、世界の音量が下がったような気がした。
もちろん、完全に収まったわけではない。視界は相変わらず鮮明すぎるほど鮮明で、ガラスに砂粒がぶつかる瞬間まで見える。遠くの岩山を這う風の流れさえ分かる気がする。
そして、すぐ隣にいるエマの血流まで――。
ザーッ……。
ザーッ……。
創は思わず耳を塞いだ。
「創」
エマの声がした。
「……ごめん」
「何が?」
「さっき……うるさいって言った」
「謝る必要なんてないわ」
エマは静かに笑うと、バッグから黒いイヤーマフを取り出した。
「これを使って」
そっと創の耳に装着する。
外の音が一気に遠ざかった。
完全な静寂ではない。自分自身の呼吸と心臓の鼓動、そしてすぐ目の前にいるエマの声だけが残っている。
「無理に全部聞こうとしなくていいの」
エマが言った。
「情報の波に飲まれそうになったら、一つだけ確かなものに集中して」
「一つ……?」
「ええ」
エマの手が、創の頬に触れた。
温かかった。
シベリアの氷の中で握ってくれた手と同じ温度だった。あのときも彼女は、感覚を失いかけた創へ何度も声をかけていた。
冷たくないでしょう。
私の鼓動を聞いて。
そんな言葉とともに。
ドクン。
ドクン。
今も同じだった。
創は目を閉じ、まずエマの手のひらの温度だけを意識した。続いて耳を澄ませる。
ドクン。
ドクン。
エマの心臓は、規則正しく一定の間隔を刻んでいる。速すぎず、遅すぎず、ただそこにある。
創はその鼓動を一つ、また一つと追いながら、意識の焦点をゆっくり絞っていった。
すると、砂の音が遠ざかった。
エンジンの振動も遠ざかっていく。
視界を埋め尽くしていた無数の情報が、少しずつ背景へ沈んでいった。まるで巨大な海から、静かに水が引いていくようだった。
最後に残ったのは、エマの鼓動だけだった。
ドクン。
ドクン。
「……戻ってきた」
創が小さく呟く。
エマが微笑んだ。
「うん」
創はゆっくり目を開けた。
世界はまだ鮮明だった。だが、今度は違う。
すべてが一斉に押し寄せてくるのではない。
必要なものを、自分で選べる。
「……すごいな」
後部座席から白石が創を見ていた。
「何が?」
「感覚の暴走を、外部から無理やり抑えるんじゃなく、自分の意識で整理し始めている」
「俺が……?」
「ああ」
白石は眼鏡を押し上げた。
「能力を使うことと、能力に使われることは違う。今のお前は、その境目を少しずつ理解し始めている」
創は右手へ視線を落とした。
掌の奥には、まだ熱がある。微かな脈動が、まるで身体の奥に小さな炉が残っているように感じられた。
「……解像度が高すぎるバグ、か」
創は苦笑した。
「だったら、これからは自分でピントを合わせればいい」
運転席からレオの声が飛んでくる。
「おっ、なんかカッコいいこと言ってるッスね!」
「うるさい」
「ほら! またうるさいって言った!」
「……でも、そのくらいがいい」
「え?」
創は前を向いた。
「そのくらいのほうが……俺は普通でいられる」
レオは一瞬だけ黙り、それからニッと笑った。
「じゃあ、これからもガンガンうるさくするッスよ!」
「ほどほどにしろ」
「了解ッス!」
アルゴー号は砂煙を巻き上げながら、赤い大地を進んでいく。
蜃気楼の向こうでは、巨大な岩壁が少しずつ大きくなっていた。
ペトラ。
宗助が残した次なる道標。
丹後では、自分の中に眠っていたものに初めて触れた。十年間、誰にも知られることなく身体の奥に眠っていた何か。
シベリアでは父のノートが開き、その先に続く道を知った。
そして次は、赤い岩の大地。
創は窓の外を見つめながら、ずっと胸の中にあった疑問を考えていた。
自分は、父親が残した道をただ歩いているだけなのではないか。
宗助が用意した場所へ行き、宗助が残した石板を見つけ、宗助が自分の身体に仕組んだ力を一つずつ目覚めさせていく。
それでは結局――。
「親父の操り人形じゃないか」
創がぽつりと呟いた。
エマが振り向く。
「創……」
「俺は、親父が何を考えているのか知りたい」
創は右手を握った。
掌の奥で、熱が脈打つ。
「でも、親父の言う通りに生きたいわけじゃない」
この熱も、この加速も、そしてまだ知らない自分の中の力も、最初は父親に勝手に埋め込まれたものだった。
自分の意思とは無関係に与えられたもの。
だからこそ。
「これはもう、親父に押し付けられた呪いじゃない」
声は静かだった。
しかし、その琥珀色の瞳から迷いは消えていた。
「俺が使う」
熱を宿す右手を強く握りしめる。
「仲間を守るために。俺自身が選んだときに」
エマが静かに頷いた。
白石も何も言わない。
運転席では、レオが前を向いたまま、わずかに口元を上げていた。
ゴウン……。
アルゴー号のエンジンが唸り、砂煙が長く後方へ流れていく。
その先では、ペトラの赤い岩壁が次第にその存在感を増していた。
古代都市のさらに奥。
父が残した第三の石板。
そして、アダム・ジェノミクスが待ち受ける場所。
創はイヤーマフに手をかけると、今度は自分の意思でそれを外した。
砂漠の風が耳を撫でる。
熱く、乾いていた。
無数の音も戻ってくる。
それでも、もう創は耳を塞がなかった。
琥珀色の瞳が、蜃気楼の向こうに浮かぶ赤い岩壁をまっすぐ捉える。
「行こう」
創は言った。
「ペトラへ」
アルゴー号は低いエンジン音を響かせながら、砂漠を駆け抜けていった。
父が残した道標を辿っていることに変わりはない。
けれど、その先へ進むかどうかを決めるのは、もう父ではなかった。
神代創自身だった。




